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第79話 Hallelujah



「……痛、いたたたた……」



滲みる。お風呂上がりの体のあちこちが燃えたぎる様に熱くヒリヒリ痛む。打撲に擦り傷に締められ跡の炎症に挙げ句は噛み傷。これぞ満身創痍。あのバカ姉め、いくら空腹だったとはいえマジで人に噛みつくか普通? 冗談じゃないよ本当に、私はアンタの非常食じゃないんだっつーの!

そんなに腹減ったんなら米くらい自分で炊け! つーかコンビニで弁当でも買ってこい! 犬や猫だってその気になれば自分の餌ぐらい自分で確保するのにさ、こっちがいちいち用意してあげないとなーんにもしないんだもん、あの人。まるで生贄を捧げないと天変地異を引き起こす祟り神だね。誰かお祓いして追っ払ってくれないかなぁ、あの忌まわしき疫病神……。



「いづみさーん、お風呂先に戴きましたー」


「あいよー、那奈、今日は色々とお疲れ様、ゆっくり休みな」


「……あれ? あの人食獣……、いや、もとい、お姉は?」


「優歌? さっき出掛けたわよ、夕飯作ってやろうと準備してる間も待ちきれずに犬みたいによだれダラダラ垂らしながらウーウー唸ってうるさくてさ、何かそれ見てたら私も食事作るの嫌になっちゃったんで、食費として二千円渡してやったら『ヒャッハー!!』って喜び跳ねてブッ飛んでいったわよ」


「……二千円も?」


「あの様子だと多分、居酒屋行ってイート・アフター・アルコールって感じね、二千円なんてあっという間に使い切るんじゃない? アイツなら一万円だって五分もあれば飲み干すわよ」


「……人から食事代貰うって、あの人、もう立派な社会人なのに……」


「あーあ、今日だけで一体どんだけ出費したのよ私? アンタ達といい優歌といい、みんな金のかかるガキばっかり! いかに翔太が手のかからない孝行息子かって事を今日改めて痛感したわ……」



何を仰いますか、大切な友人が好意で渡してくれた外食費のお釣りを丸々ガメようとしていた意地汚い守銭奴はどこの誰ですか? これこそ正に『悪銭身に付かず』、因果応報、良からぬ企みは後々身を滅ぼす事になるのです。自業自得ですよ、いづみさん。



「まぁ、炊いたお米は明日に回すとして、私は優歌分に少し作っちゃったおかずをつまみにして晩酌した後、風呂に入って寝るとするよ、どうやら虎太郎達は今日も帰ってきそうにないし、あの分だと優歌もいつ帰ってくるかわからないしね」


「じゃあ私、先に休ませて貰います、お休みなさーい」


「はーい、お休みー」



……痛たたた、階段を上って自分の部屋に行こうと体を動かすだけでもあちこちの関節がギシギシと嫌な音を立てて激痛が走る。噛まれるどころか日頃の格闘技の練習で会得したとかいう新しい関節技の実験台にもされたもんだから、膝や肘や首筋が脱臼でもしたみたいにズキズキ痛む。お陰様で就寝前の良いストレッチになりました。優しい優しいお姉様、いつもいつも可愛がってくれて本当に有難うございます……。


……いつかやり返してやるからな、覚えとけよ、あのヤロー……。



「はぁー、疲れたー!」



ドアを開けて部屋に入った私は、そのまま力尽きる様にベッドに倒れ込み体を布団でグルグル巻きにした。色々あって忙しかった今日という一日も終わり、やっと訪れた安息の時間。すぐに寝付く訳でもなく、かといってテレビを見るでも読者する訳でもなく、ただ頭を真っ白にしてゴロゴロと横になって微睡む、何だかんだ言っても落ち着けるこの一時が一番好きだ。

許されるなら毎日ずっーとこうして一日中ゴロゴロしていたいなぁ。勉強するのも空手の稽古に行くのも正直しんどい、家事するのも他人の世話を焼くのも本当はかったるい。責任感が強い方だから良く人に頼りにされたりして頑張っちゃうけど、私は基本、面倒臭がり人間なんです。自分で言うのも何だけどねー。こんなんじゃまたいづみさんから『だらしない!』って怒られちゃうね。将来の嫁失格、駄目女まっしぐらだなぁ、こりゃ。



「あーあ、駄目だとはわかってても、やっぱりこうして布団にくるまってるこの時が生きてて一番幸せっ! どうか神様、栄光も勲章も地位も名誉もいらないから永遠に私にゴロゴロさせて下さーい!」



……でも、そうも言ってられないんだよね。何も考えずに、頭を真っ白に、って言っても私の頭の中には常に様々な悩み事が渦巻いていて、近頃は時間があるとどうしても物思いに耽ってしまう。特に最近はその傾向が強い。今月ぐらいからだったかな、一癖も二癖もある難解な問題が私の周辺でヒョコヒョコ顔を出し、頭痛の種を植え付けてくるようになったのは。

しかも毎日の様に新しいイベントが発生してハイスピードで記憶が更新されていくもんだから、その悩み事の原点が一体何だったのかすらも見失いかけてたりする。何でこんなに悩んでいるのか自分でわからずに悩んでいるゴチャゴチャな状態、こんなんじゃどんなに悩んだって何一つ問題が解決する訳がない。これが青春時代のもどかしさってヤツなのかな、全くもって面倒なものだ。



「……せっかくだし、今日はちょっと頭の中、しっかり整理整頓してみるかな……」



私の苦悩。それが始まったのは多分、先週のゴールデンウイークの最終日に、父さんの代理として翔太達と一緒に行ったサーキット場での出来事からだったと思う。あの日、貴之さんの告別式以来の再会だった父さんの異父兄で母さんの伯父、私にとっては伯父であると同時に大伯父でもある、複雑な血縁関係の奥井財閥の長・幹ノ介氏との一悶着から私の周辺の時の流れが一気に加速し始めた。


私が生まれる前、父さん達と奥井家は根深い確執によって対立し、それぞれの分野である経済界やモータースポーツ界、それだけでは収まらず各メディアや世界中の様々な関係者達までもを巻き込む大騒動を引き起こした。

騒動に巻き込まれ被害を被った者の中には会社が倒産するなどの財産を失った人や家庭の崩壊、ヒドいケースではそれが原因と思われる自殺者や行方不明者まで出たという。今現在でも日本のマスコミでは、この一件に触れる事はタブーになっていると前に新作さんが話していたのを聞いた記憶がある。


生まれる前の話、過去の話とはいえ、母さんが大財閥の一族の血を引く人間だって事、父さんがそれらの事情の責任取りと過去のレース中での度重なる転倒で出来た脳の腫瘍によって若くしてプロライダーの世界の一線から身を引いたって事、私も小さい頃から薄々ながらそれを知ってはいた。

二人から直接聞いた訳じゃないけど、どんなにタブーとはいえそれだけの出来事、どうしたってどこかしらから話が漏れてくるもの。特に貴之さんの告別式の時、周りの参列者の人達の話題はその一件で持ち切りだった。もちろん、それらの会話はしっかりと私の耳にも届いている。

聞いた当初はかなりショックだった。何せ親である当事者達ですら何も話してくれていない上に、当時の私はまだ小学四年生の子供の身分。予想だにしてない過去の話を耳にして、どう頭の中でこの事実を整理していいのかわからず混乱したものだった。各参列者の大人の方々、もう少し周囲に居る小さい子達にも気を使って雑談して欲しかったなー、と私は今も少し残念に思っていたりする。


でも、そんな他人の陰口や批評など一切気にせず、自由奔放強引グマイウェイで人生を謳歌している父さんと母さんの姿を見ていたら、私の不安や悩みは自然と薄らいでいった。そりゃ嫌でもそうなる、気にしている方が馬鹿馬鹿しくなる。当の本人達が全くと言って良いほどどこ吹く風で、それらを目撃してきたお姉も知らん顔して私の側で好き勝手やって笑って毎日を過ごしているのだから。

ならば、当時まだ生まれてもいなかった私が気にしたってしょうがない。この話はすでに過去の話で、全ては終わった事。その頃にはもう父さん達と奥井家の間では和解が交わされていて、迷惑をかけた関係者にも謝罪や賠償が済んでいた。これらも私の不安を取り去ってくれる一役を担ってくれた。

それと、そもそも昔から『渡瀬虎太郎と麗奈の娘』と言われてもあまりピンと実感が湧かないほど私と両親の生活感の距離は他の家庭と比べて離れていたので、実の親の話ながら何か他人の空事の様にも思えてきたってのもある。そしてそれは私が次第に成長していくにつれ実感度が増し、今に至っては『親は親、私は私、二人で好き勝手やってろ!』と開き直れる様になった。


でも、もし家族の誰か一人がいつまでもこの過去を引きずってクヨクヨとしていたならば、私もきっと世間の目を気にしてビクビクするような人間になっていたかもしれない。そう考えると、言動態度生き様存在全てが迷惑だらけのあの両親の娘で良かったのかな、とも思う。私に対して余計な事を言う輩を有無言わさず排除してくれてたお姉のお陰もあるのかな。まぁ、単純に私が親に似て無神経だってのもあるかもしれないけどね。


……話が長くなっちゃったけど、うーんと、つまりはあの日、幹ノ介氏に会うまでは奥井家の存在をすっかり忘れてた、って事です。いくら和解が済んで尚且つ親戚とはいえ、別に毎年正月やお盆に顔を合わせる間柄でもなかったし、第一、幹ノ介氏本人が毎日の様に多忙極まりない人なので、例え姪っ子でも一般の女学生ごときが滅多に会える人物じゃないし。

幹ノ介氏と度々会っているのは母さんぐらいかな? それでも大体は仕事の話での対面ばかりらしいので、本当に渡瀬家と奥井家は親戚付き合いがほとんど無いと言って良い。たまーに会ったりするのは幹ノ介氏の娘である裕美さんと、その婿養子でこれまた父さんとは異母兄弟になる新悟さん、そしてその二人の間に生まれたあの忌まわしき魔女……、ゲフンゲフン(咳払い)。失礼、私と奥井家の繋がりは強いて挙げればそれくらいか。


……それより、いい加減『幹ノ介氏』って呼ぶのはやっぱり失礼かな? 橋本さん達の悪口の影響であまり良いイメージが無かったからついつい他人行儀な呼び方になってしまう。私にとっては伯父である事に変わりない。よし、次からは『幹ノ介伯父さん』と呼ぼう。幹ノ介伯父さ……、何か馴染めないなぁ、すっきりしない……。



「……つーか、あれ? 私、一体何が原因で悩んでるんだっけ……?」



何か話が脱線しまくってるような気がする。やっぱり頭の中が大混乱してるね。えっーと、だからつまりまとめると、私は別に幹ノ介伯父……、やっぱり気持ち悪いな。だーかーら、別に奥井の件に関しては大して悩んでない、って事だよね。だよね? そうだよね? うん、そうだそうだ。そういえばこの件はこの前父さんと母さんが珍しく揃って家に居た時に話をしてすでに解決してたんだっけ。そうだったそうだった、忘れてた。たかだか一週間しか経ってない話なのに、何ですっかり忘れてるかなぁ、私も?

……でも、言い訳がましいかもしれないけどそりゃ忘れるって、その後色々あって大変だったんだもん、私。久し振りに母さんとお姉と一緒にお風呂入ったらお姉からセクハラされるわ、翔太に風呂上がり姿見られちゃうわ、挙げ句には母さんと父さんが大喧嘩し始めて家をボロボロに破壊しまくるわ……。

他にもまだあるよ。学校では無言無趣味無関心、無念無想の塊の様なあの航が突然、訳わかんないギターの才能が開花しちゃってバンドメンバーに加入しちゃうし、翼がサッカー女子日本代表に選出されたとか何かでギャーギャー騒いで大喧嘩になるし、新作さんのお見舞いに担ぎ出されたと思えばキッつい写真集見せられるし……。

中でも一番しんどかったのはお姉の総合格闘技の試合に付き合わされた事かな。お姉の世話だけでも大変なのに、会長さんはあんなキャラが濃ゆい人だし、彰宏さんは相変わらずヘタレだし、特にあの胡桃ちゃん……。あれはしんどかったなぁ、小夜の相手するよりキツかった。小夜よりしんどい人間がいるだなんて夢にも思わなかったな。世界は広いんだなぁ、まだまだ私の知らない世界がたくさんありそう。そういえばあの日も、寝起きで機嫌の悪いお姉にコテンパンに痛めつけられたっけ。そしてあの歌月さんの写真に……。



「……あっ……」



……そうだ、思い出した。私を苦しめる悩みの原因。その根底。奥井の一件は関係ないだなんてそんな事なかった。それがきっかけだった、始まりだった。あの日の、幹ノ介伯父さんと会話から……。



『君には、真実を知る権利がある』


『自分の知らない過去を、知りたいのだろう?』



……私には、知らない事が多過ぎる。自分の親なのに、姉妹なのに、家族なのに、私はその人達の事を、過去を、真実を、何も知らない……。


奥井家との一件だって私が知ってる経緯は全て人伝で、大まかな話ばかり。当時、父さんと母さんがどうやってその騒動をくぐり抜けてきたのか、一体どんな心境でその困難に立ち向かっていったのか、何も知らない。思い切って父さんと母さんに話を切り出したあの日も、二人に上手く丸め込まれただけで私は未だに何も詳しい話を教えて貰えてはいない。

それどころじゃない、私は普段とても愛し合っているとは見えないあの二人がどうして結婚したのか、一体どんな経緯で夫婦になったのか、私は何も知らない、教えて貰えてはいない。あと、私が生まれるよりも前に、二人が実の娘ではないお姉を養女として引き取った経緯すらも……。



『この人が、あたしの本当のお母さんだ』



そして、お姉の本当のお母さんだという歌月さんと、まだ名前すらわからないお姉の本当のお父さんの事も。父さんと母さん、歌月さん達と私の両親、この両夫婦の間に何があったのか、私はそれも知らない。新作さんは父さんと歌月さんが自分達と同じ孤児院で一緒に育った関係だと言っていた。でも、それだけじゃないと思う。きっと、もっと深い真実が裏に隠されてる。

もしかすると奥井家との話とお姉が父さんと母さんの養女になった話は、全て繋がっているんじゃないんだろうか? だとすれば、歌月さんもその騒動に巻き込まれた一人で、その話の鍵を握っていた人物で、すでに亡くなった人までもこれ以上騒動に巻き込みたくない、だから父さんと母さんは、お姉は、ずっと歌月さんの存在を隠してきたのかな……?



「……また、何の根拠も無い余計な事を考えちゃってるな、私は……」



私が過去の話を持ち出すと、父さんも母さんも、お姉も新作さんもいづみさんも、みんな揃って口を閉ざして黙り込んでしまう。そりゃあ人が自殺にまで追い込まれるほどの壮絶な修羅場、表には出ない相当ショッキングな事実もあっただろう。そんな悲劇に自分の両親がわずかどころか、中心人物として関わっていたとなればその娘として辛い思いをしないで済む訳がない。



『それを知っても、お前が傷つくだけ』



父さんと母さんが結婚したのはそれらの話が解決した後だという。つまり、少なからずその騒動がきっかけとなって二人は一緒になった可能性が高い。だとすれば私が全てを知った時、『そんな紆余曲折があって、様々な犠牲と痛みの元に私が生まれたのか』と自己嫌悪に陥ってしまう可能性もあるかもしれない。多分みんな、それを恐れて私に何も教えてくれないのだろう。



『それを知っても、お前が……』



……でも、やっぱり知りたい。自分がどうして生まれてこれたのか、私を産んでくれた両親がどんな人生を歩んでいたのか、そして、粗暴なやり方とはいえこれまでずっと私を守ってきてくれたお姉がどうして私の義理の姉になったのか。知りたい、知りたいよ。赤の他人の事情だって知るのは難しいのに、一番身近で親しいはずの家族の事情すらわからないだなんて、そんなの辛いもん、悲しいもん……。



「……よし、決めた……!」



新作さんやいづみさんから聞き出そうとしたり、あれこれ探って自分自身で答えを見つけようとしたって駄目だ。結局、遠回りしてるだけでとても目的地には辿り着けない。自問自答したって何の解決にもならない、その場で足踏みしてるだけのタダの予想の範疇でしかないもの。



『人から又聞きしようなんて卑怯な真似するなや、そない知りたきゃ直接聞けや!』



翼もそう言ってたっけ。そうだよね、こうなったら直接聞く、聞き出す、何が何でも聞き引き出す! 奥井財閥騒動を引き起こした重要人物であり、そして歌月さんともただならぬ人間関係だったと予測される、実際にお姉を養女として向かい入れた張本人! 父さん、渡瀬虎太郎に突撃尋問を決行する!


多分そう簡単に口は割らないと思うけど、例え嫌がられようが、殴られようが蹴られようが、バイクで轢かれようが崖から投げ飛ばされようが、全てを聞き出すまでは絶対に引かない! どんなに血まみれになったってその足元にしがみついてやる! 怖いだなんて言ってられるか、最初からそうすべきだったんだもん! 触れちゃいけない、嫌な事思い出させたらいけない、なんて言い訳並べて逃げてたのは私の方なんだ!

もう逃げない、私だって渡瀬家の家族の一員なんだ! しかも実の娘なんだ! もう高校生になって物事の分別くらい出来る年齢になったんだ! いつまでも子供扱いされてたまるか! どんな壮絶な修羅場でも、どんな残酷な愛憎劇でも、私は全ての真実をしっかり受け止めてみせる! 今度こそ絶対に、絶対にはぐらかされたりなんてしない、逃がさない! 決めた、絶対に決行する、絶対に!!



「……って、せっかく決意が固まったっていうのに、一体全体どこで油売ってんのよ、あのバカ親父はー!?」



……そうなんだよねー、マジで一昨日から全然帰って来ないんだけど、一体何なのあの夫婦? 出来ればすぐにでも話がしたいのに、明日になってもしこの決意が揺らいじゃっりしたらどうすんのよっ!?(意志弱っ!) いくら同居人で友人夫婦の息子とはいえ、余所様の子供を半ば拉致同然に引きずり回して何一つまともな連絡すらも寄越さないだなんて、これっていづみさんがその気になって警察に通報したら立派な誘拐罪が成立しちゃうんじゃないの!?



「翔太が居てくれたら相談するなり愚痴聞いて貰うなり出来たのに、全くもーう!」



つーか、放任しているいづみさんもいづみさんだけど、あの二人に一切抵抗しない翔太も翔太だよ。実際は抵抗出来ない、したらタダじゃ済まない、ってところなんだろうけどさ、学校まで休まされて本当に大丈夫なのかなぁ? マジでプロのライダーになれなかったらどうすんの? マジでニート一直線じゃん!? 絶対嫌だよ私、そんなお先真っ暗な人間と一緒になんてなりたくない! 娘の将来までお先真っ暗にするなっつーの、あのバカ両親め!



「……誰でも良いから早く帰ってこーい、騒がしいのは御免だけど、さすがに私といづみさんだけじゃちょっと寂しいぞー……」



父さん不在、母さん不在、まぁこの二人は普段から滅多に家に居ないけど、翔太も不在で更にはお姉まで不在。これだけ人が居ないと毎日近所の犬が釣られて吠え出すほどやかましい渡瀬家が、さっきの病院の待合室みたいに恐ろしく静か。部屋の掛け時計の秒針の音がコチコチ聞こえてくるなんていつ以来の事だろう。今日は交通量も少ないのか、近くを走る車の轍の音すらしてこない。



「……ふぁ〜、眠いよぉ〜……」



色々あれこれと考え方をしていたら眠くなってきてしまった。仕方もないか、頭どころか体もクタクタで疲労困憊、しかも風呂上がりで体も火照ってるから尚更ダルい。まだ髪が乾いてないけどどうしようかな、もう十一時回ってるし、寝ちゃおうかなぁ? 父さん達帰ってきそうにないし、お姉も今頃食後の一杯が二杯五杯十杯百杯とベロンベロンになって多分帰ってこないだろうし……。



「……眠ぃぃ……」



ピンポーン♪



「……えっ、帰ってきた!?」



深夜の静寂の渡瀬家に突然、玄関のチャイムの音が響き渡った。私は最初、家族の誰かが帰って来たのかと思ったが、よくよく考えてみるとそれはおかしい。みんなそれぞれ玄関の鍵を持ってるんだからチャイムなんて鳴らす必要ないはず。あるいはお姉が酔ってイタズラしてんのかな? とも思ったが、こんな御時世、真夜中の訪問者なんてちょっと物騒。いづみさんなら一人でも大丈夫だろうとは思うけど、念の為、私も部屋を出て玄関まで下りてみる事にした。


……が、その心配は階段半ばまで下りた時に聞こえてきたいづみさんの驚き声と、その後に聞こえたついさっきまで聞き馴染んでいたおしとやかな声であっという間に消え去った。



「……美香!? どうしたのよアンタ、こんな時間に!?」


「……ごめんねいづみ、夜分遅くに連絡もしないで、いきなりお邪魔しちゃって……」



突然の訪問者、それは体調を崩した新作さんに付き添い一人病院に残って看病をしていた美香さんだった。眼鏡を外していたのでパッと見では一瞬誰だかわからなかったけど、その服装は病室に居た時と同じスーツ姿のまま。どうやら自宅には寄らずに病院からこちらに直行してきた様子。



「……とりあえずさ、そんな所に突っ立ってないで上がりなよ、遠慮なんてしなくていいから」


「……うん、有難う、それじゃあ、お邪魔します……」


「あぁ那奈、起こしちゃった? ごめんね、静かにするからさ」


「いえ、大丈夫です、まだ寝てなかったんで」


「……那奈ちゃん、こんな遅くにごめんなさいね、すぐに引き上げますから……」


「……いえ、お気になさらずに、ごゆっくり……」



常にどんな時でも身なりを整え、一糸の乱れも見せる事の無い美香さん。でも、この時は珍しく肩から少しスーツの上着がずり落ち加減で、ブラウスの襟の片方は中途半端に立ち上がり、胸元のネクタイに至っては結び目が完全に緩みだらしなく垂れ下がっていた。それに、近くで見た訳ではないからはっきりとは言えないけど頬は赤く紅潮していて目は虚ろ、若干だがお酒の匂いもした。



「丁度良かったよ、今日はあのバカ夫婦とそのバカ長女が家に居なくてさ、私も一人で晩酌すんのも何か物足りないし、少し付き合いなよ」


「……居ないんだ、麗奈さん、ちょっと残念……」


「……アンタ、本当に麗奈が好きだねー? あんな祟り神みたいな癇癪女、何でぇ?」



……やっぱり、何かおかしい。いづみさんに先導されて廊下からリビングへと歩いていくその足取りはどこか辿々しくて、喋る言葉もあまり呂律も回っていない。明らかにいつもの美香さんじゃない。それよりむしろ、美香さんがお酒を飲んで酔っているという状況に少し驚いた。あんなにしっかりした人でも、こういう時があるんだ……。



「……あー、やっぱり眠い……」



チャイムの音で一瞬は緊張が高まり目が覚めたけど、それが解けるやいなや強烈な『睡魔』と言う名の新撰組一同が私に対して総討ち入りを仕掛け始めた。ヤバい、那奈屋陥落寸前。このままだとここで寝ちゃいかねない。こんな所で寝たら間違いなく酔って帰ってきたお姉に蹴り落とされて階段落ちの刑に処されてしまう。そんな事になったら風間杜夫や平田満どころじゃない、松坂慶子やつかこうへいもビックリだ。



「……銀ちゃん、カッコいい……」



薄れていく意識を何とか繋ぎ止め、蒲田行進曲のワンシーンの様に階段を這い上がった私は、今度はゾンビの様に床を這いずって自分の部屋に辿り着いた。つーか何で私は蒲田行進曲とかゾンビとか古い映画知ってんだ? 私、確か平成生まれだよね? まぁいいや。あぁ、あれに見えるはフカフカのベッドに暖かな布団の楽園、遂にこの険しく長き旅路も終焉を迎える……。



「……くかー……」



秒殺だった。横になってものの三秒もしないで寝てしまったと思う。起きてから気付いた事だが、布団も羽織らず枕もそっちのけで大爆睡してしまったみたい。このまま朝まで寝てたら間違いなく風邪を引いたか、あるいは首を寝違えていただろう。床を這いずったりベッドで大の字になってたり、本当にだらしない女だなぁ、私は。翔太が居なくて良かった、とてもこんな姿見せられないよ。でも、やっぱり眠れるって幸せ。睡眠サイコー!



「一体何やってんだよ、アンタは!?」


「……ほえっ!?」



……が、そんな幸せな時間もものの三十分ほどだった。闇夜を切り裂く雷の様な突然の怒号に、私の穏やかな安眠の一時は一瞬にして吹き飛ばされてしまったのだ。



「えっ、えっ、えっ!? 何ナニなにー!?」



夢から現へ強引に引き戻された私は、何が何だか訳がわからず驚きのあまりベッドから転げ落ちてしまった。少し経ってしっかりと目が覚めた後、その声が下の一階から聞こえてきた事だけはうっすらと理解出来た。



「……今の声、いづみさん……?」



気がつくと、床に正座する私の膝元にはなぜか学校用のカバンがあり、中にはなぜかクシャクシャに丸め込んだ制服と、これまたなぜか枕がギュウギュウ詰めになっていた。寝ぼけて学校に遅刻するとでも思ったのか、それとも火事か地震があったと勘違いしたのか、今思い返しても自分でさっぱりわからない。完全に意識が戻ってない数秒間、一体何をしようとしてたんだ、私は……?



「……何? 何なの、今の……?」



とりあえずカバンから制服と枕を取り出した私は、事の真相を確かめるべく一階に下りてみる事にした。あの声の主は間違いなくいづみさん、声のトーンからしてかなり怒ってる様子だ。一体誰に対してそんなに怒ってるんだろうか、私にじゃないのは確かだが、もしかしてベロベロになって帰ってきたお姉にかな?



「だからあれほど言ったじゃない! 本当に、今の今まで何やってたんだよ!?」


「……うわっ、まだ怒ってる……」



部屋を出て階段のふもとまで来てみると、さらにその怒鳴り声は迫力を増し家中にビリビリと響き渡った。これはちょっと普通に間に入るのは怖いな、私まで怒られてしまいそうだ。ここは状況を見極める為にさっきみたいに階段半ばで待機して少し様子を伺う事にしよう。我が家の階段は足場が踏み板だけで側面が吹き抜けているタイプなので、身を隠しながら覗き見するにはちょうど良い。逆に、下にいる人間からスカートの中を覗かれる危険性も孕んでいるのだが。



「……いい歳して未だいづみさんに叱られて、うちのお姉も何やってんだか……、って、あれ?」



ふと玄関の方に目をやると、あると思っていたお姉の靴はそこには無かった。あるのは私といづみさん、それと普段見慣れないハイヒールの靴が置いてあるだけ。って事は、まだお姉はここに帰ってきていない。ならば、いづみさんが激怒して怒鳴り散らしている相手って、まさか……?



「アンタがしっかりしなきゃ、アンタが説得しなきゃアイツが決断しない事はずっと前からわかってた話じゃない! それをグダグダ言い訳並べてズルズル引き延ばして……!」


「……ごめん……」


「そして結局、こうして取り返しのつかない事になっちゃったんじゃないか! 本当何やってんだよ、アンタが居て何でこんな事になっちゃったんだんだよ、美香!」


「……ごめんなさい、本当にごめんなさい……」



いづみさんの怒鳴り声の後に、かすかに聞こえてきた今にもかき消されてしまいそうな弱々しくかすれた声。同時に、何度も鼻をすする音も聞こえてきた。私がいる場所からだとリビングの中にいる二人の姿までは見えないのではっきりとは言えないが、もう一人の声の主は多分美香さん、そして……。



「……美香さん、泣いてる……?」



信じられなかった。昔は気が弱く頼りなかった性格だったとはいえ、危険も省みずに愛する人を救う為に奔走し、今では国の教育機関の礎を支えるほどの強く逞しく健気な女性。そんな美香さんが今、お酒に酔って『らしさ』を失っているどころか、親友に説教をされて涙を流している。一体、美香さんに何があったんだろうか……?



「アイツを失って何より一番辛いのは、娘達よりアンタなんじゃないの!? だったら、何でもっと長く一緒に居られる努力をしてこなかったんだよ!?」


「……ごめんなさい……」


「アンタの愛情、間違ってるよ! 例え怒られようとも嫌われようとも、意地でもアイツを説得すべきだったんだよ!」



話の節々を聞く辺り、どうやらいづみさんが言っている『アイツ』というのは新作さんの事っぽい。失うとかいなくなるとか一緒に居られないとか……、あれ? ちょっと待って、嘘でしょ? さっきの病院での新作さんのセクハラ行為に、あと美香さんが泣いているのを考えると、まさか美香さん、本当に新作さんと……?



「……ついに離婚決意!?」



うわぁ、これは一大事だ! そんな事になったら翼と岬はどうなっちゃうんだろう!? 親権は養育費は慰謝料は!? まさか法廷の場までもつれ込み!? 翼はオトン大好きっ子だから新作さんについていくだろうとしても、岬はこの先学費やら生活費を考えると治療で仕事が出来ない新作さんより美香さんと一緒の方が良いのかな? って、そんなの私が心配する事じゃねーし! 一体何を考えてんだ、私は!?

でも、でもさ、もし調停が上手くいかずに泥沼化したら渡瀬家にも何かしら影響出ちゃうんじゃないの、これ? 父さんは間違いなく新作さんの味方だし、母さんは多分美香さん側でしょ? 下手すりゃ渡瀬家まで折り合い悪くなって離婚の危機!? うわぁ、何かヤバいよヤバいよ、昼間のメロドラマの様なドッロドロでギッスギスな修羅場の予感がプンプンするー!


……なーんて、余計なお世話的な事を考えていた私だったが、それがあまりに場違いで愚かだった事を次のいづみさんの話で思い知らされた。そんなもんじゃなかった、そんな子供がワクワクしながら想像するような幼稚で軽い話では、決してなかったのだ。



「あの馬鹿男、これまで何度も手術するなり移植するなりして助かるチャンスがあったっていうのに、それを変なプライドに固執して拒絶し続けて、本当に馬鹿だよ! 何が定められた運命よ、何が命の尊厳よ! 他人の心臓を奪ってまで生きてたくない、これは天から定められた運命だ、だって!? 何様よ、どっかの偉人にでもなったつもり!? そんなセリフ抜かして格好良いとでも思ってんの!? 人間なんだからもっと生きる事に貪欲になったって誰も責めやしないのに……!」


『……えっ? いづみさん、今何て……?』


「美香も美香だよ! 自分の命より大切な男だったんでしょ!? だったらそんな馬鹿な言い分に付き合ってないで、アイツをさっさと海外でもどこでも連れて行って有無言わさず手術させちゃえば良かったんだよ! それを『個人の意志を尊重したい』だなんて甘やかして放っといたから、結局こうして泣きを見る事になっちゃったんじゃない! 遅かれ早かれこうなるのはわかってた事でしょ!? これじゃアンタがアイツを見殺しにしたと一緒だよ、美香!!」


『……!?』



頭が真っ白になった。詳しい事までははっきりと言ってはいなかったが、このいづみさんの言葉が何を意味しているのか、幼稚な思考力しかない私でもさすがに理解出来た。でも、理解したくなかった。信じたくなかった。嘘だと、夢だと思いたかった。



「……ごめん、全部私が悪いの、本当にごめんなさい……」


「……美香……」


「……私が悪いの、私が……、私が、全部……」


「……アンタが殺しただなんて言い過ぎたよ、ごめん美香、だからもう、そんなに泣かないで……」



新作さんに、『その時』が迫っている……。


これは後々、いづみさんが私に教えてくれた話だが、すでにこの頃の新作さんの心臓の筋肉は破裂しかねないほど極限まで膨張してほとんど機能を果たしていない事が検査結果で判明し、同時に血流が滞る事で体内に十分な栄養や酸素が行き渡らず、心臓から遠い下肢や毛細血管が多い臓器などの様々な部位に極度の機能障害がある事も判明した。特に肺は水が溜まり通常の三分の一くらいしか酸素を取り込めていなかったらしい。

それによりすでにその身体は突発性拡張型心筋症の治療法である心臓移植手術やバチスタ手術に耐えられないほど衰弱しており、もう投薬での治療もほとんど効果を得られないほど病状は悪化していたそうだ。本来なら歩いたり食事を取るのすらままならない状態で、それどころか生きていられるのが不思議なくらいだと担当医は驚いていたという。改めて凄い生命力だと思った。でも新作さん、いつも私達の前では元気に振る舞っていたけど、実際は毎日苦痛と呼吸困難で相当辛かったはず……。



「……で、医者はあとどれくらいって言ったの?」


「………………」


「……美香?」


「……保って、一ヶ月……」


「……ふざけんじゃないよ、何でそんな急に……!」



更なる衝撃が私の体中を走る。言葉にしにくい、何か心を尖ったな針で一本一本突き刺されていくような辛く痛苦しい感情が胸の中に渦巻いていた。あの日以来、翔太のお父さん・貴之さんが事故死した時と似た痛み。でも、今回は比べものにならないくらい痛い。あの頃の私はまだ小さく、人の死を完全に理解するには幼かったからあまり感じなかったのかもしれないが……。



『俺はもうじき、死ぬ』



いつかの新作さんの言葉を思い出す。その時すでに新作さんは自分に残された時間があと僅かなのをわかっていたのかもしれない。いつ死んでもおかしくない病気、それは私もわかっていた。いつかは訪れる運命、それもわかっていた。でも、それはまだまだ先の話だと思い込んでいた。だって、今日だってあんなに楽しそうに翼達と話をして、ふざけた事したりして、笑顔を振りまき、みんなを笑わせてくれてきた人が、もうすぐ死んでしまうだなんて、あと一ヶ月、たった一ヶ月でいなくなってしまうだなんて、私にはとても信じる事が出来なかった……。



「……この話、娘達には、まだ……?」


「………………」


「……うん、絶対言わない方がいい、黙ってな、岬はもちろん、翼だってまだそんな事実に耐えられる年頃じゃないよ……」



私の脳裏に、病室で新作さんと楽しそうに話していた翼の笑顔が浮かぶ。誰よりも新作さんが大好きで、心から尊敬して、叶えられなかった夢を代わりに叶えてあげようと一生懸命練習して、やっとサッカー日本代表に選ばれるまで頑張ってきたのに、ユニフォーム姿だけじゃなく、いつかは綺麗なウェディング姿も見せてやりたい、って話をしてたばかりなのに、これじゃ翼が哀れ過ぎる。こんなのないよ、こんな、こんな……。



「……こんな運命、あんまりだ……!」



自然と涙が込み上げてきた。悔しかった。やり切れなかった。世の中には平気で人を殺したり物を略奪したりして、生きている価値も無い悪い人間がたくさいるっていうのに、どうしてこんなに家族や他人までもを思いやり、強いては世界中の人々の平和まで願っている良い人間が早死にしなければならないのか。とても平等なんかじゃないよ、おかしいよ、こんなの間違ってる……!



「……ねぇいづみ、お願いがあるの……」



瞼を瞑って今にも溢れ出そうな涙を堪える私に、更なる追い討ちをかける美香さんの哀願の言葉。その願いとは、あまりに甘く、切なく、純粋なものだった。



「……ほら、私と新作クンって、正式には結婚式挙げてないでしょ? あの頃、色々あって日本にはいられなかったから……」


「そういえばそうだったね、アンタ達まで奥井のゴタゴタに巻き込んじゃって、ほとぼり冷めるまで二人でイタリアに行っちゃってたんだもんね、結婚式挙げたい? いいよ、協力するよ! 式場なんてどこでもいいじゃん! みんな呼せ集めて壮大にパッーとやろうよ!」


「……ううん、実はね、まだ翼が産まれる前にイタリアの教会で二人だけの結婚式をしたの、教会の神父さんに立ち会って貰って……」


「へぇー、そうなんだ、教会で二人だけの結婚式かぁ、何かいかにもロマンチストなアンタらしい話だね」


「……でね、二人で祈ったの、いつまでも一緒に居られますように、この先どんな運命が待っていようとも、二度と二人が離れ離れになりませんように、って……」


「……美香……」


「……だから……」


「……だから、何?」


「……だ、だから、もし新作クンが天に召される時が来るならば、どうか私も一緒に連れて行って下さい、って……」


「……なっ……!?」



ガタンと何かが倒れる音がした。灯りに照らされ写る影で、いづみさんが座っていた椅子から立ち上がったのがここからでもわかった。多分、その勢いで椅子が倒れたのだろう。そして再び、いづみさんの怒号が家中に響き渡る。



「アンタまさか、新作が死んだら後を追おうなんて馬鹿な事考えてんじゃないだろうね!? 冗談じゃないよそんなの、そんなの絶対に許さないよ、私は!!」


「……ち、違うの、そうじゃなくて……」


「アンタさ、貴之に先立たれて私が倒れた時、何て言ったか覚えてる!? 『辛くても、苦しくても、残された子供の為に、私達の為に生きて欲しい』って言ったんだよ!! 泣きながら病室のベッドの私にしがみついてそう言ったんだよ!! だから私も立ち直って今だって辛くてもこうして生きてるっていうのに、なのにアンタ……!!」


「……違うの、自分で命を絶とうなんて事考えてない、でも……」


「でも、何よ!? 何だって言うのよ!?」


「……その時、神様にお願いしたの、もし、新作クンの寿命が私よりも短いのなら、私の寿命を分け与えて同じ長さにしてあげて下さい、って……」


「……あのね、そんな馬鹿げた話……! ハァ……」



再びガタンと物音が聞こえてきた。立ち上がっていたいづみさんの影が小さくなる。椅子を起こして座り直したのだろう。それからはいづみさんはほとんど喋らなくなり、代わりに美香さんの小さな話し声がかすかに聞こえてきた。



「……自分でも馬鹿げた事だと思う、そんな事ありえない、もし本当に神様が居て、願いを叶えてくれたりするのなら、世の中に不幸な人なんて一人もいる訳がないもの……」


「………………」


「……でもね、これまで新作クンは何度も危険な状態になっても奇跡的に持ち直してきたし、当時医師からはあと三年ほどの命だって言われていたのに、もうそれから十五年近く経つんだもん、これはもしかしたら本当に神様が私の願いを聞き入れてくれて、私達を見守ってくれているのかなって、どうしてもそう思えて仕方ないの……」


「………………」


「……でも、今回ばかりはきっともう無理、これ以上奇跡が起きても、辛くて苦しいのは新作クンだもの、毎日痛みを我慢して無理して明るく振る舞っている彼を見るのは、私だってもう辛いの……」


「……で、私へのお願いって何よ? 私は神様でも医者でもじゃないからね、アイツの寿命引き延ばすとか痛みを和らげるなんて出来ないよ」


「……わかってるよ、わかってる……、あのねいづみ、もし本当に、本当によ? その願い通り、私が新作クンと一緒に天に召された時は……」


「………………」


「……残された子供達を、翼と岬の事を、お願い……」



美香さんはそう言うと、それまで堪えていた感情が抑えきれないように声を上げて泣き出してしまった。聞いているこちらまで胸が締め付けられそうな、悲しげな嗚咽だった。私も限界だった。堪えきれない涙が頬を伝って口元に流れ落ちる。苦く切ない味がした。鼻をすすりたかったが、音を立てると二人に盗み聞きをしているのがバレてしまうので必死になって我慢した。



「……あのね美香、アンタのその神様だとか宗教的な話はさ、アンタみたいな専門職じゃないから私にはさっぱり理解出来ないし、第一、私は神様なんてもんがこの世に存在するなんてこれっぽっちも信じていないけどさ、でも……」


「………………」


「私は居るか居ないかわからないいい加減な神様と違って、間違いなくアンタの目の前にいる親友なんだ、間違いなくアンタの願いを叶えてあげられる存在なんだ、それでアンタの不安や苦しみが少しでも解消するなら、アンタが少しでも楽になるなら、わかったよ、その願い、私が責任持って聞き入れてやるよ」


「……いづみ……」


「但し、今言った通り私はそんな馬鹿げた戯言、一切信じてないからね! そんなに子供達が心配なら、残していく事よりもこれから先どうやって女手一人で二人を育てていくか考えな! 新作と離れ離れになるのが嫌なら、一緒に墓に入る事よりもどれだけ長く濃密な時間をアイツと一緒に暮らしていけるか努力しな! 『自分が死んだら』なんてそんな馬鹿な事は二度と口にしない、例えその時が来ても絶対に後追い自殺なんてしない、約束して!」


「……うん、約束する、絶対にしない……」


「約束だよ! 破ったらアンタ、タダじゃおかないからね! 一生絶交だよ、死んだって許さないよ! 私もアンタの後を追って、あの世で嫌ってほどその頬をひっ叩いてやるからね!」


「……ありがとう、本当にありがとう、ごめんね、いづみ……」


「謝んなって! アンタのごめんはもう懲り懲りだよ! 全く、もう……!」



最後はいづみさんも鼻声になっていた。これ以上は辛くて聞いていられない、私は息を殺して静かに部屋に戻ると、ベッドに倒れ込んで泣き声が聞こえないように枕に顔を埋めた。



「……何で、何でこんな話、聞いちゃったんだろう……」



後悔した。あのまま寝てしまっていれば良かった。興味本位で盗み聞きしなければ良かった。知らなければ良かった。こんな話知らなければ、これからもいつもの様に新作さんや美香さんと顔を合わせる事が出来たのに、笑顔で会話を交わす事が出来たのに……。



「……私は……」



それに、私はこれからどんな顔をして翼と向き合えばいいのだろうか? 世界一大好きな父親が余命一ヶ月、それをまだ翼は知らない。いずれ訪れる別れの時が来るまで、それを教えては貰えない。でも、私は聞いてしまった。知ってしまった。彼女よりも先に、待ち受ける残酷な未来を、秘密を、真実を知ってしまった。

私はこの真実を胸に秘めたまま、今まで通り翼と付き合っていけるのだろうか? 沈黙を貫いても、かといって真実を打ち明けても、どちらにしろそれは翼を傷つける事になる。もし自分が翼の立場だったら、きっと自分より先に真実を知ってしまった私に対して怒りを抱くだろう……。



「……私は、私はどうしたらいいの……?」



新作さんは教えてくれた、真実を知るには覚悟が必要だと。真実とはいつも残酷で、人を傷つけるものばかりなのだと。父さんも母さんもお姉も好きで私に隠し事をしているのではない、知らない者の苦しみより知っていてもそれを話してあげられない者の苦しみの方が辛いのだと。


それを今日、私は身をもって痛感した。私も人に話せない、辛く残酷な真実を一つ、胸に秘めて生きていかなくてはならなくなってしまった……。



「……誰か、誰か教えて、私はどうしたら……」



先程までの眠気など、もうすっかり覚めてしまっていた。結局、私は朝まで寝付く事が出来なかった。深夜の一時ぐらいだったか、家の前に一台の車が停まったのがエンジンの音でわかった。その後玄関で物音がした事を考えると、多分美香さんがタクシーを呼んで自宅に帰っていったのだろう。



『……ねぇいづみ、私ね、その時神様にもう一つお願いをしたの、もし二人に最期の時が訪れたら、私に十秒だけ時間を与えて下さいって、新作クンに最後のキスをする時間だけ……』



どうして、こんなに愛し合っている二人がこんな悲しい結末を迎えなければならないのだろうか。どうして、幸せというものは永遠に続いてくれないのだろうか。誰にもいつかは来る別れの時、そんなもの無くなってしまえばいいのに。そうなれば、ずっとみんな笑顔でいられるのに。私が部屋に戻る前、いづみさんがポツリと吐き捨てるように言った一言が、ずっと頭にこびり付いて離れない……。



『……何で私達だけ、好きな人とずっと一緒に居たいってささやかな願いすら、叶ってくれないんだろうね……』



……その日、私は学校を休み部屋に閉じこもった。小夜が家に迎えに来たのも無視した。だって、学校で翼に会うのはもちろん、一晩中泣き続けて真っ赤に目を腫らしたいづみさんの顔すらも、見るのが辛くて仕方なかったから……。



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