プロローグ
ある朝、グレゴール・ザムザは自分がなにか気がかりな夢から目を覚ますと寝床の中で一匹の巨大な蟲に変わっているのを発見した―
薄目をそっと見開くと、その冒頭の一文が瞼の隙間から読み取れた。ページの半分が枕の下敷きになっていて、その枕に俺は顔を半分埋もれさせていた。
『朝...』
眠気に抗うように呻きながら、身をよじり寝返りをうつ。うつ伏せから仰向けに体勢を変え、布団が半分ベッドからずり落ちるのが分かり、視界は白いシーツから天井に―
と思いきや、こちらを覗き込む見慣れたしかめ面が視界を埋めていた。
「もうチェックアウトのお時間なんですけどっ!いつまで眠ってるつもりですかっ!?」
この宿の客室係で主人の娘でもあるマノン・クロウプが布団の端を引っ掴むと、それを一息に引っぺがす。
「わっ、ちょ、待って―」
その身をくるんでいた心地よい温もりを剥かれた俺は、ベッドの上で反射的に身を縮こませる。
「もう、やめてくれます?下着だけで眠るの」
最初、同じ目に遭わされた時は俺の下着一丁の姿を見るや、顔を赤らめ悲鳴に近い声を上げていたというのに、慣れというやつは何とも味気ない。初々しく可愛げがあった頃はまだよかったのに、肝のすわった豪胆な娘になってしまった。
「可愛くない、とか思ってるんでしょ」
ふてくされた風なマノンがフンッと口を鳴らして手慣れた手つきで布団を畳み、ベッド脇の床に脱ぎ散らかした俺の衣類を大きめのカゴへと放っていく。
俺はよいしょと起きた勢いのままベッド脇に降り、窓際まで進みサッとカーテンを開け放つ。
「うん、前よりは、ちょっとな」
「それ、どっちなのよ」
「気にしてんのか」
背後でテキパキと片付けをする娘にちらと視線を流し、ピタと一瞬動きを止めるのを見過ごさなかった。分かりやすい奴。
「今日は何時にお戻りですか?カート・ゼクストン殿」
粗方部屋を片付け、俺の衣類とシーツやらガウンやらで満杯の洗濯カゴを小脇に抱え、マノンがドアの向こうで仁王立ちしている。視線が合うと、さっと目を逸らしてむくれて見せる。
錠を解いて出窓を開け放つ。柔らかな、しかし少し冷たい外気が部屋に入り込む。
「日暮れには。飯はいいや」
「そ。それでは行ってらっしゃいませ〜ご主人様ぁ〜」
わざとらしく鼻にかかる高い声を俺の背にぶつけてきたかと思うと、バタンとドアが閉じられる。部屋の掃除が控えているので、早く出ろと言いたいのだ。
カート・ゼクストン。俺の名―
大陸の西方より旅を続けているが、ここ半月ほどはこのファーリンゲンの街に居ついている。
職業、旅人―などという肩書きで風まかせに生きていけるほどこのセカイも甘くはない。
そう、この"セカイ"はまさに混沌の極みにある。
このセカイには、大きく五つの種族が住まうとされている。
人族、精霊族、竜族、魔族、そして天界族の五つだ。
さらにそれぞれの種族においても国家、または集団、党、一家などなど、粒も様々な集まりがある。それらが、時に結びつき離れては争いを続けている。そのような時代が繰り返された結果、各種族それぞれで力なき小さな集団はより大きな集団に、あるいは国家によって滅ぼされ、あるいは取り込まれていった。
やがてこのセカイは大きく分けて三つの強大な勢力が覇権を握らんとその機を伺う情勢にある。いつ最終戦争が起きるとも分からない危うさを孕む危険な均衡状態の下、人々はその日その日の暮らしを送っているのだ。
朝陽がもう高く昇ってしまった空を眺めていたが、ふと視線を落とすと通りの反対側の建物の窓からこちらを見やる御婦人の姿が目に留まった。満面の笑みを作り、軽く手を振ってみたが、御婦人は慌てた様子で部屋の奥へと引っ込んでいった。
さて、仕事に向かうか―
先に述べたように、俺は旅する流れ者。そんな根無し草の仕事となると、そのアテはたかが知れてる。
腕自慢なら政治家や貴族の用心棒、または商隊の警護役、港の倉庫番あたりか。剣術なら傭兵、あるいはどこかの騎士団に師範として雇われるかもしれない。知恵や学問の心得があるなら、商売や高利貸しをするのもいいだろう。
それらいずれも俺は他の誰かより優れているというわけではなかった。しかし、幸いにも俺には他の誰にもない"特殊技能"があった。それが何であるか、一言では記し難いものがある。いずれそれらを披露することになるだろう。
「カート」
階下でおーいと声がする。
「二日酔いじゃないだろうな?約束の時間に遅れるなよ」
クリス・レイジャス。今の仕事のコーディネーター役。俺と同じか少し若い風に見えるが、歳は俺よりも上だ。
「何だその恰好」
クリスの出で立ちを認め、思わずそう声をあげていた。
「山狩りだろ。借りてきたのさ」
胴体よりも太く大きな背嚢を背負い動物の毛皮を張り合わせた上着を着込んでいる。上階から見下ろして見えるその姿は、まるでカフカの話に出てくる蟲のようだ。
カフカ―
今降りると合図をし、ベッドへ踵を返す。枕に挟まる本を取り上げ、マノンがわざわざクローゼットから引き出してくれていた上着の内ポケットに差し込む。
俺の技能を引き出す武器は、書だ。そこに記される文であり、言葉。このセカイ、今ある現実として目の前に、あるいはアタマの中に立ち上がらせている事の全て。
"万物を統べる者"―
それが俺の職業。
不可解な事象、事件、問題の対処を請負い、これを解決する。
そうやって糊口を凌ぎつつ、とある目的を果さんと郷を離れて流れ者風情を続けている。
その目的とは―
身支度を整え、部屋の扉を締めて錠を回す。
「行ってらっしゃいませ」
隣の部屋の掃除をしていた女が丁寧にお辞儀をしている。スカラーという従業員だ。歳の頃はマノンより少し上か。大きくまあるい眼鏡がほっそりとして先がツンと高くなっている鼻に載っている。
「ご苦労様。マノンもあんたみたくしとやかな娘なら、主人も安心だろうにな」
後ろ手を振ってそう声をかけ、俺は螺旋の階段を降りていく。
「あの娘はあれでいいんだ」
マスター・クロウプ。宿屋の主人で飲み仲間。と言っても俺がこの街に着いたその夜、酒場で意気投合した壮年の男だ。名はロブという。
「ああでなきゃここを継がせられる器のある婿を捕まえてこられんだろ。」
「さあて、婿とやらを生け捕りにできるかな。あのじゃじゃ馬娘、並の男は殺してしまいかねない」
「アンタみたいな婿なら大歓迎だがな。アンタなら娘を手懐けられるだろうに」
冗談を言うなと首を振ると、両手いっぱいに食材を抱えたマノンがエントランスで立っていた。肩をいからせ、今にも抱えているものを放り出しそうだ。
「だあれが、アンタなんか!」
おいおいと笑いながら荷を受け取る父。彼女の肩越しからクリスがひょっこり顔を出す。
「町はずれに馬車を待たせてる。急ぐぞ」
クリスは宿の親子にやあと挨拶をし、腕を仰いで俺を急かす。
それじゃ、とマノンの脇をすり抜けバスケットからこぼれそうな柑橘種の果物をかっさらう。うしろで喚く娘と男の笑い声を受けて、俺とクリスは通りへ出た。
半刻ほど歩き、町はずれの街道口まで行くと従者が馬に草をはませているのが見えてきた。
「山に入るかどうかはまだ決まってないだろう」
「狼、山賊、はたまた亜人種。潜むとなると山だろう」
「村を当たろう。俺たちだけで」
クリスが従者に合図し、俺たちは荷馬車へと乗る。
「王都が使いを寄越した」
使い、と訊く。この件に関わりたがらなかった連中の動きがここにきて慌ただしい。目星が付かぬ内は互いに牽制し合っていたものが、俺たちの捜査状況を密かに伺い頃合いを見て介入する機会を待っていたということか。
まずは今回の一件について、あらましを述べておかねばなるまい。
えいっと従者が手綱を引き、ヒヒンと馬が泣く。馬車が街道を走り出す。
俺たちが住まうセカイについては、先に述べた。さらに詳しく述べると、人族の治世も一枚岩ではない。外的な脅威で言えば、やはり別の種族である。顕在的には魔族であり、潜在的には天界族だ。
人族の世もこれらの脅威に備えるべく、力を蓄えようとしている。しかし、誰がそれを率いていくべきなのか。互いの思惑、そして利権を巡り戦争が絶えない。
俺がクリスと出会ったのは何年か前だが、この地を訪れたのは半月ほど前。今、この馬車で向かわんとしている自由都市ユーゲンセンに俺は流れ着いた。
人族が根を下ろすこの大陸の経済の中心地にして、あらゆる部族、王族、国衆にも属さない市民自治で運営されている都市。それがユーゲンセンである。ファーリンゲンはその衛星都市の郊外にある。
そのユーゲンセンには各地方からあらゆる物、そして人が集まる。
互いに睨み合い、いがみ合う各勢力ではあるが、この自由都市を通じての人と物との交易、そして為替などで通貨が融通できていることで各々の経済の安定が図れている。
しかし、この物流の要たるユーゲンセンにおける中継貿易を脅かす事態が起きる。
この地を目指す商隊、あるいは各々の地方へと還る交易者が次々に行方不明となるという事態が頻発するようになる。
当初は各地方の国家政権が互いの犯行だと罵り合う外交問題へと発展。捜査名目で軍隊の派兵も秒読みかと見られた折にユーゲンセン市の評議会が各国の使者を召集。市が主導で捜査を行うこと、そしてその期限を設けたことで軍事衝突の危機を回避した。
だが、なかなか捜査が進展しないまま当の事態は後を絶たたず、やがて局所的にではあるが各国、そして当のユーゲンセンの重大なる経済問題として世の間で広く知られるようになる。
すると業を煮やした各地方政権は、独自の調査団派遣と交易の安全保障の名目で護衛役と称した事実上の一部軍隊を帯同させるようになる。
市も各政権の要求を抑えることができなくなり、議会は新たに連邦捜査委員を編成。各国の調査団の管理を行うという有名無実な制度を設ける。
するとやはり各国が好き勝手に証拠をでっち上げ、某国を陥れようと調査団と称した事実上の諜報機関が暗躍するに至る。
その折に俺はクリスから依頼を請けて、ユーゲンセンへとやってきた。彼は評議会から委任されている顧問捜査官なのだ。とはいえ、自治警の類ではなくあくまで顧問であり、顧問料で雇われている言わば同業者なのだが。
「カート、俺とお前の報告書は委員会内でもかなり効いている。客観的かつ信憑性に優れるって」
「俺たち以外は皆、どこそこの国がスポンサーに付いてるスパイ稼業の連中だ。それ以外の俺たち同様フリーの連中はどいつもコイツもど素人とくりゃ、そうなるだろう」
郊外とはいえ、件の事件があるというのに往来する人はなかなか少なくない。
「可能性のあるもののうち、優先順位からペトコ山とその山岳群から捜索になった」
「そうだったな。これから秋も深まり冬になっちゃあ山には入れない」
稜線の上に整備された街道からは、なかなか美しい景色が臨む。小川が流れ、黄金に染まる草地が風に揺れる。少し枯れかかったような草木の香りが頬を撫でる。
「あそこは王都が管轄する地域だから、彼らはそこで一気に決着を付けたいと踏んだわけだな」
「春まで待てないのか」
そうぼやくと俺はマノンから掠めた果物にありつこうと果皮を剥きにかかる。クリスは腕組みをし、のどかな景色に視線を投げる。緩やかな丘を下り街道は平地を行く。我々はクリスの言う王都に続く街道を、都を背にして下っているのだ。この街道はユーゲンセンと王都を繋ぐ大街道の支線である。
人族が住まうこの王の皿と呼ばれる大陸について説明をしなければなるまい。この皿には主たる王の都といくつかの地方政権、及び連合体が険しい山々や乾いた荒野、木々が生い茂る森に豊かな自然を湛える台地の上に点々と盛りつけられている。
大陸南部から中央部にかけて広がる広大な台地を所領とするのがラヴィオンヌ大公国である。古の伝承によれば、魔族による侵攻、さらには竜族の襲撃を退けこの大陸に安定をもたらしたとされるのが初代ラヴィオンヌ公だ。