幕間 王国の闇の右手(2)
当該地からの報告を待つ事……
それだけが、私に出来る事だった。 すでに、彼の騎士爵家に付いての調査書、彼の報告書は私の執務室に堆く積まれているのよ。 全てに目を通したわ。 そして、精査し、何度も確認したの。 必要と思われる追加の調査も、お父様の手を借りて調べ尽くした。
結論は、我が侯爵家の…… わたくしの配に迎えるに十分な資質があると云う事。 一抹の不安が、心を過る。 この男…… 何を考えているのか。
ただ、それ一点に『問題』は集約される。
その懸念を払しょくする為に、王太子妃殿下の肝煎で、我が侯爵家が本邸に於いて彼の騎士爵家が当主とその妻との顔合わせも熟した。 純朴そうな方々だったわ。 王都の煌びやかさに気圧され、少々物足りなさを感じてしまってはいたけれど、それも、辺境の田舎騎士爵家の方々と云う事で納得も出来た。
彼の父である騎士爵殿よりも、母である妻女の方が剣呑な視線を私に向けているのが、少々気に成る所くらいか。 本人不在で、極めて異例な事なれど、密約とも云うべき仮婚約が、王太子妃殿下の介在により、結ばれる。 この夫妻の御子息なれば、我が侯爵家にとって、脅威とはならないだろう。
爵位に隔たりが有る為、一旦どこかの家に迎え入れられてからの婚約となるのは、周知の事実。 その家と目されるのは、彼の直ぐ上の兄が女婿として入った上級女伯家。 家格的に釣り合わせる為に、さらに上の軍務卿を拝命している侯爵家に再度養子として…… かな?
色々な策謀と、制度上の困難を乗り越えて……
私は、あの者を『私の夫』と成すのだろうと、そう思っていた。
―――
北部辺境からの定時報告はピタリと止まった。
誰一人…… 帰還する者が居なかった。 闇は地に潜り…… 沈黙だけが北部から齎される事となった。 その事実に焦りを感じていた。 仮とは言え、婚約を結んだのだ。 いずれ、王都に来させる事は決定済み。 しかし、彼の地で私の精鋭達の消息は途絶えた。 憔悴感が私の心を縛り付けて来る。
そして…… 運命の日。 王妃陛下からのお呼出しが有った。 何時ものように、いつもの場所で…… との事。 お父様に事情を告げ、王城へ向かう。 お父様は、渋々と云った面持ちで、出邸の御許可を出して下さった。 敵の多い我が家では、当主や継嗣の移動には、厳重な警戒を要するからなのよ。 邸から出たのは、本当に久しぶりだったの。
「良く見えられました。 お誘いを受けて貰えてうれしいわ」
「勿体なく。 御宸襟にお求めあれば、何時いかなる時にも足下に」
「あら、貴女。 そうは云っても卿が出邸の許可を出さないと聴いているわよ?」
「王妃陛下の御要望とあれば、いかな父でも無下に出来ません。 常に忠臣である事を見せ続けねば、我が侯爵家など……」
「そうね。 理解している様ね。 父君はどうかと思うのだけど、貴女はよく理解している」
「勿体なく」
「……では、何故、王太子妃の進言を受けたのです?」
王妃殿下は、私をガゼボに入らせぬまま、そう問い掛けられた。 常とは違う、その仕儀に混乱を覚えるの。 いつもは、気を使って下さり、本当のお茶席の様に振舞われていると云うのに、今宵は全く違う。 何より、王妃陛下より発せられる王気が、厳しく私を糾弾してくるのよ。 それは、臣下に対し儀礼的には不躾と云うべき所作でも有るのだけれど、今は、韜晦を許さぬと、言外に伝えられたも同義。
「答えは? 女としての『幸せ』が、欲しかったの?」
「……興味が湧きました」
「…………そう。 それは、貴女の『お仕事』上の興味なの? 許しも無く、目と手を入れた?」
「…………ひ、広く情報を収集するは、我が家門の矜持でも有りますので、その一環として」
「そう、その差配を貴女が?」
「はい……」
「宰相府より禁じられて居たのでは?」
「宰相府と同等の部署で有ると、そう認識しております」
「あら、驕っていたのね。 宰相府は、王家と同じだと思えと、そう陛下より通達されていた筈でしょ?」
「こ、古来からの王国法ではッ!」
「残念ね、当代陛下により『不磨の大典』の書き換えは実行されているの。 四大公家、八公爵家の全家承認も受けての更新よ、知らなかったとは…… どういう事かしら? 当代様の御意向とその権能を無視すると?」
「いえッ! め、滅相も御座いません。 そ、その……」
「あぁ、不磨の大典が更新される前と云う事ね。 了解しました。 今後、その様な事は無き様に。 卿にも、よくよく伝えてね。 さて、それを踏まえた上で聴くわ、貴女の琴線に触れた情報とは? 無茶な願いを受けた理由にも成った、貴女の興味を引いた事実とは何なのかしら? 答えなさい」
一瞥も与えず、王妃陛下は私に答えを迫る。 声色はあくまで優し気に。 しかし、強い言葉と抑揚のない声が、強く王妃陛下の怒りを示していた。 一片の憐憫も無く、苛烈に隠された事を暴くが如く…… 故に、私の声は細くなる。
「……あの辺境の騎士爵家は謎が多いのです。 とても…… 多い」
「『耳』と『目』を以てしても、見えませんでしたか?」
王妃陛下の詰問は、私の身を縛る。 全てを曝け出せねば、私は…… いえ、我が侯爵家は王妃陛下よりの信を失う。 我が家の後ろ盾は、国王陛下と王妃陛下。 尊き方々の信を失えば、我が侯爵家など、あっという間、次代の闇に飲み込まれる…… 真摯に…… 全てを…… 話さなくてはッ!
「…………かつて使っていた『草』にも繋ぎを執り、情報を上げる様にと。 ええ、三男様の動向や為人を調べる為に。 ……送った者達は、皆…… 皆、未帰還です。 最精鋭を送り込んだのです。 しかし、成果はゼロ。 何も成し遂げられない。 情報の一篇すら持ち帰れない。 異常です。 異常だからこそ…… 興味を持ちました」
「貴女の配下の最精鋭が全員未帰還。 ……でしょうね」
「王妃陛下、なぜ、その様に……」
私は食い下がった。 それが、如何に愚かであったかを、今にして思う。冷たい王妃陛下の言葉が紡がれる。 何をご存知なのだろう? 王妃陛下もまた、王都を離れられる事は稀なのに……
「これだから、中央王都に『心』を置く者はダメなのですよ。 報告書が全てだと、そう思いこんでいるのです。 実際にその地に於いて、その地がどの様な有様なのかを確認する事を、上級者が厭うがせいで、本質を見誤るのです。 北辺は東、西、南の辺境域とは事情が異なります。 あの地は倖薄き地。 誰もが生きていく事に真摯で膨大な努力を重ねねば成らぬ場所なのです。 ……その顔は忘れている様ね」
「今代陛下が王太子殿下で有らせられた時、幾つもの戦争、紛争がありました。 西の蛮族、東の魔の森、南の跳ね返り…… その際、わたくしも戦場に『癒し手』として、同道していたと云う『事実』があります。 忘れられぬ物を幾つも見ました。 南、東、西の各辺境域は王国にとって抑える事が焦眉の急とも云える場所。 転戦に続く転戦は日常でした」
「それは……」
「既に歴史の一部に成っていますね。 だから、皆、忘れているのです。 王国の生存を掛けた、幾つもの戦闘。 長い王国史の中でも、暑い夏の日の様な、苛烈な日々でした。 王国の、人の生存圏を掛けた一連の戦は、陛下にとっても忘れ得ぬ日々でしょう。 戦乱を長引かせては成らないと強く御心に植え付けた日々であったと、わたくしは思うのです」
夕闇が迫る庭。 夜の闇に星が瞬き始める。 そんな天空に視線を投げつつ、御怒りは未だ溶けず、強く棘の様に私に刺さって来る、王妃陛下の王気。 紡がれる言葉は重く、私の心を苛み続ける。 もう、ダメなのか? 見放されてしまい、我が侯爵家は…… 闇に消えるのか……
「様々な家が配転されました。 東、西、南の辺境域の高位の者達も、元騎士爵家である家々も、暗部に属する家すらも、その中に含まれます。 が、北辺の騎士爵家からは一家も其の対象に含まれていません。 それをどう考えるのですか、二人とも? ………… 」
続けられる言葉には、憐憫さえ感じられた。 溜息の様に、小さく息を落とされる王妃陛下。 周囲に漲る怒りはそのままに、細く声を紡がれる。 それは、物知らぬ幼子に、理を諭す様に……
「北辺の『魔の森』浅層域全域は此れを王領と成しました。 王領太夫は特任の辺境伯。 王宮魔導院 民生局 第五席も兼務します。 陛下がお認めに成り、議会も追認しました。 太夫の『権能』は、宰相と同等と定められました。 王都を遠く離れた地に於いての行動の全権を彼の者に与えたそうです。 言うなれば、代理権限を委譲も同じ。それ程の権限を与えねば、あの地を統治する事は出来ぬと、国王陛下も仰っておいででした。 ……為人に問題がある者には、決して叙爵されるような爵位、職位ではありません。 が、彼の者は宰相府も一目置く為人。 その上、特殊な『勅』も全うできると目される能力。 心根の強さと、強かな狡知を以て、彼の地の安寧に寄与するでしょう。 今の貴女達では到底太刀打ちできぬでしょうね。 わたくしから見れば、そう見えるのですよ。 暗部棟梁侯爵家、当主には手出し無用と陛下が宣せられます。 良いですね」
「……はい」
「暗部棟梁侯爵家の次代に付いては、家門連枝より女婿を迎える事を希望します。 もし……」
「……もし?」
「一人でも北方辺境域から生きて帰ってくるような者が居れば、その者が良いでしょう。 実情を目の当たりにし、自身で体験し、そして、生還する能力と幸運の持ち主。 不思議ではありますまい?」
「……ぎょ、御意に」
放り投げる様な王妃陛下の言葉に、私は首肯する他ない。 王命と同じ重さを持つ、王妃命が降りたと同じ。 王妃陛下は手を振り、私の退出を命じられた。
――― 成す術も無く、私は退出した。




