「お前を愛することはない」と言い放った婚約者は、実は私の同人誌の古参ファンでした。
その夜、私は「ロッセ、あんたたまには外に出なさい!」と母にチケットを握らされると共に蹴り出され、アルソマーレ劇場に観劇に訪れていた。
バーランド伯爵家の二女。特別期待されることもなく、それなりの躾けや教育を受けながらもなんだかんだ甘やかされて育った。
その結果、家で愛犬愛猫愛鳥たちと戯れ、気分が乗れば筆を執って彼らの絵を描き、もう少しで成人ということから時々持ち込まれる縁談も適当に躱す。それはもう、悠々自適な出不精生活を送っていた。
だがたまにこうして見兼ねた家族に外に追い出される。
ああ、人が多い。鬱陶しい。疲れた。早く帰りたい。
幼い頃から人混みというものがどうにも苦手だった私は、そんな大変ネガティブな気持ちで劇場に向かい、席につき、幕が開けたら。
すっかり魅入っていた。
舞台上で展開するは、王族に生まれたウルティアと、彼女によく似た顔を持つ孤児のメロー、二人の少女を巡る物語。
偶然の出会いから運命を感じ、ウルティアは家族に頼み、メローを養子に迎える。
二人は深い絆を育みながら共に成長したが、ウルティアの婚約者であるエリメがメローに恋をしてしまったことで状況が一変してしまう。
その後、なんやかんやあってエリメが国の存亡を揺るがす悪事に加担していることが判明したり、それを知ったらウルティアが傷つくだろうとメローが庇ったり、そのことでウルティアとメローが衝突してしまったり。
そして最終的には、メローはエリメを庇って致命傷を負う。それももちろん、恩人であり深い親愛を抱いているウルティアのためであり、最期に「そんな顔をしないで。君には笑顔が似合う。出会ったときに、見せてくれたような、あの笑顔が」と言い残して息を引き取った。
悪事は阻止し、数年後ウルティアは別の相手と婚約したが、その心にはずっとメローの姿があった……というハッピーエンドとは言い難い結末だった。
カーテンコールで、周囲の人々が涙を流し、拍手をする中、私は思わず呟いた。
「……ウルティアとメローがくっつけばよかったのに」
いや、いいよ? この展開もめちゃくちゃ面白かったよ? ビターエンドっていいよね、分かる。でも、でもさ、メローのウルティアに対するクソデカ感情すごかったじゃん? それをウルティア、気づかなかったなんて言わせないよ? てか、エリメにメローが恋をしてるって分かったときのあのシーン。あの顔。メローに対する嫉妬だけじゃなかったよね? 絶対、メローの魅力を一番最初に見つけたのも一番知ってるのも俺なのにぽっと出が……の類の嫉妬もあったよね? メローもメローなんだよなぁ。ウルティアへの献身欲が強すぎるあまりにその思いを押し殺してしまったり、勘違いをされて詰られても弁明できなかったりさ。もうなんて王道な自己犠牲健気っぷり。
あー、幸せになってほしい。してあげてほしい。ウルティアがメローの気持ちに気づき、溺愛し尽くすハピハピウルメロ同人誌が読みたい――。
そんなノンブレス思考をしてから、は、とする。
……同人誌?
自分の中からすんなりと出てきたその言葉に、ぽかんとしたその瞬間。
私は前世の記憶を取り戻したのだった――。
それから一年後の春――。
「新刊と既刊、それぞれ一冊ずつくださる?」
「最後尾はこちらですわ」
「前回出されていた本、本当に本当に素敵でしたわ。特に兎の耳が生えたメローが本っ当に可愛らしくって……!」
「ふふ、ありがとうございます。|動物耳が生えてしまう特殊設定、最高ですわよね」
私は〝仮面即売会〟で、首まで真っ赤に染めて必死に感想を口にしてくれる少女の握手に応じていた。
その目元は緑色の仮面で覆われていて、身分は定かではない。それでも、歓喜と熱意に満ちた色と、感情はしっかりと伝わってくる。
観劇をしたあの日、私は前世の記憶を思い出した。
いや、前世なのかいっそ来世なのかは分からない……この世界には黒電話すらまだ存在しないが、前の人生では世界のどこにいても誰とでも連絡を取ることが出来るスマホなるものが存在した。それ以外にも車だ飛行機だパソコンだなんだかんだと様々な便利な科学が発展していた。
そして科学と同じくらい、いや、ともすればそれ以上に発展していたのは、アニメや漫画、ゲームといった文化。そんな便利で豊かな世界で生まれ育った私は、特に同性同士の恋愛を描いた二次創作作品を愛していた。
自分で筆を執ることはなかったが、どれだけ仕事に追われても数カ月に一度の週末には必ず休みを取り、たっぷりと稼いだ資金を抱えて即売会に赴いては好きなジャンルのオンリーで推しカプの本をほくほくと胸に抱えて帰り、朝まで読み耽りときめきに浸る……という生活を送っていた。
――そんな読み専だった私が、まさか異世界転生して、同人誌だけでなく同人文化まで作ることになるとは。
現実は奇なりとはよく言ったものだと思う。
前世だったら溢れていただろうウルメロの同人誌。
しかし図書館を漁ってみても、演劇友の会なるものに参加しても、そういったものは見受けられなかった。いや、まぁ、薄々そんな気はしていたけれど……中世の西洋めいたこの世界では既存の作品から妄想を広げ形にする、二次創作や同人の文化がほとんどなかった。
それでも、どうしてもウルメロが幸せになる二次創作が見たかった私は「見たい幻覚があるのなら自分で筆を執れ」という、かつてあらゆる神絵師、神文字書きが唱えていた言葉に則り、ついに筆を握った。
前世では芸術の才能も文才も壊滅的だったが、今世ではそれなりに絵を嗜んでいる。
数日間夜なべをしてひたすら漫画を描き、そうしてついに一冊のウルメロ同人誌が誕生していた。
漫画を描くのは初めてだったがそれでも我ながらなかなかのクオリティではあったし、達成感もあった……が、なんだか物足りない。
この幻覚を共有したい。あわよくば、他の人の幻覚も読みたい……!
そこで私はある人に手紙を送った――というのも、この世界に二次創作文化はほとんどなかったが、図書館を漁っている最中に見つけたのだ。既存のオペラ、演劇、文学作品からインスピレーションを受けて自分ならではの世界に落とし込んだ小説を発表している小説家を。その人は、ウルティアとメローの戯曲は有名なものらしいからその人も原作を嗜んでいるかもしれない、と思い、駄目で元々で送り付けた。
拝啓、とある演劇を見てインスピレーションを受け作品をひとつ書き上げました。私の中では二次創作と呼ばれる行いでして、ウルティアとメロー(カップリング名称はウルメロです)をどうにか幸せにしたいという思いから書き上げ、近しい活動をしている先達である貴方様に云々、と。
今思えば、赤の他人に突然同人誌を送り付ける界隈で忌避され全人類からブロックされかねない激やば人間ムーブだった。だが、そのときの私は幻覚共有の欲求に囚われた化け物になっていた。
そして奇しくも、その手紙に返事が来た――それも、三十枚以上に渡る、感想と共感だった。そこから私たちの特異な交流がはじまり、あるとき、私はこんなことをしたためた。
『ところである国では、多くの者がこういった幻覚を本や装飾品といった形に起こし、売買や交換といった形で共有する催しがあるんですよ。かつて参加したことがあるのですが、とても楽しかったです』
返事の手紙はそれはもう荒ぶっていた。簡潔に表現するならば。
『は? 何それ? 最高すぎか? 私も参加したいんだが?』
といった具合で。
正直、幻覚を共有する仲間を一人でも得て、そして相手もウルメロの小説を書いてくれたりもしていたから、私は満足していた。
けれど、なるほど。ない文化なら私が起こせばいいのか、と閃いた。閃いてしまった。
前世の私は、深夜たまたまつけたチャンネルを見てハマったアニメ作品のイベントが翌日にあると知り早朝の新幹線を予約して向かうぐらいには、行動力のあるオタクだった。
故に、一度腹を決めると、今世のぐうたら令嬢っぷりはどこへやら、家の事業を手伝ってお小遣いを稼ぐ傍ら人脈を築き、知り合う老若男女様々な立場の方々の中から「お、こいつは前途有望だ」というものを見つけては二次創作文化を巧妙に布教してきた。
そしてある程度の参加数が見込めたところで、自分のお金でとある邸宅を買ってそのダンスホールで〝仮面同人誌即売会〟を催した。
世間知らずのぐうたら令嬢をしていたとはいえ、布教活動のために社交に繰り出すようになったし、前世ではそれなりに西洋風ファンタジーなるものを嗜んできたから分かる。
例えば、料理に関心を持っても男が台所に立つなどと窘められる侯爵がいたり。偶然に手にした弦楽器を極めたり人と楽しみたいが、平民間じゃそれを叶えることが難しい現実にうちひしがれたり。
貴族には貴族、平民には平民、立場ならではのしがらみによって、興味があってもやりたいことに手を伸ばせない人がいる。そして分不相応に手を伸ばすものをあざ笑う者もまた、いる。
そういったしがらみを少しでも取り払いたくて、前世の知識であった茶室文化や仮面舞踏会などを参考に、身分関係なく一人の人間として楽しんでほしいと思い、参加者は皆仮面をつけて参加する、〝仮面同人誌即売会〟通称〝仮面即売会〟さらに略して〝カメケット〟という形で催すことにした。
最初の〝夏カメケット〟は少人数での開催だったが、秋、冬と徐々に参加者が増えていき、今回の〝春カメケット〟は三十以上ものサークルが参加し、好きな作品を元にした同人誌やグッズを販売している。そしてそれらを買い求める人もざっと見たところ、百人近くは来場している。
そしてその誰もが、身分や立場を気にすることなく、楽しげに、あるいは興奮しながら、同人作品を売買もしくは交換したり、好きな作品の感想を分かち合ったりしている。
とても素敵な光景だ。
――我ながら一年でよくここまでこぎつけたなぁ。愛、恐るべし……でも、まだリリーには参加してもらえてないんだよね。
私の文通相手であり、最初の同人友だちであるリリーは、そこまで遠くには住んでいないようだが簡単に公に出られない立場にあるらしい。
参加したい、と言ってはくれてはいるし、イベントのたびに感想を送れば悔しげな羨望が返ってくる。立場も事情も分からない。住所だけは知っているけれど、さすがに家凸するわけにもいかない。親しき中にも礼儀ありだ。
――けれど、いつかは、リリーにもこの幸せ空間を楽しんでもらいたいな。
「あの、新刊一冊お願いしてもいいですか」
――あ、常連さんだ。
なんて思っているうちに、私のサークルの列はどんどん進んでいき、見馴染みのある仮面の男性が現れた。
いくら仮面をしていても、体格や声から性別くらいはどうしたって分かってしまうし、初回のカメケットから毎回通ってくれているような方は、どうしたって覚えてしまう。
それに、この人は仮面をしていても分かるほどに華やかな容姿をしていた。
背は高く、体格もよく、白銀の髪は新雪のように美しく、低い声はASMR作品を出してほしくなるくらいに心地いい響きを持っている。
――絶対イケメンだよな。絶対イケメンなんだけど……。
「ばっ、バラ先生、先に購入された方々から、今回の先生の新作が|原作展開後も実は生きていた設定《生存if》のお話という噂を聞いて、もう、本当に、とても楽しみで……。あっ、前作の感想をしたためた手紙を持ってきたので、よかったら……あっ、すみません、もたついてしまって」
「ありがとうございます、ゆっくりで大丈夫ですよ」
「っ、作品の筆致だけでなくお心もお優しい……」と呟いたその人は、やがて懐から大変分厚い手紙を取り出す。この人は毎回感想の手紙を用意してくれるが、その分厚さはリリーが送ってくれる手紙もかくやだ。
「つっ、拙いものですが、もしよろしければ! 暖炉の薪の足しにでもしていただけたら……! それでは……!」
大きく立派な身体を忙しく動かして、その人は去っていく。
――うーん、可愛い人だな。
まだ科学が発展途上のこの世界にも活版印刷はあるが、それでも商業的に作家をしているわけではない立場の者が簡単に手を出せるものではない。
それ故に、開催までの間、家業の合間合間を縫っては原稿をし、一冊完成したら、その写し本を自らの手で描き上げていた。やるたびに気が狂いそうになるが、こんなにも喜んでもらえるとドーパミンだかオキシトシンだかとにかくハッピーな成分がドパドパと出て頭の中では次の新刊の構想が育っていってしまう。
ついついにやつきながら、素敵なファンからいただいた手紙を大事に大事にしまう。
それから、また、列に並んでくれている次の方と向き合うのだった――。
「ふっほほ、今日もまた最高のウルメロ本がたくさん手に入ってしまった」
撤収も無事済んだ夜、邸に帰ってきた私は、今日買った大量の同人誌や概念雑貨をほくほくとベッドの上に広げた。
全部最高、どれから楽しもう。
丁寧な手仕事と愛情がたっぷりとつまったそれらを眺めていると、こん、こん、こんとノックされ、ドアが開いた。
「ロッセ、入るわよ」
「おおっ、お母様……」
私はそっと同人誌を背に隠す。概念雑貨はいい、同人誌も一応、全年齢物しかない。ないけど、それでも、同人誌を親に見られるのはさすがに恥ずかしい。
それを見た母がわずかに怪訝な顔をしながらも。
「貴女も年頃だものね」
等と言い出すから、余計に恥ずかしくなった。
「えっと、どうかなさいましたか」
「あなたとお茶をしたいと思ったの」
一刻も早く神本を読みたいのだが。
「日中に誘おうと思っていたのだけれど、あなた、どこかに出かけていたでしょう」
う。
「話しておきたいこともあるし。付き合ってくれるわよね?」
父にも兄姉にもたっぷりと甘やかされて育ってきた私ではあるが、その中でも母だけはたまに有無を言わさない行動に出ることがあった。
そうして私は半ば無理やり母の部屋に連行され、紅茶を飲むことになった。
このあと朝まで素晴らしき作品たちを嗜む身にカフェインを入れられるのはありがたいか。そう思っておくことにしよう。うん。と、ティーカップに口をつけたところで、母が切り出す。
「あなた、本当にすっかり立派になったわよね。一年前までは家に引きこもって遊んでばかりで、それはもう将来が心配な生活をしたというのに。今では家業を手伝い、外にも出るようになったんだもの。あの日、観劇に行かせて正解だったわ」
「それはもう本当に感謝してますお母様」
「ふふ、そこまで感謝されるとはね。フィナからもすっかり社交的になったと聞くし……そろそろ頃合いじゃないかと思うの」
嫌な流れだとは思っていたが。
「……あの、縁談とかなら、私も我ながら成長したとは思いますけど、まだ嫁入りできるほどではないと思うというか」
「それはそうだけれど、あなたは経験を経て成長する性質みたいだから」
「いや、そんなことは……」
「第三王子との縁談が来てるの」
「はぁ……ん? え? 第三王子?」
私はぽかんとしてから、そっと挙手する。
「あの、お母様。第三王子とかそういう立場の御方は、幼い頃から許嫁がいるものでは」
「……外に出るようになっても、世情には疎いままなのね」
母は呆れたようにため息を吐く。
「破談になったのよ。アレェーク侯爵家のご令嬢が許嫁だったのだけれど、不貞が露呈し奪爵となったのよ」
「それはまた……しょうもない」
「お口が悪いわよ」
きっと睨まれて、しゅっと肩をすぼめる。
「アレェーク家は奪爵。第三王子はお立場から……もともと少し気難しいお方なのもあって、他の貴族との縁談もことごとく断っている状況なの」
「お立場から?」
「あなた本当に何も知らないのね……まぁ、嫌でも知ることになるとは思うけれど」
いよいよ呆れた素振りさえしなくなった母が続ける。
「その中で、第三王子は唯一、あなたとの縁談なら受けてもいいと言ったの」
「第三王子ともあろう方がどうして私に」
「さぁ? それで、王家から熱心にお願いされて――すでに是の旨は伝えてあるわ」
「は?」
なんか今、しれっととんでもないことを。
「明日から貴女は嫁ぐ準備をしておいてね」
言われたような。
「こうでもしないと結婚しないでしょう? 自堕落から脱したついでに、結婚をして、早く私たちを安心させてちょうだいな。第三王子に見初められるなんてまたとない機会なのだから」
「い、いやいやいやいやいや、お母様! そりゃないですよ!」
――と言ったところで、拒否権なんてあるわけもなく。
認めがたい現実に抗うように私は一晩中原稿をして一作出来てしまって、寝不足のまま迎えた朝。感極まって泣く父と兄姉、満足げな母に見送られながら私は邸を発った。
やがて目的地に到着し馬車を降りた私は、目の前に聳える大きな邸を見上げる。
立派だし豪奢だがどこか寂れた雰囲気があるその邸は、街の辺境に位置していた。
これが第三王子の住まいらしいが……。
――どうして宮廷じゃなくて、こんなところに住んでるんだろう。
家族仲が悪いとか? いや、むしろ良すぎて距離を取ったタイプ? そういうあれ?
どれだけ考えたところで妄想に過ぎないし、演劇などにはときめいても、生の人間の色恋沙汰にはさほど燃えないタイプなので、ときめきは生まれない。
社交に出るようにはなったものの、王族に関してそこまで関心がなく、そこら辺の情報に注意もしていなかった。
「ま、会って話せば分かるか……」
私に興味があるらしい理由も。
逃げ道がないのならば進むしかない。そしてその中で、私は死守しなくてはいけない。家から持ってきた大量の同人グッズと、これからも同人活動を行っていく生活だけは。
――望むのなら家業でもなんでも手伝います、家事もします、ですが趣味にだけは口出ししないでください。
用意してきた文言を胸で何度か唱えて、それから。
私の大量の荷物を抱えた使用人たちがそろそろ可哀想になってきたのもあり、意を決して、第三王子の側近だという男に導かれるまま、門を潜り、邸の中に入る。
そうして使用人は先に私の部屋となる場所へ。
私は一人で、客間へと通されると、そこには、一人の男性が立っていた。
「遠路はるばる、ご苦労だった」
ちっともご苦労と思っていなさそうな不遜な口ぶりでそういう男性は、一言で言うなれば、美しかった。
背は高く、体格もよく、白銀の髪は新雪のように美しく、低い声はASMR作品を出してほしくなるくらいに心地いい響きを持っていて、目鼻立ちは芸術作品の如く整っている――ん?
「あ、えっと……ごきげんよう。ロッセ・バーランドと申します」
「知っている。俺はヴァリー・グラッテだ……お前は、リリーという者を知っているな?」
「え? はい、知っていますが……」
まさか、ここで文通相手の名前が出てくるとは思わなくてぽかんとしていると、ヴァリーはため息を吐く。
「あれは俺の友人でもある。その友人の強い勧めがあり、仕方なく、この縁談を受けることにしたが」
氷塊の冷たい眼差しが、私をまっすぐに見据える――いや、見ていない。その瞳は、私の方を向いているだけで、誰のことも見ていないようだった。
「ロッセ・バーランド。俺がお前を愛することはない。お前の周りのことは使用人にやらせる。好きに過ごしてくれて構わないが、俺には必要以上に関わってくれるな」
おお、なんと、ベタな。
でも、好きに過ごしてくれて構わないという言質は取れたからラッキーなのか?
いや、でも、それより、それよりも。
喉元まで出かかっている疑問があった。だが、自分がその仕組みを作った手前、踏み込むべきではないことも分かっていた。
「わ、分かりました。それでは、私はお部屋に向かわせていただきます」
「……何か言うことはないのか」
さすがにあっさり引き下がりすぎたせいか、ヴァリーは怪訝に言う。
――聞きたいことならあるけども!
「……いえ、そうですね。もし私に至らないところがあったらなんなりと仰ってください」
そうお辞儀をしたとき、私の髪からはらりと落ちるものがあった。
それは、小さな紙片だった。
なんだこれ、と思わず拾い上げると、それはトーンだった――勿論、この世界にトーンなどはないため、別紙に柄を書いて必要に応じて切り貼りしているのだが――。
「……それは」
「あ、えっと、すみません、身だしなみが至らず――」
「それは、バラ先生のトーン」
ヴァリーが呆然とした様子で言う。
「バラ先生が使ったことで他の作家も活用するようになった作画技法だが、その柄、その繊細さのトーンを使っているのはバラ先生だけ……」
呆然としたヴァリーが私を見る――先まで氷塊のように冷えきっていた瞳が私を見る。
今度はその瞳にたしかに、私の姿が映っていた。
向こうからその話題を出されてしまっては、私も喉元まで出かかっていた言葉を口にせざるを得なかった。
「えっと……夏カメケットからずっと参加してくれていて、毎回分厚い感想をしたためてくれている、白雪さん、ですよね?」
「……!」
男は息を飲む。ハンドルネームを指摘されて羞恥心に襲われたのかと思ったが――。
「か」
「か?」
「バラ先生は実在した」
ヴァリーはそのまま、胸をおさえて頽れた。
そういえば、と私は思い出す。かつてリリーからの手紙で聞いた話だ。普段は好きな作品の妄想話が大半の中で、珍しくリリーが友人の話をしたことがあった。
『私には、少し……いや、だいぶ不器用な友人がいるんだ。目立つ容姿と立場から幾度となく周囲に振り回され、傷つけられるうちに人間不信になってしまってね。それゆえに人一倍物語の類を愛好し、ともすれば依存している友人なのだけれど。あるとき、〝バラ先生〟が私に最初に送ってくれた作品を見せたら、その友人は感動し涙まで流していたよ。自分もウルティアとメローのこんな展開を見てみたかった、それをこんなにも完璧に具現化してくれる者がいるとはって。きっとロッセと話が合うと思うから、いつか紹介してあげたいな』
もしかして、その友人が彼だったのだろうか。
まさか強制的に嫁がされることになった「お前のことは愛さない」系夫が、私の初期作品まで読んでいる大ファンだなんて思わなかったけれど。
「……昨夜、ちょうど、ウルメロの新作漫画が出来たんですけど、読みますか?」
「読みます」
何度死んでも蘇る不死鳥のように身体を起こしたヴァリーは、私の手をぎゅっと握ると、仮面を挟まない麗しい面立ちときらきらした瞳で私を見つめた。
それを見て私は、うーんやっぱり可愛い人だな。この結婚生活、結構上手くいくかもしれない、と思うなどしたのだった。




