響き渡る歓喜の鐘
ジェット気流を切り裂くような鐘の音が白い空に高々と舞い上がる。尾道の西隣に位置する三原市にある広島空港にほど近いチャペルは、冬の風をものともしない祝福の慈愛に満ちあふれていた。
12月だというのに緑に満ち溢れたこの場所で、荒川秀吉と南城小早は結婚式を執り行った。
結婚しようと決めてからここまで1年以上の時間があったので、計画は綿密だった。まずは式場選びだが、新郎の出身は京都の伏見で新婦は栃木の那須、二人の仕事場であり暮らしているのは広島の尾道とバラバラなのでどこで統一するかをまずは議論した。
割とどっちも出身が観光地の近くということもあり当初は出身地の近く、その中でも結婚式の季節は冬で確定だったので那須はちょっと寒いかなって事から京都の有名な神社で、という案も一瞬浮上したが、それはそれでバランスの問題があるのでやはり順当に仕事場の近辺に落ち着いた。
その中でどこがいいかとなった時、尾道市には案外適切な場所がないという問題に直面した。しかし広島市まで行くとまた別物になってしまう。じゃあ本命は福山かと考えたが、ふたりとも日本全国のみならず世界各地に知り合いが点在しているので、交通の負担を考えてもいっそ空港に近い場所のほうが良いだろうと判断。
広島空港が本郷にあるのは遠いと評判だが、根本的には広島市の位置が県内の西寄りすぎるのが混乱の元とも言える。広島と備後の中心である福山との距離が100kmほど。福山は広島市とは違うが、あれを安易に岡山だと言うのもまた違う。広島県としての一体感を保ちつつも備後は備後で別の文化が脈々と流れているといったニュアンスが一番正解に近いと言えようか。
ともかく、夏頃に式場が決まったら今度は必死になって招待状を百枚以上も作成し、各地に送ったのが秋のはじめ頃であった。結婚式ってこんなに手間なものだったのかと、今更ながら秀吉は今までの人生において幾度となく通り過ぎていったイベントの大変さを思い知らされた。
これまで何度も何度も色々な教会やらホテルやら寺社仏閣で、特に尾道に来てからは自分より年下ばかり、ここ数年などは十歳以上も若い選手の門出ばかりを延々と見送ってきた秀吉だが、ここまで手のかかるものだとはまったく思いもよらなかった。
今更ながら無知を知るが、幸か不幸か試合にはあまり絡んでいなかった頃なので時間はあった。むしろ小早のほうが忙しいぐらいで、でも近い将来自分が引退したらそれが常態化してしまうんだろうかとふと思って震えたりもした。
サッカーに限らずスポーツ選手にとってシーズンオフは挙式の季節だが、これまでの秀吉は祝福専門で自分がそうなりたいという欲望も希薄だった。しかしついに、ついに当事者になってしまった。そんな当事者は鏡の前で蝶ネクタイを締め直していた。
「……似合ってるのかな、これ」
普段の服装とはまったく違う光沢を持ったシルバーのタキシードに身を包まれてなお、それが現実だと認識するのを脳が拒んでいた。
人よりも長くなったプロサッカー人生の中で、それなりにセレモニーに参加する機会もあった。しかしそういう時でもほとんど主役格の扱いではなかったので無頓着、とまではいかないものの地味なカラーのスーツでしれっと参加するのが関の山だった。
しかし今日は違う。ピッチ上でさえ幻と呼ばれるストライカーがまさしく主演男優として、まばゆいばかりのスポットライトを浴びる瞬間を迎えたのだから。何年生きてもこんな瞬間は永遠に一度だけしかないのだから、根が凡人な秀吉からすると照れくさい気持ちでいっぱいになるのも致し方のないところであった。
「秀吉や、おるかい!」
その時不意に、何千何万と聞いた懐かしい調べ、忘れようにも鼓膜に刻み込まれているからそれを聞いた途端にすべての記憶が蘇る、そんな声がノックとともに響いてきた。
「おるよ! 入ってええよ、母さん。父さんも兄ちゃんもおるんやろ?」
「おう、おるで。ほな入らせてもらうわ」
「いやーおめでとうヒデよ! お前もついに結婚かあ」
「うん、兄ちゃんからは大分遅れたけどな。来年で15年目やっけ?」
「せやな。それにしてもほんま良かったわ! 何とか間に合ったみたいで!」
「ワシもヒデの子の顔を見るのはいい加減諦めとったけど、長生きしといて良かったわ」
「またそんな事言うて……。まだまだ全然元気そうやんけ。だからまだええやろ思って婚期ズルズル遅れたんやんか」
「よう言うわ。でもまあ、やっとええ人と巡り会えたんやろ? それが何よりお前にとっての幸いや。早いか遅いかはあるけど、その分しっかり考えて選びあったんやろ?」
「うん、そうじゃね。もう他は考えられんぐらい考えて、それで一緒になりたい思うたから……」
「ふふっ、時々広島弁も出るし、この尾道によく馴染んだんやなあ」
「もう長いけえね……」
普段は標準語に近い言葉を操る秀吉がすぐに故郷の訛りに戻ったのはまさしく血を分け合った同士が持つ包容力ゆえだが、それでも完全に馴染みきらないのは秀吉が自分の人生を生きたゆえであった。そして両親にとってはそれが何よりも嬉しく思えた。
「ほな、うちらはそろそろ南城さんのところに挨拶行くわ」
「あー待って待って! 俺も行くわ」
「もう準備はええん?」
「これでええ、はず! ほな、行こか。そう言えば他のみんなは?」
「それはこっちの、荒川家の控室におるから、まずはそっちやな」
「なんか段取り悪いな」
「そういやヒデ、俺の結婚式の時も試合ある言うて来んかったなあ。経験ないからしゃーないわ」
「いや、ほんま行きたかったんやけどなあ、兄ちゃんの結婚式も。後でビデオとか送られてもやっぱり生とは違うしなあ」
「で、あれ見返した事あるか?」
「そらもちろん……、ないで」
「せやろな」
「いや嘘嘘。最近見返したんや。何か参考になるかな思って。全然ならんかったけど。でもそっちで昔の顔見るとみんな若くてねえ、父さんの髪の色も黒々してたし、今見ると誰やって」
「せやなあ。お前が全然結婚できひんから気苦労でこんななってしもうたわ」
「うちもや。すっかりエビみたいな腰になってしもうた。でもそれも今日で報われるんやな」
「うん。ほんま父さんも母さんもありがとな。こんな不肖の息子を持ってもよう待ってくれて。兄ちゃんもな、色々あるけど感謝しとる」
「おいおい、ヒデのくせにあんまり泣かせんなよ。まだ本番前やで」
「せやな。ほな、しばらく黙っとくわ。もっと大事な瞬間まで涙はとっておかなあかんしな」
「まったく、ヒデったら……、こまっしゃくれた事言うてからに……」
そして荒川家はこれから行われる親族紹介のため一族総出で親族控え室に向かったが、部屋にはすでに新婦側の一族が集結していた。最年長は新郎の母方の曽祖母で88歳、最年少は新婦の姉の次男で3歳。黒の礼服や色とりどりの和服が立ち並ぶ中で、ひときわ白く輝くドレスの中に淡い紅を差したように頬を染める小早の顔を認めた。
「あっ、ヒデさん……」
「綺麗だ……。綺麗だよ、小早」
何度だって見た顔なのに、秀吉はまるで初めて見つけたかのようにつぶやいた。魂が惹かれて愛し合った同士だから顔なんて関係なかった。でも改めて見るとやっぱり素敵な顔をしている、この場にいる誰よりも……。そう思えるのは決して身贔屓からだけではないと心から信じられた。
それからの披露宴でも尾道の選手やスタッフを中心に、恩師や今は移籍した選手なども集まって終始賑やかな時間を過ごした。
その中には今シーズン限りで尾道を退団するとすでに発表されているヒース監督や中原蒔田、現役復帰を断念してフロント入りする川崎圭二といった顔もあったが、彼らはむしろ吹っ切れているようで清々しい笑顔を振りまいていた。特に監督は、それまでの岩石のような表情はまったく見られず、単なるイギリス人の親父として場を盛り上げた。
むしろ来年から監督就任が決まった港滋光こそぴりりとした面持ちで参加していた。就任会見では佐藤幸仁監督時代のような攻撃サッカーを目指すと宣言し、しかし戦力がどうなるかも定かではない。責任感が強いほど重圧になる。今日のような晴れの舞台にさえも侵食するほどに。
他には茅野も少し切なげな表情をしていた。クラブの金銭的余裕が尽きたので心ならずも移籍を決断せざるを得なかったからだ。ジェミルダート尾道所属の茅野優真として過ごせるひとまず最後のイベントがこれだと知っている人は決して多くない。本人は悟られないように努力したつもりだったが、後で複数の選手から「そうだと思ってたよ」と言われたのにはため息が出た。
一方で現在は清水に所属している今村友来は複雑さを切り抜けた、水のような微笑みでこの場に臨んでいた。それはついに来年からの尾道復帰を決断したからだ。清水では一度降格するなど決して平坦な日々ではなかった。その際も復帰しないかと誘われたが、一番の苦境でチームを見捨てるのはずるい気がするとその手を振りほどいた。
今年ももし清水が降格となったら同じ決断を下しただろう。しかし幸い尾道も清水も残留を果たし、そして天皇杯でも敗退してシーズン終了した。もう十分に責任は果たしただろう。そして今度こそついに誘いの声に頷いた。一度は自分の決断で尾道から離れたのに、それからもずっと見つめていてくれてありがとう。そんな感謝を胸に秘めての復帰であった。
冬のジャンクションには多くの人が行き交い、その一人ひとりの中にその人が主演を張るドラマが現在進行系で進められている。そして人は今日の思い出を胸に秘め、あるいはすっかり忘れてそれぞれの未来へと歩み出していくのだ。
100文字コラム
山本長屋ら若手の間でリコリス菓子が広まりつつある。元々は練習中に競う中の罰ゲームとしてリンドマンが持ち込んだものが意外にいけると評判になった。その噂を聞いた奈古が食べてみたが「普通にタイヤ」と顰め面。




