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対岸の向島に脱獄囚が出て警戒態勢の緊張感とは裏腹に丘を吹き抜けて生まれた春風がスタジアムを優しく撫でる4月中旬、尾道はユース所属選手3人を2種登録選手という形でトップチームに引き上げた。もちろんこれは即戦力として期待されているわけではなく、「地方クラブが生き残る術は育成以外になし」という能島GMの理念を体現する存在として未来の活躍を目指すための第一ステップである。
万が一これから強力なスポンサーがどんどん増えて金満クラブに成り上がっても、本拠地は尾道という関東から遠く離れた地方のまま変わる事はない。大江本部長は金さえあれば有力選手などいくらでも引き抜けると考えていたようだが、選手は金だけで心を決めるものではない。
現に去年は大物に手を伸ばしたものの果たせなかった。それでも奇跡的にトリニダードという大当たりを引き当てたものの、それがかえってチームのバランスを崩したという事例もまた大いに示唆するものがあるだろう。トリニダードはこの間もマドリードで世界一のクラブ相手にハットトリックを決めるなど大暴れを続けているが、尾道という身体には強力すぎる心臓だった。
決して補強を否定するのではなく、チーム全体の完成度を考えて補強しないとクラブにとっても選手にとっても得られるものがなくなってしまう。しかもそれを徹底的に考えて、客観的にも適切に思えた補強であっても事前には予想できないような微妙な感覚によって外れる時は外れる。100%当たる補強は存在しない。だからこそ急がば回れで自軍の軸は最初からクラブの哲学が染み付いている選手を揃えるのがチーム力を上げる一番確実な方策となるのだ。
そうして加わった三銃士の中で、もっとも期待されているのは山本聖樹である。36という三人の中で一番若い背番号を貰った事実がそれを物語っている。現在はフランスで活躍中の御野や開幕前に岡山へ期限付き移籍してチームの首位キープに貢献している成田の系譜に連なるドリブラーで、スピードに関しては御野をも凌ぐともっぱらの評判だ。
生まれも育ちも尾道市で、親子揃ってのジェミルダートサポーター。ジュニアチームからクラブで育った選手として初めてとなるトップチーム登録選手であり、また21世紀生まれのトップチーム登録もこの山本が魁となる。まさしく尾道のトップエリートであり、クラブの未来を具現化した男だと言える。
背番号37の赤藤香志雄は今年に入って急成長を遂げた有望株だ。出身は秋田県だが、よりレベルの高い環境に身を置くため本州を東から西へ渡り歩きはるばる尾道までやって来た。長身もあり2年生からはセンターバックとしてレギュラー入りを果たしたものの判断の甘さなどが残り、見た目の割には脆い存在だった。もちろんトップチーム昇格など夢の話に見えた。
転機となったのは今シーズンから就任した港コーチとの出会いである。現役時代ディフェンスリーダーとして尾道の昇格にも貢献した頭脳派センターバックは、己の肉体的現実である低身長を補うために磨き抜いたノウハウを惜しむことなく若者に教え込んだ。赤藤も持ち前の粘り強さで知識を吸収し、短期間でここまで評価を高めた。
そして背番号38の小谷ジャイロは日本人の父親とブラジル人の母親を持つハーフ選手で、日本語とポルトガル語をマルチに使いこなす。元々は広島のジュニアユースに所属していたが高校の年代から尾道に移ってきた。
選手としては視野の広さと柔軟なテクニックが特徴である。現在の尾道は奈古、マーティン、謝花、山崎などドリブラータイプは豊富に揃っている。今回登録された山本もまたその枠で激しい競争に身を晒される。一方で現在の尾道は思いの外パサーが少ない。小谷はこの弱点を埋められる可能性がある、貴重な存在となりうる。
このように若い選手が次々と加わる中で、逆に若さに押し出された選手もいる。その筆頭である一原はこの危機的状況にも関わらず、あるいはであるがゆえに今もなお悩み続けていた。心の中の靄は晴れるどころか一層混迷を極めており、晴れる気配は皆無である。
ワールドカップイヤーであるがゆえに連戦に次ぐ連戦が行われている現在の日程で、他のチームと同じく尾道は基本的に土日に主力を投入して平日開催にはターンオーバーを採用している。つまり普通の年よりも出番に恵まれやすい日程でありながらも一原はここまでリーグカップのベンチ入りがせいぜいで一秒たりともユニフォームを観客に見せつけていない。今日のリーグカップ名古屋戦のメンバーは以下の通り。
スタメン
GK 32 山田多摩男
DF 2 円山青朗
DF 20 讃良玲
DF 4 鄭先珍
DF 22 井手幸丸
MF 28 平田祥矢
MF 24 森川好誠
MF 5 池山大心
MF 16 謝花陸
FW 33 池角斌生
FW 27 山崎灯
ベンチ
GK 21 木野下美徳
DF 15 西東良福
DF 26 汐野勝永
MF 7 一原和佐
MF 19 河口安世
FW 18 浦剣児
FW 36 山本聖樹
今日のスタメンで先週末にもスタメンだったのは讃良のみというメンバーを組んでいる。加えて怪我明けの円山や池山が出場しており、レギュラー争いはより激烈なものとなっていくだろう。また二種登録の山本が早速ベンチ入り。こうした流れの中でギリギリメンバーに入った一原だが、最悪はこの後に待っていた。
試合は前半21分、池角のポストプレーからルーキー山崎が公式戦初ゴールとなる先制点を挙げると、以降はお互い勢いのある攻撃を見せた。10分後に追いつかれたが前半終了間際には井手の突破からのこぼれ球を謝花が詰めて突き放す。しかし後半には再び振り出しに戻される。
撃ち合いの中、まずは山崎と交代で浦が登場。続いて怪我明けの円山と交代でレギュラーの河口を送り込む。この交代によって攻撃がより活性化され、右サイドバックにポジションチェンジした平田のクロスを浦がキックで合わせて勝ち越しゴールを決めた。その直後、最後のカードとして謝花を下げて一原が投入された。
「イチ、こういう流れだ。結果はどうであれ積極的にプレーしていこう!」
ヒース監督はこう言うと背中を強く叩いて送り出した。イギリス人の目に見える背番号7は、練習から失敗を恐れるあまり萎縮しすぎているように映っていた。だからオープンな展開の中でミスを恐れずガンガン自己アピールしてくれればと願った。しかし一原の悩みはそれ以上に深かった。
投入直後の後半35分、一原はボールを受けたものの次の展開を決められずにいた。頭の中の迷いが肉体にも現れたぼんやりとした動きは相手からすると格好のカモでしかなく、少し身体を当てるだけであっさりボールを奪われ、しかもそれをきっかけに同点ゴールを決められてしまう。その瞬間、指揮官の表情はこわばり、それはその日一日中貼り付けられたままとなった。
それからの試合は常に相手ペースで進み後半アディショナルタイム、挽回しようとするあまり焦った一原が無理に足を伸ばした結果PKを取られ、これを決められて尾道は逆転負けを喫した。試合後の会見で監督は憮然とした表情のまま会見に臨んだ。
「今日はトモルがゴールを決めた。コレクティブなゴールだった。リックは自分のためだけでなくチームのために走ってくれるようになった。しかし今はそれらを心の底から純粋に讃えられる状態ではない。そしてそれは今日の試合に敗れたからではない」
ここまでは静かにゆっくりとした口調を保っていたが、一度大きく息を吐いたのがエンジン着火の合図であったかのように、後は一気呵成に吐き出した。
「全選手が持てる力を出しきって、それでも負けたなら仕方ない。しかし今日は勝ち負け以前に戦う意志を放棄した人間がグラウンドに立っていた。プロとしてそれは最も恥ずべき行為であり、到底受け入れられるものではない」
それが誰の事を示しているのか、その場の誰もが一人の男の顔を浮かべていた。これ以降、一原はベンチ入りすらなくなった。
100文字コラム
今年から日本に引っ越してきたヒース監督夫人のマギーさん。スコーン作りが得意で「日本は燕麦が少し高いわね」と淑やかに笑うが家庭では夫を尻に敷いているとの噂。チームも家庭もボスを一人にまとめるのが肝要か。




