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五 月下の人影

 その夜、布団にもぐりこんで目を閉じても、なかなか眠れそうになかった。


 暗い天井を睨みながら、正平さんに聞いた話を何度も頭の中でくり返していた。

 そして、同時に思い出すのは、昼間に見たあの人――墨染めの衣姿の青年だった。


 ……しにびとは、あそこか……。


 耳元で囁いた低い声には、どこか嬉々とした響きが含まれていた。


(鬼にその身を喰わせるのが慣わしだった)


 正平さんの声が脳裏に甦る。


 ……やっぱりダメだ。 


 もう考えるのはやめようと思ったけれど、鬼の話がずっと気になって仕方がない。

 わたしは、夜具を跳ね除けると、のそりと起き上がった。



 いつの間に雨の音も聞こえない。どうやら雨が止んで月が出たようだ。そっと障子を開いて硝子窓に顔を寄せると、外の様子を確認する。


 いつの間にか、月を隠していた雲も空の彼方へ追いやられていた。

 これなら灯りも必要ないだろう。


 音を立てないように襖を開くと、抜き足差し足で暗い廊下を進む。

 階段を降り廊下を進み、厨にある勝手口から外へと抜け出した。



 母屋から祖母の亡骸がある離れへ行くには、いったん外へ出なければならない。

 古びた下駄を爪先に引っ掛けると、ぬかるんだ地面をそっと歩き出した。

 少し湿った風が吹いた。かすかに潮の匂いがする。海辺に出るには遠いのに、少し不思議な感じがした。


 何気なく空を仰ぐと、薄雲がゆっくりと流れる。途端、真珠色に輝く月が顔を出した。


「きれい……」


 嫌なことなど何もかも忘れてしまいそうな美しい月だった。

 悔しいけれど、今まで見た中で一番綺麗に見える。

 月から視線を引き剥がした その時だった。


 びちゃり。


 背後で、ぬかるんだ地面が音を立てた。

 反射的に身体が動いた。すばやく物陰を探し、近くにあった大きな庭石の影に身を潜める。


 びちゃり、びちゃり…………。


 息をするのも忘れ、わたしは音に聞き耳を立てた。


 びちゃり、びちゃり、びちゃり、…………。


 どんどん足音が近付いてくる。


 逃げなくては。でも、恐ろしくて足が動かない。


 びちゃり。


 足音が目の前で止まった。息をするのすら苦しい。庭石にすがりついた手が震えているのがわかる。油断をすると、声を上げてしまいそうになる。わたしは足音の主の姿を確かめることもできず、ただ肩を震わせていた。


 びちゃり、びちゃり、びちゃり……。


 どんどん足音が遠ざかってゆく。


 ……一体、どこへ行くのだろう?


 躊躇ったのは一瞬。わたしは、恐る恐る庭石から額を離すと、足音の主の姿を探した。


 …………いた。


 月明かりに浮かび上がる姿に、思わず息を飲んだ。


 やっぱりそうだ、あの人だ。


 背中を覆う、もつれた黒髪。闇と同じ色をした墨染めの衣から伸びた細く青白い腕。

 気が付いたら、青年を追って歩き出していた。


 もうやめた方がいい。ついて行くな。心の中の誰かが忠告する。けれど足が止まらなかった。

 歩いて、歩いて、歩いて……青年は離れにたどり着くと、土足のまま縁側に上がり、するりと中へと上がり込んでしまった。


 あまりにも堂々と忍び込んでいく姿に、呆然としてしまう。

 だけど離れには、寝ずの番をする大人たちがいるはずだ。こんな真夜中に見知らぬ人間が入ってきたら、黙っているわけがない。


 しばらく耳を澄まして中の様子を伺っていたが、いくら待っても大人たちの声は聞こえてこない。

 胸がざわざわする。もう母屋へ戻った方がいい。


 だけど……。


 意を決すると、わたしは雨戸の隙間からこぼれる光に向かって歩き出した。

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