二十一 再会
誰かの声が聞こえる。
闇の向こうで、誰かが呼んでいるような気がした。
――誰?
「……?」
闇から浮かび上がるように、わたしは目を覚ました。
気が付くと、暖かい布団に身を横たえていた。もう夜なのか、辺りは暗い。次第に目が慣れてくると、障子の格子模様が薄っすらと浮かび上がってくる。
あれ……わたし……。
うつらうつらしながら、今の状況について考える。
さっきまで汽車に乗っていたはずだ。正平兄さまと、彰子さんと一緒に。たくさんお喋りをしながらお弁当を食べたりと、楽しかった。
あれは夢? それとも……ここは。
そっと頬に、わたしの頬に触れている手。その手の感触が、今自分がどこにいるのか思い出させてくれる。
冷たい骨ばった手。わたしは、この手の持ち主を知っている。
ああ、やっぱりまだここにいたんだ。
ゆっくりと瞼を開く。
枕元で片膝をついて、わたしを見つめる漆黒の双眸。
会えた。ようやく会えた。
無意識だった。わたしは、ゆるゆると両手をあの人に向かって伸ばす。
触れたかった。あの人がここにいるのだと、もっと確かめたかった。
わたしの指先が冷たい肌に触れると、びくりと震える。手を振り払われることも、逃れてしまうこともない。触れてもいいのだと赦されたような気がして、恐る恐る、細い顎に触れる。少し乾いた唇、肉の薄い頬、鼻梁の通った鼻、長い目尻、確かめるように、ひとつひとつ丁寧に触れる。
「どうして戻ってきた」
彼の声には、苦しさが滲んでいた。今のわたしがこの人に再会するということは、どういう意味なのかわかっていた。だから、戻ってきてしまったわたしを責めているのだろう。
「だって」
宥めるように彼の頬を撫でると、にこりと笑って見せた。
「ここがわたしの家だもの」
冷たい頬がわなないた。泣いているような気がして、もつれた糸玉のような黒髪を指で梳く。
「それに……わたし」
会いたかった。
唇だけで、そっと呟く。
この人と交わした約束を果たさなければ。確かにそんな思いもあったけれど、それよりも、何よりも、わたしは――この人に会いたかったのだ。
「喰われるとわかっていての言葉か」
そんなこと、今さら言われなくてもわかっている。わたしは頷く代わりに微笑んだ。
「この……莫迦者が」
擦れた声は、今にも泣き出しそうに聞こえた。
「莫迦者が……」
力無く項垂れてしまった彼の背に腕を回す。でも力が入らない腕では、この人を抱き締めることが叶わない。
背からずり落ちる腕を取ると、そのまま彼に引き寄せられる。
冷たい胸にそっと頬を寄せると、深い森のような匂いがした。彼の胸に身体を預けると、ぎこちなく抱き締められる。まるで壊れ物を扱うように。
会いたかった。
いつからこんな感情を抱いていたのかわからない。でも、こうして会えて嬉しく思う気持ちは確かなものだ。
「顔を、見せて……?」
この目にしっかりと焼き付けておきたかった。この人の顔を。わたしの懇願に応えるように腕の力が緩むと、顔を上げる。彼の頬に描かれた涙の筋を指先で拭うと、薄い唇にほんのりと笑みのようなものが浮かんだ。
もしかして初めて見る笑顔のような気がする。もっとちゃんと見たかったけれど、それは叶わなかった。その泣き笑いのような表情を見られたくないのか、そっぽを向いてしまう。その様子が子供っぽくて笑ってしまう。
「……お願いがあるの」
彼の横顔に向かって懇願する。
わたしが何を言おうとしているのか悟っていたのかもしれない。何度も躊躇いながら、ようやくこちらを向いてくれる。
「わたしが死んだら、ちゃんと」
食べてね。と続けようとした言葉は、冷たい唇によって封じられた。
たった一瞬の口付けだった。以前、一度だけ唇を重ねたことがある。でも、その時とはまったく違っていた。
「まだ死ぬな」
わたしの髪に顔を埋めると、やっと聞き取れるくらいの小さな声で囁く。
死ぬな。
この人からそんな言葉を聞くとは思ってもみなかった。
「どうして?」
好き好んで死肉を食んでいるわけではないと、何となく気が付いていた。そうじゃなかったら、あんなに苦しそうな顔をするわけがない。だから、この人が死んだ人間を喰らうのは、きっとわたしが理解できないような理由があるのだろう。
「ねえ、どうして……?」
わからない、と弱々しく頭を振ると、縋るようにわたしを抱き締める。
わたしの単純な疑問は、この人を追い詰めているのだと悟り、理由を問うのはやめようと思った。
「大丈夫」
彼に冷たい頬に、そっと自分の頬を寄せる。この人を安心させるように、穏やかに呟いた。
「まだすぐじゃないから大丈夫。…………でも、ちゃんと食べてね」
返事はなかった。懇願するように、もう一度同じ言葉をくり返した。
「……わたしが死んだら、ちゃんと食べてね」
震える白い頬に口付けると、彼の瞳を覗き込む。
「そうすれば、あなたとずっと一緒にいられるから。あなたの血となって、肉となって、命となって、一緒にいられる。そんな気がするから」
長い沈黙の後、とうとう折れたように彼は静かに瞳を伏せる。
「お前に何かを願われるのは……これで二度目だな」
ぽつり、と呟く。
思ってみれば、わたしが誰かに願いごとを口にしたのは、この人にだけだった。
ひとつ目は話し相手になって欲しい、だったはず。あまり話し相手という感じではなかったけれど。
「……しかも最後の願いが、そんなこととは……お前は愚かだ」
「いいの」
自然に笑うことができた。
彼は愛しむように、ゆっくりとわたしの髪を撫でる。
「……お前が死んだら……残らず喰らい尽くす」
再び口付ける。さっきよりも長く深い口付けは、慈しむように優しいものだった。
ありがとう。
この人に逢わせてくれて……本当にありがとう。
この気持ちを、誰に伝えればいいのだろう?
わからないけれど、何度も心の中でくり返す。「ありがとう」と。
「お前を喰らい尽くす。血の一滴も、髪の一本も……すべてだ」
「うん……」
きっと、今、わたしは幸せだ。
わたしたちの会話を他の人が聞いたら、どんなに恐ろしく思うだろう。
でも今のわたしにとって、この人がくれた言葉は、どんな愛の言葉よりも甘く胸に響いた。




