幕間 女婿と上級女伯 ②
訓練用の鉄塊と見まがう剣を振るいつつ、自身のふがいなさを噛み締めていた。出来るだけのことは出来るだけはしたと自負している。苦手な座学も、礼法礼典も、複雑怪奇な王都の貴族間の関りも、その身に修めこの地の倖薄き者たちの安寧の為に邁進した事実だけは、己が信念に於いて確固たるものだった。 自身の出処進退を妻に預けている現在、その事だけは自身の矜持の在り方として堅持続けていた。
『……しかし』と、上級女伯が女婿は、思考の迷宮を彷徨う。
出来るだけはしたと、本当に云えるのか。ただ、流されてしまったのではないのかと自問する。先の戦役に於いて、縦横にその武を顕わし、北部王国軍への調略を成し、帝国督戦隊を散々に打ち破った事は事実であったが、それも、弟の知恵が自身の『武』と、合致したが故の結果だと、彼は思っている。
自身は、単なる猪武人なのだと、振るう訓練用の重い剣を振るいつつ、一人納得しても居る。 周囲の上級女伯家が家臣団からの薫陶を受け、多くの教師達の手を煩わせた結果、なんとか女婿として、上級女伯領の領政に関与しているに過ぎない。
彼の考え方は、どちらかと云えば、軍政に近いと、彼自身は思っている。 輜重を整え、先遣隊を配し、主力の戦闘力を保つための様々な施策。 この何もない北部辺境域で、民の安寧を護るのならば、強権を発動する事も又、当然ともいえる。 中央や他の辺境域の様な文官統制では、あまりにも時間が掛かり過ぎると云うもの。 政治制度を習得する以前に、北部辺境域に生きる貴種の男児たるは、その様なモノだと理解していた。
当然の事ながら、上級女伯家の家臣団との軋轢は散見された。
“ 此処までか…… ”
心内で呟く女婿は、昏く闇の中を歩いている気分にすらなっていた。 自身が信じ、行動してた事は、中央で野蛮極まりない行いで在り、誰にも賞賛される事も無く、蔑まれた視線に晒された王城滞在期間を思い起こさせていた。“ 本当に、我等が婚姻は『善きモノ』だったのだろうか…… 徒に、民に混乱を齎しただけでは無いのか…… いや、そうは思いたくない。 有意義な事柄で…… あった……と、思いたい。 “
激しい自己鍛錬は、自分が成した事は僅少なれど、この地の者たちに安寧をもたらしていたのだと、信ずるための儀式でもあった。
――― 疲れ果て、剣も構えられぬほどに消耗し、大地にその身を投げ出した。
何もかもが、上手くいかないと思っていた。兄のような包容力もなく、弟のような才気も無い自分が、これ以上、上級女伯の配でいてもよいものかと思案に暮れる。彼は自分の限界を知るものでもある。軍才には恵まれていた。「魔の森」の内懐で、配下の兵の損耗を最小限に抑えつつ、魔物魔獣を撃退し、討伐し、狩り出し…… 討伐対象を解体して故郷の者たちに森の倖として持ち帰る。単純化すれば、ただそれだけの事。
振り返って、あの戦役においても、その延長線上でしかなかった。相手は人ではなく、魔物魔獣のたぐいだと思わば、自身の手が血にまみれようと、幾分かは気分が楽になった。弟の示唆に富んだ言葉は、彼をして『有能なる将』と云う立場に立つ事もにも成った。かつて、大叔父の戦力を割く為の方策もまた機能した。それを、北の帝国との戦いにも応用した。
あの戦役に於いて、帝国軍は今までとは違う戦法を使って侵攻してきた。やみくもな力押しでは無く、傘下に加えた北方諸国の軍勢を糾合し、攻め入って来た。
しかし、知恵者である弟は、その軍勢の構成を正確に読み取り、其処に戦の勝機を見出していた。 弟の技巧たる「戦人」の成せる業か、その洞察は正鵠を射抜いていた。調略が成功する為の前提条件として、帝国軍の手先となっている北方諸国が本心から恭順していないと云うものが有った。この脆弱な部分を突き崩した『調略』により帝国侵攻軍の屋台骨を抜く事態に至ったと思っている。
そして、思う。 どうやって、弟がこの事を『看破』し得たのか。 自身には足りない部分が有ったのだと認識に至るのだった。弟がその洞察に至る情報も、自分も同様に見聞きしている筈だったが、その結論に至る事は出来なかった。その事実に、自身の限界も感じていた。
「戦働きは出来るのだが…… な。 弟の洞察の深さと、策を成す能力には到底かなわん。 ……兄上の様に人を引き付ける魅力にも欠けるこのわたしなのだ。 この先、どう身を処していくか…… だな。 出来れば…… 出来れば、上級女伯殿の側で、彼女の助けになってやりたいが、そうも行かんだろう。 なにせ、父上が王太子妃殿下と交わした約定を反故にしたのだからな。 上級女伯殿は王太子妃殿下の側近中の側近だと王城で聴いた。 また、親し気に言葉を交わすお二人も、この目で見た。 そんな王太子妃殿下に不義理を成した騎士爵家が漢ならば、此処にいて良い訳がなかろう。 ……『善き縁』だと思ったが、やはり高位の貴種貴顕の中で立ち回るのは、私には荷が重い。 ……兄上、騎士爵家が元に帰っても構わぬか? 幼少の頃に誓った、兄上の背中を護る、騎士爵家の…… 故郷の守護武人として、立ち戻る事は出来るのだろうか……」
誰といわず、天空に対し問いかける女婿。 その自問にも似た問い掛けに応える声は無い。 遠巻きにされ、腫れ物に触るかの如く対応する、上級女伯家の家臣団との交流もめっきり減った。 緊急の判断と、当主の承認が必要な案件に於いて、当主の配としての権能により代理として承認している事だけが、細い糸の様な上級女伯家との関りの全てと云えた。
大きく溜息を落とし、寝転びながら自身の両手を見詰めていた。 蒼い空に突き出した両の手の拳。 幼き頃に、この手で、倖薄き人を助けるのだと、そう誓いを建てた。 出来る限り、何人にも後ろ指を指されぬ様にと研鑽を重ねて来た。 想いも掛けず、自身に転がり込んできた貴族的地位。
それに伴う権利権能は、彼にとって重荷に過ぎなかった。
北部辺境域に於いて、権利権能とは責務を背負う者が、その責務責任を果たす上で必要なモノであり、決して自分自身に付与された特別なモノでは無いのだと云う事を身を以て知って居る。 よって、彼は権利権能を振るうのは、領地の民の為であり、自身の為に振るう様な真似は自身の矜持に悖ると認識している。それだけに、上級女伯が配という途轍もない権利権能を行使する事に、腰が引けていたとも云える。
余りに重き責務ゆえに、その責任を全うする範囲でしか権利権能を利用していないと、そう自負はしていた。 しかし、その行動自体が家人をして、彼を侮る原因となっていた事も、薄々とは感じていた。
“ どうしろと云うのだ、自分自身を飾る為に権能を振るえと? 馬鹿な事を云う…… それが、王都の貴種の在り方と云うならば、私は辺境の蛮人で構わない。 家族を守り、故郷を護り、そこに暮らす者達の安寧を護る。 それ以外に何をせよと云うのか。 良く判らない。 彼等の言う常識と、故郷での振る舞いには大きすぎる隔たりが有る。 上級女伯家はその北部辺境に領地を拝領しているのだ。 どちらの常識が、この地に於いて適用されるかくらい…… 判る筈なのだが…… ”
自身を取り巻く様々な噂話は、耳に届いている。 出来るだけ、その声に寄添い、上級女伯家の家格に相応しく振舞おうと努力もした。それが故に枉げねば成らぬ意思すらあった。 が、それもこれで終わるのだと、自身の武骨な手を見ながら一人納得する。
「もう、この道に光は無いのか。 私の心が闇に飲まれる前に…… 兄上、私に何かお役目を下さいませんか? 北方国軍に席を置いていない私はもう、森に入る事も許されないのでしょうか。 北部辺境伯様が差配する『王領』となってしまった『魔の森』へは、もう…… 帰る事も出来ぬのでしょうか?」
様々な葛藤が心を焼く。 自身の在り方に疑問を持つ事も多々ある。 元来真っ直ぐな気性を持ち、何処までも優しく、不正と不義を嫌い、正道を歩む事。 清冽な心根の持ち主だからこその悩みでも有った。 突き上げた両の拳を見詰めても、蒼く透き通る『天』に問うても、何も答えは出ない。 ただ、上級女伯の判断を待つのみである事に違いは無く、王都からの便りを自身の鍛錬に明け暮れつつ、待つしかない。
――― 憐みにも似た感情が自身に向く。
「……何が悪かったのかもわからない。 どうしてこうなったのかも、理解出来ない。 ただ、ただ、懸命に努力した結果が『此れ』か……」
黒い昏い思いが心の中に鎌首を持ち上げる。 矜持を振るい、その悪蛇の鎌首を絶ち割って来た。 しかし、それも限界に近いと、そう実感し始めている。
全てを投げ捨て、出奔する事も又…… 許されるのではないのかと…… そんな気持ちすら抱く様になっている。
明らかに限界を迎えている、
元北部筆頭騎士爵家の次男の心は……
――― 乾きひび割れ、砕け散る寸前だった。