荒川秀吉の実録クリスマスイヴ
京都の冬は寒く侘しい。時は12月23日。すでにジェミルダート尾道の全体練習は終わっている。契約更改も終わり、オフを迎えた俺は故郷である京都に戻った。思えば今日この日をここで過ごすのは何年ぶりだろうと考えをめぐらせたが、答えはすぐに出た。鳥栖を解雇された年以来だ。
しかしあの時とは俺自身、まったく状況が違う。あの年は道がまったく見えず、「どうしたらいいんだろう」とか「俺はもう駄目かも知れない」などと言ったネガティブな感情ばかりが先走っていた。眠ることすらすんなりと行かなかったのだから。今言ったような嫌な言葉が頭を駆け巡って、再び安心してぐっすりと眠れるようになったのはブラジルに渡ってしばらくたってからだった。
しかし今は違う。まず所属が決まっているのがいい。そしてそこで何をすべきかという目標も見えている。やるべき事があるとは何と幸せな事だろうか。昨日もまた、あの頃はなかなか寝付けなかったベッドで安眠できた。天井の木目が水墨画に描かれる中国の山々のようだとか、子供の頃の感覚が甦ってくる。
壁の棚には加藤久さんが監修した90年代の教本やら当時流行った漫画、それに小学生の頃買ってもらった野球の教本もある。俺だって生まれてこの方サッカー一筋だったわけじゃないからな。まあプロ選手の見本みたいな感じで写真が載っているのが広島のロードンだったりするのだが。さらに昔の、王貞治さんと長嶋茂雄さんが対話してる形式の本とかもある。これに至っては森昌彦さんや亡くなった土井正三さんが不鮮明な写真の中で躍動している。引退したの俺が生まれる前だぞ。一体何でそんな本があるんだろうか。
このような懐かしい本をめくる勢いで卒業アルバムなんかも久々に開きたくなってしまう。まずは中学校のを見ると、無愛想な顔で格好つけている涼しげな目元は今と大して変わりはしないが、やっぱり肌の質感がなあ。うん、若さはもう戻らないと言う事を突きつけてくる。髪型もやけに短髪だが、これは撮影のちょっと前に試合に負けて罰ゲームみたいなノリで切られたものだ。これが本当に嫌だったので髪を伸ばすようになったとか不意に思い出した。
高校時代の写真も懐かしい。決してサッカーで名を知られた強豪とかではなかったので普通に授業などを受けながらだったが、特に選手権大会に出場してからは結構便宜を図ってくれるようになった。でもあの頃もう少し真面目に勉強してたほうが本当は俺にとって良かったのかも知れない。国語の先生で一人嫌なのがいて、今も顔写真を見るといらっとしたが、いささか大人気ない。心身滅却せねばな。まだまだ未熟と言う事か。
まあそれはいいとして、オフだと言ってもプロなのだから休んでばかりであるはずがない。こっちに戻ってからもランニングなり、近所のジムに通ったり、肉体の調子をキープする軽い練習は続けている。
街を行けばもみの木の深い緑色に赤いリボンの飾りつけがしてあったり、それに花屋の店先に並んだポインセチアとかシクラメンにクリスマスホーリーなんかもそうだが、街中が赤と緑のジェミルダートカラーで彩られている。12月に入ると、いや、場所によっては11月からもうバリバリなのだが、クリスマス歓迎ムードに街が染まっていくものだ。キリスト教徒でもないくせにとやっかみのひとつでも言いたくなるのは、俺が今年も愛する特定の誰かを持たないからだ。
32年連続32回目のロンリークリスマスは当確という今日この頃、朝にはいつものように軽くランニングをしていたが、なぜかいつもとルートを変えてみた。理由は、強いて言うと気分転換みたいなものだったが、なぜ今日という日に限ってそんな気まぐれを起こしたのかと問われると、やっぱりよく分からなくなる。
さて、ルートを変えた結果、普段とは街の色も違ってくる。車もほとんど通らない朝の道を見上げると、窓に大きな星が括りつけられている教会を見た。自然と足が止まった。俺は決してキリスト教徒ではない。まあキリスト教国ばかりなヨーロッパあたりをうろついてた頃もあったが、宗教は「buddihst」という事にしていたからな。それもまた違うような気もするが、そこも世渡りだし。
俺はその時、「ああ、そろそろクリスマスなんだな」としみじみ思った。そしてどうせ暇なんだからクリスマスは教会に行こうと考えた。キリスト教徒でない以上は冷やかし以外の何でもないような気もしつつ、でも信者以外も大歓迎らしいのでお言葉に甘えてという奴だ。
翌日の午後6時。あたりはもう真っ暗な上に、この時間だとそれなりに車の通行量も多いので油断大敵な細い道をするすると進んで門を潜った。扉を開くと受付として教会の関係者が座っている机があり、そこの人から「信者の方ですか」と問われたので「いいえ」と答えた。すると「これをお受け取りください」と言う事で、式次第のような冊子と教会が発行している短信みたいなもの、そしてろうそくを受け取った。
冊子の中身は実質楽譜のようなもので、宗教系の歌がたくさん掲載されていた。また、冊子の中には封筒やもっと小さな冊子も入っていた。短信はまあ今回のミサとは直接関係がないものだろう。そしてろうそくは、いかにも宗教行事っぽくて良い。
教会は木造。もちろん椅子も例のまっすぐ硬そうな奴で、映画やらアニメで見るものそのものだった。そして正面には十字架にかけられたキリストが掲げられているのはいいが、視点を下にずらすとオーバーヘッドプロジェクタと画像を表示する白いスクリーンが置いてあった。何とも現代的な設備だ。
さらに人が集まってきた6時30分に、クリスマスタブローと称する何か朗読劇のようなものが始まった。その時その時の場面を描いた絵画などをOHPで写しつつ3人の子供が入れ替わり立ち替わりで受胎告知からキリスト降誕に至るまでを朗読している。「私は男を知りませんのに」とか「神にできないことはないのです」みたいな事を言ってたはず。
これが大体20分ぐらい。それからまたOHPでヴァイオリンの演奏を流して10分ぐらい。OHPも回収されて7時からミサ本番が始まる。冒頭でだぼっとした白い服を着た神父さんが「クリスマスとはキリストのミサという意味。ここに来られた方は本当の意味でクリスマスらしいクリスマスを過ごしている」みたいな言い回しで歓迎してくれた。まったく、ありがたすぎて涙が出そうなほどだ。
教会の後ろから鳴り響くハンドベルの演奏に続いて、参加者が「きよしこの夜」の歌詞が違う歌を歌っている中に白い服を着た集団が登場した。司祭入堂と言うらしい。照明は落とされて、その代わりにろうそくに火がともされる。司祭と一緒に来た、黒い長髪の女の子に火を分けてもらった。その火を隣の人のろうそくに分けると、隣の人はそのまた隣の人に火を分ける。こうして全員に光が行き渡ると、また別の歌を歌った。
とにかくミサは歌が重要になってくるようだ。有名な曲もそれはあるが大抵は馴染みのない曲だったので満足に歌えなかった。まあひとつの音節にひとつの音しかなくてその中でほとんど語るように「神は偉大でどうのこうのー」みたいな歌詞をぶち込んだりしているので、ある程度アドリブ的に合わせる事は出来ないでもないのだが。
まあとにかく、ひとつ歌い終えると「火を消してください」と言われたので吹き消した。全員の火が消えると照明がともされた。それからも司祭の人がちょっと八奈見乗児さんみたいな声で何やら言うと、すかさず信者が「アーメン」とかもっと長い言葉を合いの手のように挿入した。これまた俺には対応不可能な世界だった。とりあえず口パクだけはしておいた。
式の途中で洗礼を受ける人もいた。名前はよく聞き取れなかったが見た目は20代の女性だった。やっぱり洗礼のための歌もあるのだが、途中で聖母マリアから始まって、聖ミカエルとか洗礼者聖ヨハネとか聖ペトロとか聖パウロとか聖アグネスとか聖アタナシオとか聖フランシスコ・ザビエルとか、もっといるが本当にたくさんの聖人の名前を挙げるくだりはさすがにまいった。
この長い歌を歌い終えると司祭と洗礼を受ける女性との問答があった。イエス様に関して「聖母マリアの処女懐妊で生まれて人類の罪を背負って死んでその後復活しましたか」みたいな、異教徒が一番「それ嘘だろ」と思う部分を突いた質問に対して彼女は「信じます」と答えた。まあこの期に及んで「信じません」と言うわけないが。今日突然「そうだ、洗礼を受けよう」となったわけではないようだし。
これが終わると女性は前髪をかきあげておでこが出るようにして、顔を机の向こうにいる司祭に向けた。俺の席からは木製の小さなスプーンに見えたが、それを持って司祭が彼女のおでこに水をちょろっとかけて、すぐ白い布で拭った。それから油がどうこうみたいな話をしつつゴソゴソと動いていたが、これは人が陰になってよく分からなかった。それも終わると、彼女は白いレースの布を頭から被った。これがまさに彼女がキリスト教徒になったという証であろうか。来場者は拍手で彼女を迎え、信者でもない俺もまたそれに加わった。
それからまた司祭の語りと歌に戻った。予め配られた封筒に任意で金を入れて、それを茶色い袋に入れて教会にお布施をささげるというイベントなどを挟みつつ、終盤にはこれまた有名なイベントである聖体授与がなされた。司祭とか神父が十字架の前に並んで、それに対して信者が列を成してキリストの肉という事になっているパンをもらうのだ。事前の説明では信者以外も大歓迎という話だったので、俺も列に加わった。あと、その前の話をしている最中に司祭は杯に入った何かを飲み干していた。リアルでは葡萄酒らしいが、本当に酒を飲み干したのだろうか。それとも実はフェイクとかなのだろうか。酔っ払ったらまずいし。
まあとにかく、キリストの肉は粉っぽいプラスチックのような質感でメダル状の薄くて硬いものだった。これは食べられるのだろうかと思う間もなく、おばさんが「信者じゃないでしょう。返してください」と迫ってきたので素直に返した。やっぱり食べるものではなさそうだ。これをやっている間にも曲は流れ、落ち葉の物語の元ネタっぽい曲とかもあった。
最後にはこれまた有名な主は主はの曲を歌ってミサは終了した。時間は大体8時30分をまた少し過ぎたぐらいだった。今年だって全体的に見るとなかなかだったが、それでも「もっとこうしたほうが良かった」とか後悔するところはあるものだし、ここでそういうのを吐き出せたので来年も頑張ろうと気持ちを新たにするには良かった。ただ俺の生き方として根本的に信じるのは結局自分だからな。見えもしない神様にすべてを預ける気にはなれそうもない。
ただここの空気はそれなりに気に入ったので、来年もまた来るかも知れない。もしそうなれば、ここにJ1昇格という歓喜を連れて来られるとなお良いな。その時になれば、俺が尾道に馴染んだようにここの硬くて座り心地の悪い椅子にも慣れてくるだろう。
100文字コラム
今季優勝の広島は同県の偉大なる先輩。期限付き移籍で選手を供給してもらうなど深い関係を保っているだけにその栄誉は自分の事のように嬉しく思う。しかしいずれは対等に渡り合うべき相手でもある。いつも心に牙を。




