幕間 『砦』にて、予期せぬ事柄
『砦』の作戦執務室。 巨大な北部王領の地図を背に、北部王領の主要な人物達が集っている。 手にグラスを持ち、強い酒精の酒を揺らしているのは、慶賀の徴か。 総司令次席の横に、困惑の表情を浮かべる女性兵が一人、所在なげに佇んでいたが、誰もその事に付いては指摘しない。 いや、その人物こそが、祝賀を受けるべき人であると認識していた。
― 北部辺境伯
― 北部王国軍 総司令官と幕僚達
― 北部辺境伯、執政官達
― 北部辺境域筆頭騎士爵家が当主
― 北部王国軍、探索隊の面々
皆の視線は暖かく、そして、一部からは『ようやくか』の色が瞳の中に浮かんでいた。 何度目かの酒杯の挨拶の後、北部王国軍総司令次席の兄たる北部辺境域筆頭騎士爵家が当主が口を開く。
「いや…… 本当に、驚いた。 息子達が騒ぎ、娘もぐずる。 妻は驚愕して、父上と母上は臨戦態勢を整えようとした。 何が在ったかは、既に報告を受けた。 肝が冷えたぞ」
「兄上…… 申し訳ございません。 私も、これ程…… の、事が起こるとは、予想だにしておりませんでした。 拠点からの、『最大緊急警告』信号弾が上がるなど…… 叱っておきます」
「……その必要はないな。 皆、慶事を慶んだ。 そうでしょう、辺境伯閣下」
騎士爵家が当主の問い掛けに、グラスのワインを片手に、妖艶とも云える『赤ら顔』を晒し、上機嫌な辺境伯が応える。
「アレには…… 驚いたがな。 まるで、魔の森全域が明るく照らし出されて、本当に『大規模魔嘯』が、警告されたのかと思った。 いや、朋は慕われているな。 総司令官閣下もそう思われるでしょう?」
「確かにな。 あれ程の祝いの祝砲は、王国広しとはいえ、そう滅多に見られるモノでは無い。 王太子殿下の立太子の儀、御婚姻の儀でもあれ程では無かったな。 まぁ、良い事だ。 それだけ次席は、北部王国軍に必要不可欠な者であると、兵達に認識されているのだ」
これまた、上機嫌な北部王国軍、総司令官閣下が応えた。 実に面白い物が見られたと、そう顔に浮かんでも居る。 さらに、此度の事柄に於いて、最大級の軍務違反をしでかした『拠点』が施設長が、情報伝播の実情を事細かく実例を持って報告して来た事に、痛快さすら感じても居た。 転んでも只では起きない、北部王国軍…… いや、騎士爵家が遊撃部隊の真価を見た気分でも有った。
「だ、そうだ、弟よ。 今回の軍規違反については、少々の叱責と、二、三日の分の給与の返上あたりで手を打てばよいだろうな。 曲がりなりにも、王領全体と我が騎士爵家の民達に大きな不安を与えたのだ。 隊長格の者達も、貴様に対する『祝儀』だと云って、納得してくれる。 そうで御座いましょう、総司令官閣下」
「それくらいが妥当か。 しかし、酒保に保管されていた、強い酒精からエール迄、とことん消費してしまった方が痛い。 なかなかと、準備しにくいモノだからな。まぁ、飲んでいる手前、誰にも非難を向ける事は出来んがな。 だからと云って、大っぴらには、買い集める事も……な」
「その辺りは、朋への祝いとして、北部辺境伯が手配いたしましょう。 北部王国軍の酒保には、相応のモノを…… いいな、首席執政官」
「ハッ! 承知いたしました」
暫しの沈黙と、穏やかな『祝賀の意』。 そんな中、北部王国軍 総司令官閣下が小柄な女性兵に問いかけた。 まさに、皆が聞き出したいと思う、事柄でも有る。 次席の妻となったその後、彼女はどうしたいと思っているのか。 並みの貴族女性とは違うのは、明々白々。 だが、誰も本当の所は知らなかったからだ。
「さて…… 貴様は此れからどうする? 探索隊を抜け、王領領都の邸宅の女主人となるか?」
「直言の御許可を」
「……ふぅ。 固いな。 まぁ、その出自を考えれば、そうなるか。 良い、直言を許す。 北部辺境伯殿も良いだろう?」
「朋の最愛ですから、無論。 以後、許可を求める必要はない。 我が息子の嫁だ。 『家族』として、直言は永遠に許可する」
「だそうだ。 射手長…… と云うか、『次席の妻女』殿。 如何する?」
「わ、わたくしは、『何時何時までも、何処までも』と、誓いました。 例え、煉獄であろうと修羅の道であろうと、同道を願います。 わたくし一人、安全な場所で御帰りを御待ちするなど、出来よう筈は御座いません。 小官は、探索隊 射手隊の長でも有ります。 その任に誉れを感じております。 率います兵達への責任も御座います。 離任には、同意いたしかねます」
「だそうだ、次席。 貴様が還るべき場所は、貴様と同道すると云う。 ならば、貴様が還る場所は、貴様が護り抜かねば成らんようだな」
大きく息を吐く次席。 其処には、なんとも言えない表情が浮かんでいた。 護りたいモノに護られる不甲斐なさや、それを差し引いても、彼女が抜ける穴の大きさ。 既に探索隊での彼女の立ち位置は確立し、その穴を埋め得る者は中々見出せぬと云う葛藤。 故に、任を解き故郷の『砦』に留め置く事は出来なかった。
「御意に…… 少々、自責の念を覚えますが、探索隊 射手長は、我が隊にとって、欠く事の出来ぬ者でも有ります。 それに、彼女を一人残し探索隊での行動は、不安も覚えます。 才無き身としては、苦渋の決断を持って、応えねば成りますまい」
彼の言葉に、彼の兄は強く頷く。 自身に当て嵌めたが、どうしてもその絵は紡げない事が、ありありと表情に乗る。 次席の傍らに立つ、射手長を見つつ、彼の兄は言葉を紡ぐ。 そうする事が、愛する弟に対する、最大の『言祝ぎ』である事を願いつつ……
「最愛を危険に晒す…… 辛いな。 私では、その決断は出来んよ、弟よ。 ただ、貴様の最愛は、その辺の女性とは一線を画する、いや、北部王国軍内でも屈指の射手。 手元に置き、安全を図るならば、貴様の力となる事は間違いないだろう。 ……兄として、妻を娶りし一人の男として、一つだけ忠告しよう」
「何なりと」
「めでたく、妻女が懐妊した暁には、『砦』に戻せ。 北部辺境伯閣下が待機して下さる。我が家の筆頭衛生兵も詰める。 混成とはなるが、これ程堅固に魔法的物理的に護られる場所は無い。 医療関係者も我が騎士爵家が支配地域から選りすぐりを派遣もしよう。 我妻も、母上も駆けつけよう。 後顧の憂いは、全て受けもつ。 貴様が覚悟を決めて、帰還必達に臨めばよいように」
「有難き…… 御言葉ですね。 母上は…… 御怒りには?」
「ハハッ! まぁ、お婆様に成られるのだ、どうと云うことは無い。 孫の顔を見れば、心の中にある鬱屈など、吹き飛ぶぞ」
「その様なモノでしょうか?」
「父上と母上は、同じなのだ。 ただ、表出の違いが有るだけなのだ。 慈悲深く、愛情を持って接して下さるよ。 そして、その最愛の孫の母ならば、丁重に持て成して下さるであろうな。 なぁ、射手長、気を揉むな。 貴様は、貴様の心のまま、弟を愛し、弟の心を護ってくれ」
「…………承知しました」
―――
「時にな、貴様の副官の…… いや、戦務参謀配下の若い奴が一人、出奔した」
「それは…… なにか、『意趣』有る事なのですか?」
「これを貴様に残して行った。 広げられたままの奉書。 参謀本部の奴の机上に有った。 当然、私も眼を通した。 クソの様な仕儀だ。 手痛い損失とも云える。少ない人材をむしり取られた気分でも有る。王都中央に伺候した際には、暗部棟梁侯爵家が当主に嫌味の一つも言ってやろう」
「……拝見しても?」
「貴様宛だ。 よく読め」
綴られた奉書。 出奔の趣意書。 内容は、総司令官閣下の御言葉通り、クソの様な内容だった。
“ 敬愛なる指揮官殿。 此度、一身上、家門の事情により、北部王国軍より脱走いたします。 家門の儀により、私は指揮官殿を裏切る仕儀と成りました。 我が家は、王国中央が闇の右手なる一派の『草』たる残置諜報員でした。 民に紛れ、その地の情報を中央に伝える御役目を課されておりました。 長い年月を経て、我が家も代を重ねるも、代々当主よりその任務を引き継がされていた事は、云うに及びません。 が、私はこの地に生まれ、この地を故郷とする辺境が民。 大恩ある、騎士爵家の方々、御当主の方々、そして、我等が星である指揮官殿の配下に居る事は、私の誉れで在り、矜持でありました。
此度、王都より繋ぎが有りました……
古よりの旧約により、違えられぬ約定。 果たさねば先祖より受け継し『使命』は果たせません。 忠心の在処が試されたと申しましょうか、この決断に至るには、葛藤が御座いました。 が、私個人と、家門の軽重を問われているとも、感じました。 代々の当主が思いも又、捨て去る事は出来ません。 よって、誠に遺憾ながら出奔し、旧約を果たし、その任を全うする仕儀に至りました。 故郷に光を導きし、偉大なる指揮官殿の下を離れるのは、心裂かれる思い。 決して、個人の栄誉、名誉からの出奔では無かった事を、此処に誓約申し上げます。
最後に成りましたが、御婚姻、誠におめでとうございます。 探索隊、射手長。 貴様の心が通じた事、慶ばん。 辺境伯家の増々の隆盛と、北部王国軍の誉れを胸に、私は逝きます。 どうか、御達者で。 まことに…… すみませんでした。“
総司令次席は、奉書を掲げ持つ。 “コレは、あの者の心底からの言葉だ。 なんとも言えないな。 アレは死ぬ気か? 自身の忠誠の在処の為に? 有り得ん。 忠義の心踏みにじる行為に憤りすら感じる。 が、これも又…… 在り方なのか…… クソッ、クソ喰らえだッ!” と、心内で呟いた。 そして、現在の彼の立場に心が痛い。
脱走兵…… その言葉の重みが、心の重みと直結していた。 騎士爵家、遊撃部隊が一員であれば、自身の胸三寸でいかようにも出来た。 しかし、今は王国軍参謀本部に所属する、歴とした王国士官だった。 故に、脱走は重罪となり得たのだ。 それを、知らぬ者では無い。 いや、熟知しているとも云える。 故に、彼の決断に重い責務の在り方が垣間見られた。 総司令次席の口から唸り声とも云える低い音が流れ…… 紡がれる言葉には冷え冷えとした音が混ざり込む。
「……自裁するつもりか? なんだこれは、遺書の積りか? 馬鹿者め。 才優なる猟兵、熟達の索敵兵、戦闘級、戦術級、戦略級の思考を持てる副官補が、このような…… 連綿と続く家の『使命』により失われるなど…… 度し難い。 全くもって度し難く、遺憾で有る。 総司令官閣下、このまま彼を捨て置けば、彼は軍からの脱走兵となりましょうか?」
「軍法上、そう…… 判断をせざるを得ない」
「脱走兵が罰。 その身を捕縛せし時、処罰は刑死しか無いと?」
「そう…… 成るな」
「情状も無いと?」
「王国軍の規定には、『情状』と云う言葉は無いのだよ」
「……ならば、すべき事は一つ。 輜重兵長、白紙の命令書を出してくれ」
輜重兵長が差し出した、命令書にさらさらと命令を書き込む。 二度、その命令文に目を通し、指に付けている『自身の立場を示す指輪印』を捺印する。 正規の命令文と云える。 これを発出するには、総司令官の認めも必要となる。 よって、その命令書を総司令官へと差し出しつつ、強い口調で願いを口にした。
「これを、宰相府に。 彼の者の『出向命令』です。 時間が有りません。 自死する前に、その行動を止め、然るべき場所へと…… 総司令官閣下、願います」
「了解した。 発令は、あの祝賀の日。 奴が出奔する前だな。 よし、これならば、脱走兵では無く、出向命令を受けた、参謀本部の参謀補だ。 よく軍法を理解しているな。 これで、誰も奴を非難できんよ。 まぁ、失われた才有る者は、戻ってはこれないが…… それも、仕方あるまい。 アレの身の振り方は、宰相府が心得となる。 宰相補辺りの補佐に付くか……
『王宮狐』と『肚黒子狐』の下に、『北の蒼狼』が付くか……
あぁ、王宮の混乱が目に浮かぶな。 ……しかし、その胸には、国王陛下の藩屏たるを抱え持つ忠臣である事は間違いない。 三つ巴の化かし合いとなるか。 おお、コレは、これで、王太子妃殿下が思いにも応えられようか。 これは、したり。 王太子殿下も鍛えられ様な。 ハッハッハッ!!」




