It’s a piece of cake
後書きは蛇足です。
「おい、斉藤。ここの英文なんだけど、訳せるか?」
英語教諭の関先生は、丸いめがねを光らせて、生徒会長の斎藤崇くんに質問をした。
「It’s a piece of cake(楽勝ですよ)」
彼は流暢な英語でそう応じると、すらすらと和訳を始めた。
この学校に転向してきた私は、斎藤崇くんと会うのが初めてだった。
語学留学していた秀才がいるって聞いたけど、彼のことだったんだ。
「これは大学入試レベルだぞ。よく出来たな」
「I'm honored(光栄です)」
スラリとした細身の体躯に、堂々とした佇まい。
大人っぽい雰囲気と時折のぞかせる子どもっぽいくしゃくしゃな笑顔は、反則級だと思う。
初対面の私でもそう思うんだから、きっとそう思ってる子は多いはずだ。
しばらくポーッとしながらマンガを描く。
学校だからネームと本書きは家でやる。今するのはキャラデザとプロットだ。
この前、相談社に持込みをしたら画力を評価された。
作画を担当してみないかと訊かれたけど、それは断った。
ストーリーも作画も、自分が納得できるものが描きたいから。
「ねえ、平野さん。お金貸してくれない?」
男の子キャラを描いていると、背後から貝沢さんが近付いてきた。
いつも眠そうにしている彼女だけど、お昼休みになるとパンを買うために起きるのだ。
私はノートをさっと隠したが、彼女は何も言ってこない。
「ごめんね、私も持ち合わせがなくって……」
思わず笑顔が引きつってしまう。
見られたくないものを、見られた。
ヤバイ、みんなにバラされたら恥ずかしさで爆発する。
「ああ、そうなんだ。ごめんねー」
貝沢さんは長い髪をふわーっとなびかせて教室を出て行った。
ふう。私はそう安堵してしまう。
「このマンガのモデルが斎藤崇くんだってバレたらまずい」
私はちらっとだけノートを開く。
イケメンキャラの隣に、【It’s a piece of cake】と書き込んである。
「私も恋したいなあ……」
いやいや、不純な動機とかじゃなくて。
あくまでもマンガのために。
リアリティが足りない。
担当の編集さんにはそう言われた。
あなたには恋愛経験が乏しい。
だから描けないのです、と。
乙女の妄想を具現化したような作品で、恋に悩みも葛藤もない。
そりゃそうだよ。
私は順風満帆な恋がしたいもん。
マンガくらい、夢を見させてよ。
それにしても、危ないところだったなあ。
私は創作ノートにキャラを描きながら猛省する。
前の学校では「マンガ家になる」を公言してたから良かったけど、こっちの学校ではまだ言えてない。だからプロットだけならまだしも画集を見られるのはちょっと嫌だ。斎藤くんのことも描いてるし。なんか恥ずかしい。
数学教諭の小坂先生は、教科書に載っている公式をわざわざ黒板に書き写して、赤いチョークで棒線を引いた。私はその間にキャラデザを描く。今日の日付はもう確認済み。大丈夫、学番からして私に振られることはない。この時間はマンガに集中できる。
「では練習問題をやってみろ。質問があれば挙手をするように」
ごめんね、小坂先生。
でも今はマンガに集中したいんだ。
マンガを描かないと死んじゃう病だから。
いつからそこに立っていたのだろう。
適度にフェイントは入れたつもりだった。
自動車教習所のミラー確認みたいに、ちゃんと小坂先生が見てるタイミングで、黒板を見てる振りをしたのになんでバレたの?
「授業中に何をやっているんだ」
静かだけど、厳格な声だった。
「今は何の時間だ?」
「は、はいぃ。スウガクです」
「寄越せ」
「はい?」
「授業とは関係ないそのノートを寄越せ」
「え、えぇと……」
手の平に、嫌な汗がにじむ。
クラス中の視線が痛い。
なんて、なんて言い訳しよう。
でも、そんなことしたら、余計に注目を浴びるだけだ。
「はい」
私はしぶしぶ創作ノートを手放した。
「ふむ、預かっておこう」
そう彼は、私にとって生命の次に大事なノートを持って、教壇に向かった。
教科書類が載っている教卓に、それを置く。
ああ、とられた。
漠然とそう思う。
今は数学の時間なんだ。
スウガクのノートを出さなきゃ。
適当にぱらぱらめくっていくと、喪失感がこみ上げてきて、意識がくらっとした。
頭からさーっと血の気が引いて、指の先が冷たい。寒い。
寒いのかな。なんか落ち着いて座っていられない。
とりあえず横になりたい。
不快。
前に読んだ推理小説に、女子校は不快地獄とあった。
そうそうそんな感じ。
デオドラントの匂いとか シャンプーの匂いとか、制汗剤の匂いとか、そういう気持ち悪いのがいっしょくたにドバーって鼻に入ってきて、もう、本当に。本当に気分が悪い。
「はぁはぁ……」
呼吸が浅くなる。
目の前が暗くなる。
あれ、だれか電気消した?
いや、ちゃんと蛍光灯はついてる。
「はぁ、はぁ……」
「先生、平野さんがしんどそうです」
だれかがそう言った。
「保健室まで俺が同伴しますよ」
あれ? 斎藤くんの声だ。
やさしいな、斎藤くんは。
「駄目だ。女子が行ってやれ」
小坂先生の声。なんてやつだ。
「大丈夫? 歩ける?」
そう女の子が肩を貸してくれた。
もう視界は真っ暗で、顔は認識できなかった。
「うぷっ……」
吐き気がした。これは、貧血。
もう限界だった。
帰ってもマンガが描けないなんて、信じられない。
そう思うと涙があふれて止まらない。
静まり返った教室に、私のすすり泣く声だけが響いていた。
私はマンガを描かなきゃ死んじゃう病だ。
具体的に医師の診断書があるわけではないし、もちろんそんな病気があるわけない。
でも、もしもあるのだとしたら。
きっと私はその病気に罹患している。
昨日の不調はノートをとられたショックもそうだけど、それによってマンガが描けなくなるショックのほうが大きかったからだ。人によっては、また描き直せばいいと言うが、そんなにうまくはいかないのだ。このマンガを描くために、どれだけの風景画を描いてきたか。どれだけの表情をストックしておいたか。
あれがあるとないとじゃ、精神的に天と地だ。
「Bolt out of the blue(青天の霹靂)」
「え?」
机に突っ伏していると、ネイティブな発音が聞こえてきた。
「驚いたよ。昨日は大変だったね」
顔を上げると、斎藤崇くんがいた。
ああ、でも今はどうでもいいんだ。
カッコいいとか何だとか、そんな感情は二の次にしてる。
そこまで興奮もしてない。それよりもマンガが大事。
呼吸が出来なくて苦しいときに、恋のことを忘れるのと同じ。
私にとってのそれは生理的欲求なんだ。
「You don't look very well(かなり顔色が悪いね)」
「Sure (もちろん)」
そう英単語で返すと、彼は目を丸くした。
ふふ、私でもこれくらいは言えるわよ。
「あれ、大切なものだったんでしょ?」
「え?」
創作ノートのことかな。
そりゃもちろん大切だけど。
「先生に言って返してもらって来たよ。ホラ」
斎藤くんはそうノートを差し出す。
「ありがと……」
私は思わず目を伏せてしまった。
本当は目を見てお礼が言いたいけど、このノートに斎藤くんを描いてたから、なんか気まずい。
「マンガ、描いてるんだね」
「なんでそれを!」
「最初のとこだけ見ちゃった」
彼は屈託なく笑う。白い歯がきれいだった。
「最初だけ? 本当に最初だけ?」
私は身を乗り出して訊く。
「それ以外見てない?」
「ハハ。見てないよ」
「なら良かったー」
後ろのページは極秘なのだ。特に彼に対しては。
「完成したら今度見せてよ。読みたい」
「ええ、いいの?」
「ああ、約束だ」
斎藤くんはそう言って手を振ると、男子のグループに入っていった。
「あのさあ、平野さん」
女の子にしては上背がある山本さんが、腕を組んでやって来た。
「どうやったのか知らないけど、斎藤くんと気安く話すのやめてくれる?」
「え、私はなにも……」
「昨日だってあざとかったしさー。斎藤くんの正義感利用して気を引くのやめてよね」
なによ、それ。
まるで私が仮病使ったみたい。
「あとさ、いっつもノートになんか描いてるけど、キモいよ」
なんだよ、それ。
「はいはい、私が悪うござんした」
「なによ、その態度」
彼女と視線が交錯する。
山本さんの目は敵意に満ちていた。
バチリ、と火花が散る。
そう剣呑な雰囲気になったところで、HRの鐘が鳴った。
それから私は、彼にマンガを見せるようになった。
斎藤くんが恋人役の少女マンガはまだ見せられないけど、それ以外にもたくさん描きためてあるから、ストックには困らなかった。
読んだ後に、「今回はキャラが立ってた」とか「これはご都合主義」とかちゃんとした感想もくれるから、私には担当編集者よりも身近なアドバイザーに思えた。
山本さんを筆頭にした派閥は、より一層私を睨み付けてきたけど、私と斎藤くんは、全然そういう関係じゃない。そうなりたいとも思わない。
友達以上恋人未満のこの距離感が絶妙に心地よかった。
斎藤くんと仲良くなって出来たのは、敵ばかりではない。
今まではクラスになじめてなかったけど、話しかけてくる子もいっぱい増えたのだ。
そんな彼女らの背景には、見え透いた下心があったけど、べつにどうでも良かった。
女ってそういう生き物だし。
「おう、平野。放課後カフェに行かないか?」
配布されたプリントの裏にオリジナルのキャラクターを描いていると、斎藤崇くんはごつごつした大きい手を私の机に置いた。机ががたんと揺れて、キャラの輪郭線がゆがむ。私はムッとした表情を彼に向ける。「悪い、悪い」そうあやまる彼がかわいかった。
「うん。いいよ」
べつにかわいく言ったつもりはない。
友達と話してる感じのニュアンスでそう返すと、ピリッとした眼光が教室の端から届いた。
いちいち反応するなよ、めんどくさい。
そうなにも気付いてない振りをしてあくびをすると、ちっと短い舌打ちが聞こえてきた。
「ねえ、わかってる?」
生徒玄関で内履きに履き替えていると、山本さんがいた。
朝からうるさい顔を見せられて、すこし腹が立つ。
「斎藤くんは優しいから、ムリしてあんたに付き合ってあげてるだけだよ」
「ああそうですか。そりゃご親切にどうも」
「あとさ、これは貝沢さんから聞いたんだけど、あんた授業中に斎藤くんの後ろ姿を描いてたんだってね」
授業中かどうかはともかく、描いていたことは事実だ。
私は仕方なく首肯する。
「それさ、本人に許可取ったの?」
黙って首を振る。
「そのマンガは彼に見せたの?」
ううん、と小さく首を振る。
「あのさ、それって犯罪だよ」
私は黙って山本さんの目を見返した。彼女は続ける。
「それ、バラしてあげよっか?」
言われて、身体が硬直した。
身動きが取れない。
「なーんて、ウソウソ。うちら友達でしょ?」
山本さんはかがんで私の耳元でささやいた。
「チクられたくなかったら斎藤くんと関わるんじゃねえよ」
私は金魚のように口をパクパクさせることしか出来ない。
「そういうのマジで最低だから」
私はなんだか悪いことをしてしまった気分に陥ってしまった。
「おっす、平野。マンガの続き見せてくれよ」
「うん、おはよう」
私はそう彼に背を向ける。
「なんだよ、つれないなあ」
斎藤くんが私の肩をつかもうとしてるのが、気配でわかる。
だけど、山本さんがこっちを見てるのもわかっていたから、私はすっと席を立った。
「およ?」
その太い腕が空を切ったので、斎藤くんは素っ頓狂な声を上げた。
「Stay away from me!(近寄らないで!)」
日本語で言ったら直接的な気がして、私は斎藤くんにだけ伝わるように英語で怒鳴った。
「Why? (どうして?)」
そんなに悲しそうな顔しないでよ。
胸のうちがきゅっときつくなる。
「なんでも、いいじゃん」
「お前、なんか変だぞ」
もう斎藤くんの顔が見られなかった。
見たら、きっと泣いてしまうから。
だから、そっぽを向くしかない。
「さよなら」
それは私にだけ聞こえるように言った。
その後もムシを続けたら、いつしか斎藤くんが話しかけてくることはなくなった。
これで、良かったんだ。きっと。
私なんかよりも、斎藤くんにふさわしい子はいっぱいいる。
マンガが描けなくなったのは、この日からだった。
「おっす、平野」
週をまたいだ次の月曜日、斎藤くんは片手を上げてあいさつをしてきた。
「うん、おはよう」
私はそう返す。
「お前、もしかして痩せた?」
「まあね」
斎藤くんと絶交して以来、マンガが描けなくなった。
なんでだろ。
筆がのらないっていうか、気分がのらないっていうか。
なにをしても身が入らなかった。
それが原因で体重も落ちた。たぶんストレスだと思う。
マンガを描かないと死んじゃう病だから。
寿命が縮まったんだ。
「実はそんな平野に見せたいものがあるんだ」
「奇遇だね、私もある」
「でも俺が先だからな。俺はもっと見せたい」
「うん、わかった」
山本さんの射るようなまなざしが弓矢のように突き刺さる。
はいはい、あの件でしょ。
べつにいいですよ、斎藤くんに嫌われても。
私にとってはマンガの方が大事。そっちが死活問題。
さよなら、私のはかない青春。
「ほら、これなんだけど……」
「おお、これは!」
私は感嘆の声を上げる。
それは作家みょうりに尽きる喜びだった。
「お前が描かないから、俺が代わりに描いた」
いわゆる二次創作ってやつだった。
絵はヘタだけど原作に基づいたストーリー構成になっている。
「やるじゃん。すごい!」
「で、俺に見せたいものってなんだ?」
「これなんだけど……」
私は創作ノートを見せる。プロットじゃなくて、画集の方を。
彼はそれをパラパラとめくっていく。そして「あっ!」と短く叫んだ。
「It’s a piece of cake」
そうきれいに発音する。
「これ、俺じゃん……」
低い声がした。ヤバい、怒られる。
怖くて顔があげられない。
でも、なんの言葉も降ってこない。
すこしずつ視線を上げていくと、そこには反則級のくしゃくしゃな笑顔があった。
「わざわざ描いてくれたのか? サンキュー!」
え、普通は気持ち悪がったりするんじゃないの?
え、なにこの反応。
そう戸惑っているとまた英語で話しかけられた。
さすがは帰国子女。日本語と英語のバランスが絶妙だ。
「Don't become a girlfriend? (俺の彼女にならないか?)」
「It’s a piece of cake」
私はそう言ってほほ笑んだ。
【後日談】
「それにしても絵がヘタすぎ」
私はそう笑ってしまう。
カフェの室内は空調が効いて心地よかった。
「お前だって、英語の発音がめちゃくちゃだったぞ」
斎藤くんも負けじと言い返す。
「じゃあマンガの描き方を教えるから……」
「英語の発音を教えてやるから……」
ふたりは同時に言った。
「英語の発音を教えて」
「マンガの描き方を教えろ」
そうしてどちらからともなく吹き出した。