開幕
◆ 無為に生きた『罰』
視界にじんわりと赤みが差し込む。 苦しい。 粘着ついた暖かさが、全身を包み込んでいる感覚が、得体のしれない不快感を加速させる。
強い圧迫感と身体が潰れる様な痛みを強く感じる。 身体を圧搾されているような不快感。
――― ここは煉獄か?
その煉獄から抜け出そうと、必死に藻掻く。 暖かくも安らぎを覚えていた場所が、痛みと苦痛の支配する煉獄と化してしまった事実に恐怖しつつ、其処から脱出しようと、藻掻く、藻掻く、藻掻く……
脱出の可能性は唯一つ。 酷く狭い『門』を潜り抜ける事。
藻掻き切った先に光が溢れ出し、視界を光が覆い尽くした。 そう、脱出に成功したのだ。 なんだ、なんだったのだ? 必死の脱出に安堵する間もなく、わたしは、別の違和感に苛まれる。
――― 全身がぬるりと外気に晒される。
喘ぐように、貪るように、口を開ける。 粘り付いた何かが、大量に口から吐き出され、胸に空隙が生まれ、呼吸が始まる。 萎み切った肺に外気を取り込もうと、大きく息を吸う。 肺が、急激に拡張されて、メリメリと肋骨が嫌な音を立てる。
胸郭がメリメリと音を立てて広がるのがわかる。 判ってしまう。 まるで身体が再構築されていくような感覚だ。未成熟な骨が、正しい形を取り戻そうとしてゴリゴリと内側で動くたび、痛みと恐怖が容赦なく襲いかかってくる。
未知の恐怖と痛みが私を襲う。 その状況が、今の私の全てであった。
――― そんな中、唐突に理解する。
そうだ、赤子が泣くのは、この痛みに耐えかねてだ。 絶叫で紛らわせねば、狂ってしまう程の痛み。 いや、違う。 恐怖と痛みが魂に刻み込まれた『記憶』を押し流し、無垢なるモノとして、生誕するのだ。
しかし、私には、『忘却』の恩恵は訪れなかった。
痛みが続く中、私は…… 全く別の事で、感情を支配され、泣く事も出来なかった。 それ程の衝撃が、”僕”…… ”俺”…… ”自分”…… 『わたし』を…… 包み込んでいたのだ。
生れ落ちたその日、わたし自身の中に
年老いた人の『記憶』が定着してしまったのだ。
それも、俺が「生まれる前」に生きていたらしい男の……
―――― 人生の全てを諦めた『老人』の記憶だった。
――― § ――― § ―――
生れ落ちた赤子の私の脳裏に、鬱々とした毎日を送る老人の記憶が定着した。 陰惨で不遇な人生を全うせざるを得なかった、一人の老人が諦観に満ち満ちた『心』を保ったまま、この世界に生れ落ちた。
前世とは隔絶した世界。 民主的な自由な社会から、生まれが全てを決するような身分制度が存在する、そんな世界に産まれたのだと、理解し得た。 なぜならば、前世の死亡時、あちらの世界の『神』とやらが、自分に語り掛けて来たのだ。 無為に生きた『罰』として、前世と全く違った世界に魂を送ると……
『 全てに於いて行動の自由を封殺する、全く違う世界に、産まれて貰う 』
と。 何もない、真っ白な空間で、自身に何が起こったかを認知する時間も与えられず、高圧的に、断定的に、此方の事情など知った事では無く、事実を淡々と伝えるように、そう云われたからだ。 抗弁する時間すら与えられなかった。 何時だってそうだった。 投げ捨てられる時は一瞬。
―――― 無為に生きた?
アレには、そう見えたのだろうな。 観察されていた? いや、偶々、見つかったのかもしれない。 なぜなら、前世の私の周囲には、私と同じ様な者達が大勢いた筈だ。 いや、待てよ…… そう見えていただけなのかも知れないな。 そう見たかったのかもしれない。 それぞれの人生を、何かしらの意味や欲に於いて、謳歌していたのかもしれない。
私には無理だ。
前世で云う所の『毒親』に育てられ、期待もなく、暴力と無理解と放置と共に育った私は、全てに於いて『諦観』を以て生きていたのだからな。 心の触れ合いなど、求めようもなく、常に誰かの『駒』としての『生』。 己の『欲』を出した瞬間に、全てが叩き潰される、そんな出来事の連続。
荒み切った幼児期を過ぎ、両親の放置の結果 行政主導で児童福祉施設で義務教育とやらが終えるまで、其処で過ごした。 そんな境遇の私は、高等教育を受ける事もなく、下働きが必要な会社に入り、只々便利に使い潰された。 会社の寮は、それこそ刑務所の独房よりも劣悪な環境で、日に十七時間の労働が私の心を押しつぶして行ったな。
人生など、だれも助けては呉れない。 その場所から抜け出す『力』も無い。 現状を変更し打破する気概も持てない。 生きる目的さえ見失っていた ただ、ただ、惰性で動いている、生きた人形。 働いて喰って眠るだけの毎日。 離職率の高い職場の現場仕事な為、同僚は一定しないし古株と呼ばれる職人たちは、コミュ障相手に、まともに育てる筈もなく、だれも私には何も教えない。
日々を重ね、年月を重ねても、何も成す事がなく、何時までも下働きの毎日。 行く当てのない私は、そんな極悪な環境下でも、其処に居るしかなかった。 安い給与は、監獄にも似た寮に居る為の『寮費』と云う名目で、ほぼほぼ吸い上げられ、自身の手元には明細の一割にも満たない現金のみ。 日用雑貨を購入すれば、殆ど残らない程……
寮の部屋は、ほぼ何もなく、眠る為のベッドと寝具。 ちょっとした書き物をする卓袱台が一つ。 少々の筆記具に覚書に使うノートが数冊。 退職して行った元同僚たちが、残した数々の書籍と雑誌。 会社支給の制服と、自身が購入した下着。 それが、私の全て。
―――― 人生を変える出会い?
そんなモノは、何も無かった。 工場と寮は隣接して立っていたし、そもそも過疎っている田舎に工場は有った為、人の出入りは極端に少なく、故にそんな環境が見過ごされていた。 其処に職を得た者達もまた、何かしらの事情を抱えた者達であり、極端に他人との関りを避ける傾向に在る者達だった。
故に、ただただ歳を重ね、雑用に日々を過ごしていた。 楽しみと云えば、元同僚たちの残した書籍を読む事くらいだ。 喰って寝て…… 風邪を引いても、病院に行く事も出来ない。 その上、休む事も許されず、市販薬を噛み、ボロボロの身体を引きずりながら、齢を重ねて来た。
―――― 前世に於ける『 最後の日 』。
時を経て、その役割を終えたのか、所属していた会社は社会の淘汰を受け、その寿命を終えた。 退職金すら貰えず定年を迎えた私は、行く当てもない。 更には過酷な仕事で壊した身体を持て余し、取り壊しが決まった寮の裏手で呆然と青空を見上げながら、無為に時間が過ぎていった。 そして、突然、胸に激しい痛みが走る。
無理に無理を重ねた結果の、身体の自壊。 いわゆる心臓発作。
只々、諦観に身を任せ、ボンヤリと意識が失われて行く事に、なんの後悔も無かった。 これでやっと『虚無の連鎖』から抜け出せると、安堵の気持ちが有ったのかもしれない。
誰にも看取られる事無く、誰にも死を認識される事もなく、利用されるだけ利用された、 ” ボロくて何の意味も無いモノが一つ ” 失われたに過ぎなかった。
―――― そして辿り着いたのが白い世界。
私の人生自体が『 罪 』と云うのか。 来世を『期待する事』すら出来ないのか。 ならば、神とやらは、理不尽極まりないな。 白い世界から投げ捨てられるような、浮遊感があった。 高所から墜落する様な感覚に捕らえられる。 白い世界は黒く塗り潰され、五感は閉じて行き…… ただ、小さな鼓動だけを感じる赤黒い世界に押し込まれた。
………………これが、わたしに対して実行された 『 罰 』と、云う訳だ。