第80話 Over
「おめぇ、何か俺に聞きてぇ事があるんじゃねぇのか?」
「……えっ!? ってグハッッッ!!」
……迂闊だった。プロ投手顔負けの豪速球がまともにみぞおちに突き刺さり息が出来ない。空手の組み手なら相手の突きや蹴りが急所に入っても身構えしてるから多少我慢は出来るけど、完全に棒立ち状態で硬球直撃は洒落にならない。ボールが胸を貫通したんじゃないかと思ってしまうほどの激痛が体中を走る。私、情けなくもその場でのたうち回って七転八倒。
「オイオイ、何やってんだおめぇはよ? マヌケ面してボケーッとしてっからそんな様になるんだぜ、相手が投げる時は危ねぇから常にボールから目を離すなって昔から口酸っぱくなるほど言ってんだろうが、このバカたれが」
「……と、父さんが投げる直前にいきなり鋭い指摘するから、ゲホゲホッ……!」
「だからといってキャッチしようと構えた両手を下ろして棒立ちになるバカがいるかボケナスがぁ! だらしねぇなぁ、親よりデカい図体してしかも空手まで習ってるクセに、この程度の球をどてっ腹に食らったくらいでウーウーうずくまってる様じゃちっともお話にならねぇな、それでもおめぇはこの渡瀬虎太郎様の娘かよ? 少しは偉大なる姉を見習え、優歌は以前、ボールが顔面直撃して鼻骨が折れて鼻血ブーブー噴き出してても高揚した表情で目ぇキラキラさせてたぜ」
「……私が普通、正常な人間のリアクション! アンタ達親子の頭がおかしいの! 痛みの神経伝達回路が壊れてんじゃないの? ゲホゲホッ、あ゛ー、苦じぃ……」
「あーあ、姉様に比べてみっともねぇ限りだな妹君様は、二番目だからってちぃとばかし甘やかして育てたのがマズかったのかもしれねぇな? よし、なら今から育児方針転換してビッシビシいくぜ、そんな様じゃわざわざ手にキャッチャーミットはめてる意味ねぇからいっそ取っちまえ! ミット無しで全球素手で受け止めろ、これが本当の『ミットもねぇ』、なんてナ? アッヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッー!」
「……しょーもないダジャレぬかしてないで少しは娘の体を心配しろ、この児童虐待親父め……!」
昨晩の美香さんの突然の訪問から一夜明け、衝撃の事実を聞いてしまいショックで学校を休んだ私はなぜか今、近所の公園で父さんとキャッチボールをしている。なぜか、と言うよりも昼過ぎ頃に帰ってきた父さんに部屋に引きこもっていたところを無理矢理外へ連れ出されたので完全に不可抗力な運命だったんですけどね。
ノックもせず突然扉蹴り破って部屋に入ってきたと思いきや、いきなり胸ぐら掴まれ階段ズルズル引きずり下ろされ有無言わさず強制連行。嗚呼、ついに私も借金か何かの肩代わりでどこかの不健全なお店にでも身売りされるのか、と一瞬覚悟したほどの活殺自在っ振りだった。私は何だ、アンタの家畜か? 『ドナドナ』の世界かっつーの。相変わらず人の都合や心境なんてちっとも考えない自分勝手な人ですよ、全くもう……。
「で、こんだけ準備運動すりゃもう大丈夫だな? じゃあもう肩慣らしはこれで終わりだ、次はいつもの通り座って構えな、本気で投げるから死ぬ気で捕らねぇと本気で死ぬぞ」
「……ちょ、ちょっと待って! まさかまた昔みたいに投球練習場のキャッチャーみたいな真似を私がしなきゃいけないの!? 待って待って待ってヤダヤダヤダ、父さんとキャッチボールするの随分と久し振りなんだからさ、もうしばらくは普通に投げてよ! 私、まだ完全にボールに目が慣れてないんだから!」
「あぁん? 目が慣れねぇだ? 甘ったれてんじゃねぇよオイ、何の為にわざわざ月謝払ってまでおめぇに空手習わせて動態視力鍛えさせてると思ってんだ? そんな弱気な事で本気でメジャーリーグの舞台に立てるとでも思ってんのか!? あっちじゃ平気で160キロ投げるピッチャーなんてザラなんだぜ、俺様のストレートぐらいで目が慣れねぇなんて女々しい事言ってんじゃねぇぞバカ野郎!」
「女々しいって私、普通に女だし! しかもメジャーリーガーになりたいなんて夢語った覚え一度も無いし!」
「うるせぇグダグダ文句言ってねぇでさっさと座って構えろクソったれがぁ! でねぇと次は容赦なく頭にボール直撃させてその頭蓋骨ベッコリ陥没させんぞゴラァ!!」
……どう見てもキャッチボールなんかじゃないよ、何コレ? 完全にタダの投球練習、自分が思う存分投げたいだけのワガママ親父。普通、親子のキャッチボールってお互い捕りやすいゆるーいボールを投げ合って楽しむものだよね? なのにこの男ときたら、昔から私やお姉を公園に連れ出してはキャッチャーみたいに座らせて大人気なくオーバースロー腕フルスイングで全力投球。
ちなみに当時、私達姉妹はまだ小学生、私に至ってはやっと小学校に馴染んでこれたかどうかのピッカピカの一年生。まだ永久歯すら生え揃ってない幼くか弱い小さな幼女。やっぱり頭おかしいですこの人、これが男の子相手ならまだともかく、何で女の子にこんな危険極まりない真似をさせるかなぁ、この非常識親父様は?
しかもねこのオッサン、その投げるボールのスピードがとても尋常じゃない。高校時代に球速だけなら即戦力で通用するとプロのスカウトマンからお墨付きを貰った事のあるほどのバカ強肩の持ち主で、以前私達を連れて参加した地元プロ球団のファン感謝デーではスピードガン競技で軽く150キロ台をズカズカ連発、遠投競技ではホームベースから投げたボールを外野のバックスクリーンの看板に直撃させて観客や本職の選手達を顔面蒼白させた過去を持ってたりする。
「そんじゃいくぞ、構えたところに真っ直ぐ投げっから、逃げずにしっかり捕れよ!!」
そんなピッチングマシン顔負けの豪速球が自分目掛けて飛んでくる訳だから、受け止めるこちらは常に命懸けであって……。
「……っ! いったぁいっ!!」
「よぉし、何が目が慣れねぇだよ、やりゃあちゃんと捕れるじゃねぇか! 良いねぇ良いねぇ、この『バシッ!』っていうミットの音が心地良いんだよなぁ、いやぁたまんねぇなオイ」
「……本当にミットはめてても意味がない! 相変わらず痛い、手のひらが痛い!! 何で!? まだ子供の頃の話ならともかく、体も成長して色々痛みにも慣れた今になってもこんだけ痛いってどういう事……!?」
「日々成長してるのはおめぇだけじゃねぇのさ、この前バッティングセンターのオヤジに頼んでスピードガン測ったら球速上がってたからな、俺様のストレートはまだまだ進化するぜ、人類前人未到の170キロ台も夢じゃねぇな!」
「何で四十過ぎたいい歳のオッサンが今になっても日々スクスクと順調に成長してんのよ!? アンタには四十肩とか腰痛とか老化現象一切無いの!? 日本人の平均身体能力どころか生物の限界まで凌駕し過ぎ! 一体何者!? 宇宙人!?」
そんな未知の生命体がお相手だから、いつも私とお姉は家に帰る頃には腕、足、体中が青アザだらけ。本当にマジで殺される、死にたくないから必死で二人で捕球技術を磨いたもんです。おかげでどんなに速い物でも目が追いつく様になりました。新幹線はカタツムリ、ジェット戦闘機はハエ程度、今は光の速度すら手に取る様にわかります。空手の組み手でも相手の動きが止まって見えます。極みの境地です。私とお姉の強さの秘密はこんなところにもあり。もちろん嘘です。つーかこの人、確か昔はプロのバイクレーサーだったはずだよね? 野球関係ないよね? 今も昔も別に投球技術磨く必要なんて全然無くない?
「ったくもう、こんな遊びみたいな事、私相手じゃなくて職場の休み時間とかで橋本さんや竹田さんとかにやらせればいいのに……!」
「仕方ねぇだろ、実際この前昼休みに竹田にキャッチャーやらせたら、アイツ手の中指骨折して仕事にならなくなっちまったんだからよ」
「何やってんのアンタ!? まともに仕事してないとはいえ仮にも肩書きは社長でしょ!? 自分の会社の大事な社員を労災適応外のバカな理由で負傷させんなっ! しかも竹田さんは自分のバイクチームの大切なメカニックなのに、これでチームの運営に支障が出て翔太の成績悪くなったらどうすんの!?」
「そうだなぁ、言われりゃ確かにそうだな、チームに支障きたしちゃマズいわな、これじゃ社長どころかチーム代表としても失格だな、イカンイカン、反省反省」
「本当だよ全く、ちゃんと心から反省して、社長としてもチーム代表としてもみんなに迷惑かけないように心掛けないと……」
「よし、じゃあそれを踏まえて今度は翔太にキャッチャーをやらせるとするか」
「わかってねぇ! 全っ然わかってねぇ!! 肝心の所属ライダーを負傷させてどうする!? アンタ本気で翔太の人生をオシャカにするつもり!?」
あっそうだ、実はその翔太なんだけど、なんとか無事に生還を果たす事が出来ました。私は朝からずっと部屋にこもっていたから直接会ってはいないんだけど、父さんに外へ連れ出される時に部屋のドアが開いてたので中を覗いたらベッドにうつ伏せになって倒れてた。全く生気が感じられなかったけど、多分生きてると思う。多分。
でも、あの様子だと明日も学校に復帰するは難しいかな? 何か雪山か無人島から奇跡的に救出された遭難者みたいにげっそり痩せ細っていたし。病院でメディカルチェック、あとメンタルケアも受けた方が良いかも。あの様子じゃ余程怖い目にあったんだろうなぁ、精神に異常を来すぐらいの悪夢の様な壮絶な拷問地獄か何かを……。
「ストレートばかり投げるのも飽きたな、じゃあ次はフォークでも投げてみるか、死にたくなけりゃしっかり捕れよ」
「……えっ? いやそれは止めようよ、無理だよ無茶だよ無謀だよ、父さんの変化球ってどこ飛んで行くか予測出来ないから、結構高校卒業した後も球団からスカウトされずにプロ野球選手諦めたんじゃなかったっけ……?」
「それは何十年も昔の話だ、今さっき言っただろ? この渡瀬虎太郎様は常に成長し進化を遂げているんだ、今の俺ならフォークなんてそんなもん豆を箸で摘む程度の朝飯前、ガクンと落ちたボールが手前で地面にめり込んでズッポリ埋まるほどの超絶魔球を披露してやんぜ」
「……それ、野球のルールだと確かワイルドピッチってヤツだよね? キャッチャーミットにボールが収まってないんだから……」
それどころかボールが地面から取り出せなくなってランナーがいたらガンガン進塁されまくると思うんですがー? なるほどねぇ、どうりでいかに150キロ投げる怪物球児だろうと当時のスカウトマンがプロ契約を見送る訳だ。この人全然ルール理解してない。つーか多分ルールブックなんてもんがある事すら知らない。知ってても承知しない。自分がセーフだと思ったら例え審判を力ずくでねじ伏せてもセーフにするだろう。
これじゃ毎試合退場処分だ、とても選手として使いものにならないよ。とても子供の憧れになるようなスター選手になれないよ。むしろなっちゃダメ、真似しちゃダメ。こんな身勝手人間が今まで社会という複雑なルールの入り組む世界で今まで生きてこられた事自体が不思議でならない。もしかしたらこの人は日本国憲法すら全く理解してない可能性もある。確かにこれまでの人生、犯罪スレスレな真似事を平気でやらかしては警察のお世話になってきたみたいだしなぁ……。
でも、そう考えてみるとこの天上天下唯我独尊男をチーム代表兼監督としてしっかりと管理育成指導調教し、ロードレース界の世界王者の座にまで登り詰めさせた母さん、渡瀬麗奈の功績ってものスゴい偉業なんだなぁ。やっぱりこの二人なるべくして夫婦になったのかな? 父さんを上手く扱える女性なんて世界中探したとしてもとても母さん以外絶対務まらないだろうし、かといって母さんみたいな残虐鬼嫁と一緒になってまともに生きていられるのは父さん以外考えられないし、本当に世界最凶の夫婦だなぁ、この二人は……。
「いいか娘よ、今からおめぇに本当の消える魔球ってヤツを見せてやるよ、人類未踏の世紀の瞬間だ、瞬きしてたら見逃すぜ、よーく目ぇかっぽじってしっかりその脳裏に焼き付けな!」
「……あーあ、何でこんな最悪の両親の間に生まれてきちゃったんだろう、私って……」
……何か、世紀の瞬間っつーかもっとヒドい光景、未曽有の大惨事を脳裏に焼き付けられそうな予感が、ボールが落ちて消えるどころかとんでもない方向に変化して異次元に消えていきそうな予感がプンプンする。近くの民家の窓ガラスとか大丈夫かなぁ? 周りに歩行者とか遊んでる子供いないよね? 瞬きどころか目を覆いたくなる鮮血現場を見る羽目になりそう。そんな私の不安もどこ吹く風で投球動作に入る暴走親父。どうかお願いですから関係ない第三者には被害が及ばぬように……。
「ときに、娘よ」
「……?」
「俺に聞きてぇ事ってのは、歌月の話なんだろ?」
「……へっ!? ってガハッ!!」
……迂闊だった。いや別に今回は鋭い指摘に驚きミットを下げてた訳じゃない。迂闊だったのは自分の気構え。第三者を心配してる場合じゃなかった。一番危険だったのは自分の身だった。父さんの投げたボールは変化して落ちるどころか真っ直ぐ一直線に地面に当たり、有り得ない強烈スピンで有り得ない角度にバウンドして加速しながら構えていた私のミットを避けるように額を強襲、激突。頭の中で何かがひび割れたような不快な音が聞こえた。私、情けなくも再びその場にのた打ち回って七転八倒。
「オイオイ、さっきから何やってんだおめぇは? あれほどミットはしっかり構えろって言ってんのに、親より先に死にてぇのか、この親不孝もんが」
「……っ! っ!! っっっ!!!!」
「何だよ、何か言いてぇんだろうがちっとも言葉になってねぇぞ、うずくまって足バタバタしてねぇで言いてぇ事あんならはっきり言えよ」
「……こっ、殺す気かぁー!? 自分の娘、殺す気かああぁぁー!!!?」
「だからおめぇがまたボケーッとしてちゃんと捕らねぇからこんな無様な結果に」
「あんなもん捕れるかぁー!! 何でフォークがあんな有り得ない超絶スピンしてんのよぉ!? どういう投げ方したらあんなボールになんのよぉー!?」
「ハァ? だってフォークって確かアレだろ、ボールを指で挟んで捻り潰すように回転かけて地面に叩きつけるって確か昔読んだトレーニングマニュアルに」
「そのマニュアルの著者って誰!? ここに連れて来い! ぶん殴ってやる!! つーかそんな投げ方でどうやってあんな豪速球投げられんのアンタは!? アンタの指と肩、絶対におかしい!! 指で挟むのは正解だけど、フォークはボールを回転させずに投げて変化させるもののはずでしょ!?」
「何ぃ! そうだったのか! 新たな発見だ、これで俺はまた一つ賢く進化したぜ! 何だよ興味ねぇとか言っときながらおめぇ野球詳しいじゃねぇか、さすがは史上初の女子メジャーリーガーを目指しているこの俺様の娘だけあるな、見直したぜ!」
「だから目指してないしそれほど詳しくもないしっ! つーかそんなの結構常識だしその程度の知識も無しで野球をやるなっ! そしてまずは亥の一番に嘘でも建前でも良いから少しは苦しんでる自分の娘の体を心配しろっ!!」
……幸い、額の方は出血する事も無く少しタンコブが出来た程度で済んだ。いや、出血が無いと脳に深刻なダメージが響いている可能性があるって言うからむしろ血が出てた方が良かったかも。さっきミシッって音したけど骨大丈夫かな? 今度翔太と一緒に病院で検査して貰おうかな、この前もお姉に壁に投げつけられて頭かち割られたばかりだし。本当にこの一家と生活してるといくつ命があっても足りないよ、まさかマジで頭蓋骨陥没させられかける羽目になるとは思いもしなかった……。
「そうだなぁ、この世に生を与えた偉大なる親様に対してろくな言葉使いも出来ないおバカな無礼者は一度、頭のてっぺんこじ開けて脳みその細部までじっくり調べて悪いところ治して貰った方が良いかもしんねぇな」
「言葉使いどころか四十過ぎても人間として最低限のモラルすら身に付けられていないアンタにだけはそんな事言われたくない!!」
そんな私のズバリな正論もちっとも耳に入っていないのか、目の前の保護者失格男は涼しい顔でこちらに歩み寄り地面に転がっているボールをスッと拾うと、右手でポンポンとお手玉をしながらニヤリと笑みを浮かべ私の顔を横目で覗いた。
「だがしかしだ、今とさっきのおめぇの反応からすると、どうやらおめぇがイジイジ悩んで塞ぎ込んでる理由ってのは俺様の予想通り、図星だったみてぇだな」
「……えっ? いや、あの……」
「この期に及んでしらばっくれんじゃねぇよ、おめぇが最近アレコレと俺達の昔の事を嗅ぎ回ってんのは調べがついてんだ、家に帰ってきて早々に優歌から話は聞いてるし、今さっきも新作から電話がかかってきたばかりなんだぜ」
「……お姉が!? 酔っ払って朝帰りしてきてから、今までずっと自分の部屋で爆睡してたはずなのに……!」
「バカタレが! おめぇは自分の姉貴を何だと思っていやがる? アイツはな、いづみからおめぇが部屋に引き籠もって出てこねぇって聞いてから、どうしたら良いかわからず相談しようと俺が帰ってくるのをずっと待ってたんだ、もしかしたら自分が余計な話吹き込んだせいで苦しんでるんじゃねぇか、自分のせいでおめぇと俺の親子の関係を悪化させちまったんじゃねぇか、って酔いも飛んじまうほど深刻におめぇの事を心配して悩んでたんだよ」
「……お姉……」
「おめぇがそれを知らねぇのは今まで部屋に閉じ籠もって一歩も外に出てねぇから、今アイツが爆睡してんのは昨日の夜から一睡もしてないから、当たり前だろうが、違うか?」
「………………」
「ったく、本当に手のかかる困った妹君だなおめぇはよ、しかも優歌といい新作といい、こんな面倒なクソガキに余計な事をベラベラと喋ってくれたもんだぜ、やれやれ……」
父さんは一瞬顔をしかめて一つ溜め息をつくと、思いもしなかった事実に呆然とする私に歩み寄りながらポイッとボールが挟み込まれた状態のグローブを投げてきた。私が慌ててそれをキャッチすると、今度は私が手にはめていたキャッチャーミットを取り上げ無言のままクルリと背を向けると、再び元居た位置へと歩き出し腰を下ろしてこちらにミットを構えた。
「次はおめぇがピッチャーの番だ、容赦はいらねぇ、全力込めて思いっ切り投げてこい」
「……えっ? あの、今の話の続きは?」
「そんなもん投げながらでも出来んだろ、ほれ、真っ直ぐド真ん中、俺が構えた場所一直線にストレートをブチ込んでこい、手加減すんな、全力だぞ」
「……い、いや、でも私、さっきも言ったけどキャッチボールするの本当に久し振りだから、捕るのはまだしも思いっ切り投げたりなんてしたらどこに飛んでいくかわからないよ……?」
「投げる前から余計な事を気にすんな、おめぇなら出来る、それに多少の暴投ぐらい俺が全部逸らさずしっかり受け止めてやる、今てめぇの目の前にいる人間が誰だと思ってんだ? おめぇの世界でたった一人の親父様、渡瀬虎太郎様だぞ、俺を信じて思いっ切り投げてこい!」
「……でも……」
「でももヘチマもねぇ、さっさと投げろ! それとも何か、まだ俺様の魔球が受け足りねぇってのか? おぉそうかいならいいぜ、じゃあ今度はナックルボールってヤツをてめぇの眉間目掛けて思いっくそズドンと」
「あーもうそれはヤダヤダヤダ! だからそれも思いっ切りズドンと投げる変化球じゃねぇっつーの! ったくもーう! わかったわよ、投げりゃ良いんでしょ投げりゃ!」
左手にはめているミットを右の拳でバンバン叩き、必要以上にやる気満々の父さんに対して、私はどうもいまいちその気になれないでいた。やっぱりおかしいもん、何度も言うけど私は別に野球が好きでも何でもないのに、何で女の私が父親と一緒にこんなキャッチボールとは程遠い投球練習みたいな事をしなきゃいけないのか。
しかも昨晩『何が何でも!』と決意しながらも美香さんの話を盗み聞きして意気消沈し、一度は諦めてしまった『真実』を聞き出す最高のチャンスを目の前にしてるというのに、少しは話に集中させてよ、本当にもう! 投げれば良いんでしょ、正拳突きのイメージで踏み込んで腕振って、変なところ飛んで行ったってそんなの知るもんか!
「……えいっ!」
「……うっしゃあ! 少しストライクゾーンから外れたが、良い球だ! よーし、昔教えた通りちゃんと肩を入れて全身の使って投げれてるじゃねぇか、投げ方忘れて情けねぇ女投げで山なりボールなんぞ放ったりしやがったらひっ叩いてたところだったぜ、腕の振りといい腰の回転といい悪くねぇな、良いバネしてるぜ、フィジカル的には理想的な体つきの女に成長したみたいだな、おめぇは」
「フィジカル的? 何ソレ、体力だけって意味? そんなの褒められてもちっとも嬉しくないよ! 成長した娘を褒めるならもっと女性らしい部分を、もっと気の利いた言葉で、少しは無いの?」
「チッ、女はいちいち褒め言葉一つにうるせぇ生きもんだなぁ、なら『唸りをあげて壊れた脱水機みてぇにグルグル回る素敵なお腰が超セクスィーで、振り下ろされるパイナップルも叩き割りそうなゴツくてむしゃぶりたくなるお手手が超プリチィー』とでも言ってやりゃあ良いのか?」
「……アンタさ、本当は人を褒めようなんて気、これっぽっちも無いだろ?」
……でもまさか、父さんの方からこうして話を切り出してきてくれるだなんて思ってもみなかったなぁ。こっちから踏み込まないと絶対話してくれないだろうと予想していたから、父さんの口から『歌月さん』の名前が出た時は正直びっくりして飛んでくるボールに集中出来なかったよ。
そのおかげで私の額には大きなコブが出来たけど、こうして巡ってきたチャンスの方がコブより遥かに大きいよね。これが怪我の功名ってヤツなのかな? ちょっと違うか。棚からぼた餅? それも違うな。まぁいいや、私を心配してくれたお姉と体調しんどいのにわざわざ電話をしてくれた新作さんのおかげだね、後でちゃんとお礼を言わなきゃ。それとこの額に出来た大きなコブにもね。
「……で、父さん、さっきの話の続きなんだけどさ……」
「次はもっと大きく腕を振って体全身で押し出す様に投げてこい、まだまだフォームに余裕がある、おめぇのその恵まれた体でこれが全力だとはとても思えねぇな、そうすりゃもっと強く速く誰にも打てねぇ球が投げれるはずだぜ」
「だーかーらー! 私は別に野球が上手くなりたいなんてこれっぽっちも思ってないから! 何度も同じ事言わせないでよ! つーか今、ちゃんと人の話聞いてた!?」
「だぁ~かぁ~らぁ~! じゃねぇよさっきからグダグダつべこべうるせぇな、みっともなくオロオロドタバタ焦んじゃねぇよ、やりながらちゃんと話してやるからさっさと投げろこのクソ野郎が! そんなに投げんのが嫌ならこのミットをバットに持ち替えて、今からてめぇを地獄の千本ノックの刑に晒してやっても良いんだぞゴラァ!!」
「はいはいはいはいわかったわかった、わかりましたよ! 投げます投げます! 投げれば良いんでしょ投げれば! あーもぉう!!」
そういえば中学入ってすぐの頃だったかなぁ、学校の体育の授業でクラス対抗のソフトボールの試合をやった時、サードを守ってた私が打球を捌いて思いっ切りボールを投げたら、ファースト守ってた同じクラスの女子の顔面にボールぶつけて病院送りにしちゃった事があったっけ。あまりにスピードが速すぎてとても捕れなかったみたいで。加減して投げるつもりだったんだけどさ、その時のランナーが足の速い千夏だったからつい力が入っちゃって……。
間近で惨事を目撃した千夏や周りにいたクラスメイトはみんな顔面蒼白。翼は大爆笑して小夜もなぜか『アウトー!』とか叫んで大喜び、先生も唖然としてたっけ。それ以来私は学校でバケモノ女子扱い、さらに空手をやってる事や『渡瀬優歌の妹』である事も全部バレて、それ以降の体育でソフトボールの時はだーれも私とキャッチボールしてくれなくなっちゃったんだよね。もうちょっとおしとやかな乙女になりたかったのに、こんな女に一体誰がした? ええ、間違いなく目の前にいるこの体育会系バカ親父のせいですよ。
「いやぁしかし久々にキャッチボールしてみりゃおめぇも知らんうちに随分と良い球を投げるようになったもんだ、たまにはこうして親子のコミュニケーション深めんのも悪くねぇな、おめぇも優歌同様俺様の計画通り、順調に俺好みの女に成長してるぜ」
「……俺好みって、私個人の理想や将来像は完全無視っスか? 自分の私利私欲の為に娘を改悪するのは立派な虐待行為の一つだと思いますよ父上様? まぁそんな事よりさ、そろそろさっきの話の続きを……」
「んじゃあ次はアレだな、おめぇの更なる進化を求めて大リーグボール養成ギブスを装着して火の玉ノックでもやってみるとするか」
「アンタどこのちゃぶ台ひっくり返し親父!? 何で私が巨人の星を目指さなきゃなんないのよ!? しかも渡瀬家の場合、心配して庇ってくれる役の姉まで一緒に血も涙も無い鬼コーチになりかねないし!」
「嫌なのか? おっかしいなぁ、その姉である優歌は喜んで付けたんだかなぁ、大リーグ養成ギブス」
「嘘ぉー!?」
「だったらいっそ虎の穴にでも入門させるか、猛虎の眼をしたリングの王者を目指すのも悪くねぇかもな」
「今度はどこの覆面レスラー!? それもう野球全然関係無いし! しかもわざわざそんなところ行かなくたって渡瀬家そのものが虎の穴みたいな生き地獄じゃん!」
「おっかしいなぁ、優歌は喜んで付けたんだかなぁ、黄金の虎の仮面」
「マジでぇー!?」
「おめぇなかなか良いバネしてんな、俺と一緒に拳闘やってみねぇか? 立て、立つんだジョー!」
「今度はどこの眼帯ボクシングジム会長よ!? 燃え尽きろってか!? 真っ白な灰になれってか!? どんだけ時代遅れの昭和スポ魂思想なのよ、アンタ間違いなく梶原一騎信者だろ!?」
「おっかしいなぁ、優歌は喜んで燃え尽きて真っ白な灰に」
「びっくりぃー!? ってコラッー! なってねーし! 燃え尽きてないよ、お姉まだ灰になってない! つーかいつもいつもアンタ達は親子揃って一体何やってんだ!? アンタの理想とする自分好みの女性像って一体どんな人間!?」
……確信した。お姉があんな獰猛な野獣女になってしまったのは間違いなくこのオッサンのせいだ。調教されてる、洗脳されてる! 明らかにこの人のせいで人生の歩みを大きく踏み外している! じゃあそんなお姉を小さい頃から目標にしてしまった私はどうなるの!? 二の舞!? 悪夢再び!? もしかしてそれも見越してのこのオッサンの策略!? やっぱり計画通り!? どんなにもがいても結局、私の人生ってこの男の手のひらの上で転がされる運命!? 私、着実に真っ白な灰へ猛烈爆進中ですかぁ!?
ダメだダメだダメだ、目指す将来見誤ってるよ私! 軌道修正しなきゃ、今からでも遅くない、もっとまともな人間を見習って道標とすべきだ! じゃあ誰なら良い? まともで身近な人間……、母さん? イヤイヤあれもう人間じゃないし! 完全に魔女だし! 悪魔だし! じゃあいづみさんは? イヤイヤイヤあの人も性根は相当獰猛だし! 野獣だし! むしろ過去の悪行の数々はお姉より質が悪いし! うわぁダメじゃん、最悪じゃん! やっぱり私の周りには、人生の道標に出来るような立派な人間が一人もいなぁーい!!
「……ううっ、不遇だぁ、私ってことごとく恵まれない環境に生まれてきてしまった可哀想な子供なんだぁ……」
「オイオイ、何を急に跪いてガックリ沈み込んでんだよ? 座ったまま待ってるこっちの足が痺れてくるじゃねぇか、いつまでも突っ伏してねぇでさっさと投げろこのボケカスが」
「……こんなんならいっそどっかに身売りされた方がマシだよ、ドナドナド~ナ~ド~ナァ~……」
「そんな易々とグズってる様じゃ、おめぇはとても俺ら一族が目指す『穏やかな心を持ちながら、激しい怒りによって目覚めた伝説の戦士』にはなれねぇなぁ? オッス、オラ父さん!」
「それ何て宇宙一凶暴で好戦的かつ残忍冷酷な戦闘民族!? 何がオッスよ、私には尻尾なんか生えてないし、ましてや満月の日に大猿になったりしないから!」
「なら俺と一緒に偉大なる航路を目指そうぜ! 海賊王に、俺はなる!」
「今度はどこぞの少年誌漫画ラッシュ!? 黙れ麦藁ゴム人間! 海賊王にならんでもアンタは十分に迷惑王! あーもうさすがにイライラしてきた、いい加減に話の続きをさせてよ! こんなしょーもないツッコミをいちいち娘にさせるな、このダメ親父!」
「父親より優れた娘など存在しねぇ! ケンシロウ、俺の名前を言ってみろ!」
「いい加減にしろっつーの!! 私は北斗神拳伝承者でもなければ胸に七つの傷もなぁーい!! それより父さん、さっきの話!! 話してくれないならもう帰るよ! そんなにキャッチボールしたいなら一人で壁相手にやって!!」
「……エッー、そんなぁ、久々に娘と遊べてパパちょっとはしゃいじゃっただけじゃん……」
「……な、何よ急にそんな寂しそうな顔して……、そんな顔したってダメなものはダメだよ、元々は無理矢理外に連れてこられて、会話しながらって言ったから付き合ってあげてただけなんだから、そんなに私とキャッチボール続けたいなら話の続きをしてよ」
「は、話をすれば……、歌月の事を話せば……、ほ、本当に俺とキャッチボールを……、続けてくれるのか?」
「……なーんかどっかで聞いたようなセリフ……、まぁいいや、はいはい! 約束します! 話の続きとの引き換えのギブアンドテイクだよ! さぁ話して! 父さんと歌月さんとの、そしてお姉との真相を私に教えて!」
「だ が 断 る」
「ナニッッッ!!」
「……この渡瀬虎太郎の一番好きな事は、真相を知りたくてもがき苦しんでいる奴に『NO!』と言ってやる事だ……」
「言うと思った! 絶対言うと思った!! 苦しんでる相手に『NO!』って、最低の人間じゃねーかアンタは! 一体これまで何人の人間の好意をそのくだらないネタの為に犠牲にしてきたんだ!?」
「お前は今までに食ったパンの枚数を覚えているのか? WRYYYYYYYYY!!!!」
「……うわあああああぁぁぁぁ!!!! アッタマきたぁー!! てめーは私を怒らせた! 全力でスタープラチナぶち込むぞオラオラオラオラァー!!」
「とか言っておいておめぇも随分ノリノリのノリツッコミ全開じゃね? 野球どころか漫画のネタまで詳しいとは、さすがはこの渡瀬虎太郎様の娘だな、よしよしパパがそんな可愛い那奈ちゃんにご褒美のチューをしてあげよう」
「うぜぇ触るな唇尖らせて気持ち悪い顔近寄らせるなこのセクハラ親父!! 全然話が前に進まねぇ!! もういい帰る!! 話もキャッチボールも全部やめじゃあー!! そんなもんやってられっかバッキャロー!!」
もう限界、堪忍袋の緒が切れた! 何なのよこの頭の中が幼稚園児以下のド腐れ変態バカ親父、自分から話を切り出す振りをして、ぬか喜びしてる私の反応を見てからかってただけじゃん! 本当は『真実』を語ってくれるつもりなんてこれっぽっちも無いんだ、これまで通りくだらない事をベラベラ並べて、また私との話をはぐらかして逃げようとしてるだけなんだ! もう付き合ってられない、帰って寝る! 期待するんじゃなかった、こんないい加減な人間を頼ろうとしていた私が間違ってたんだ!
「ったく、この程度の冗談で何をそんなにカッカしてんだよ? つまんねぇ女だなぁ、おめぇのそのクソ真面目で融通きかねぇ性格は本当母親そっくりだな、優歌ならこれくらい笑いながらサラッと軽く受け流してボケ返してくるのによ」
「あーはいはいそうですか! だったら私じゃなくてお姉とキャッチボールしたらどうですか? どうせ私はクソ真面目でつまらない女ですよ、どうせ!」
「おーおーツンツンしてやがる、義理の姉妹とはいえ同じ家庭で育ってこうも性格が違うってのは、やっぱり母親の遺伝子が影響してるせいなのかねぇ?」
私は怒りの感情そのままにグローブを地面に叩きつけ、家に帰ろうと父さんに背を向けズカズカと公園の出口に向かって歩き出した。しかし、数歩進んだ次の瞬間には、後ろから聞こえてきたさり気ない独り言につい足が止り振り返ってしまった。今思うとここまで全部、真相が知りたくていきり立つ私をあえて一度頂点までカッとさせて落ち着かせる、私の心境や性格全てを見抜いていた父さんの計算された小芝居だったのかもしれない。
「……確かにアイツの母親は、俺がどんなにバカやってもいつもニコニコして許してくれた、仏様みてぇな女だったしなぁ……」
「……えっ?」
私が振り向いたその目線の先には、数々のライバル達との激戦の末にロードレース界の頂点に登り詰め、その後も数々の栄光や挫折を繰り返しながら、過酷且つ壮絶な人生を全力で駆け抜けてきた一人の『男』の姿があった。表情はキリッと引き締まり、さっきまでのおちゃらけ全開の空気は完全にどこかへ消えていた。
先程まで壊れた機関銃の様に無差別乱射されていた無駄口をグッと閉じ、こちらを見つめて静かに佇むその圧倒的な気迫を前にして、腹わた煮えくり返っていたはずの私の怒りもすっかりどこかに吹き飛ばされてしまっていた。決める時はキメる伝説のカリスマ『渡瀬虎太郎』の本気モード、いつもはふざけてるクセに時たま急にこんな風にカッコ良くなったりするから本当に困る。だったら普段からそうしててよ、全くもう……。
「……血は争えねぇとは良く言ったもんだぜ、母親と娘でやってる事は正反対でちっとも面影ねぇけどよ、俺を上手く扱うその部分だけはしっかり受け継いでいるのかもしれねぇな……」
喋りながら右手に視線を落とし握るボールをジッと眺める父さんの目は、いつものガン付け一つでヤクザや警察官ですら震え上がらせてしまう鋭く尖ったものではなく、まるでじゃれてくる子犬を愛しむような優しい目になっていた。しかも口元に浮かべる笑みすら優しく見える。常にアウトローな獣道を我が物顔で爆進してきたこの人がこんな表情を見せるなんて、実の娘である私ですら意外な発見だった。嘘みたい、こんな穏やかな笑顔、出来る人だったんだ……。
「……歌月か、最高の女だったな、俺がどんなバカやって道を踏み外しても、アイツはいつも笑って許してくれて俺を見放したりしなかった、あんな良く出来た女は世界中捜しても二人もいねぇ、二度と巡り会える事はねぇだろうなぁ……」
父さんはボソッとそう言うと、しばらく黙ったまま空を仰いで一つ深い溜め息を吐いた。多くを語った訳ではない、はっきりと詳しく全てを述べた訳ではない。でも、この時の父さんの言葉、その表情で、私の心の中に抱いていた一つ目の疑問は揺るぎない確信へと変わった。
『……やっぱりそうだ、新作が言ってた通り、父さんと歌月さんは昔、恋人同士だったんだ……!』
今まで語られなかった、厚いベールに隠されていた知られざる不良親父の淡い青春時代の記憶。私が知りたかった生まれる前の過去の真相。その重く閉ざされていた『真実』の扉が今、少しずつ音を立てて開いていく。私の体中に電気の様に緊張が走り、次第に鼓動が高鳴っていくのを感じた。
「……産んだ母親の顔も捨てた父親の顔もわからずに、一体何の為に誰の為に生まれてきたのかもわからずに、イラついてグレて荒れ果てた毎日をダラダラ過ごしてた俺を救ってくれたのは、この世界に生まれてこれた喜びってヤツを俺に教えてくれたのは、俺を母親代わりに育ててくれた森川鈴子でもなく、俺の才能を花開かせてくれた滝澤一義でもなく、俺の唯一無二の相棒だった風間貴之でもなく、間違いなくアイツ、歌月だった……」
「……父さん……」
「……話してやるよ、これがずっとおめぇが知りたがっていた俺と歌月の過去の『真実』だ」
父さんは再びこちらを見つめてそう言うと、今度は途中でふざける事なく真面目にちゃんと、歌月さんとの馴れ初めや数々の思い出を静かに語り始めた。
物心つく前の幼き頃に母親を亡くし、孤児院『森川の里』へと預けられた直後に父親まで失踪し、家族の愛情や温もりなど知らぬまま育ち毎日喧嘩や悪さに明け暮れる問題児だった父さんにとって、後に自分同様に実の両親に捨てられ虐待を繰り返す里親から救出される形で森川家の養女にやってきた歌月さんは、まるで出口の見えない暗闇のトンネルに差す一筋の光の様な存在だった。とても可愛らしい顔立ちに透き通るような白い肌、美しくキラキラと輝く銀色の長い髪に一瞬にして心を奪われてしまったそうだ。
でも、可憐であると同時に同じ日本人とは到底思えない異様過ぎるその容姿が、アルビノという先天性の遺伝子疾患によるもので、それにより彼女が心無い大人達から毎日の様にいわれ無き差別をされる悲惨な幼少時代を過ごし、他人と接触するどころか自分の姿すら見られるのを恐怖に感じるほど人間不信に陥っていた事など、当時そんな疾患が存在する事すら知らない父さんが知る由もなかった。初めて詳細を鈴子さんから聞かされた時は、さすがの怖いもの知らずの不良少年もショックでとても胸が痛んだそうだ。
「イチャイチャしてぇなぁ、せめて話がしてぇなぁと思っても怖がられて部屋ん中に籠もっちまうしよ、俺一人だから警戒されるのか、じゃあ大人数ならどうだって啓介や新作と一緒に誘ってみてもやっぱりダメ、なら同じ女ならどうだってわざわざ歩美姉ちゃんに頭下げて協力して貰っても全然ダメでよ、つれねぇヤツだな、俺達よほど嫌われてんのかなってガッカリしてたら、鈴子のババアから色々アイツの生い立ち聞かされてなぁ……、言葉が出なかったぜ、アイツにの不遇さに比べりゃ俺の不満なんてゴミクズみてぇなもんだったからなぁ……」
事情を知った父さんはその後、一切の邪念や下心を捨て一心不乱形振り構わず歌月さんの為に尽くすようになった。学校の登下校の際には紫外線防止の日傘を両手で差せる様に代わりにカバンを持ってあげたり、道中にある長い階段を昇る際には虚弱体質だった歌月さんをおんぶして登ってあげたりした。
身の回りの世話だけじゃない。昨日病院で新作さんも話していたが、アルビノの障害をからかった人間達は相手がクラスメイトだろうと大人の教師だろうと容赦なく片っ端からとっちめ、歌月さんを傷つける存在からその身を守る盾にもなった。自分が人からどう思われようと構わない、全ては彼女の為に、一緒に笑って過ごせる毎日を送って欲しいが為だけに。
「まるでモンスターや魔王からお姫様を助け出す勇者様みたいだね、この時の父さんは……」
「まあな、か弱い女を守るのは真の男の務めってもんだろ」
「……なら、何でその有り余るほどの絶大な愛情、今の家族に対しても同じ様に振る舞えないかなぁ……?」
「あん? 何か言ったか?」
「……いーえ、何にも……」
そんな父さんの純粋混じりっ気無しの熱い誠意に、固く閉ざされていた歌月さんの心も徐々にその扉を開いていき、いつしか父さん達以外の人々とも笑顔で会話を交わせるようになるまで明るい性格へと変わっていった。そして、悪ぶってても性根はとても優しい父さんの姿に歌月さんも心惹かれるようになり、日を重ねる毎に二人の距離は次第に接近、一年も経った頃には周囲からも色々と噂をされる親密な仲に発展していった。
「中学生で男女交際とか、随分とマセた子供だったんだね父さんは? それとも昔の子供達の方が今の私達より若干早熟傾向だったのかな?」
「当時は二十歳で所帯持ってて当たり前、独身貴族だの結婚晩年化だの今のお前らがガキでゆとりなんだよ、つぅかな、小学生の頃から親の目も気にせず翔太とイチャイチャしまくって、いざ正式に付き合い出した早々いづみとダメ嫁だの鬼姑だの毎日ギャーギャーやってるマセガキ全開のおめぇにアレコレ言われる筋合いはこれっぽっちもねぇよな」
「……すいません、以後自重します……」
「ったく、これだから最近の若ぇもんは身の程知らずで参っちまうぜ」
「……でも、父さんだっていつも私に『早く結婚しちまえ』とか『孫はまだか』って散々急かしてるじゃん……」
「あぁん? 何か言ったか?」
「……いーえ、なーんにも……」
学校でも孤児院でも、どこでも二人はいつも側にいた。出会ったばかりの頃は怖がりで出不精だった歌月さんも、父さんの底知らずのポジティブな性格に触発されて頻繁に外へ出歩くようになったという。夏は近所の海水浴場へ、冬は雪の日に雪合戦、もちろん紫外線対策も万全にして。そして二人の両隣りには啓介さんと新作さんも一緒。お姉と新作さんが持っていたあの写真は、そんな頃に撮った楽しい少年時代の四人の姿だった。
「あの写真の歌月さんの笑顔、スゴい可愛かったなぁ……、女の私でも見とれちゃうくらい綺麗だった、啓介さんや新作さんまで歌月さんに惚れちゃう理由、何かわかる気がするよ……」
「確かにあの笑顔は人を虜にする凶器か魔術だな、恋は魔法なんて言うくらいだしよ、つっても、俺同様に魔法にかかったヤツは片っ端から鉄拳制裁かまして強制的に目ぇ覚まさせてやったけどな」
「……前言撤回、やっぱりこの人勇者様なんかじゃねーよ大魔王だよ、可哀想に、歌月さんは魔王にさらわれた悲劇のお姫様だったんだ……」
「あぁん!? 何か言ったかぁ!?」
「いーえ! なーんにも!」
父さんが学校とかで何かしら問題を起こした時は、まず一番最初にその件が歌月さんに伝えられていたそうだ。担任の教師や母親代わりの鈴子さんの説教には一切聞く耳持たないが、相手が歌月さんとなればそれは別。日頃の行いも学業の成績も完璧に近いほど優秀だった歌月さんは、当時の父さんにとって絶対に頭の上がらない存在だった。体力以外に勝てると思える部分が何一つ無かったらしい。
「あの頃はよく喧嘩をして相手に怪我させりゃあ毎度毎度歌月に説教されたもんだな、人が泣いたり痛がったりするのを見るのは嫌、自分だけじゃなく他の人達にもそれ以上に優しく接してあげて欲しいってな、他人が泣くのが嫌だって言っといてそのくせ言ってる本人が泣いてせがってくるもんだからたまったもんじゃねぇ、とんでもねぇ破壊力だったぜ、マジで洒落になんねぇよ全く」
「……へぇ……」
「まぁそれでも、平謝りして反省する俺を最後はいつもあの笑顔で許してくれたけどな、片や非の打ち所のねぇ可憐なお姫様、片や救いようのねぇ最低な大魔王、こんな釣り合わねぇ無様な男でもアイツは俺を一度も見放したりはしなかった、中学卒業すら危うかった俺が何とか高校に進学出来たのも、アイツが啓介や新作達と一緒に同じ学校へ行こうって言ってくれて、必死になって俺に勉強を教えてくれたおかげだしな……」
しかし、運命は残酷にも二人の仲を引き裂いた。四人揃って高校への進学が決まった矢先、歌月さんは新しい里親の籍へ移る事になり、それまで過ごしていた森川の里を離れざるを得なくなったのだ。その里親とはお姉や新作さんの話でも出てきた大企業の重役の男性。男性と森川家との話し合いの末、歌月さんの先々の将来を考えての決断だったという。それまでずっと一緒だったのに、同じ一つの屋根の下で暮らしていたのに、突然家柄の厳しい大富豪の養女となってしまった彼女を、父さんは引き留める事も追いかける事も出来なかったらしく……。
「……でも、何も別れる必要なんてなかったんじゃないの? どんなに家柄が厳しくたって隠れて二人で会う事ぐらい出来たんじゃ……?」
「どこのロミオとジュリエットだ? アホ抜かせ、そんなシェイクスピアみてぇな戯言が通用するような事情じゃねえんだよ、頭の中がお花畑のめでてぇヤツめ、ハナクソみてぇな少女漫画の見過ぎだこのバカタレが」
「……で、でも、何かそんなのやっぱり父さんらしくないっていうか……」
「それまで家族ってもんに恵まれなかったアイツが、やっと人並みに安定した生活を手に入れる事が出来たんだ、一生衣食住に困らず、疾患の治療費も心配なくなったしな、親無し金無し才能無しの俺がしゃしゃり出る幕などどこにも無かったのさ」
「……でもぉ……」
「でももヘチマもねぇんだようっせぇなぁ、そんな話はどうでもいいんだよ、てめぇが今さら俺にグダグダ説教抜かしたって別に過去が変わる訳じゃねぇし、第一てめぇが一番知りてぇのは俺と歌月の愛別離苦話じゃなくて、何故何時如何にして俺が歌月の娘である優歌を養女として預かったかって事だろ? 違うか?」
「……そうだけど……」
「だからそれを今から説明してやる、さっきまでの話は余興、ただのあらすじだ、こっからが本題だぜ、余計な探り入れねぇで黙って聞けよ、いいな?」
「………………」
「ったく、これだから年頃の女ってヤツは他人様の秘め事ばかり覗き見したがりやがってよ、やっぱり突っ立ったまま話すのはしんどいな、おめぇには一切物言わす猶予を与えねぇ方が良さそうだ、ほれ、グローブ拾えよ」
いまいち納得出来ずにふてくされる私をよそに、父さんは淡々と一方的にその後日からお姉を養女として向かい入れるまでの間の経緯を語り始めた。私に横槍を入れる余裕を与えぬように、距離を置いて再びキャッチボールをしながら。但し今回は普通のキャッチボール。さっきみたいにキャッチャーをやれとか言われたけどそれは全力で丁重にお断りさせて貰った。あんな豪速球受け続けてたら竹田さんじゃないけどこっちの手の指が全部折られちゃうよ……。
「ありゃあ確かアレだ、俺が奥井と揉めてた頃、暇を持て余して嫌々病院へ診察に行った日だったなぁ……」
国内でのプロデビューから僅か一年足らずで世界の並み居る強豪を押しのけ中型クラスの頂点に登り詰め、その後も数年に渡り最強無敵の絶対王者として王座に君臨し続けてきた父さんも、奥井家との騒動が原因で一時的にロードレース界から半ば『追放』に近い状況下に追いやられ、さらに長年蓄積したレース中の度重なる転倒のダメージで脳に腫瘍を患っている事も検査で判明し、全くサーキットを走る事が出来ない謹慎状態に陥った時期があった。今から十八年ぐらい前、父さんが現役を引退する一年前の頃の話だ。
身の危険も省みない強引なライティングスタイルが仇となった。精密検査の結果、緊急に摘出手術を施さなければならないほどではなかったそうだが、このまま何の治療もせず放っておけば後々は脳神経系列に障害を起こす可能性があり、ましてや再び頭を強打しかねないロードレースに出場するなど自殺行為だと医者から通告される重大な病状だった。その為、父さんはその時期は治療に専念する事に決め、毎週一回の定期診察を受けに通院を重ねる日々を過ごしていたそうだ。
「突然目眩がして目の前真っ暗になったと思えば次の瞬間にはもう病室のベッドの上でよ、さらに目が覚めた途端に医者から『あなたの頭の中エラい事になってますよー、次転んだら脳みそ破裂して死んじゃいますよー』だもんな、失神してぶっ倒れる事自体が今まで経験無かったもんだから無敵の俺様もこの時ばかりはさすがにビビったぜ」
「怖いなぁ、いきなり『死ぬかもしれない』って医者から伝えられるなんて……、でも父さん、さっきの説明で『通院してた』って言ってたけどさ、倒れて病院に運び込まれた後、すぐさま『しばらく入院』って話にはならなかったの?」
「その日に脱走した」
「……ハァ!?」
「入院しろって言われたけど院内禁煙だっつうから冗談じゃねぇって思ってな、本当は精密検査すんのも面倒臭かったんだがいづみのヤツが無理矢理俺を病院まで連行しやがってよ、頭に変な吸盤付いたコードみてぇのペタペタ貼り付けられて生きた心地がしなかったぜ、しかも一回検査受けちまったもんだから病院側から勝手に次の予約入れられて毎週必ず通院しろって念押されて、おかげで診察サボろうと思っても時間になると病院から催促の電話がかかってきてうるせぇの何の」
「……何やってんのアンタ!? 死にたいの!? いづみさんいなかったらアンタ今頃死んでるよ! 真面目に通院しろ! つーかむしろ入院しろ! そういう病気って一番喫煙がダメなんじゃないの!? 自分の病状しっかり理解してる!? 確か現在も治療中だよね父さんの腫瘍、最近はちゃんと真面目に病院行ってるの!?」
「そういやこの前会社の留守電に四十件ほど伝言が残ってたなぁ、ありゃ多分」
「行け! 今からでも良いからダッシュで病院行けっ! 何とかならないかなぁこの人の病院嫌いは、いづみさーん! 出番でーす!」
しかし、父さんの身に降りかかったこの突然の災いは予想もしなかった形で福と転じた。父さんはその病院である人物の手ほどきに導かれ、一度は諦め繋いでいた手を離した愛しき人と運命的な再会を果たす事が出来たのである。
「……まさかと思ったぜ、心の片隅でそう願いながらも、もう叶わぬ望みだと自分に言い聞かせていた時期だったからな……」
ふとしたきっかけで立ち寄った入院病棟のある病室の一部屋、そこには背もたれを上げたベッドに寄りかかり窓の外を眺める一人の美しい女性がいた。真夏の日差しよりも眩しく透き通るような白い肌と、空いた窓から吹くよそ風になびいて光輝く銀色の長い髪、一度見れば忘れる事の出来ない深く吸い込まれそうな赤い瞳。月日が経過し大人になり若干容姿が変わったが、父さんはすぐに目の前にいるのが誰なのかわかった。偶然にも父さんが通院していたその病院に、あの歌月さんも入院していたのだ。
「……本当、人生ってのは何が起こるかわかったもんじゃねぇよ、前日まで治療なんて面倒臭ぇ、どうせ死んだって構わねぇなんて自暴自棄になってたのにな、そんなガキみてぇな威勢や戯言、一瞬にしてどこかに吹っ飛んじまったぜ……」
まるで誰かが筋書きを書いたドラマの様な劇的な再会。いつかまたどこかで必ず会える、出会えなくても必ず捜し出す、その時までには立派な成功者になって今度こそ彼女と一緒になる、別れたあの日にそう決意していた父さんは喜びのあまり衝動的に歌月さんを抱き締めてしまったそうだ。歌月さんも父さんの姿を見た途端、大粒の涙を流し感激していたという。
だが、しかし……。
十数年の月日の流れは二人の置かれる状況を急激に変えてしまっていた。一度切れた糸を結び直すには深くそして遠すぎる、大きな溝が二人の間にポッカリと広がっていたのだ。
「……今でも残ってる、忘れねぇ、忘れられねぇ、あの時の両腕の感覚、あれで嫌でも悟ったぜ、もう何もかもが全て『遅過ぎた』ってな……」
抱き締めた体が、嘘みたいに細い。元々小柄でスレンダーな体格だったとはいえ、まるで綿か藁を持ち上げたみたいに体が軽い。軽過ぎる。細くやつれた白い腕には、治療の為に何度も打ったと思われる注射と点滴の針の痕。その時すでに歌月さんはアルビノの影響で発症した皮膚ガンが体中に転移して体内の臓器を蝕み、幾度の手術と抗がん剤の副作用によって限界に近いほど体重が激減していたのだ。
「……天国から一転、地獄に叩き落とされた気分だった、俺がどうなってもいいなんてバカ考えていた頃に、アイツはあんなに小さい体で生きる事に全力で、忍び寄ってくる死の影に必死になって抗っていた、愚かな自分が情けなくなったぜ……」
父さんを打ちのめした現実はそれだけではなかった。歌月さんの握り締めたら今にも折れてしまいそうなその細い左手の薬指には、白銀に輝くリングの『刻印』があった。それを見た父さんは全てを理解した。もう戻れない、もうあの頃には二度と戻れないんだ、と……。
「……歌月さんはその時もう、すでに結婚してたんだね……」
「……まぁ、自分で言うのも何だが自業自得だな、俺がいつまでも煮え切らずに自分誤魔化してチャラチャラしてたのが悪ぃのさ、おめぇの言う通り、本気でアイツを自分の『もの』にしたかったんなら、あの時ボロボロになろうが地の果てまでも追いかけていきゃあ良かったんだしな、情けねぇ、本当、つくづく情けねぇ話だ……」
「……父さん……」
「オイオイオイオイ! おめぇがそんな湿気た面すんじゃねぇよ、娘に同情されるなんてみっともねぇ恥を親にかかせんなこのバカ野郎が! 俺が歌月にフラれたおかげでおめぇはこの世に生まれてこれたんだぞ、嘘でも良いからちったぁ喜べよコラ」
それでも父さんは歌月さんのお見舞いの為に毎週サボる事なく病院へと通い続けた。自分の診察を終えた後は担当医の『自宅安静』の忠告も全く聞く耳持たず真っ直ぐ歌月さんの元へと向かった。最初は診察日だけの面会だったのがいつしかそれ以外の日、ついには毎日の日課となり、立ち上がるのも不自由になった彼女の代わりに昔の様に身の回りの雑用を買って出た。喉が渇けばお茶を汲んであげたり、少しでも食べやすくなるよう食膳のおかずを箸で小さく切ってあげたり、薬の影響で嘔吐した時は嫌な顔一つせず汚れた衣類を洗濯してあげたりした。
体調の良い日にはいづみさんや新作さん達と協同して病院の目を盗み外へと連れ出し、娯楽施設や観光スポットに連れて行ってあげたり、啓介さんが用意したシークレットゲリラライブに招待してあげたりした。逆に体調が良くない時やガンの治療や検査などで疲れている時は周りを気にせずゆっくり眠れるように気遣い、そっと病室を出て院内禁煙のマナーを守って外にある公園のベンチで一服。そして彼女が目覚める頃には、不安にならぬよう病室へと戻り手を握り側に付き添ってあげた。
過ぎてしまった時間が二度と戻らない事も、どんなに尽くしても決して報われない事もわかっていた。でも、父さんはそれだけで満足だった。全ては歌月さんの為に、病魔に苦しむ歌月さんに再び、見た人を幸せな気分にしてくれる魔法の様な笑顔を取り戻して貰う為に。あの満面の笑顔がもう一度見たい、それだけの為だけに……。
「俺の都合なんてもうどうでも良かった、アイツがどうしたら毎日笑って過ごしていけるか、思い残す事のねぇ最高の人生を送っていけるか、あの時は毎日そればかりを考えてたな、そう考えてる時だけは、俺も奥井の事や自分の頭ん中の『爆弾』の事も全部、忘れる事が出来たしな……」
想い続けた愛しき人と共に人生を歩んでいく望みは潰えた。ならば、こんな自分でも自分なりに何か彼女の役に立てる事はないだろうか。彼女が抱えている苦悩や不安を少しでも取り除いてやる事は出来ないだろうか。いつか彼女が天に召される時、この世界に大切な宝物を残していかなければならない不安を……。強い日差しが照りつける暑い真夏日、歌月さんが眠っている時間にいつもの様に公園のベンチに座りタバコをくわえ、痛む恋心を押し殺し、いつしかそう思うようになった父さんの目には、その傍らで虫取り網を振り回し楽しそうにはしゃぐ一人の少女の姿が写っていた。
『やったー! 見て見て虎太郎ちゃーん! あたし、こんなにデッカいセミ捕まえたぜー!』
通院当初、毎週お決まりの診察と検査に嫌気が差して悪態ついてベンチでタバコをふかしていたところを突然『暇なら仕事で来てくれないお父さんの代わりに遊んでよー!』とベッタリ懐いてきた当時六歳の馴れ馴れしい少女。鬼ごっこをさせられ、肩車をさせられ、アイスやジュースを買ってくれと散々振り回され、挙げ句の果てには『お礼にお母さんに会わせてあげる!』と無理矢理腕を引いて全く用の無い内科入院病棟へと連れて行った無邪気な少女。
少女が誘うその先には、父さんがずっと捜し求めていた女性の姿があった。驚いて唖然とする父さんの腕を、少女は嬉しそうに飛び跳ねてグイグイと引っ張る。その少女の瞳の色は母親と同様に赤く、髪の毛は風にたなびきキラキラと銀色に輝いていた。
『なっ、なっ! あたしのお母さんって、すっげー美人でキレイだろー!?』
少女の名前は優歌。出産に耐えうる体力が無い事を覚悟で歌月さんが命懸けで産んだ、世界でたった一つの大切な宝物。そして、世界でたった一人の大切な私の義理の姉。彼女が二人を引き寄せた。運命の再会を手ほどきした人物、父さんを歌月さんの元へと導いてくれたのはお姉だった。もしもお姉がいなければ、もしもあの時父さんの前にお姉が現れなければ、二人は永遠に再会を果たす事は出来なかった。再び心を通わす事は叶わなかった……。
「……歌月の病状が日に日に悪くなるにつれ、アイツは譫言の様に優歌の将来を悲観して泣き言を漏らしてたな、もし自分がいなくなったらあの子はどうなるのか、自分と同じ障害を生まれ持ってしまって、自分と同じ実の母親と共に暮らせない幼少期を過ごす事になって、本当にこの先上手くやっていけるのか、将来幸せになれるのかって、てめぇの体の苦痛そっちのけでボロボロ涙を流して泣いてたっけな……」
「……父さん……」
「……本当、強ぇ女だったよアイツは、俺なんかよりも百倍も一千倍も強ぇ女だった、正直、あの時の俺は身も心もボロボロでよ、奥井の策略で窮地に追い込まれ、積み上げてきたもん全てを失って、挙げ句の果てには自分の体もボロボロになってな、本音言うとな、自ら命を絶つ事まで考えてたくらい衰弱しきってたんだ」
「……!?」
「でも、そんな俺を再び歌月は救ってくれた、アイツがいたから俺は立ち直れた、アイツの死を乗り越えられたから俺は強くなれた、そして貴之達と共に再び逆境に立ち向かい、全ての因縁に決着をつける事が出来たんだ」
「………………」
「そんな感謝してもしきれねぇ愛する恩人が残していった唯一の忘れ形見だ、別に歌月から直接養子に貰ってくれなんて頼まれた訳じゃねぇ、アイツの事だ、俺からそんな話を持ちかけたって迷惑かけられないって断っただろうしな、でも俺は歌月がこの世の去った時、この俺の全てを懸けても責任持って優歌を守る、幸せにしてみせるって決めたんだ、それが俺のアイツへの想い、俺なりのせめてもの恩返しなんだ」
「……お姉も、父さんを救ってくれた愛する恩人の一人……?」
「……かもな、もしあの時、俺が優歌と出会わなければ、俺と歌月が再会する事はなかっただろう、そしてあの時、俺が歌月と再び出会わなければ、今ここにいる俺はいなかっただろう、いや、それどころか今のこの平穏な生活も平和な日々も、決して訪れる事はなかっただろうな……」
「……それが、父さんがお姉を養女として迎え入れた本当の理由……」
「どうだ、納得出来たか妹君様よ? それとも、これだけじゃこんなとても子育てに向いてねぇぶっきらぼうなクソ男が人様の娘を我が子同様に育ててる理由としては不十分か?」
……ううん、そんな事はない。そう言いたかったけど、胸がいっぱいになって言葉に詰まった私は笑顔で首を横に振り、気持ちを込めて父さんの胸目掛けてボールを投げてその問い掛けに答えた。ボールをキャッチして私の顔を見た父さんもニヤリと笑い、いつもの悪ガキの様な明るい表情に戻ってこちらにボールを投げ返し……。
「……いったぁぁぁぁい!!!!」
「オイオイ何だ何だぁ? 今のは八分の力でしか投げてねぇぞ、これ程度の球で大袈裟に痛がってんじゃねぇよ、だらしねぇなてめぇは本当に」
「ハチブ!? 今の豪速球が八分!? じゃあさっきまでの球は一体何分だっだのよ!? マジでグローブはめてる意味ない、五本の指どころか手のひらの骨まで砕かれちゃう、もう拷問だよコレ、児童虐待だよ!」
「やれやれ、おめぇが歌月や優歌みてぇな強ぇ女になれるのはまだまだ先の話みたいだな、実のところおめぇが生まれてこれたのもその二人のおかげだっつぅのによ」
「……えっ? 何それ、どういう意味?」
「『そういう』意味だ、これが優歌がおめぇの姉貴になった経緯、ここまでが今、おめぇに話してやれる過去の『真実』だ、後のわからねぇ話はてめぇの足りないオツムで一生懸命悶々と妄想するんだな、これは俺からの『宿題』だ」
「……何よ、宿題って……」
「それと! こうして一つ疑問が晴れたからにはウジウジ引き籠もってしてねぇで明日からは元気良く学校行けよ、それがおめぇに『真実』を話してやった俺からの等価交換条件だぜ」
「……こっちの了承も無しに交換条件とか、相変わらず身勝手っつーか理不尽っつーか……」
「なら、明日の朝までずっと俺様の魔球を受け続けるか、あぁん!? 交換条件としてその左腕一本頂くぜ、学校行くのと片腕生活、てめぇの望みはどっちだゴラァ!!」
「行きます行きます! 明日からちゃんと学校行きまーす!!」
「よぅし、それでいい、合格だ!」
父さんはそう言うと、私が投げ返したボールを背面キャッチしてニヤニヤと笑っておちゃらけてみせた。その表情はまるで悪戯好きの少年の様な爽やかな笑顔。娘である私ですら今まで見た事の無い、あの写真の歌月さんみたいな陰り一つ無い満面の笑みだった。かく言う私はこれまでの疑問が晴れて胸の支えが取れ悪い気分ではなかったが、新たな『宿題』を押しつけられて未だ頭の中は混乱したままだった。
『……私が生まれてこれたのは歌月さんとお姉のおかげ? どういう事? そういえば今の父さんの話の中に母さんの名前って一度も登場しなかったなぁ、当時母さんと歌月さんは面識あったのかな? つーか、自分の夫の心の中にこれだけ大きな存在の女性がいるって、母さんは知っているのかなぁ……?』
何か更に複雑な心境になってきた。これは父さんだけじゃなく母さんにも突撃取材する必要、アリ? でも、それは何か禁断の扉、パンドラの箱を開けてしまうのと同じくらいの恐怖を感じる。もし母さんが歌月さんの存在を知らなかったら、浮気やら不倫やら不健全な事柄が大嫌いなあの人はぜっーたいブチ切れて夫婦喧嘩になるに決まってる。また訳わかんない改造銃やロケットランチャー撃たれたらたまったもんじゃないよ。どうしようかなぁ、いづみさんに相談してクッション役になって貰おうかなぁ……。
「しかしまぁ何だ、おめぇも知らねぇ内におめぇなりに成長してきてんだな、随分と『良い球』を投げる様になったし、俺の『全力投球』もしっかり受け止められる様になった」
「だからー、私は別に野球選手になんてなりたくないし……」
「チッ、わかってねぇな、体力の事言ってんじゃねぇよ、『精神的に』って話だ、何もキャッチボールは『ボール』じゃなくても出来るんだぜ」
「……?」
「ふぅ、やっぱりわかってねぇな、ここら辺はまだまだ頭がガキ、こんなんじゃあ心にプリキュアの種が芽生えるなんてのはまだまだ先の話だな」
「オイちょっと待てぇー! アンタまさか低年齢女子向けアニメまで視聴してんのかぁー!?」
「ハピネストーンを集めておとぎの国を救うなんて夢のまた夢」
「日曜朝からテレビ釘付けかああぁぁー!? せめて見るならドラゴンボールとかワンピースにしてぇー!!」
「クッキングアイドルなんてもう雲の上の存在だな、たまの失敗はスパイスかもね♪」
「このロリコンめぇぇぇぇ!!!! この変態、変態変態変態!! アンタみたいな節度弁えない大きなお友達が無邪気な子供達の夢を壊すんだ!! そんな歪んだ大人は規制!! 自重!! 病気よ病気!! 病院行けぇー!!!!」
……もしかして歌月さんが最後まで遺していくお姉を心配していたのは、こんなダメな人間に後を託さなければならないのを悲観してたからじゃないだろうか? 実際にお姉、絶対この人から悪影響受けちゃってるもんね、まともな家庭の元でまともな教育受けてればきっと母親譲りの優しい女性になってたんだろうなぁ、とっても残念です。こんな青少年の教育上宜しくない危険極まりない不浄男じゃなく、せめて実の父親がちゃんとお姉を育ててくれさえすれば……。
「……えっ? 実の、父親……?」
「あ? 何だどうした、またバカみてぇな面してボッーとしやがって」
「……ねぇ、ちょっと待ってよ父さん、父さん達がお姉を養子に迎えた時、お姉のお父さん、歌月さんの旦那さんは何も言わなかったの? 歌月さんが亡くなった後もお姉の親権はその人にあったんでしょ? なのにどうして……?」
「………………」
そうだよ、私がずっと心の中に抱え込んでいたもう一つの疑問。例え母親が亡くなったとしてもお姉にはまだ実の父親の存在があったはず。なのに、どうしてお姉は渡瀬家の養女として籍を移す事が出来たのか。普通なら有り得ない話だ。両親共に亡くなっているのならわかるが、お姉の話や新作さんやいづみさんの話からも父親に関しては何一つ語られていない。一体、その人と父さんの間には何があったんだろうか……?
「……ねぇ父さん、お姉のお父さんってどんな人だったの? もちろん会った事あるんでしょ? 父さんとはどんな関係だったの? そして、今もその人は……?」
「………………」
「……父、さん……?」
今も元気なのか、どこかで生きているのか、他にも色々と聞きたい事がたくさんあったが、私はそれ以上喋る事が出来なくなってしまった。お姉のお父さんの話を持ち出した途端、一瞬にして父さんの雰囲気が一変したからだ。まるでここから先は踏み込めないバリアを張られた様に張り詰めた空気が周囲を漂い、その目つきは先程まで歌月さんとの思い出話をしていた時の穏やかなものではなく、明らかに敵意を持った鋭く冷たいものに変わっていた。
「……父さん、あの……」
「……蓑田、優人……」
「……えっ?」
「……『悪意』に取り憑かれた、哀れな男の名前さ」
「……アク、イ……?」
その時突然、携帯電話の着信音が私達の会話を遮った。父さんは面倒臭そうに舌打ちをしてズボンのポケットから電話を取り出すと、その着信の主と会話を交わし始めた。仕事関係者と話しているとは思えない馴れ馴れしい言葉使いにかったるそうな顔、それから察するに相手はどうやら勝手知ったる人物っぽい。
「……誰から?」
「いづみだ、大事な話があるから仕事帰りに合流して久し振りに外で晩飯食わねぇか、だってよ」
「いづみさんが?」
「とても大事な話だから絶対に来いって念まで押されたぜ、何だアイツ、アイツが俺に飯奢るなんて珍しいな、雹でも降るんじゃねぇかこりゃ? しかもおめぇらガキ共は留守番で麗奈とあづみの姉ちゃんまで誘ってるっつうし、一体何だってんだ大事な話ってよ」
「……大事な、話……」
私はそれが一体何を表しているのかすぐに察しがついた。それはきっと昨夜の話、新作さんの病状の件だ。父さんはまだ知らない、一つ屋根の下で寝食を共にし、兄弟同然で育ってきた大切な親友の命の炎が、あと僅かの時で消え去ってしまう事を。あづみさんまで誘った理由は多分、仕事で海外にいる啓介さんの代理か、あるいはその話をするのに心細かったいづみさんがお姉さんを頼ったのか……。
「晩飯の時間か、そういや長話しすぎてすっかり日が暮れちまったな、俺はこのままいづみとの待ち合わせ場所に行くから、おめぇはグローブとボール持って家に帰って優歌と翔太の飯の準備してやれよ」
「……う、うん、わかった……」
「ふぅ、何か急にしみったれた気分になっちまったな、おめぇとの歌月の件といい翔太との貴之の件といい、あまり死んだ人間の過去の話はしたくねぇもんだぜ、何か昨日も危うく死にかけたって新作が電話で言ってたし、親しい輩に先立たれるのは決して気分の良いもんじゃねぇからよ……」
「………………」
「それと、今さっき俺が言った事は忘れろ、ただの独り言だ、気にするな……、明日はちゃんと学校行けよ、いいな、逃げんなよ」
それだけ言うと、父さんは私にボールの入ったグローブを渡して背を向け公園の出口へと歩いていった。両手をズボンのポケットに突っ込み俯き加減で歩くその背中は少し寂しげで、この後いづみさんから知らされる非情な現実をすでに予感している様にすら見えた。
『……逃げんなよ……』
父さんの最後の言葉が胸に刺さる。確かに、この人はどうしようもなく身勝手で理不尽でいい加減な人間だけど、歌月さんの為にお姉を守り、貴之さんの為に翔太を育て、心半ばで倒れていった仲間や親友、愛する人達の様々な遺志を背負って生きている人なんだと、今日話してみて少し実感した。この人は、どんなに辛い現実に対しても目を逸らさずに逃げてなんていない。
ならば、私だって逃げてちゃ駄目だ。しっかりと現実を見つめ、それを受け止める強さを身に付けなければならない。明日はちゃんと学校へ行こう、そして翼と会おう。いつも通りの会話が出来るかどうかわからないけど、でもいつまでも逃げ回っている訳にはいかないんだ、もっと辛い現実がこの先待ち受けているのかもしれないんだ、もっと強い人間にならなきゃ駄目だ。でないと、父さんはまだ私に『真実』の全てを語ってはくれない……。
「……蓑田、優人……」
初めて判明したお姉の父親の名前。忘れろと言われたけど、忘れられない。あの父さんの殺意に近い尖った雰囲気からして、お互いの関係は決して穏やかなではない、何か因縁めいた危険なものなのだろう。だけど一瞬だけ、憐れむ様に悲しげな目をした父さんの表情が、なぜか脳裏に焼き付いて離れなかった……。