潮位は、戻らない
◇
人生において、決定的な破局というものは、常に静寂を伴って訪れるものらしい。
衝撃は、拍子抜けするほどに鈍く、そしてあっけなかった。
ガガ、という、濡れた重い砂利の上を巨大なゴムベラでこするような音がして、私が座っていたプラスチック製のベンチがわずかに震えた。窓の外では、瀬戸内の穏やかな海面が、陽光を反射して相変わらずキラキラと輝いている。観光用の小型フェリー『あけぼの丸』の船体は、ほんの数度だけ右に傾き、そのまま止まった。
私は、手元に広げていた資料を膝の上で整えた。地方都市の建設会社、その総務事務という、地味だが確実な仕事。今回の有給休暇も、溜まった振替休日を消化するために、会社のカレンダーと睨めっこして決めたものだ。
「おっと……」
隣の席に座っていた、ベージュのサファリハットを被った初老の男性が、手すりを掴みながら苦笑いをした。
「座礁かな。このあたりは浅瀬が多いって聞くしね。船長さんも、慣れてるはずなんだが」
「みたいですね。まあ、これだけ天気が良ければ、すぐに助けも来るでしょう」
私は、事務職らしい落ち着き払った声で返した。焦燥感も恐怖も、私の辞書にはなかった。
私は三十九歳になるまで、この「大丈夫だろう」という確信を燃料にして生きてきた。受験、就職、結婚(そして離婚)、昇進の停滞。どんな出来事も、組織や社会が用意したレールの上で、最後には帳尻が合うようにできている。世界とは、巨大な、そして極めて優秀な「事務処理システム」なのだと信じていた。
エンジンが止まった。
船内を支配していた低い重低音が消え去ると、代わりに聞こえてきたのは、遠くで鳴く海鳥の声と、波が船体を洗うチャプチャプという、あまりにも平和な音だった。
「お客様にお知らせいたします」
スピーカーから、少し上ずった若い船員の声が流れる。
「現在、本船は海図にない岩礁に接触し、航行不能となっております。浸水の心配はございませんが、安全のため、すぐ目の前の島へ一時避難していただきます。救助の船はすでに手配しておりますので、どうぞ、ご安心ください。繰り返します……」
客室に、安堵の溜息と、少しの興奮が混じったざわめきが広がった。
乗客はわずか十五名ほど。平日の昼下がり、ガイドブックの隅にしか載っていないような無名の孤島を巡る、マイナーな観光ルートを選んだ物好きたち。私もその一人だった。
島には名前があったはずだが、思い出せない。ただの岩場と低木、そして崩れかけた木造の桟橋があるだけの、地図上の点のような場所だ。
夜明け前、まだ空が濃い藍色を保っている時間帯に、私たちは島へと移された。潮が満ち始め、船体がわずかに浮き上がった隙に、救命ボートを使ってのピストン輸送が行われた。
足元は滑りやすく、私はスーツケースではなく、背負い慣れたビジネスリュックを選んだ自分を褒めた。中には仕事の資料、一泊分の着替え、予備のバッテリー、そして三本のペットボトル飲料が入っている。
「救助は、そうだな、昼には来るだろう」
誰かが岩場に腰を下ろしながら言った。
「スマホの電波は入りにくいが、船の無線は生きてる。海上保安庁も動いてるはずだ」
「せっかくだから、ピクニック気分で待ちましょう。こんなことでもなきゃ、こんな島、来られませんもの」
二十代後半だろうか、若いカップルがカメラを構えて、座礁したフェリーを背景に自撮りをしている。
私は、崩れかけた桟橋から少し離れた、平坦な岩の上に腰を下ろした。
足元には、透明度の高い海が広がっていた。波打ち際が岩を洗い、白い飛沫を上げる。潮の香りが鼻をくすぐり、少し冷たい夜風が頬を撫でる。
海は、間違いなくそこにあった。
水平線は緩やかな弧を描き、空との境界線を明確に示している。私が生まれてから今日まで、一度も疑ったことのない、地球という惑星の「背景」として。
私はリュックから一本目のペットボトルを取り出し、少しだけ口に含んだ。冷たい水が喉を通り、胃に落ちる感触。
「……少し、引くのが早いな」
ふと、隣で海を見つめていた船員が呟いた。名は山根といったか。二十代前半の、まだ頼りなげな青年だ。
私は腕時計を見た。午前六時十五分。
「干潮の時間ですか?」
「ええ、計算ではそのはずですが……。でも、この引き方は少し、極端すぎる」
山根は帽子を脱ぎ、額の汗を拭った。日の出が近づき、東の空が白み始めている。雲一つない、絶好の救助日和だ。
「まあ、潮流ってのは複雑ですからね。素人が心配しても始まらない。事務的に待ちましょう」
私はそう言って、軽く笑った。
それが、私の人生における最後から二番目の「正しい判断」だった。
◇
浅い眠りから引き戻されたのは、日差しの強さのせいだった。
首筋がじりじりと焼けるような感覚。私は腕にかぶせていたジャケットをどけ、重い瞼を開けた。
太陽はすでに中天に近く、空は真っ青に抜けている。周りでは、他の乗客たちが所在なげに歩き回ったり、唯一の人工物である錆びついたトタン屋根の非常用倉庫の陰に身を寄せたりしている。
「佐藤さん、起きましたか」
声をかけてきたのは、船内で隣だったあの老人、田中さんだった。
「救助、まだ来ないみたいですね。それどころか……」
「まだですか。まあ、海上保安庁も忙しいんでしょう。書類一枚通すのにも時間がかかるのが世の常ですから」
私は肩を回しながら立ち上がり、ふと、視界の違和感に気づいて凍りついた。
「……え?」
「気づきましたか。妙なんですよ。いや、妙どころじゃない」
田中さんが指差した先。
数時間前まで、波が打ち寄せていたはずの岩場。そこは今、広大な「陸」に変わっていた。
干潮。そんな言葉で片付けられる規模ではない。
海面は、かつての波打ち際から、優に百メートルは後退していた。
そこにあるのは、瑞々しい砂浜ではない。濡れた黒い岩肌、茶色く変色した海藻の塊、そして逃げ遅れた小さなカニや小魚たちが、水たまりさえ失った窪みでピチピチと跳ねている「剥き出しの底」だった。
何より異様なのは、座礁した『あけぼの丸』の姿だった。
船体は完全に露出していた。本来なら水面下にあるはずの、フジツボの付着した赤茶色の船底が、無防備に日光に晒されている。スクリューは、泥を噛んだまま、奇妙なオブジェのように虚空を向いて静止していた。船の周囲には、水の一滴さえ残っていない。
「あんなところまで水が引くなんて、この辺りはよほど遠浅なんですね」
若い男が、半信半疑といった様子でスマホのカメラを向けている。
「おい、見てみろよ。あんな深いところの岩まで見えてるぞ」
「干潮の異常値かな。ネットで調べられないかな……ああ、やっぱり圏外だ」
私はリュックからスマホを取り出した。アンテナは一本も立っていない。
事務職としての私の脳が、急速に状況を整理しようと回転を始める。
一、現在、異常な低潮位が発生している。
二、その原因は不明だが、救助船の接近を妨げている可能性がある。
三、この島に留まるよりも、より高い場所、あるいは電波の入りやすい島の反対側へ移動した方が、情報が得られるのではないか。
「田中さん、少し歩いてきます」
「歩く? どこへ」
「島の反対側です。潮がこれだけ引いているのなら、歩いて渡れる場所も増えているはずだ。高台に行けば、電波を拾えるかもしれません」
「なるほど。それは一理ある。気をつけてくださいよ。潮が満ちてきたら、一気に戻ってきますからね」
「分かっています。潮汐表くらい、昔の趣味で見たことがありますから」
私は嘘をついた。潮汐表など、人生で一度も見たことはない。だが、その場の空気を支配していた「不安」を、論理的な理由で塗りつぶしたかったのだ。
歩き出した私の足元で、乾いた音を立てて砂利が鳴る。
かつて海中だった場所へ足を踏み入れる。そこは、死の匂いがした。
潮の香りとは違う、もっと生々しい、タンパク質が日光に焼かれる匂いだ。
足元の砂は湿り気を帯びていたが、一歩踏み出すごとに、じわりと水分が逃げていくのが分かる。まるで地面が、巨大なスポンジのように水分を吸い込んでいるかのようだった。
振り返ると、非常用倉庫の前で屯している人々が、どんどん小さくなっていく。
彼らはまだ、自分たちの置かれた状況を「不運な遅延」だと信じている。あるいは、信じようとしている。私もまた、そうだった。
しかし、私の歩を進めるごとに、違和感は確信へと変わっていく。
耳を澄ませた。
波の音が、聞こえない。
通常、どれほど潮が引こうとも、遠くで寄せては返す波の響きが聞こえるはずだ。だが、今のこの場所を支配しているのは、完全なる静寂だった。
風さえも、止んでいた。
空の青さはますます深まり、不自然なほど透き通っている。
「……おかしい」
私は立ち止まり、腕時計と周囲の景色を交互に見た。
一分間に数センチ。
いや、一秒ごとに数ミリ。
海面は、私の視線が追いつかないほどの速度で、なおも後退を続けていた。
それは「潮が引く」という現象ではない。
水そのものが、この場所から、この世界から、退場を命じられたかのように消えていっている。
◇
島の北側に回り込むまでに、一時間を要した。
そこで私を待っていたのは、絶望という言葉すら生ぬるい、世界の変貌だった。
「なんだ、これは……」
かつてそこには、瀬戸内の島々を繋ぐ藍色の海が広がっていたはずだ。
だが、私の目の前にあるのは、どこまでも続く「灰色の荒野」だった。
水平線は、遥か彼方に、銀色の細い線となって辛うじて残っているだけだ。
かつて海底だった場所が、なだらかな起伏を伴って露出している。巨大な岩礁、沈没した小舟の残骸、堆積した泥。それらがすべて、白日の下に晒されていた。
それはまるで、地球という生き物が、その表面を覆っていた潤いをすべて奪われ、ミイラ化していく過程を見せられているようだった。
私は崖を降り、その「新天地」へと足を踏み入れた。
そこには、命の尊厳など微塵もなかった。
足元に転がっている魚の死骸を見つけた。体長三十センチほどの、立派な鯛だ。
しかし、その姿は異様だった。
水がないから死んだ、のではない。
魚の体は、内側から弾けたように裂けていた。鱗はバラバラに剥がれ、筋肉の繊維が、まるで見えない力で引きちぎられたかのように露出している。
腐敗しているのではない。むしろ、新鮮なまま、その「形」を維持できなくなっているのだ。
私は恐怖に震えながら、リュックから一本のペットボトルを取り出した。
まだ封を開けていない、新品の水だ。
透明な液体が、プラスチックの容器の中で揺れている。それを見た瞬間、私は猛烈な喉の渇きを覚えた。
キャップを捻ろうとした、その時だ。
手に伝わる感覚に、心臓が跳ねた。
重みが、消えたのだ。
「なっ……」
ペットボトルの中身が、瞬時にして消滅した。
蒸発したのではない。穴が開いて漏れたのでもない。
私の目の前で、水という物質が、その空間から「消去」されたのだ。
密閉されていたはずのボトルの中には、今はただ、乾いた空気だけが満ちている。
私は狂ったように他の二本も確認した。
一本は空だった。
もう一本には、底の方にわずか数ミリ、ドロリとした粘液のようなものが残っていた。それはもう、水とは呼べない、何らかの有機物の残骸のようだった。
「ひっ、……あ、あああ」
私はペットボトルを放り出した。
理解した。いや、理解したくはなかった。
この現象は、天変地異ではない。
「世界の設定」が書き換えられているのだ。
水という物質が、地球上に存在するための条件。
水素と酸素の結合、その密度、その物理的性質。
それらを支えていた宇宙の基本定数が、今、この瞬間、私の足元から順番に「無効化」されている。
キーン、という高い金属音が、耳の奥で鳴り始めた。
耳鳴りではない。空間そのものが悲鳴を上げている。
私は必死に、島の方へと戻ろうとした。
だが、歩いても、歩いても、距離が縮まらない。
いや、島が遠ざかっているのだ。
海が消えたことで、海底だった場所が露出するだけでなく、空間そのものが引き伸ばされている。
数学の教科書に載っている、ゴム板の上に描かれた格子模様が、外側に向かってグイグイと引っ張られているような、そんな光景。
「助けて、 誰か!」
私は叫んだ。
だが、自分の声が、口を出た瞬間に掠れて消えるのを感じた。
空気が、乾燥しきっている。
肺の中の水分が、呼吸をするごとに奪われていく。
喉が、張り付いたように痛む。
足元を見た。
私の靴跡が残っている。
だが、その靴跡の形が、じわじわと崩れていく。
砂が、さらさらとした塵に変わっていく。
水分という「接着剤」を失った物質は、もはやその形状を保つことができない。
地鳴りがした。
ドクン、という、一定の間隔を置いた低い振動。
それは地球の鼓動のように聞こえたが、私には、カウントダウンの音にしか思えなかった。
一回振動するたびに、視界の端がわずかに歪む。
光の屈折率が変わっているのだ。
虹色に輝くはずの空気は、今や、濁ったガラスのように景色を歪ませている。
◇
ようやく島の入り口、あの非常用倉庫が見える場所まで辿り着いた時、私は自分の目を疑った。
そこには、地獄を乾燥させたような光景が広がっていた。
「……ぁ、……ぁ」
倉庫の周りに集まっていた乗客たちは、もはや人間としての形を失いかけていた。
若いカップルは、互いに抱き合ったまま、地面に倒れ伏している。
彼らの肌は、まるで数百年前に発掘されたミイラのように茶色く変色し、骨の輪郭を露骨に浮かび上がらせていた。
衣服だけが、不自然に瑞々しい色を保っているのが、かえって残酷だった。
「佐藤……さん……」
掠れた声が聞こえた。
倉庫の影に座り込んでいた、田中さんだった。
彼の眼鏡は割れ、その奥にある瞳は、水分を失って濁った水晶のようになっていた。
「水が……水が、なくなった……。体の中のものが、全部、吸い出されていく……」
「田中さん! しっかりしてください! 今、助けを……」
助けなど、来るはずがない。
海上保安庁も、自衛隊も、この地球上のどこに住む人々も、今、私と同じ恐怖の中にいるはずだ。
コップの中の水が消え、湖が干上がり、大河が砂の道に変わる。
蛇口を捻っても、出てくるのは死の沈黙だけ。
人間が、どれほど文明を築こうとも、その根幹は「水」という脆弱な物質に依存していたのだ。
私は田中さんの手を取ろうとした。
その瞬間、彼の腕が、ポロリと崩れた。
「……え?」
痛みを感じる神経さえ、すでに死んでいたのだろう。
田中さんは、自分の腕が砂となって地面にこぼれ落ちるのを、ぼんやりと眺めていた。
「ああ……、潮が、引いていく……。全部、元に戻るんだ……」
それが、彼の最期の言葉だった。
田中さんの体は、そこから数分のうちに、完全に崩壊した。
皮膚が剥がれ、筋肉が塵となり、最後に残った白い骨までもが、不自然な速さで風化し、砂の中に溶けていった。
私は、自分自身の体を見た。
指先が、白くなっている。
感覚がない。
爪が、音もなく剥がれ落ちた。
私は、事務職として培ってきた「冷静さ」を、最後の防波堤として使い果たそうとした。
現在の状況を、脳内のスプレッドシートに書き込んでいく。
・水(H2O)の消失。
・生命維持の不可能。
・物質の結合エネルギーの減退。
・結論:世界終了。
「ふっ……、ふふふ」
笑い声が漏れた。
笑うための筋肉が動くたびに、頬の皮膚がピリピリと裂ける音がする。
私は、自分が持っていたビジネスリュックを開けた。
中には、重要だと信じていた書類が詰まっている。
来月の予算案。社員の勤務表。備品の発注書。
「全部、ゴミだ」
私は書類を空中にぶちまけた。
紙は、風もないのに空中で静止し、そのまま細かな灰となって消えた。
この世界を規定していたすべての契約、すべての約束、すべての価値観は、水という前提を失った瞬間に、その法的根拠を失ったのだ。
私は、座礁した『あけぼの丸』の方を見た。
あの船は、私たちの希望だった。
海という路を走るための道具。
だが今、海が消えたことで、それはただの「鉄の塊」に成り下がっていた。
重力だけが、その場所を支配している。
不意に、船体が真ん中から折れた。
ギィィィィン、という、脳を直接掻き毟るような音が響き、巨大な鉄の構造物が、自らの重みに耐えかねて崩壊していく。
鉄錆の煙が舞い、それが再び地面に落ちる頃には、そこには船だった形跡さえ残っていなかった。
◇
夜が来た。
だが、それは暗闇ではなかった。
空には、見たこともないような不気味な光が満ちていた。
星はすべて、細長く引き伸ばされ、奇妙な幾何学模様を描いている。
大気中の水分が消えたことで、光の散乱が止まり、宇宙の深淵がそのまま剥き出しになっていた。
私は、崩れかけた桟橋の支柱だった、ただの切り株のようなものに背を預けていた。
いや、預けているのか、それとも地面と一体化しているのか、もう自分でも分からない。
足の感覚は、膝から下ですでに消失している。
視界は、右半分が真っ暗になり、左半分だけで辛うじて外の世界を捉えていた。
「昨日より、潮位が低い……」
私は、その事実だけを、壊れた蓄音機のように頭の中で繰り返していた。
それが、私がこの世界を認識するための、唯一の、そして最後の指標だった。
振り返れば、私の人生は「潮位」を測るようなものだった。
貯金額、有給休暇の残り、健康診断の結果、上司の機嫌。
それらの数値を一定に保つこと。
異常があれば調整し、平穏な「水準」に戻すこと。
それが生きることだと信じて疑わなかった。
だが、戻らなかった。
一度失われたものは、二度と、元の場所には戻らない。
ふと、地面に何かが落ちているのが見えた。
それは、私のスマホだった。
液晶画面は割れ、中から電子部品が覗いている。
驚いたことに、その画面が、微かに明滅していた。
私は残った左手で、這うようにしてスマホに触れた。
画面には、一通の未送信メールが表示されていた。
内容は、今回の旅行について。
『たまには、静かな場所で自分を見つめ直そうと思う。落ち着いたら、一度会えないかな』
事務職らしい、あまりにも味気ない、保身に満ちた文章。
私はそれを消去しようとしたが、指が動かなかった。
画面の明滅が、徐々に激しくなる。
そして、スマホ自体が、内側から溶け始めるのが分かった。
プラスチックも、シリコンも、レアメタルも。
それらを構成する原子の結びつきが、緩んでいく。
「ああ……、そうか」
私は、悟った。
消えているのは、水だけではない。
「物質」という概念そのものが、その有効期限を終えようとしているのだ。
水という、あまりにも身近で、あまりにも万能だった溶媒。
それが消えたのは、始まりに過ぎなかった。
生命を繋ぎ、化学反応を助け、気候を安定させていた「水」という奇跡。
その奇跡が取り消された後に残るのは、結合を失った、冷たい粒子の集まりだけだ。
私は空を見上げた。
天の川があった場所には、巨大な「裂け目」が走っていた。
宇宙そのものが、水分を失って乾燥し、ひび割れている。
そこから漏れ出しているのは、光ではなく、完全なる無だった。
不意に、音が聞こえた。
ポツン。
私の、唯一残った左目から、一滴の涙がこぼれ落ちた。
それは、この世界に最後に残された、本物の「水」だった。
その雫が、私の頬を伝い、砂の地面に触れた。
地面は、その恵みを受け入れることも、吸い込むこともできなかった。
水滴は、地面に落ちた瞬間に、小さな結晶となって弾け、消えた。
私の視界が、急速に暗転していく。
思考が、断片化していく。
最後に感じたのは、猛烈な渇きではなかった。
それは、圧倒的な「静寂」だった。
波の音もしない。
風の音もしない。
人々の悲鳴もしない。
ただ、地球という名の巨大な岩石が、その体温を失い、宇宙の深淵へと静かに、沈んでいく気配だけ。
「潮位は、……もう……」
私は言葉を完結させることができなかった。
私の口が、私の喉が、私の脳が。
さらさらと、乾いた砂となって、虚空へと散っていったからだ。
後には、名前を覚えられない島も、座礁したフェリーも、十五人の乗客も、何も残らなかった。
ただ、かつてそこに「水」という名の信頼があったことの記憶だけが、誰もいない宇宙の片隅に、一瞬の残像として刻まれた。
そしてそれさえも、次の瞬間には、永遠に、戻らない。
◇
意識の消失の直前、私は、自分の人生の「事務処理」を終えようとしていた。
記憶のファイルが、次々とシュレッダーにかけられていく。
幼い頃に見た、夕立の後の水たまり。
中学校のプールで嗅いだ、鼻をつく塩素の匂い。
初めての給料で買った、冷えたビールの最初の一口。
それらはすべて、水という媒体を通じた「幸福」の断片だった。
人間は、幸福を心で感じると思っていたが、それは間違いだった。
人間は、幸福を「水」で感じていたのだ。
水が媒介する熱、水が媒介する味、水が媒介する感触。
それらが失われたとき、心という機能もまた、演算を停止する。
私の意識は、今や、広大な砂漠を漂う一粒の砂に等しかった。
ふと、遠くの方で、何かが動いたような気がした。
いや、それは「動き」ではない。
「揺らぎ」だった。
かつて海だった、あの灰色の荒野の向こう側。
銀色の細い線となって消えかけていた水平線の、さらにその先から。
何かが、迫ってきている。
それは波ではなかった。
それは水ではなかった。
それは、真っ白な「壁」だった。
音もなく、重力さえも書き換えながら、その壁はすべてを平らにならしていく。
島も、岩場も、かつて人間だった砂の山も。
壁が通り過ぎた後には、存在の痕跡すら残らない。
完全なる空白。
キャンバスを塗り潰す、真っ白なペンキ。
「……ああ、これが『救助』か」
私は、最後の一片となった思考でそう理解した。
世界が壊れたのではない。
世界というプロジェクトが、中止になったのだ。
私たちは、ただのデバッグ段階のデータに過ぎず、今、サーバー自体がフォーマットされようとしている。
「大丈夫だろう」
私は、その言葉を、本当の意味で受け入れた。
もう、何の問題もない。
比較すべき数値も、維持すべき水準も、戻すべき潮位もない。
真っ白な壁が、私のすぐ目の前まで迫った。
それは、とても冷たく、そして不思議なほどに……懐かしい匂いがした。
(完)




