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作者: ごはん

第1章 星空の砂漠

 噂は、校舎の隅々をまるで微細な霧のように覆い尽くした。


 誰もその発端を覚えていない。

 だが確かに、廊下や教室の片隅で、密やかに囁かれ、繰り返されていた。


 「星空の砂漠」──それは単なる絵の名ではなく、漆黒の夜空に無数の星が零れ落ち、白銀の砂丘が永遠に広がるという、曖昧で謎めいた呼称だった。


 僕は噂に耳を貸さなかった。

 いや、正確には耳を塞いでいた。

絵など所詮は色彩の戯れに過ぎず、そこに宿る意味など存在しないと信じ込もうとしていた。


 昼下がりの廊下、ひそひそと語り合う声の断片が風に乗る。


「踊り場のあの場所に、飾られているらしい」

「誰かが言うには、ただならぬ気配が漂っているとか」

「立ち止まると、なにかが変わるらしい」


 僕は視線を落とした。

 それらの言葉はただの幻想にすぎず、愚かな者たちの妄執であると、必死に自分を納得させた。


 放課後、僕はその場所へ足を運んだ。踊り場は、風もなく静まり返っていた。


 そこに在った。


 額縁は時の流れに浸食され、金色の縁取りは鈍く光を失い、古色蒼然とした佇まいを見せていた。

 だが絵そのものは、明晰で、冷たく、そして確固たる存在感を放っていた。


 深淵のような紺碧の空。

 瞬く星々は凛とした刹那の煌めきであり、砂丘は硝子を砕いたかのような白銀の海原を成していた。


 言葉が絶えた。

 そこに流れるのは純然たる静謐。


 僕は言葉を失い、しかしその心に届くものは何もなかった。


 「ただの絵だ」


 呟く声は、あまりにも乾いていて、僕自身の耳にさえ遠かった。


 振り返らずに立ち去る。

 だが、わずかな疼きが、胸の奥底で確かに生まれていたことに気づいた。


第2章 微かな変容

 変化は、声より先に静けさに宿った。


 ある日を境に、教室の空気はかすかに、けれど確実に湿度を変えた。言葉にすれば平凡なやりとりが、妙にゆっくりと、慎重に交わされているように見えた。

 笑い声が小さくなったわけではない。けれどその輪郭が、微かに違っていた。


 何かが起きている。あるいはもう、終わっているのかもしれない。だが僕にはよく分からない。

 でも、そんな予感だけが、机の並びの隙間に、こっそりとしみ出していた。


 気づかないふりをしていた者。

 はしゃいで混ざろうとする者。

 逆に、距離を置くようになった者。


 それぞれが、それぞれの仕方で変化に対処していた。

 そしてそのすべてが、まるで以前から決まっていたかのような自然さで進行していた。


 誰も何も説明しない。

 ただ日々のふりをしながら、ほんのわずかに“昨日と違う”まま、積み重なっていく。


 例えば、語尾に一拍の迷いが乗るようになった誰か。

 あるいは、呼吸の音を殺すように歩くようになった誰か。

 些細な仕草が、沈黙のまま別人のように変わっていく。


 それはまるで、水に溶けていくインクのようだった。

 誰かが、変わっていく。

 その事実だけが、廊下の光と一緒に、教室をゆっくりと揺らしていた。


 僕は、まだ変わらないままでいた。というより、変わっていくことを“誰かの話”として見ていた。


第3章 純色の焦燥

 日々は、まるで漆黒の水底をゆっくりと沈みゆくように、静かに、しかし容赦なく僕を追い詰めていった。


 誰も気づかぬまま、あの絵が持つ不確かな力は、周囲の人間の輪郭を少しずつ曖昧にし、彼らを変貌させていった。だが、僕の心だけは、鈍色に濁ったままで、そこにあるはずの輝きや温度は失われてしまったかのように感じられた。


 教室での雑談の隙間に聞こえる声が、ふいに僕の名を呼びかけるようで、振り返ってみれば誰もいない。廊下ですれ違う人々の視線が、どこか刺すようで、けれど決して正面を向いてくれない。


 そのたびに僕は胸の奥を抉られるような、抑えがたい孤独を覚え、重い空気の中で自らの存在が薄れていくのを感じた。まるで僕だけが取り残され、時間の流れに逆らっているような錯覚に囚われた。


 「ああ、お前だけは変わらないんだな」──そんな冷たい囁きが、無意識のうちに僕の耳元に響いては消えた。だが振り返ってもそこにあるのは虚空で、誰一人として、その言葉を口にしている者はいなかった。


 僕はあの絵の前に立つことを避けていた。足が震え、喉が渇き、心の底から逃げ出したかった。もし、そこで変わることができなければ、変わらなければ、その瞬間からすべてを失うことになるのだと恐れていた。


 無意味に拳を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みに耐えながら、僕はひそかに誓った。誰にも見せることのないその決意を、胸の奥深くに沈めて。


「変わらなければ、消えてしまう」


 その言葉は痛みと共に胸を焦がし、まるで冷たい火種のように静かに燃え広がった。

 僕は、もう逃げられなかった。


第4章 目撃

その日、空は薄曇りで、光も音も何かに覆われたように鈍っていた。

 僕は教室の窓際に立ったまま、空を見上げていたが、そこに浮かぶ雲のかたちは、まるで意味を持っていないように思えた。


 教室の背後で、誰かが小さく囁くのが聞こえた。

「……あの絵に入ったって」

「嘘じゃないって。だって、あいつ……」


 声はすぐに笑い混じりに消えた。だが、その言葉の余韻だけが、どこかで鈍く響き続けていた。


 放課後、階段の踊り場を通ったとき、それを見た。


 田上だった。

 以前は大声で教室を引っかき回していた彼が、今は一人、手すりに寄りかかりながら、何かを静かに見つめていた。


 僕は足音を忍ばせて近づいた。

 田上は振り返らなかった。けれど、その表情は、僕の知る彼のものではなかった。

 重心の置き方、呼吸の浅さ、指先の落ち着き。

 すべてが、少しずつ違っていた。


 「あのさ、田上」

 声をかけると、彼はゆっくりと振り向き、目を細めた。


「芹沢か」

 それだけを言い、また正面を向いた。


 沈黙が流れた。

 僕はその間に、変わってしまった何かを観察することしかできなかった。

 沈黙の輪郭が徐々に言葉になり、やがて彼がぽつりと漏らした。


「なんかさ……世界って、ずっとこのままだと思ってたんだけどさ。

 あれを見てから、いや、入ってから……ちょっとだけ、変わったかもしれない」


 声の質が、以前と違っていた。

 無理に言葉を繋がず、詰まることもなく、風のようにゆるやかだった。


 「どこが?」と僕は訊いた。

 彼は少しだけ、笑った。


「自分でもよくわからない。でも、前の自分が嘘くさく思えるってことは……変わったんだろうな」


 その言葉は、冷たい水のように僕の胸を打った。


 「俺も、見に行ってみようかな」

 そう言うと、田上は「ふーん」と言って、少しだけ僕の方を見た。

 その視線には、期待でも失望でもない、何かもっと遠いものが滲んでいた。


 踊り場の奥に、例の絵が静かに掛けられていた。

 漆黒の空、白銀の砂、永遠に沈黙する星たち。

 その風景は、何も語らなかった。けれど、そこには“戻れなさ”の気配だけが、確かにあった。


 僕は、その場に立ち尽くした。

 何も触れず、何も起きなかった。


 でも確かに、目撃した。

 変化というものの存在を、僕は初めて“外側から”知った。


第5章 拒絶の正体

 なぜ自分だけ、入れないのか。

 この問いは、最初は好奇心の影のようなものでしかなかった。

 けれど今では、問いというより呪いだった。答えが出るまで、眠ることすら許されない類の、静かな脅迫だった。


 僕は絵を前にして何度も立ち尽くした。そのたびに、何も起こらなかった。

 ただの絵だった。

 砂漠の星空は沈黙のまま、僕を拒んでいた。


 ──と、ずっと思っていた。


 だが、田上の言葉が、胸の奥でずっと燻っていた。

「前の自分が嘘くさく思える」

 その言い方には後悔も、誇りも、恐怖もなかった。ただ、静かな肯定だけがあった。


 それは、僕には持ちえなかった感情だった。


 変わりたくなかった。

 変わらない自分でいたかった。

 というより、「変われる」と思いたくなかったのだ。


 もしも本当に変われてしまうのだとしたら、今までの自分は、一体なんだったのか?


 他人に冷めたふりをし、絵を「ただの絵」と切り捨て、踏み込まないことで自分を保っていた。

 だが、そのどれもが本心ではなかった。


 怖かったのだ。


 絵の中に足を踏み入れ、その奥にある“なにか”に触れてしまったら、自分が自分でいられなくなるのではないかという、得体の知れない不安。

 そこにあるはずの“変化”が、自分にとってあまりに大きく、たった一歩で全てが崩れてしまうような、そんな脆さを僕は知っていた。


 だから僕は、扉の前に立ちながら、ただ視線を逸らしていた。

 入れなかったのではない。

 入らなかったのだ。


 それは、とても静かで、しかし決定的な気づきだった。


 自分を守るために閉ざしていた扉の鍵が、ゆっくりと、けれど確かに錆びついていく音がした。


第6章 星空の下に立つ

 扉は、開かれていた。


 何も言わず、何も求めず、ただそこに在りつづけていた。

 僕がいつも「ただの絵だ」と切り捨ててきたその星々が、今はまるで、ずっと待っていたかのように、黙って瞬いていた。


 階段の踊り場は夕暮れに沈みかけ、空はくすんだ鉛色に滲んでいた。

 けれど絵の中には、たしかに夜が生きていた。

 無数の星が流れ、白銀の砂が静かに風に撫でられていた。


 僕は立ち尽くした。


 ここには、何度も来ている。

 何も起きなかったことを、“拒まれた”と呼び続けてきた。

 けれど今になって、ようやくわかる。拒んでいたのは、僕のほうだった。


 変わるのが怖かった。

 変わってしまった自分を、自分だと信じられなくなるのが、怖かった。


 もし、なりたい自分になってしまったら。もし、それが“今の自分”とは似ても似つかないものだったとしたら。

 僕は、それでも、自分でいられるのか?


 変わった自分は、本当に自分なのか?


 その問いに答えはなかった。

 けれど、答えがないまま進むしかない瞬間というのは、きっと人生の中に、確かに存在するのだと思った。


 僕は、歩いた。

 一歩ずつ、絵の前へ。


 星が、わずかに揺れた気がした。

 空気が澄んで、風が吹いた。

 頬に触れたその風は、冷たくもあたたかくもなく、ただ懐かしかった。


 そしてそのとき、静かに理解した。


 変わったとしても、それを“選んだ”のが僕自身である限り、それはきっと、僕という人間の続きにあるのだと。


 僕は目を閉じた。

 白い砂を踏む、自分の足音が、どこか遠くで聞こえた。

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