回顧その3
レマン湖のほとり、ローザンヌの近郊に本拠地を置くアルペンローゼはスイスでも中堅どころのクラブであるが、この時点ですでに20年のキャリアを誇り現在でもその地位に君臨し続けている名伯楽ダニエル・クラウスの的確な指導の下で優秀な選手を次々と輩出する事で知られている。クラウスはぼさぼさの白髪と対照的によく形を整えられた口ひげ、そして彫りが深くていつもいらいらしているように見えるような鋭い眼光が印象的だった。刻まれたしわなど間違いなく老人そのものだが、人間としての活力はまるで失われていない。
「スイスじゃ何語でしゃべればいいのかよく分からないので全部日本語で言わせてもらいます。みなさんはじめまして。私がさすらいのストライカー荒川秀吉でございます。目標は15得点。最低でも2桁は叩き出す予定ですので乞うご期待」
チームに合流して最初の挨拶、すっかりこういった場にも慣れた秀吉はおどけたような言い方でこのように言い切った。選手たちもおそらく何を言ったのか分からなかったが何かを言ってのけたとは分かったようで、万雷の拍手で秀吉を迎え入れた。秀吉としては「どうせそのうち移籍するんだし旅の恥は掻き捨てよ」などと思っていたらしいが、現在までのキャリアにおいて最長の時間を過ごしたのがこのスイスになるとは本人含めて誰もが予想していなかった。
秀吉にとっての初戦ともなる開幕戦の対戦相手はリーグ最多優勝クラブでスイス随一の名門と名高いグラスワンダーであった。アルペンローゼはこの強豪相手に5年も勝ち星を挙げられていない、まさに天敵中の天敵である。スタメンの内訳もスイス代表が4人、ユース代表が2人。それ以外もドイツ代表やらフランス代表やらコートジボワール代表やら代表選手のオンパレード。一方アルペンローゼは元代表が1人いるだけで、ネームバリューからして見劣りしていた。しかし秀吉はもちろんの事、チームの誰もが諦めない心を宿していた。
「知っての通り、開幕戦の相手はグラスワンダーだ。ははは、20回やって1つの勝利も得られない相手だがどうだ、今のうちに降参でもしようか」
「監督、冗談にしても面白くありませんね。頭のほうも耄碌しましたかねえ」
「そうですよ。何であんな成金野郎どもに尻尾を振る必要があるんですか」
「20回やって0でも21回目はどうか分かりませんよ。なあヒデヨシよ」
「そうっすね。俺が加わったからにはアルペンローゼの歴史は変わりますよ。まあ見ててください!」
開幕前、もっとも緊張が高まる瞬間でもこのようにプレッシャーを見せない。しかしたるんでいるわけではない。そういった次元を超えて、勝利という目標のために一致団結しきっているから余裕も生まれるのだ。チームのために、クラウス監督のために、そして街のために、勝利を誓った11人の瞳は皆一様に燃え滾っている。
「そうだその意気だ。お前たちならやれるとチューリッヒの奴らに思い知らせる時は今だ!」
「おう!」
そして戦士たちはピッチへと散っていった。アルペンローゼの2006年シーズン開幕メンバーは以下の通り。
スタメン
GK 1 ショーン・ザマ
DF 3 ジャン=マルク・モロー
DF 5 フランツ・フルスト
DF 4 ゲオルグ・ミュラー
MF 22 ルイ・カズ
MF 7 セバスティアン・ファルケンマイヤー
MF 8 オーレリアン・マロー
MF 10 アメデオ・ペルシアーニ
FW 17 アベル・バルガス
FW 14 荒川秀吉
FW 9 マルク・シュヴァルツ
ベンチ
GK 20 ビョルン・ヨハンソン
DF 13 マリアーノ・シセローニ
DF 21 カルロス・セビオ
MF 6 ケント・ローン
MF 24 ヴィルヘルム・フリーデル
FW 11 ラファエル・ルイス
FW 26 ジャン・カルー
ドイツ系、フランス系、イタリア系の違いはあれどほとんど全員がスイス人で構成されている。秀吉と同じFWのバルガスとセビオにルイスがスペイン人、そして控えのヨハンソンはスウェーデン人でローンはイングランド人だが彼らもヨーロッパの人間であるという点ではスイス人たちと変わりはない。まさに異邦人、他の選手とはまるで異なる人間と言えるわけだが、もはや秀吉はそんな事を気にしない。出身が離れていてもサッカーという共通言語を用いればすぐに兄弟のようになれると知っているからだ。
果たして試合は序盤から赤いユニフォームを身にまとったアルペンローゼの猛攻が炸裂した。前半9分に右サイドのマローが上げたクロスにシュヴァルツが頭で反応もポスト! しかしそこにすかさず詰めていたのが背番号14の秀吉だった。
「スイスでの祝砲は自分で上げると決めていたんだ! 食らえ!」
どのディフェンダーよりも早くこぼれ球に近づいた秀吉の左足がうなりを上げる。次の瞬間、弾丸へと変貌を遂げたシュートが激しくネットを揺らした。アルペンローゼ、先制。それは新加入の秀吉による鮮烈な挨拶となった。
「よおおおおおし! 決まった!」
「へえ、いいボレーだな。練習中じゃそんな凄くなかっただろ」
「へっへっへ、驚いたかアメデオ。俺は本番のほうが力が出るタイプなんだよな!」
「ナイスヒデヨシ! さあ開幕スタート成功だ。この勢いでガンガン行くぞ!」
「おう!」
その後も終始アルペンローゼのペースで試合を展開して、観客はもはやどちらが優勝候補でどちらが中堅クラブか分からなくなるほどであった。結局バルガスが1点、途中出場のフリーデルが1点を加えての3対0で快勝した。
「すげえ! あの天敵グラスワンダーに3対0で勝てるなんて!」
「今年のアルペンローゼは一味、いや二味も三味も違うぜ! もしかすると……」
「ああ、こりゃ本気で期待できそうだな。あの日本人だよ。最初のボレーが決まった事で完全に流れが来た」
「ヒデヨシ・アラカワか。いい補強をしたよな」
サポーターたちからもすぐに認められるようになった秀吉。これもそれまでの技術研鑽あっての話である。結果を出すには心意気だけでは足りない。その想いを形に出来る技量があって初めて意味を成すのだ。横浜、鳥栖、そしてブラジルからヨーロッパ、エジプトに至るまでの遍歴はまさにそのための修行であったと言えよう。この後も秀吉は得点を積み重ねた。
中盤の底に位置するカズとファルケンマイヤーからボールは供給され、両サイドのマローかペルシアーニを経由して2mの長身を誇るシュヴァルツが体を張って散らし、いずれもスピードに自信のある秀吉とバルガスが食らいつく。シンプルだがシステマチックに作用した攻撃はやすやすと止められるものではない。
以上のパターンが基本形だが、クラウスシステム最大の特徴はポジショニングの柔軟性にある。例えば基本的には中央に位置する秀吉やバルガスがサイドに寄って、逆にサイドが主戦場に思われているマローやペルシアーニがいつの間にか中央付近に移っていたり。また、3バックの選手たちがいつの間にか攻め込んでいて貴重なゴールを奪うという展開も多い。その辺はかなり選手の裁量に委ねられている。逆に言うと選手ひとりひとりが正確な判断をしないとチームとして成り立たないのだ。
「足を止めるなヒデ! 走って戻るんだ! ゆっくりしている瞬間にも相手がスペースを制圧せんと迫ってくるのだぞ!」
クラウス監督が秀吉に繰り返し指摘したのはオフェンスではなく、主にディフェンスについてであった。最前線でゴールを求めるのも良いが、それだけでなくチームの一員として責任を持って守備をするのもまたFWの定めである。フレキシブルなシステムなのでFWと言えども自陣で敵の攻撃を引き止めるという仕事もこなした。これによって秀吉の動きはより洗練された。元々運動量のある選手だし様々な国のクラブで経験も多いので、多少動きが増えたところでうまく対応も出来るようになっていた。
アルペンローゼはこのようなシステムによって序盤から独走態勢を築き、中盤以降はグラスワンダーなどからの追い上げもあったものの振り切ってクラブ史上初の優勝を果たした。秀吉にとってもプロでは初めての栄光であった。しかも34試合に出場して得点ランキング2位となる19ゴールを叩き込むという大活躍を見せて、ベストイレブンにも輝いた。秀吉にとって今のところ最良のシーズンであったと言える。
その頃、秀吉にとってもはや遠い過去の思い出と化しつつあった日本においても「スイスで大活躍している日本人ストライカーがいるらしい」という噂が広まりつつあった。2006年、ドイツでの惨敗も記憶に新しかった。日本代表に対してフラストレーションをためていた人々は「急にボールが来てもしっかり決めてくれる人材」を求めていた。その人材とは荒川秀吉に他ならないと日本代表待望論が巻き起こったのはこの時代である。
この頃から雑誌などからのインタビューに取り上げられる機会が多くなった。ただ、それまでも例えば「オファーを蹴ってブラジルに挑戦した元Jリーガー」などと言う小さな記事で取り上げられたりはしていた。しかしこの時期の記事はカラーで綺麗な写真に飾られたり、挙句の果てには表紙を飾ったことさえあるというまるで大物のような扱いだった。「俺みたいなはぐれ者に随分気を使ってくれるじゃないか」と正直戸惑う事もあったが、悪い気はしなかった。
「サテライトで見てたけど根性がある選手だったし技術がつけばこのぐらいやれると思ってた。それにしても髪の毛伸びたなあ」
「ヒデが今もいたら昇格できてたかなあ。正直下手だったけどゴールに対する執念が凄かった。それにしても髪の毛伸びたなあ」
日本時代の秀吉を知る横浜と鳥栖のサポーターはそれぞれこの様な感想をが頭に浮かんでいた。日本にいた時はさっぱりとした短髪だった秀吉の髪が耳を隠し肩に届くまで伸びるようになったのはこのスイス時代である。一般的なサッカーファンには「荒川秀吉といえば野生的な長髪」のイメージがあり、現在のややぼさぼさながら耳の見える髪形も「随分さっぱりしたなあ」と思われるほどである。それもメディアに多く採り上げられたこの時期に一般的なビジュアルイメージが固まったからである。
さて、日本代表にという声が多く挙げられた秀吉であるが、結果から言うと青いユニフォームに袖を通す事はなかった。その理由について一部掲示板などでは「鳥栖で酷い解雇をされたため日本には帰りたくないと思っている」などと噂されたがそれは嘘である。また「そもそも代表に推してるのはファンや解説者だけで代表関係者は何とも思っていない」とも言われたがこれもまた違っている。秀吉が日本代表に召集というプランは間違いなく存在したのだ。
具体的には2007年のアジアカップで日本代表が4位に終わった後である。翌年には2010ワールドカップの予選が始まる。そのタイミングで新しい風が必要と感じた監督が白羽の矢を立てたのが秀吉であった。まずは2008年の1月に行われる親善試合に召集しようと水面下でクラブと交渉を始めた直後、監督が倒れて辞任せざるを得なくなってしまったのだ。新任監督は秀吉を必要と思わなかったので話は流れた。
「代表がどうとかそういう話は監督やもっと上の人が決めること。そういう話は聞いてないし、それなら語ることもない」
インタビューなどで「日本代表に呼ぶべきという意見も多いですが?」などと水を向けられた場合は大体このような言い方で答えた。YESともNOとも言わない姿勢がまた妙な誤解を生んだがこの際はっきりさせておくと、秀吉は決して日本を恨んではいなかった。おそらく召集されたらすんなりと青いユニフォームを身にまとっていただろう。
当時のインタビューで「(それまで短期間での移籍が多かったので)今のアルペンローゼには長くいたい」と言ったものが「日本には戻りたくない」というニュアンスで伝えられ、それがまた「日本が嫌い」という話に歪められたというのが真相である。確かに鳥栖を解雇された時は嘆いたが、結局は怪我や確執を吹き飛ばす程の絶対的な活躍を見せられなかった自分の力不足が原因と話は終わっている。そもそも秀吉はそんな過去のいさかいにこだわる男ではないのだ。
さて、アルペンローゼの2年目は33試合で13得点と、前シーズンに比べると減りはしたもののストライカーとしては及第点の数字を残した。しかし昨年のメンバーから最優秀選手に輝いたファルケンマイヤー、194cmの長身でゴール前の壁となっていたフルスト、そしてドリブラーのバルガスが抜けた穴は大きく4位に終わってしまった。活躍した選手から抜かれる。資金に余裕がないクラブの現状である。
3年目の2008年シーズンは優勝をもう一度という事で秀吉はかなり燃えていた。ここまで鍛えぬいた肉体と技術、そして頭脳とガッツが合わさった結果、開幕戦でいきなりハットトリック達成という鮮やかなパフォーマンスを披露した。その後も毎試合決めるかのようなペースでゴールを量産。7試合で9得点と「もはや今年の得点王は決定」と言われるほどの活躍を見せた。この時期は秀吉にとってある種のピークだったと本人も認めている。
しかし好事魔多し。開幕7戦目、またもゴールを決めた秀吉であるがその直後に相手ディフェンダーから悪質なスライディングを受けてしまう。完全に後ろからの攻撃で、秀吉はピッチに叩きつけられるように激しく転倒した。
「ああっ! 大丈夫かヒデ!」
「早くドクターを呼ぶんだ! なんてえぐいスライディングをしやがったんだ!」
即座に秀吉は交代。病院に急行したがその診断結果はあまりにも非情なものだった。そう、秀吉のこれからのキャリアを一変させるほどの。
100文字コラム
見た目通り?温厚な性格の松井。取材でも常に丁寧な応答をするナイスガイだが優しすぎとの声も。本人は「以前疲れから乱れた心で取材に臨んで自己嫌悪に陥った。結局人より自分です」と奇妙な自嘲。やはり優しすぎ?




