高橋さんについて
甲子園も佳境を迎え、児童生徒の皆さんはそろそろ宿題を終わらせようと頑張る頃合になってきたが、俺達は何も変わずに練習の日々を送っている。これが仕事だからな。というか、部活があれば生徒諸君も変わらんか。まあいいや。
俺も城西高校にいた頃はこんな夏の日はさぼりたいなんていつも脳裏に浮かんでたが「プロになるにはそんなたるんだ精神ではいけない」と突如旧陸軍ばりの精神論者になりきって乗り越えてきたな。頑張るにも気力がいるもんだ。
「よし、全員集まったな。これからはシュート練習を行うぞ」
「これからは攻撃的なクラブとの対戦が続くからな。攻撃の精度をもっと高めていかないとな」
そういえばいつの間にかNHK教育がEテレという名前になっていたのは驚いた。何だそれはという感じだ。海外暮らしが長いとそういう変なところでつまずいたりする。逆に言うと、そういう微妙な変化を知る事が出来るというのがその国で暮らしているという事なんじゃないか。
「まずパサー、シューター、ディフェンダー、そしてキーパーに分かれる。パサーがボールを持ってスタート、ディフェンダーのマークをかいくぐってシューターにパス、シューターはキーパーとの1対1をやってもらう」
「ではメンバーを発表するぞ。まずパサーは……」
どれだけ心は10代ぶってみせても実際は体力がどうしても落ちてくる三十路。頭が暑さにやられたか、監督やコーチの話も上の空で変な事ばかり考えている。しかし今から始まるメニューがシュート練習なら、俺に与えられる役割なんて聞かずとも分かる。なぜなら、俺はストライカーだからだ。
「シューターはヴィトル、有川、御野、野口、高橋、荒川だ」
「えっ、俺もシューターっすか? パサーじゃなくて」
「そうだ御野。お前にはもっとシュート精度を高めてほしいからな」
「ははっ、確かに言えてる。こいつほんっと下手糞だからなフィニッシュが」
「そんな、酷いっすよヒデさん。まあ確かにうまいとは言いませんけど」
「いやいやはっきりと下手だろ。未だに2得点って何だよ! 打つときにちゃんと目を開けて打ってるのか? それとも毎回家族が人質にされて『シュートを外さないと分かってるだろうな』とか悪者に脅されてんのか?」
「そんなあ! 僕はいつも真面目にやってますよ!」
「ははは、そりゃそうだ。まあその辺もテクだから、荒川によーく教えてもらえよ」
チームの雰囲気は一時期のようなぎすぎすした暗黒感はなく、かと言って開幕から数試合のように打ち出の小槌のように勝ち点3を叩き出すほどでもなく、そこそこ明るくここぞの場面ではビシッとした、まあ普通のチームと言えばいいかな。ある時は勝ってある時は負けて、それでも後ろを振り向かずに走ることはできている。とりあえず梅雨あたりの空気のまま雨降って地ベトベトにならなくて良かったぜ。案外そういうチームも多いからな。幸い尾道は1ヶ月でどうにかしたが。
「さあお話もここまでだ。散らばれ! 練習開始だ!」
「おう!」
さて、俺を含めたシューターの面子の中でここ最近加わった名前がある。それは今年開幕前に加入した俺、じゃなくて。確かに順番で言うと俺が最新に当たるわけだがそういう意味ではなくて、最近まで怪我とそのリハビリを続けていたものの今週から全体練習に加わった選手がいるというのがこれからのお話だ。
その男の名は高橋一明と言う。28歳、今月の初めに誕生日を迎えた。俺が高橋さんと出会ったのは入団直後だった。全体練習終了後、俺は日課としている筋力トレーニングのため練習場のそばにあるスポーツジムに向かった。俺は1人で行ったのだがすでに先客がいて、それが高橋さんだったのだ。
「今度うちに入団した荒川秀吉さんですね。ようこそ尾道へ」
うやうやしくそんな風に挨拶された。恥ずかしながら、俺は最初高橋さんの顔を知らなかったので「スタッフの人かな」などと見当外れの考えを持った。そして口走ったのがこれだ。
「チーム関係者の方ですか?」
ああ、チームにおける先輩に対して何という発言! 今思い出しても顔が赤くなる。しかし高橋さんはこの無礼極まりない発言に対しても意に介さぬと言わんばかりに、汗まみれの顔を温和に崩して微笑んだ。
「はい、そうです。高橋一明と言います。これでも一応選手ですよ」
俺はとりあえず頭を下げた。さすがに申し訳なさすぎる。しかし高橋さんは「年齢も現役期間の長さも実績も荒川さんのほうが上ですし仕方ないですよ」などとかえって恐縮していた。まあ、そんな馴れ初めだったが俺と高橋さんは毎日ジムで汗を流すうちに打ち解けてきた。サッカーのこともそれ以外も色々と話すうち、俺と高橋さんは同じサッカー選手でありながらまったく違う道を歩んだと知った。
高橋さんは尾道市に生まれ育ち、大学は東北のほうだったらしいが卒業するとまた地元に戻る形でこの尾道に入団した。いわゆるUターン就職って奴か。俺の地元にもクラブはあるが、特別に入りたいと思った事はなかった。確かに俺はそこで育った。しかし、だからこそ、プロでは他の土地でやりたいと考えた。そんなんだから俺は世界のあちこちをうろうろしてたんだろうな。いろいろな所に行くのが楽しかったのもあるけど。
さて話を戻そう。高橋さんが尾道に入団した時のクラブ状況としてはJFLでもがき苦しんでいる最中だった。それでも「スピードもテクニックも大学とは全然違って自分にはとてもついていけないと思った」との事で1年目はほとんど出番がなかったようだ。それでも高橋さんは諦めず練習を続けた。給料はすずめの涙で、バイトをしながらの生活だったと言う。
その話を聞いたとき、俺はブラジル時代を思い出した。サッカー選手なのにサッカー以外を考える必要があるというのはしんどいもんだった。俺が最初に入った横浜でも試合に出られなかったが、その時は「力を付けて試合に出る」と目標が明確だったので苦労も苦労と感じなかった。しかし「ずっとこのままなんじゃないか、本当はこんなはずじゃなかったのに」と思い始めると、加速度的に心が鬱屈するものだ。
来る日も来る日も練習漬けの高橋さんだったが、それが報われたのが翌年だ。尾道は新しい監督が就任。しかし最初はやはり評価が低くてベンチ入りもままならなかったと言う。その見方を日々の練習によって覆して夏場、ようやく初スタメンに抜擢された試合でいきなり2得点を奪ってアピールした。ちょうどその頃はチームの勢いが落ちていたのでいわゆる「救世主」となったわけだ。
高橋さんのポジションは攻撃的MFがメインでシャドーストライカーもいける。プレースタイルとしてはとにかくドリブルがうまい。「吸い付くような」という表現はまさにこのためにあると思わせるテクニシャン。「1年目はテクニックが足りなかった」とは本当なのかと疑ってしまう。本人はそのように言うが、これほどのテクニックは天性のものだとしか思えない。まあ俺は当時の高橋さんを見たことはないし、実際はどうか知らないが。
で、高橋さん2年目のブレークと合わせるようにチームは勝ち続けて最終順位でも規定をクリア、Jリーグ加入が認められた。この年からはバイトしなくても食べられるようになったと言っていた。俺もブラジルからポルトガルのクラブに引き抜かれた時に同じ気持ちとなったし、あの嬉しさはよく分かる。「これで本物のプロサッカー選手として認められましたよ」と言われるような感覚というのか。セミプロとかじゃなくて、本当にサッカーだけが生業となる喜びがあった。
さて、高橋さんのテクニックはJの舞台でも見事に開花した。尾道のチーム自体はJ2初年度は下から2番目の順位に甘んじるなど苦戦したが高橋さんは得意のドリブル突破と正確なシュートを武器にチーム得点王に輝いた。J1のクラブから引き抜きもあったらしい。俺ならここで間違いなく動いていただろう。
しかし高橋さんは尾道を離れなかった。俺が理由を聞いたら「尾道を離れたくなかった、それだけ」とつぶやくように語ってくれた。本人の人となりから言ってもそれが唯一の真実である事は間違いない。翌年に現監督の水沢さんが就任したがやはり不動の主力として君臨した。高橋さんは尾道の街と人々を愛し、尾道のサポーターからは深く愛された。両者はゆるぎない愛でつながった、いわば理想の関係だった。
しかし去年の5月に悪夢が待っていた。試合中に靭帯を痛めて戦線離脱の憂き目に会ったのだ。2度の手術を経て長い長いリハビリ生活が始まった。俺が高橋さんと出会った3月は、まさにリハビリの期間であった。そして1年以上にわたって戦いを繰り広げた結果、高橋さんはまさに今、ピッチへの帰還を果たそうとしている。
「あっ、高橋さんお久しぶりです」
「高橋さん元気になったんですか」
「良かった。また一緒にプレーできるようになるんだな」
全体練習に戻ってきた時、高橋さんの周りには先輩も後輩もなくその復帰を本心から喜ぶ選手ばかりだった。シャイな高橋さんは歓迎の嵐に困ったような笑みを浮かべていた。しかしひとたびボールを持つと空気が澄み渡る。切れ長の目からはダイヤモンドダストでも放出しているのかと思うほどにクールなオーラで満ちている。とにかく冷静なのだ。自分を含めたピッチ全体を客観的に見ることが出来る。
「自分にはドリブルしかないから」
この言葉はジム内でも何度か聞いた。しかしあまりに謙虚すぎるのも逆に考え物というか、もっと堂々としてもいい、それだけの技量があるサッカー選手の1人だと思っている。まず、パスも十分にうまい。次の走者にたすきを渡すような柔らかさで放たれるパスは正確で、案外司令塔としても面白いのではないか。ただどうやら本人にはドリブラーであるというこだわりがあるらしい。そういう意味では頑固な人間だ。
まあ俺も「自分にはゴールしかないから」というタイプだし、根っこでは同じだと言える。もしかするとスタイルを変えても成功するかも知れない。しかし点を取れない俺は俺ではない。そんな姿に変わるぐらいならサッカーを続ける意味がない。俺にとっての「ゴール」が高橋さんにとっては「ドリブル」に置き換わるという話だ。
怪我のためにスピードは落ちているとも自嘲気味に話していた。確かにまだ怪我してからの自分の体にまだフィットしていないと言うのか、不慣れでぎこちない動作もそこかしこに見られた。しかしそれも練習序盤の話。ワンタッチごとに適応してきた。そろそろ試合にも出られるだろう。
とにかく、そういうわけで俺は高橋さんと同じフィールドでプレーできる日を楽しみにしている。確かに年は下だがそんな事に関わらず、高橋さんは思わずさん付けで呼んでしまうような人徳がある。その上でプレーヤーとしても相性がよさそうだし。高橋さんのドリブルとパスに俺のシュートを組み合わせれば、ってすごい都合のいい事考えてるな。まあ、ずうずうしさもストライカーには必要だし、と自己弁護しておく。次の対戦相手は和歌山。高橋さんもベンチに入るようだ。
「よーしナイッシュー荒川! 御野は居残り特訓だ!」
「うー」
額にしたたる汗を左腕で拭うと、恨めしげに見つめる御野を横目にクールダウンに向かった。
「次の試合、勝ちてえよなあ」
こんな言葉を胸の奥底に秘めて。負けるために戦ってるわけはない。負けず嫌いだからここまでやってこれた。その気持ちが続く限りは俺も高橋さんも戦い続けるだろう。まあ、とりあえずのターゲットは和歌山だ。あそこには絶対に勝たないとプライドが許さない相手だ。うん、試合に出られるなら頑張ろう。
100文字コラム
退団する王のコメントは以下の通り。「尾道の皆さん、突然の報告で申し訳ありません。僕みたいな怪しい中国人を受け入れてくれてありがとうございました。またどこかでお会いしましょう」。笑顔で立ち去っていった。




