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臨界的殺傷的iedは錆びた公園にて夏を再演する。

作者: 酸欠天使文學ちゃん

 それからスーツ姿のままである私の覚束ない足取りは、自然と視界の一端に映った左手の、あの懐かしい公園へと向かった。

 青々と生い茂る雑草たちに歓迎され、蜃気楼の狭間に見え隠れする錆びた滑り台へと進む。その公園に懐古の情感は幾分かには湧くものの、具体的に私が幼少期にここで何をしていたのか、それらの行動に付随した記憶の一切は全く以て齎されなかった訳ではあるが。

 偏頭痛と妄執的な空気によってのみ構成されている私の背には、八月の太陽はあまりにも熱く、痛かった。依然某日から何をするにも行動に至る活力は生じず、故に解雇通知書は未だシャツの内ポケットで燻っていた。

 木陰に腰を下ろし(非常に狭いその公園には、規模に見合わない大きなクヌギが一本立って居た)、先刻買ったコーラの蓋を開けて公園を見渡した。小さな滑り台とブランコ、それから小さなジャングルジム。フィルム映像のように思い出される嘗ての公園の記憶と照合しても、進んでいるのは各遊具の酸化のみのようで、それらは最早遺物のような厳かさすら有しているように錯覚された。

 コーラが自らの喉を通る不快なその音に、私の意識は懐古より一気に現実へと引き戻される。

スーツのまま昨晩寝てしまったからであろうか、どうも体が不自然に重く気分もすぐれない。木陰の黒と、砂場の白のコントラストが目に刺さり、私は瞼をおさえた。遠くで蝉が泣く。私はすうと乾いた暖かい空気を吸い込むと立ち上がった。


 「もう行くの」


その声に私は初めて、木陰の傍らに小さな少年がいることに気が付いた。驚きと錯乱で情けない声を上げ、一つ後ずさりをしてしまった。丸淵の眼鏡をかけたその少年は、手に持っていた明らかに外で読むには不向きと思われる大きさの図鑑を大袈裟に閉じ、腰を上げて此方へ歩み寄ってきた。

 私たちの間を蝉が不快な音を立てて通り過ぎる。眼鏡の奥の瞳がこちらを覗く。虹彩より発せられた反射光の輝きは何故だか私をひどく苛立たせた。


 続けて三日ほど公園に顔を出している。しかし、いつ訪れても日の出ているうちであれば少年は必ず木陰で図鑑を読んでいた。それはいつ何時でも、2000年丁度に刊行された宇宙についての本だった。何をするでもなく私は少年の隣に座り、近くにある駄菓子屋で買った瓶入りのコーラを差し入れした。少年はいつも礼すら言わずこっくりと軽く頷くと図鑑を読み続けた。それであるのに、ふとした拍子に突然、私に宇宙を語りだすのだ。

「これはM51。りょうけん座のほうにあるのだけどもこの形の銀河は某渦巻銀河と呼ばれている」などと云った説明をされても暑さにやられている私の脳には欠片の情報も取り込まれない。ただ興味のある宇宙の象徴ともいえる太陽に焼かれるのならば、少年も本望だろうと、ただそんなことだけを漠然と考えていた。


 あくる日、大雨が降った。俄か雨だろうと高を括っていたのだが昼下がりに降り始めたその豪雨は止まるところを知らず、ついには夕方まで降りつづけた。丘の上に立っているとは雖もやはり築十数年の、亡き伯父から譲りってもらったこの家はさすがに耐えきることができず、雨漏りを始めた。

 洗濯する気力もなく、何時着たかも思い出せないほど前に放り出されてしまっているシャツやタオルを各所に設置し、茫然と窓を見つめていたところでようやく少年のことを思い出した。

家を飛び出し公園へと向かう。

雨のせいで視界が悪く、おまけに地面まで濡れている始末であるから、私は数回転倒しつつもやっとの思いで公園へとたどり着けた。やはり其の少年は、クヌギのもとで本を読んでいた。  

すぐに駆け寄り傘を差し出すと少年はこちらを向いた。ありがとう、と云う風に口元を動かした。


 電話が鳴った。実に数カ月ぶりの電話である。私は受話器を取り、ぎこちなく応答した。かけてきたのは高校来の親友であった。重い病気に罹りおおよそ一年ほど入院していたその友人は、先週のうち退院したのだと言った。これからこちらに向かうという。


「久しぶりだね」友人は云った。俺も片手をあげた。雨漏りのしたまま片付けてもいない俺の家を見て、友人は苦笑した。片手にぶら下げていた嫌に爺くさい一升瓶を開け昼から良い気分になり、お互い到底三十手前の有り様ではないな等と笑い合った。


「外に出て、散歩でもしようじゃないか」腰を上げて外へ躍るように出てゆく友人の後を追った。


「あそこの八百屋、さすがにもうなくなっているよな」そう、いつの間にかだ。

「あそこの家の犬、まだいるのか。五月蠅いなあ、さすがに二代目か」三代目かも。

「うわーここらの道路だいぶ印象変わったな」もうすぐ近くに高速も通るらしいから。

そして私たちの足取りは駄菓子屋の前で止まった。

「そうそう、ここの駄菓子屋なんでか柑橘系っぽい果物売ってんだよな」

ふと記憶がよみがえった。丸い橙色の果物が、此方を向いて行儀よく並んでいる。鼻を差す、ツンとした香り。私と彼でよく昔はここにきて、その果物を食っていた。何故だか今になって思い出した。頭の中を、今度は鮮明にかつての映像が駆け抜ける。小学校のあの図書館、本棚、ずっと座っていたはずの椅子。何に憧れていたっけ。何を目指していたんだっけ。鮮明に瞼の裏、展開していくM51。図鑑。そんな映像は凡て、丸眼鏡を通して映し出されていた。


 堪え切れなくなって、駄菓子屋を飛び出した。友人のかける声を振りぬけて、ひたすら公園を目指す。


 公園が見えた。酸化の進んだ寂れた、錆びれた公園が。


 クヌギの木の元、少年はもういなかった。ただそこには図鑑と、その上に一つ果物が置いてあった。柑橘系の、名も知らない果物が。


 私にとってそれが、丸善を爆破したあの檸檬となりうるのか、電車から投げ出されたあの蜜柑となりうるのか、それはまだ今では分からない。


 ただ退屈で澱んだあの前世との決別を実感するに至るには、手に取ったその果物の質量は十分であった。

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