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序章

 時折姿を見せる墨染め衣の青年の姿を、わたしはいつの間にか目で追ってしまっていた。


 今にも消えてしまいそうに儚い青年の姿を、闇にまぎれて消えてゆくその姿を、何故いつも目で追い、探し求めてしまうのだろう?


 ほら。今日もいる。


 葉桜になった桜の大樹。そこに青年が隠れているなんて、わたしはとっくに気づいていた。


「さて、と」


 勢いづけようと、わたしは縁側から降りて下駄を爪先に引っ掛ける。


 裏手に回り、小さな井戸から水を汲み上げ、手桶いっぱいに水を満たす。水が零れないようゆっくり運ぶのは、かなりの重労働だ。


 普通だったら雑草と言われてしまう野の花も、手を掛けなければならない観葉植物も、この庭ではわけ隔てなく植えられている。だから、この庭は一年中賑やかだ。


 六月を過ぎた今頃は、紫陽花や露草が元気よく咲いている。春に植えた朝顔も添え木にきれいな緑の蔓を絡ませ、もうしばらくすれば大輪の花を咲かせてくれるだろう。


「暑い……」


 日差しのせいだろう、少し眩暈がする。そのまま縁側の上に身体を横たえた。大きく息を吐き出す。眩暈が過ぎるのを待っていると、突然額に冷たいものが触れた。


 誰、と言い掛けた言葉を飲み込んだ。


 汗で張り付いた前髪を払い、ひんやりとした手のひらが額をやんわりと覆う。気遣うように触れる冷たい指先。


 わたしは知っている。骨張った細い指。

 そっと触れる冷たい指の感触を。


「ありがとう」


 無意識のうちに呟いていた。その瞬間、指はびくりと震え、額から離れてしまう。


「……さん、由比さん」


 耳のそばから声がする。この声は。


「たえ、さん?」

「どうしたんですか? お気分が悪いのですか? 冷たいお水でも持ってきましょうか?」


 矢継ぎ早に言葉が飛んでくる中、わたしはようやく瞼を開いた。妙さんが心配そうにわたしの顔を覗き込んでいる。


 妙さんはこの家の女中さんだ。十三の頃からこの家で働いているらしい。


 ふっくらした丸顔で、笑うと目元に皺ができる。妙さんはひどくそれを気にしているようだけど、わたしはそんな妙さんの笑顔が大好きだ。


「お布団を引いて少し横になりますか?」

「大丈夫、大丈夫です」


 慌てて身体を起こすと、安心してもらえるように笑顔を作った。


「ありがとう。ちょっと眩暈がしただけですから」

「本当ですか? どれどれ……」


 熱を見ようと、妙さんの手がわたしの額を覆う。妙さんの手のひらは、少し乾いていて、ほんのりとあたたかかった。


 妙さんが背を向けたのを見計らって、桜の木陰を盗み見た。だけど、もうそこには青年の姿はない。


 つい見守っていてくれているのだと時折勘違いしそうになる。


 違う。あの人は見守ってくれているわけではない。


 ただ、見張っているだけ。わたしがいつの日か死んでいくのを待っているだけなのだ。


 自分に言い聞かせるように、頭の中でくり返す。


 そう。あの人は鬼で、わたしはあの人の餌。



 それでいいと望んだのは、わたし自身なのだから。

以前に同人誌で出した作品ですが、よかったら最後までお付き合いくださいませ。

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