得点その1
雨がばらばらと降りしきるスタジアム、滲み揺れながらも堂々とそびえ立つ電光掲示板は「熊本0-1尾道」という文字列を輝かせている。ここで繰り広げられている戦いはすでに開始から90分を越えていた。
スタジアムの中心、フィールドの片隅において雨に濡れた白い服を着た男1人が赤をまとった3人に囲まれている。赤い3人はホームである熊本のディフェンスである。そして白い服を着た男、彼こそがかつては世界を放浪して幻のストライカーと呼ばれた荒川秀吉その人である。ブラジル、ポルトガル、ギリシャ、エジプト、スイス、メキシコ、オーストラリアと漂流の果てに今は祖国日本へと戻り、J2尾道に所属している。
3分と表示されたアディショナルタイムはすでに2分が過ぎている。ここで無理に攻めて逆襲を食らうと得られるはずの勝ち点が2も消えてしまう。今、秀吉たち尾道の選手は1点のリードを守りきる事だけ考えている。
熊本の選手がすっと伸ばした足に弾かれたボールがタッチラインを割る。副審はフラッグを右に向けた。
「熊本ボール」
「ちい、俺の足に当たっていたか。ただまあ20秒は稼げたし上等だな」
秀吉が今課せられているのは尾道のリードを守りきるための動き、早い話が時間稼ぎである。最前線で相手ゴールに背を向けてでも指令を忠実に遂行している。今回のボールキープはそれなりに満足のいくものであった。しかしまだ試合時間は残っている。
熊本のスローインでゲームは再開されたが、持たざる側に回った秀吉は同じく途中から投入された王秀民と一緒にボールに向かっての猛烈なチェイスを開始した。ここでもしボールを奪えたなら1点もののビッグチャンスが生まれるが、たとえボールを奪えなくとも熊本の残り時間を奪う事は出来る。事実、こうしているうちにもタイムリミットは刻一刻と近づいている。
痺れを切らした熊本はゴール前へ一気にロングボールを蹴りこんだが、こういった単純な放り込みは尾道ディフェンスラインの中央に鎮座する空中の覇者モンテーロが捕食するのみである。今年から尾道に降り立った身長190cmに迫る巨体は、このボールも頭で弾き返す。それを拾ったのは今村だった。チームで一番「気の利く男」がすかさず前線に向かってボールを蹴り上げた。高き弧が暗雲のかかる空を舞い上がる間に、試合終了を告げるホイッスルが鳴り響いた。
「よっしゃあ守りきった!」
「ここからまた連勝頼むぞ! 今年は絶対昇格だ!」
厳しいアウェーゲームを制した尾道。海を越えて遥か鎮西まで情熱を伝えに来た尾道サポーターたちが思い思いの言葉で歓喜をあらわにしている。愛するチームのためならば雨に濡れても財布の中身が削られても関係ない、そんな彼らの声に尾道イレブンは見事に応えてみせた。
今日の試合はまず前半8分という早い時間帯に動いた。金田のスルーパスに反応して抜け出したヴィトルがGKとの1対1を制してゴールを決めたのだ。後半開始直後に山田がペナルティーエリア内で相手FWを倒してしまい一発レッドカード退場というアクシデントがあったが、ベテラン玄馬が冷静にコースを読んだセービングで大ピンチを脱出。その後も熊本の攻撃を防ぎきって1対0の勝利をもぎ取った。
尾道はここまで7試合を終えて4勝1敗2分、かつてないほどのロケットスタートを見せて現在2位につけている。秀吉はここまで4試合に出場しているが、今日の熊本戦を含めてすべて途中交代である。チームのために汗をかくのを厭わない献身的なプレーと、ゲームの流れを変える存在感は大いに評価されている。
ここまで3得点を挙げているがそれは全て和歌山戦でのゴール。しかもその試合は激しい打ち合いの末、4対5で敗北している。「得点はチームの勝利に貢献してこそ」という矜持を誇るストライカーの内心はまったく満たされていない。熊本戦の前日に「自分は尾道において本当の意味ではまだノーゴール」と語ったが、つまり勝ち点につながる得点を生み出していない自分への苛立ちを表しているのだ。
現在尾道のトップスコアラーは有川である。開幕ゲームである千葉戦での決勝ゴールに始まり、ここまで7試合で5得点を挙げて得点ランキング2位につけている。彼をジュニアユース時代から知る横浜サポーターでさえも「これが本当にあの頼りなかったキヨシくんなのか?」と戸惑うほど短期間で変貌を遂げた。
有川は横浜ユース時代から将来はフル代表の素質と言われてきた。しかしプロ入り以降は自分の力を発揮しきれず、メンタルが弱いというレッテルを張られるに至った。それが今ではグラウンドでその長身がひときわ大きく見えるほど、頼りになる姿を見せつけている。恵まれたフィジカルを生かし、相手を吹き飛ばしてしまうほどのダイナミックなプレーはJ2ディフェンス陣の脅威となっている。また、ポストプレーも巧みでヴィトルや御野といった俊足選手の躍動にも一役買っている。
その有川が常日頃から口にする言葉が「自分が戦えるようになったのは秀吉さんのお陰」である。秀吉は口が上手い男ではないし練習中でもあれこれ口を出すわけではない。しかし無言のうちから発せられるプロフェッショナルな働きに感化される若手選手は後を絶たない。そして自主的に牙を研いだ若手選手が尾道の力となっている。このようにして、尾道における秀吉の存在感は彼の内心とは裏腹に日増しに高まる一方である。
一方ディフェンスに目を向けると、大型センターバックのモンテーロが期待通りの実力を発揮している。来日当初は動きの鈍さが目立っていたがしっかりとシェイプアップしてきた。自慢の高さとパワーはJ1でも通用するのではというレベルに達している。ディフェンスラインを巧みに操るキャプテン港の働きも見逃せない。
こういった選手たちの働き以外にも代わって来たのは水沢監督の采配である。今季初の敗北を喫した和歌山戦を受けて次節の愛媛戦ではベテランGK玄馬を外して宇佐野をスタメンに起用した。玄馬は的確なコーチングとミスの少ないセーブでチームを安定させる実力者で、温厚な人格は選手たちからも慕われている。その玄馬でさえも故あれば外す。
「スタメンに聖域はない。レギュラーでも駄目なら外すし、控えでもアピールすればスタメン抜擢に躊躇はしない」
水沢監督が無言で発したメッセージはこれである。それまでは選手層の薄さゆえに主力を外すのに躊躇する場面も見られた。逆に言うと、それまでの主力を外してもある程度戦えるほどに今年の戦力は充実しているのだ。事実、愛媛戦では宇佐野が強烈なミドルシュートをパンチングで処理するなどガッツあふれるプレーを見せた。次の熊本戦では玄馬がレギュラーを奪い返したが、もはや正GKの座は安泰ではない。練習でのアピール合戦は熾烈を極めている。
こうしたショック療法の甲斐あって、最近はチーム内の空気がいい意味でピリピリしてきた。玄馬に限らず、キャプテンの港はクールだし在籍年数最長の山田は穏やかな性格。そのため、ともすると緩みがち、なあなあな雰囲気になりがちだった。しかし勝利を手にするためには時に激しいぶつかり合いも必要である。和歌山戦の敗北は痛恨の極みであったと同時に、尾道にとっていい薬となった。あの日以来、尾道が戦う集団に脱皮しつつあるからだ。
100文字コラム
亀井野口茅野の新人トリオ。身体能力の高い茅野が「試合出場候補一番手」と佐藤コーチ。その上で「亀井は賢いし野口も大器晩成の逸材。この三人こそ尾道の未来。だからこそ僕らが正しく導かないとね」と力を込めた。