――― 生還者の心の生傷 ―――
父上の執務室を出る。 そして、一旦、自身の部屋に戻る。
手には、アイツから貰った『衣装鞄』を持っている。 長兄様とお会いするには、『コレ』が一番重要な装備と成る筈だ。 そうだ、アイツは戦う為の装束を用意してくれた。 兵站は整えられている。 よって、私の為す事は、この『膠着した状況』を動かす事なのだ。
部屋は四年前と同じく、綺麗に掃除されている。 部屋付きのメイドの高い職業倫理の賜物であろう。 在るべき場所に在るべきモノが備えられ、記憶中に有る場所に、記憶の中に有るモノが其処には正しく収納されている。 それも、四年間の成長を見越し、四年前よりも大きなものが有った。
成程、流石は騎士爵家の家人だ。 有難く思う。
小さな備え付けの浴室に向かい、身体を清める。 長旅を終えた直後なのだから、汗臭かった。 あの装束の袖に腕を通すには、少々どころでは無く不釣り合いなのだ。 よって、身を清めるのは当然の事。 手早く体を洗い、備え付けの清拭布で拭き上げ、記憶に在る何時もの場所に収納されていた、真新しい下着を着用する。
『衣装鞄』を開き、中から正装を取り出し着用する。
頭を撫でつけ、一端の貴族令息の様な顔をして長兄様の御部屋に向かう。 なに、そんなに離れていない。 部屋の前に立ち、扉をノックして訪室を願う。 中からは何も返答は無い。 そんな気がしていたが、長兄様は未だかつてない程、気落ちされているのだろう。
ドアノブを掴む。 回らない…… 中より、しっかりと鍵が掛かっている。 父上を始め、家族でも取り付く島は無かったのであろう事が見て取れた。 成程、殻に閉じこもってしまわれたか。
前世で読んだ、大国が海外に派兵した時に起こる、兵士に起こる困難な状況を報道した雑誌の記事を思い出した。 過酷な戦闘を終え、任期を全うして帰還した兵が罹る心の病だという。 命が強く脅かされる状況に長くいると心が疲弊し、平穏な場所に帰っても、その場に居る筈も無い『敵兵』を幻視してしまうそうだ。 命の危険を常に感じ、恐怖でパニックに陥ると云うモノだ。 精神医学的に云うならば、『戦闘神経症』。
平和な故郷に帰還していながら、心は未だ戦場の真ん中に佇んでいるのだ。
まさに、長兄様が罹患されている…… 心の病なのだ。
この世界では、それがより一層に顕著となる。 何故なら、過酷さという点に於いて、人が織りなす戦場よりも、辺境の地は遥かに人に冷淡なのだ。 人よりも遥かに強大な力を持つ魔物や魔獣に生身で対峙するのだ。 更に言えば、装備する甲冑も心許なく、手にする武器は剣や単槍が主流だ。 あの世界の兵士よりも過酷と云わざるを得ない。
兄上の心情や、心の状況を思うに、殻に閉じこもり、引きこもられてしまわれるのも、致し方ないとも思う。 しかし、長兄様は我らが騎士爵家の継嗣でも有るのだ。 心が折れ切っていないと信じたい。 兄上の研鑽は、間近で見聞していた。 性格も粘り強く、まるで折れず曲がらぬ魔鉱製の刃の様な方だった。
だから、信じているのだ。
長兄様は、強すぎる緊張に、心が消耗されているだけなのだと。 そして、その状況を乗り越えるのならば今だ。 今しかないと、私は思う。 騎士爵家の状況は立ち止まって良い場合では無い。 ならば、長兄に復帰してもらうしか無いのだ。 心を魔鬼と成して、状況を打破するために、蹴破るのみ。
―― いや、物理的に蹴破るのではないが。
内包魔力を練り、手に集中させる。 ドアノブに触れ、扉の鍵を直接操作する。 いや、『鍵』自体を変形させるとも云う。 魔力操作を錬金塔で学び、手にしたモノに魔力を通じて変形させる事が、私自身の『特異魔法』でもあるのだ。 王都の魔法学院では、『鍵の壊れた宝石箱』の開錠を、頼まれた事も有ったな、そういえば……。
長兄様の部屋へと続く扉の鍵は無力化され、音も無く開く。 ツンと饐えた臭いが鼻腔を穿った。 得も言われぬ、淫靡な香すらする。 部屋の中は、嵐の後の森の様だった。 乱雑に積み上げられた書類や衣類。 分厚い遮光カーテンの隙間から差し込む日差しが、部屋に舞う埃を照らし飛び交う飛虫のように見せる。
部屋の惨状に、遣る瀬無さが募る。 しかし、ここで へこたれれば、絶望の淵に居る長兄様を奪還する事など出来はしない。 心を鎮め、深く息を吸う。
さて、長兄様は何処かと部屋の中を見回すも、執務机や応接の為の空間には、その姿は無い。 微かな気配は寝室の方から。
断固たる決意に迷わず足を踏み出し、その方向に歩みを向ける。 目の前に重厚な扉が有る。 そして、此処でもしっかりと鍵が掛けられている。 余程、他人には姿を見せたくないのだろう。 ほぼ人事不省で担ぎ込まれ、大聖堂の神官に治癒の奇跡を願い、身体の傷は快癒したと聞いた。
利き腕は元には戻らないが、日常生活にも不自由は在るが、回復されたと聞く。 ならば、なぜ、このような惨状と成っているのか。 答えは、且つてのわたしと同様なのだと、一人納得する。 そう、絶望にその身を墜とし、暗冥に何も見えなくなっているのだ。 全てが無意味に思えるのだ。 自身が寄る辺ない大海に漂う泡沫の様に、何もする気が起きない。 ただ、周囲に流されるままと成っているのだ。
長兄様が受け取られた『衝撃』が大きすぎたのだ。 心が受け止め切れなかったのだ。
その経験が有る私には判る。 だからこそ、わたしが居るのだ。 経験から何をすべきなのかは熟知しているのだから。
懸命に努力し、真摯に支配地域の守護を誓われ、皆の笑顔を守る事を第一義にされて来た長兄様。 長兄様は、努力の人だった。 護るべきモノと認識し、懐に入れた者には無限の慈しみを与え続けられる。 自身を顧みず、他者に心を砕くその姿勢に、幼いながらも尊崇の念を抱いたモノだ。
だからこそ、長兄様のこの状況に落とし込んだ者は許し難い。
『慈愛の戦士』を叩きのめしたモノに対して、寛容など見せられる筈も無く、わたしの心内は、まさに『怒り』で満ち満ちていた。 しかし、何を成すにも、まずは長兄様の『御意思』を優先しなくては成らぬ。 決して疎外感を持たれぬ様。 皆が長兄様が『誇り』を取り戻す事を願っているのだ。
いや、違う。 祈っているのだ。
長兄様に於かれては、『騎士爵家の善意』にして…… 『慈愛の戦士』に、立ち戻って欲しいと切実にそう思う。 心を決め、寝室に続く扉のノブを手の中に入れる。
―――
魔力の制御は、いとも簡単に複雑な鍵を無効化する。 単純に言えば、鍵を潰した。 よく手入れされた扉は、音も無く開く。
―― 強く鼻腔を捕らえたのは、饐えた臭いと淫靡な香り。
御心が壊れかけた長兄様が逃げ込まれたのは…… そこか。 王都でも聞いた事が有る。 有事において、苛烈な戦闘が続いた結果、心を壊してしまった兵士たちが逃げ込むのはいつも決まって、そう云った場所なのだ。
幾つもの『戦場の記録』が物語る、戦闘後の過酷な現実。
自国内に於いて、敵国内に於いて、苛烈な戦闘の後に泣くのは決まって庶民。 それも、力無き者達。 更に言えば、女子供…… もっと言えば、うら若き女性達。
王国は勝っても負けても、その事に対する『民草の意識』を重要視していた。 負けた場合は、戦地からまず最優先に女子供を疎開させる。 勝った場合は、戦地に於ける略奪強姦に関して、極めて厳しく軍法を適用し処断する。 その地の治安と民を護る為に、成さねば成らないと『第一義』とされている。
――― 暗黙の了解とはいえ ―――
……王国軍 軍令部は『娼館ギルド』に対し、戦地近くでの営業を命じている現実が有るのだ。
それが、兵達の心を癒す手段として認知されているのだ。 いや、唯一と云っても良いかも知れない。 ” 破壊衝動は戦場で発散できるが、獣欲は戦地、戦場で発散させるべきモノでは無い。 ” 戦争後の統治に関する問題点として、極めて重要な事柄として、現在も ”国軍兵站部” や、”軍指揮官” 用の教本に、そう記載されているのだ。 目の前にある光景は、その最たるもの。 心が壊れそうになった、長兄様が逃げ込んだ先は……
――― やはり女性の胸の中…… か。
そして、女性も又、ソレを受け入れている。 そうで無くては、寝床の上の穏やかな情景には成らない筈だ。 うむ。 ……これも良いのかも知れない。
自身が年老いた者の感性を、前世から引き継いでいる事に感謝しよう。 十六歳の感性ならば、直ちに拒否反応を引き起こしていたかもしれない。 そんな情景だった。
寝床の上の様な、穏やかな情景が無ければ、人の心など いとも簡単に壊れてしまう。 心が壊れ切れば、何も感じなくなり、無為に時を過ごすか、人の持つ『暗黒面』に陥り『悪逆非道』となる…… 表層に現れる『人の善性』など、風の前の塵に等しく、容易く『人で無い何か』に成り果てる。
そんな者に成るくらいなら、一時であるならば…… 溺れ、耽溺し…… 何もかも忘れ殻に閉じこもる方が、周囲に対する影響は少ない。 勿論、物理的な意味でだが。
わたしの突撃が寝室に届いた時、長兄様は半覚醒状態だった。
寝床の中で、黒髪の女性に抱かれつつ、濁った眼でボンヤリと此方を見ておられた。 状況を素早く判断出来ていない。 以前の兄上ならば、そんな事は絶対に無かった。 対して、同じベッドに横たわり、兄上を抱いている『黒髪の女性』は、突如として寝室に突入したわたしを見て、呆然自失と成っていた。
時が止まり、空間が固まった様な気がした。 長兄様と視線が絡み合い、わたしが何者かを理解された。 わたしの顔を見詰める長兄様の視線。
―――― 濁る瞳に小さく光が灯った様な気がした。