夢想その1
今年のJ1は2つのクラブによるデッドヒートが繰り広げられた。ひとつは日本リーグ時代からの強豪として知られる広島、そしてもうひとつはJリーグが誕生した1993年に生まれた新興クラブである尾道である。ともに広島県を本拠地とする鍔迫り合いは最終節の直接対決までもつれ込んだ。勝ち点は同じなのはもちろんの事、得失点差もまったく同じという中、クライマックスの対決がまさに今行われようとしている。
「監督! 今日の意気込みをお願いします!」
「ここまで来たのですから、それはもうひとつしかないでしょう。必ず勝って優勝します」
黒山の人だかり、いやマスコミだかりから尾道の監督が姿を現した。ユニフォームからスーツに着替えてからもう随分たったし、頭髪も大分落ち着いたが、現役時代から醸し出していたシャープで細身、狼を思わせる精悍な姿は今もまったく変わっていない。
「初優勝、期待していますよ! 荒川監督」
「ありがとう。これは私たちの悲願だからね、何としても掴みたいね」
尾道の本拠地である新尾道スタジアムはJR山陽本線の尾道駅から徒歩10分、尾道水道を見下ろす小さな坂の上にあるフットボール専用スタジアムである。東から電車で来る時、右手の方向を振り向くと「尾道へようこそ」と言わんばかりにデンとそびえ立っている、まさに尾道の新たなるシンボルと言える存在である。
坂の上にあるので歩いて行くのは少ししんどいかも知れないが(もちろんスタジアム直通のシャトルバスも多数出ている)、ツタに覆われた石垣のような外観を仰ぎ見つつ細い道を進んで近づいていくと鮮やかな朱塗りのメインゲートがサポーターを出迎えてくれる。全体的には日本の城をイメージしているようだ。
スタジアム内部は赤い椅子と緑の椅子が縦縞になっているのがまず目に飛び込んでくる。専用のスタジアムだけに観客席とピッチの距離は非常に近く、傾斜角度もシャープで臨場感は高い。メイン、バック、ゴール裏の各スタンドは各自独立しているイングランドスタイル。コンコースは土地の余裕のなさを反映して比較的狭いが、売店の食事などは決してクオリティは低くない。
まずは中華そばが500円。いわゆる尾道ラーメンと呼ばれるタイプに近く、背油がぽんぽんと載せられた醤油味。見た目以上にさっぱりとしている。それに尾道に住み着いた日系ブラジル人マルシオさん特製のシュラスコ450円。串刺しにされた肉塊が目の前で切り分けられていく。味付けは塩のみとシンプルながら肉そのものの存在感を味わえる。
野菜がガツン、肉もガツンなお好み焼きは700円。もちろん広島風で豚肉、そば、てんかす、もやし、キャベツ、卵などがよってたかって胃袋を強襲する。のどが渇いたらジェミルダートドリンク300円。イチゴ味の赤とメロン味の緑の二種類があり、いずれも甘さが意外と控えめで果肉のつぶつぶが印象的。
さて、食欲を満たしたところでスタジアム内部に目を移してみると、スタンドの四方には屋根が設置されており、照明設備は屋根をぐるりと取り囲むように搭載されているのがまず目に付く。ピッチの真上にはX字状に鉄骨が組み込まれており、クロスする部分にはオーロラビジョンが吊られている。ピッチの方向を向いたままでスタメンや誰がゴールしたかなどを確認できる。
収容人数は約18000人と特別に巨大なスタジアムでは決してないのだが、その分サポーターの熱気がこもる。ただ坂を削って差し込んだような設計のためアウェーゴール裏などは断崖絶壁に立たされており、これ以上の拡張は無理そうだ。まあ現状必要もないと言えるが。
さて、このスタジアムは今やホームたる赤と緑に加えてアウェーチームとして乗り込んできた、とは言っても広島県の西から東へ大体100kmほど移動してきた紫色に二分されている。幸いスタジアムが近いので極端に尾道が優勢という事もなく、ホームとアウェーが6:4ぐらいの割合となっている。
歴史がある広島のほうが基本的にサポーターは多いが、後発とはいえ猛烈な勢いで伸びてきた尾道も熱気ならば劣らない。普段は割と仲がいいのだが愛するクラブの優勝争いとなれば話は別。中には絶縁宣言した友人や分裂状態に陥った家族もあるとか。
そんな広島分裂の危機を乗り越える方法は試合を終えることだ。すべてが終わればまたサッカーを愛する兄弟に戻る。愛ゆえに憎みあい、その憎しみも長くは続かない。まさに今に情熱を燃焼させ、昇華させる時が来たのだ。
「やはり今日はよく人が入っているな。通常のチケットはすでに完売、立見席まで出現したそうだ」
「へへ、そりゃいいや。俺は観客が多ければ多いほど燃えるタチだからな」
「俺もだ。最高のサポーターの声援を浴びてここまで来たんだ。それに報いるには勝利しかないでしょ」
若い選手たちは口々に自信に満ち溢れた言葉を吐く。長い戦いで選手たちの特にハートが強く鍛えられた。苦しい日々を乗り越えた経験が、どんな状況にあっても「まだやれる」と本心から思える心をはぐくんだ。練習の成果が発揮されて勝利という結果を手にすることによって「俺たちはやれる」という確信が育ってきた。
「もうここまでやってきたんだ。気負わずにいつも通りのサッカーをすればいい、などと言うまでもないかな」
「そうっすね。俺たちのサッカーが出来れば誰にだって勝てるんだから」
「もうとっくに腹は決めていますよ」
「ふふ、やはりお前たちは頼もしいよ。さあ、入場の時間だ。行ってこい」
「おう!」
スタジアムDJがまくし立てる中、選手たちは縞模様のグリーンが敷き詰められたピッチへと姿を現した。その瞬間、スタジアムは割れんばかりの大歓声と拍手で埋め尽くされた。メラメラと燃える観客席を見て選手たちは逆に闘志を研ぎ澄ましていた。俺たちのためにこんなに熱くなってくれるサポーターのために、栄光のために戦おうと改めて思い直したのだ。
「ジェミールダート! ジェミールダート!」
爆音を切り裂くようにホイッスルが尾道の冬空に鳴り響いた。歴史と伝統の広島が貫禄を見せるのか、勢いを見せた尾道が新たな歴史を切り開くのか。世紀の決戦の幕がまさにこの瞬間、切って落とされた。というところでイメージは月明かりにかき消されて中断し、眼前には暗く白い天井だけが映っていた。
「はっ、夢か……」
一人しかいない部屋の中、ジェミルダート尾道に所属するFWの荒川秀吉は暗闇にまぎれた時計に目を凝らすと、いつもより時が進んでいないと理解した。
「やれやれ、妙な夢を見るようになったもんだ俺も。柄にもなく早起きか。老けたかな」
薄い毛布に包まれ、天井を見ながら31歳の孤狼はため息をついた。眠れる時には眠って体調を整えるのもプロフェッショナルの必須項目。じゃあ二度寝しようかとは思うものの、思えば思うほど意識がはっきりしてきた。
「駄目だな、こりゃ」
野生的なルックス、それに基づくある種の無軌道さを伴ったイメージに反して秀吉の日常は数多のルーティンワークによって成り立っている。周辺の環境が変わっても「自分はこのように動けば自分でいられる」という術を身につけているのだ。その「いつもの日程」の中に朝練は含まれていない。だから今日も「いつも通り」眠ろうとした。しかし秀吉の意図と肉体の動きはまるでかけ離れていた。プレッシャーがあるわけでもなかろうに、眠ろうと目を閉じても眠たくならない。しまいにはさしもの秀吉も音を上げて、本能に従ってみせることにした。
「なんかうざったいな。体が勝手に動くこの感覚は」
今日に限って朝早くに目が覚めたのは「今から体を動かしたらいいんじゃないの」とでも言う、いわば啓示のようなものだと思うことにした。無頼漢に見える秀吉でも困ったら神頼みするような、多数の日本人と同じ程度には神様を信じている。ジャージに着替えると大きくあくびをして腕を回し、伸びすぎた髪の毛をゴムで留めると朝の街へと繰り出した。
「それにしてもなんて夢を見たものだ。俺が監督? まったくくだらないな。一体何年後のお話なんだか」
普段は夢を見たことすら覚えてないし、仮に多少は覚えていたとしても「どんな夢を見たっけ」と改めて思い出そうとすると霞に手を伸ばしたように記憶が霧散していくのが常であった。それなのに、なぜか今日の夢だけは実態を伴った映像であるかのように秀吉の脳内をグルグルと駆け巡っている。こんな事は、少なくともプロになってからは初めての体験だった。
とりあえず走ってみた。アスファルトに響く足音だけが街にアクセントを添える中、じきに太陽も目を覚ますだろう。そのうちに港まで来た。向島までは泳いで渡れそうに見えるほど近い。変な考えを捨てるべく振り向くと、夢の中で見たスタジアムがあるはずの土地に昭和の廃城が佇んでいた。
「まあ勝手に人の建物を壊しちゃいかんよなあ。たとえ夢だとしても」
しばし夢幻空間に身も心もゆだねたのは割と楽しくはあった。しかし自分は現実に生きる男と思い直し、道を引き返した。今日もまた練習がある。一昨日の京都戦は1対2で敗れてしまい、プレーオフ争いに大きなマイナスを被ってしまった。気付いたらシーズンの残り試合数はわずか7しかない。もはや1試合たりとも落とせない、ギリギリの日々が続いている。
秀吉はクラブの寮に住んでいる。いい年だしそろそろ結婚とか考えたことがないではないが、そういう相手にはあいにく恵まれず、未だに恋人はサッカーだけ系の生活を続けている。海外での経験から料理もそこそこ出来るが、それでもできるならそういうのはプロの方にお任せしたいと考えているので寮生活を選んだ。10歳以上年下の面々と一緒に暮らしている。
寮に戻ってシャワーを浴びた後は一眠りする暇もなく朝食の時間となったので食堂へ向かった。
「おはようございますヒデさん」
「おう、おはようテル。トモキは」
「トモキさんはまだ眠っているようですね」
「おはよー。あ、おはようございますヒデさん」
「おうトモキもおはよう」
ついこの間まで現役高校生だった選手たちが次々と集う。まるで学校生活に戻ったようで、秀吉にとっては好みの場所だ。始まりは少しずれたが、ここからは普段と同じ生活に戻る。「今日もまた練習だ」と秀吉は頭を切り替えた。
100文字コラム
水面下で静かに進むススタジアム建設計画。とは言え未だに場所の絞り込みにも至っていない。「土地も無限じゃない中であらゆる可能性を考慮したい」と辻社長。十年先の未来のためにも妥協せずに計画を練り込みたい。




