第77話 I'm sorry
「今日も今日とてエミちゃんのお尻はええ形しとるわな~、男を惑わす魅惑の曲線美やな、こりゃ彼氏は余所の男に横取りされんか心配で心配でおちおち夜もまともに寝てられへんやろなぁ~?」
「イヤだぁもう松本さん、またセクハラ発言ですかぁ? 彼氏なんていませんよ、毎日仕事が忙しくてそんなの作ってる暇なんかありません!」
「うっそぉ、そりゃもったいないわ~! 何ちゅう宝の持ち腐れや、いやこれはエミちゃんをフリーにしとる最近の若い男どもに問題があるで! 世間ではやれ草食男子やら女性恐怖症やら二次元依存症やら訳わからん輩がワラワラ湧き出しとるらしいが、ホンマどいつもこいつもアホばっかりやなぁ! こない可愛い子を一人で放ったらかしにしてホンマけしからんしもったいない、よし、ほなら俺が喜んでエミちゃんの彼氏になったるでぇ! おっちゃんは一時も寂しい思いさせへんぞぉ、毎日エミちゃんの唇からうなじに胸にお尻にあんなとこやこんなとこまで目一杯愛したるやさかいに」
「もーう、エッチな事ばっかり言ってないで真面目にちゃんと採血させて下さい! この前新人のナースにまでそんなセクハラ発言するから、その子松本さんの事が怖くなって別の病棟に移転したいって言い出しちゃったんですからね!」
「ええやんええやんこれくらい、毎日こない狭苦しい病室閉じ込められてその上こないカッチカチの寝心地悪いベッドの上でダラダラ退屈な時間過ごしてんねんもん、ちょっとぐらいのエッチな意地悪可愛えもんやん? 小学生男子が保健室の先生のスカートめくんのと同じやで、今の俺にとって最高の娯楽はエミちゃん達可愛い白衣の天使さんと楽しく愉快に戯れる事なんやから」
「そんな変な事ばかり言ってると、また奥さんや娘さん達から叱られますよ? みんな心配してるんですから真面目に治療に専念して、早く退院して安心させてあげないと駄目ですよ!」
「えっ~! イヤやイヤや、俺ここ退院してエミちゃん達と会えなくなるやなんて絶対イヤや~! ずっとここに居らせてぇなぁ、ここに居ってお仕事気張っとるマミちゃんやカナミちゃんやマイちゃん達の姿を見守ってあげたいねん、遠くからみんなのお尻やおっぱいをいやらしい目で凝視してたいね~ん! お触りしたりスカートめくったり無論押し倒したりなんてせぇへんから、ホンマに見てるだけやから、エッチな妄想するだけで十分やから、お願いやここに居らせてぇなぁ~!」
「……狭苦しくて退屈だったんじゃないんですか、ここ?」
「ホンマ頼むわお願いや~、俺今日からええ子になるから~! 採血で注射針刺される時も『初めてなの痛くしないで♪』とか言わへんし、血圧計で圧迫される時も『あっダメそこイイッ♪』とかやらしい声上げへんし、体温計る時もズボン脱いで『お尻の穴で計って♪』なんてアホな事言わへんから、この天国みたいな酒池肉林の魅惑の花園に永久在籍させてぇなぁ、禁断の果実をかじらせ続けさせぇてなぁ~! お願いお願いおねがぁ~い、でないとおっちゃんまたお尻プリンプリンしてまうぞぉ~……、って、ありゃ?」
「……新作さん……」
「ねーねー那奈、何で翼のお父さんベッドの上で四つん這いになってお尻プリプリさせてるのー? 何か尻尾振ってるワンちゃんみたい、気持ち悪ーい」
「……最悪やオトン、ウチ泣きたい……」
「……オイ新作、お前何やってんの? もう中年期に差し掛かった大の男が、しかも自分の娘の見てる目の前で」
「いやあぁ、また見られたああああぁぁぁぁ!! 一時間ぐらい到着遅れるって言うてたやぁん!? この嘘つきいいいいぃぃぃぃ!!」
……これは酷い、酷過ぎる。以前にも同じ様な場面を目撃してショックだったと翼から聞いてはいたが、四十も過ぎたオッサンが醜態晒して若い娘に媚びを売っている姿は実の娘でなくとも誰が見たってショッキングな映像だ。しかもそれが難病に侵され周囲からその身を心配されている立場の人間がやらかしているというならば尚更。身の程知らず、恩知らず。お見舞いに来た人達の親切心を無駄にする裏切り行為とは正にこの事だ。
「……と、とりあえず松本さん、採血だけさせて貰いますねー」
「エミちゃんだっけ? 仕事とはいえ毎日こんなバカの看病大変だねアンタも、もうさ、腕からなんて生っちょろいからいっそ頭から脳みそごと採血しちゃいなよ、日頃のストレスや恨みを込めて針を根元までグッサリとさ、大丈夫大丈夫、私が許すから」
「イヤぁ、いづみちゃんおっかないがなぁ、そないな事されたら俺の頭シワシワに萎んで、いづみちゃんのおっぱいみたいになってまうがなぁ~!?」
「うるせぇ黙れ変態ヤロー! てめぇに『ちゃん』付けされる覚えなんかこれっぽっちもねーんだよ、このスケベエロ河童!! なんならいっそその鼻に鉄拳かませて壊れた蛇口みたいに大出血させて、注射針無しでも採血可能にしてやろうか!?」
「ヒイィ~! それってまるで銭湯とかで口からお湯が出るライオンの飾り物みたいやないかぁ~い!? せやったらどうせ出すなら他の場所からチョロチョロ出す小便小僧になりたいなぁ、と俺はつくづく思ったりしたりなんかしちゃったりして」
「そっちを蹴り潰して欲しいのかこのヤロー!!」
「ここはアカァ~ン! ここはドントタッチでアンタッチャブルで絶対聖域な俺の夢と希望と愛と情熱が詰まったスーパースペシャルなデリケートゾーンやねぇ~ん!」
「ホラさっさとパンツ脱げこのセクハラ男! お望み通りその汚ぇブツを木っ端微塵に蹴り潰してやった後、後ろの穴に好きなだけ体温計やカルーテルや腸内カメラぶち込んでやるからよ!!」
「イヤぁ~ん、お代官様お戯れ~!」
……あー、バカバカしい。この二人は昔からこんなくだらないやり取りをし続けてきたのかね? 何かすでに疲れきってしまった。嫌になっちゃった。もう今回これで話終わりで良いかなぁ……? そうもいかないか。正直かったるいけど話を進行させて戴きます。
と、いう訳で……、何が『と、いう訳で』か自分で言っといて良くわかんないけど、私達はなんとか無事に病院に到着する事が出来た。途中いづみさんが警察に連行されるというちょっとしたハプニングがあったが、その後の確認でそれがあづみさんのとんでもない勘違いである事が判明し、ものの四、五分くらいで私達は釈放して貰えた。
しかし、自分の姉の慣れ親しんだいつものド天然行為だったとはいえ、そんなゴタゴタに巻き込まれてしまったいづみさん本人はもちろん機嫌が良い訳がない。更にそこに竹馬の友、一心同体の存在だと豪語する大親友の旦那様がその奥様のいない隙に自分の年齢の半分程度でしかない若い娘相手にこんな醜態晒していれば、そのストレスは二倍三倍どころか十倍百倍一千倍とパンパンに膨れ上がってしまう訳で……。
「……新作お前、本当にいい加減にしなよ? もう酸いも甘いも加味分けてないといけない年齢になったんだからさ、少しはそのアホとか言ってた最近のダメ男達の見本になる様な紳士らしい立ち振る舞いをしたらどうなの? お前は何の為に入院してんの、病気の治療する為? ナースにセクハラする為? どっちなの?」
「う~ん、せやな、どっちかって言うたら、どっちもやな」
「治療に専念しろ! ここは風俗店じゃないんだよ、このバカ! ……全く、私は未だに理解出来ないよ、何で美香はこんなどうしようもない男選んじゃったんだろうなぁ? こんな父親じゃ娘も可哀想だよ、ほら見てみ翼のヤツ、虚ろに窓の外眺めたまま物思いに耽っちゃったじゃんかよ」
「……ええ天気やなぁ、この窓開けて一歩踏み出したらウチ、空も飛べそうな気ぃするわ……」
「アカンアカンそれはアカン! すまんかった! 翼、オトンが悪かった! 冗談やねん冗談やねん、ちょっと魔が差しただけなんや! もうこんなアホな事せぇへんから、約束するから、せやから親より先にお空に還るんだけはやめてくれ~!」
前回話した通り、新作さんといづみさんは私の父さんや小夜の父親の啓介さんと一緒の高校に通っていた同級生である。三年生の時はクラスも一緒だったらしい。良く一緒に連んで行動を共にしてたそうだがその頃の名残だろうか、不良上がりとはいえいづみさんは普段あまり男性に対し『お前』なんて乱暴な言葉使いはしないのだが、多分もう新作さんに対してはその呼び方が癖になってしまっているのだろう。
それとも『お前』の方がツッコミやすいのかな、さっきの二人のしょうもない漫才見てると。父さんに対しては『アンタ』だったかな、いづみさん。怒ってる時は『おめー』って呼んでるけどね。啓介さんの事は何て呼ぶんだろう、とりあえずいづみさんにとって啓介さんは義理の兄になる訳だし。今度注意深く二人の会話を聞いてみるかな。でも同級生が義理の兄って何か心境複雑になりそう……。
「ところで新作、美香はまだ? そろそろ仕事終わっててもいい時間じゃない、残業でもあるの? 何か連絡あった?」
「いやアレや、今日美香ちゃんにはちょいとばかり俺から野暮用を一つ頼んどんねん、そんでもって途中家にも寄って一人留守番しとる岬を連れて来えへんといかんから、ここに着くんはまだあともうちょい時間かかると思うわ」
「……ただでさえ仕事で疲れてるだろうにあれやらこれやら色々尽くさせて、本当にお前はつくづく女の敵だよね、その野暮用ってのがまさかエロ本購入とかだったらマジでその鼻を眼鏡ごとへし折ってやるから覚悟しなよ?」
「んな訳あるかい、美香ちゃんがおったらそないエロ本なんぞ無用やわ、余所の女の裸なんて屁のカス、この世で美香ちゃんほどエロいナイスボディは他におらへんもんなぁ、ウヘヘ」
「『エロ』で嫁を称えるな! 『綺麗』とか『美しい』とか『愛してる』とかいう言葉を使ってやれっての! 子供が側にいるんだぞ、発言に気をつけろこの歩く有害サイトが!」
「いや~、あれはもう芸術品の域やで、奇跡の四十代や、三島んとこの嫁はんも凄いがありゃ色々加工して仕上げた養殖モンやからな、美香ちゃんはちゃうで、天然モンや! ピッチピチしとるがな、俺気張ってもう一人作ってまおっかな、ウヘヘヘヘ」
「……ダメだこりゃ、もうここまでくると生きてるだけで公然わいせつ罪だね、歩く有害サイトどころの騒ぎじゃないよ、全く……」
……つーか、歩く有害サイトばっかりなんですけどね、この小説の登場人物って。新作さんを始め青少年教育上宜しくない発言や行動ばかりしてる人間が多過ぎ。例えば父さんとか母さんとかお姉とかお姉とかお姉とか……。渡瀬家そのものが有害ですか、そうですか。多分著者そのものが有害人物なんだろうな。読者の皆様、この小説の半分は有害で出来ています。お読みの際は分量と用法を守って正しくご使用下さいませませ。
「………………」
「……小夜?」
そんな事より、さっきからちょっと気になる点が一つある。私がここに向かっている最中どうやって制御しようかと頭を悩ませていたトラブルメーカーが、あちこち駆けずり回るどころか病室の椅子に座ったままじっとして一言も喋らない。これは一体全体どうした事か。前代未聞、空前絶後、最早これは超常現象だ。何が起こるのやら、大地震の兆候か? それとも隕石衝突? 大戦争勃発? あるいはこの世の終わりの始まりか?
「……どうしたの小夜? 何か今日は随分と静かじゃん、いつもだったら病室を走り回ったりナースコールボタンを押したりして迷惑かけまくるのに、一体何があったの? 眠いの? 辛いの? それとも病気?」
「えー? だってそんな事したら那奈怒るじゃーん! それに麻美ちゃんのお見舞い行った時に騒いだりしたら麻美ちゃん迷惑でしょー? あたしがちゃんとしないと瑠璃ちゃんが真似しちゃうし、だから病院では絶対バタバタしないで静かにしてるってあたし決めたんだよー!」
「なるほど、麻美子のお陰なのか……、これは良い体験学習だわ、アンタもちゃんと成長してんだね、ちょっと見直した」
「ねーねー、今度那奈も一緒に麻美ちゃんのお見舞い行こうよー、麻美ちゃんきっと喜ぶよー! ねーねー、行こうよ行こうよー!」
「言ったそばからピョンピョン跳ねない! わかった、わかったから大人しくじっと座ってなさい!」
「ハーイ! やったー! 麻美ちゃん、みんなに会えなくて寂しいって言ってたからスゴく喜ぶだろうなー! ワーイ、楽しみー!」
……ごめん麻美子、最近アンタの事すっかり忘れてた。今、大変なんだよね麻美子。担当の産科医から『ただでさえ母体そのものが虚弱で出産に耐えられるかどうかわからない上に、それが原因でお腹の中の子供にも栄養が行き渡らず未熟児での出産になるかもしれない』という定期診断を受けたらしくて、『ならば常に有事に備えておく必要がある』と父親の遠藤先生から進言されて二ヶ月ぐらい前からずっと産婦人科病棟に入院してるんだよね。
そんな大変な事になってるのに私ときたら、そういえば一度もお見舞いに行ってないじゃん。うわぁ最低、我ながらヒドい話だ。友達甲斐の無い人間だなぁ私は。反省します。父さん母さんお姉にいづみさんの手伝いばかりしてる場合じゃないよ、やらなきゃいけない事いっぱいあるじゃん。麻美子のお見舞いは行くとしてもそこに更に学校に空手の稽古に家では掃除洗濯料理にその後宿題……。あー忙しい。何で私ばかりこんなに忙しいんだ? 一日が三十六時間にならないかなぁ、そうなれば自分の用事も色々と片付くのに……。
……愚痴っても仕方ないか。ならば、今この時間にも早速そのやらなきゃいけない事の一つに取りかかるとしますかね。私がお見舞い以外にここに来たもう一つの理由、それは新作さんに二、三尋ねたい話があったからだ。長々話すと新作さんもしんどいだろうし遠回しな聞き方は抜きだ、単刀直入に行こう。
「……蓑田、歌月……?」
「……ええ、知ってますか?」
「……知ってるも何も……、いやぁ、エラい久し振りに聞いたわ、その名前……」
「……ちょっと待ちなよ那奈、何でアンタがその名前知ってんの? 一体誰から聞いたのよ、優歌? 虎太郎? それとも麗奈?」
「えっ! いづみさんも知ってるんですか、歌月さんの事!?」
やはり、新作さんは知っていた。私が生まれる前の話、お姉の本当のお母さんの事を。それどころか、いづみさんまで歌月さんを知っているとは予想外だった。って事は、いづみさんもお姉が渡瀬家の養女になった経緯を知っている……?
「……優歌が話したのね、あの子がねぇ、ふーん……」
「えっ? ちょっと待てや、何でいづみがカッちゃんの事知っとんねん? オマエ確か彼女に一度も会った事無いやろ?」
「知ってるよ、って言うか会ってるよ! 新作も一緒だったじゃん、啓介の計らいでやったあの日比谷公園での路上ゲリラライブ、あの時外出禁止だった彼女を病院から抜け出させてあげたのは誰でもないこのわ・た・し! 虎太郎に頼まれたとはいえ看守に見つからないように連れてくるのスッゴい大変だったんだから、あの時!」
「せやったっけ? あぁ、おったな、そういやおったわ、せやせや、しかも確かあん時オマエ、啓介が用意したバンドメンバーが足らんくて急遽ドラム叩いとったっけな」
「何で忘れてるかなぁ? しっかりしなよ、お前まさか若年性アルツハイマーまで発症したんじゃないだろうね? 私なんて今もくっきりあの日の記憶が脳裏に焼き付いてるってのにさ」
「もう何十年前の話や思とんねん、俺にもあの日からこれまでの間にあんな事こんな事色々様々紆余曲折あったんや、ちょっとぐらい記憶が曖昧になっとったってそりゃしゃあないやろが」
「女性から聞いた電話番号やスリーサイズだけは戦場取材中の爆風に巻き込まれて頭強打しても忘れないのにねぇ?」
「放っとけや! それだけは脳みその記憶回路が別になっとんねん、一万ギガバイトセキュリティ万全の大容量データメモリ内臓や、民間航空機のブラックボックスより丈夫で記録鮮明やで、どうやスゴいやろぉ?」
「そんなもん自慢になるか、このバカ! でもまぁあれからもう……、十八年? 優歌がまだ小学生だったからそれくらい前になるんだね、私達もまだ三十路前だったしなぁ……」
「あの頃はお化粧のノリもとっても滑らかやったのに、今は鏡を見る度目尻の小じわが気になぁて気になぁて」
「うるさい黙れ余計なお世話だ!」
「そんなあなたにドモホルンリンクル」
「お前はどこの再春館製薬の回し者だ!?」
「膝の関節の痛みには豊潤、軽い尿漏れにはハルンケアとレディガードコーワをどうぞ、良く効きまっせ」
「それともインチキ薬剤師か!? まだそんなもん必要なほど歳取ってねーよ!」
「まぁ、ヤクザ医師やなんて何それ怖い、おっかないわぁ~! それはともかくしかしアレやで、『さっき行ったのにまた行きたくなる』ってCM、何かちょっとエロくないか? 『イキたくなる』ってそれはアカンやろぉ、『何やハニー、あんだけ乱れといてまだ物足りないのかぁい?』ってなエッチで淫らなイケない気分になってしまうがなガナ」
「お前の思考レベルは中学生男子と同等か!? いい加減マジで黙れしつこいクドいクドすぎる! お陰でちっとも話が進まないじゃないかよ、バカヤロー!」
「奥さん、ここは病院でっせ、どうかお静かにお願いしますわ、迷惑や」
「……てめぇこのヤロー……、ハァ、しかしまさか優歌がねぇ、あの子の口からその名前が出るだなんてちょっと意外だったなぁ、もう吹っ切れたのかな」
「そりゃもう人が一人生まれてから社会人になるまでぎょうさん時間が経ったんやで、優歌かてもうとっくに成人迎えてんねんやからええ加減に心境整理ついてへんとアカン時期やし、那奈ももう高校生になったんやから少しぐらい話してもアタマ混乱せずちゃんと理解して貰えるって思ったんとちゃうか?」
「……あのー、私も会話に参加して宜しいでしょうか?」
「あっ、ごめんね那奈、コイツのバカさ加減にムキになっちゃって、すっかりアンタ達の事無視しちゃってたわ」
「参加したい? そりゃもちろんOK牧場やで、俺は二人漫才も多人数コントも大歓迎や! よっしゃ、ほなら今から公開質疑コントを始めるでぇ~! ハイ内閣総理大臣、渡瀬那奈く~ん」
「……あの、吹っ切れたとか、理解して貰えるとか、一体どういう事ですか? お姉が渡瀬家の養女になった理由は、何か複雑な事情があったんですか?」
「………………」
怒涛のボケツッコミ漫才を繰り広げる二人に私が割り込んで質問を投げかけると、先程までの饒舌な会話が嘘みたいに新作さんもいづみさんも口を閉ざして黙り込んでしまった。まるで、事情を知っているのにそれを誰かに口止めされているかの様に。
「……いやなぁ、悪いが那奈、その質問に関しては俺の口からは何も言えへん、何せ人んちの事情やからな、さっきのノリで下手なボケかまして変な誤解与えてもアカンしな、もしそないな事になったら俺ら迷惑どころの騒ぎとちゃうでコレ」
「……優歌はアンタにそれ以上の話はしなかったんでしょ? なら私達からは何も話せないよ、いくら一緒に暮らしているとはいえ私は渡瀬家の人間じゃないし、新作じゃないけど余計な事言って誤解なんかさせたら本当に迷惑に……」
「……迷惑って、誰にですか? 私ですか? お姉にですか? それとも……」
「………………」
「……それとも、渡瀬虎太郎と、麗奈にですか?」
私の両親、虎太郎と麗奈の名前を口に出すと、新作さんといづみさんは一瞬顔を見合わせ互いに困惑した表情をした。そして直後に目線を下に向け揃って俯き、ぐっと真一文字に結んでいた口を更に硬く閉ざしてしまった。頼むからもうこれ以上は聞かないでくれ、触れないでくれ、そんな言葉が聞こえてきそうな静かな威圧感が二人の雰囲気から感じ取る事が出来た。
やっぱりそうだ。お姉が昨日最後にポツリと私に言い残していった全てを知る人物、歌月さんを良く知っていて、お姉が養女になった経緯も目の辺りにして、それを私に知られぬよう他人に口止めしてまで必死にひた隠している人物。それは既にわかりきっていた事だが、私の両親、虎太郎と麗奈だ。
何かあったのかもしれない。私が生まれる前、その二人が夫婦になる前に、父さんと、母さんと、そして歌月さんとの三人の間に。いや、絶対に何かあったに違いない。ただ単に若くして亡くなった歌月さんからお姉を譲り受けたと言う容易な話だけではなく、私が高校生になるまで話せない、いや高校生になっても未だに詳しくまでは話せない、聞いたら何かしらのショックを受けてしまいかねない難しい事情が、過去の出来事が。昨日のお姉と今日の新作さんといづみさんの反応……。もう、そうとしか思えない。
いや待って、もしかしたら私の両親との間に事情があったのは歌月さんではなく、お姉が最後まで話してくれなかった父親の方なのかもしれない。ある大財閥の幹部だった男性の養子で、その後同じ男性に養女として迎えられた歌月さんと結婚したお姉の本当の父親。現時点でその人について私が知っている情報はそれしかない。名前すらわからない。一体どんな人だったのだろうか、私の両親とはどんな関係だったのだろうか? 友人? 敵対関係? それとも……?
『……遠い親戚だった人だよ……』
……血縁なの? 遠い親戚、あまりに曖昧な言葉過ぎてどこまでの関係だったのか全然把握出来ない。でも、父さんのあの時の声、あの時の目、とても記憶に残っている。何かとても寂しそうだった。声はかすれ、どこか遠くを眺める様に、凄く悲しげな目をしていた……。
……ダメだ、キリがない。余計な事まで考えてしまう。胸が苦しい、辛い。知りたいよ、父さんと、母さんと、歌月さん。私が知らないその昔に一体何があったのか。私とお姉の間に一体どんな複雑な事情が存在しているのか。傷ついてもいい。後悔したっていい。知りたい、知りたい知りたい知りたい! このままじゃ嫌だ、自分だけ何も知らないのは嫌だ! お願い、もっと私に詳しい情報を下さい!
「新作さん、いづみさん、お願いです、教えて下さい! 自分でもなぜかわからないけど、最近ずっとこの話が気になって仕方ないんです! お姉はどうして渡瀬家の養女になったんですか!? 私の両親と歌月さんはどんな関係だったんですか!? それと、お姉のお父さんはどんな……!」
「……もう、やめとけや」
すっかり我を忘れ、立ち上がった勢いで倒れる椅子も気にならないほど急き立つ私を制したのは、真横から聞こえてきた少し呆れ気味の冷めた声。熱を帯びた室内の空気が一瞬にしてクールダウンする。声の主、それは先程まで父親のスケベな醜態を目の辺りにし窓の外を眺め落ち込んでいたその娘、翼だった。
「……那奈オマエな、さっき小夜に病院では騒ぐな暴れるな一丁前なセリフ抜かしといてな、実際今の自分のその姿はどないやねん? そない必死こいて血眼剥いて大声出して、ちっとも人の事言えへんやんか、みっともない、自分でそう思わへんのかいな?」
「……あっ……」
「しかもオマエな、五体満足健康そのものでピンピンしとる翔太のオカンに食ってかかるんやったらまだええとしてもや、ウチのオトンはこれでも今現在担当医から絶対安静外出禁止言われとる重病患者やねんぞ? 下手に心臓にショック与えるような事したらアカン、ホンマやったら家族の人間以外は面会控えて欲しい、とまで言われてんねんぞ?」
窓の敷居部分に突き肘をして外を眺めたまま、感情を押し殺し淡々と喋る翼のその雰囲気はいつものふざけた軽々しいものとは違い、母さんやお姉でプレッシャー慣れしている私ですらも言葉に詰まるほど鋭く尖ったものだった。こちらに向けている小さい背中がなぜか今はとても大きく見える。
「それやのにオマエはそない尻に火ぃ点いたロケットみたいにドカドカ突っ込んでギャーギャー食ってかかりよってからに、これでもしホンマにオトンの心臓止まってもうたらどないして責任取ってくれんねん? 医者が飛んで来る間に緊急蘇生術でも出来るんかいな、オマエは?」
「……いや、あの……」
「オマエここに何しに来たんや? 見舞いに来たんとちゃうんかい? それともホンマの目的は事情聴取かいな? せやったらさっさと帰れや、ここは警察署ちゃう、病院や」
「………………」
「姉貴の云々聞きたいんやったらな、その姉貴貰い受けた本人達に聞くのが一番話早いんと違うんかい? それを何やら面倒がってウチのオトンから又聞きしようやなんて考えとる事自体とんでもないオカト違いやねん、そない話は家帰ってからやれや、ウチら何も関係あらへんがな、せやろ?」
確かにそうだ。お姉や父さん母さんからこれ以上の事の詳細を聞くのが怖いからといって、他に事情を知っている人物を探し話を聞き出す事だけに夢中になって何か大切な事を忘れてしまっていた。新作さんは病人なんだ。しかも常にいつ病状が悪化するかわからない危険な状況にある重度の心臓病疾患者だ。
そんな人に無理を言って喋りたくない事まで強引に喋らそうだなんて、ちょっと私どうかしてたかもしれない。お見舞いのついでに聞く事が出来れば良いな、程度でしか考えていなかったはずだったのに、感情が先走っていつの間にか本来の目的を見失ってしまったいたみたいだ……。
「この後まだオトンに負担かけて病状悪化させるような事しよったらな、ウチがオマエをこの病室から永久に出入禁止にしたるさかいに、絶交どころとちゃうぞ、一生恨み通したるから覚悟せいよ」
「……ごめん翼、私、つい……、ごめんなさい、新作さん……」
「いやいやええねんええねん、そないガックリ落ち込むなや那奈、大袈裟過ぎや、この程度何て事ないから気にすんなって、なっ?」
隣でキョトンとしている小夜の顔をまともに見れない。本当に人の事言えないな、今の私。さっきの大声が別の病室まで響いて他の入院患者さんの迷惑になってないだろうか、少し心配になってきた。
「翼もそないピリピリして怖い事言わんでもええやないかい、オマエのオトンは女子高生一人に言い寄られたくらいで死んだりせえへんで、むしろ那奈相手ならもっと近くまで言い寄って貰て添い寝までされたら逆にオトンのハートはドキドキキュンキュンしてMAXケージまで心拍数増大してまうわウヒヒ」
「何がMAXケージやねん、自分の病状省みず人の気心も知らんと……、娘の友人にまでセクハラしとる場合とちゃうねんで? 少しは心配しとる家族の気持ちも考えてくれんとホンマ困るわ!」
「わかっとるわかっとる、わかっとるがな、俺は幸せもんやなぁ、こない自分の家族から心底愛されてホンマ幸せもんや、ついでにここにおるナースちゃん全員にも目一杯愛して貰たらもっと幸せ満開花満開なんやけどなウヒヒヒヒ」
「あ~もうしょうもなっ! こないアホでスケベなオトンなんか嫌や! いっそいっぺん死んでまえ、このどアホっ!」
「アホとスケベは死んでも治りまへ~ん、先生がアホにつける薬無い言うね~ん」
「アホの坂田~♪ って、やかましいわホンマに! 蚊取り線香粉にして蕎麦にぶっかけ食っとけや!」
死ね、なんて乱暴な事を言いながら翼の表情は半分呆れつつも相変わらずファザコン全開の満面の笑顔。本当に大好きなんだねぇ、新作さんの事が。すっかりいつもの調子良い生意気娘と戻ったチビっ子は窓際からこちらに歩み寄ってくると憎たらしいしたり顔で椅子に座る私の頭を馴れ馴れしく手のひらで撫で回してくる。さっきまでのピリピリした雰囲気は一体どこへやら。
「まぁわかればええねんわかれば、ちゃんと聞き分け良くええ子にしとればいちいち怒られんでも済むねんで、また一つ賢くなれたやないか那奈ちゃ~ん?」
「……触んじゃねーよ、調子乗んな」
「アラマァ怖ァ~イ、何テ汚イ言葉ナンデショウ、ヤッパリ那奈チャンハ悪イ子デスネ~」
「ただでさえ普段の関西弁でもウザいのに、慣れもしない標準語を変なイントネーションで喋るな! 本当気持ち悪い! 鳥肌が立つ!」
「ウヒャヒャ、岬の真似やで! どうや腹立つやろ?」
「自分が普段やられて腹立つ事を人にするなっつーの!」
「まぁまぁそないカッカするなや、しかしなアレやで那奈、さっきから忠告がましいかもしれんけどあまり他人様が隠しとる事柄にズカズカ首突っ込むのは極力控えた方がええと思うで? 人間生きてりゃ余所には絶対知られとうない話がたくさんあって当たり前、例えそれが家族の人間、姉妹同士、実の娘相手でもや、オマエかて家族にも知られたくない秘密あるやろ? せやったら余計な勘ぐりはしたらアカンがな」
「でも、うちの家族は一切秘密事はしない、包み隠さず何でも話すって主義だったから……」
「せやからそれでも話せへん事ってやっぱりあんねんって、あくまでこれはウチの予想やけどな、多分オマエの家庭にはそう簡単に一筋縄ではいかん難しい事情があって、多分それを知って一番傷つくんはオマエなんとちゃうかな? せやから多分姉貴もオトンもオカンも今までずっと何も語らず黙っとんたんやろ、オマエの為に、オマエの事を思ってな」
「……それは多分そうなんだろうけど、でも……」
「しかしやで、姉貴は今回やっと自分の母親の名前をオマエに明かしてくれたんやろ? せやったらいずれ向こうから全てを話してくれる時が必ず来るがな、こっちから下手にドタバタつついたりせんでもな」
「……そうかな……」
「そうやで! 時期尚早やねん、今は! 今はまだ話せへんかもしれんけど、いずれ時が満ちれば全ては明らかになんねん! 真実ってもんはいつもそういうもんやねん! 焦ったってしゃあない、どうせいつかは嫌でも知ることになる時が来んねん、せやからそないビクビクして心配せんとドンと構えて何でも受け止めたるぞって威勢見せたれや! そしたらオマエのオトンもオカンも安心して全てを語ってくれるはずやで!」
「……うん、そうだね、焦らずにちょっと待ってみるかな……」
「うん、それでええねん! 何や珍しい、今日は随分ええ子やないかい那奈ちゃ~ん? 翼お姉ちゃんは上機嫌やで、オマケにもう一回頭ナデナデしたるわ」
「だから触んなっつーの!」
とても翼の口から出てるとは思えない大人びた発言。でも、異論は無い。いつもは諭す立場の私が逆に諭されて何か悔しい気もするが、今日は仕方ない。これにはさすがに納得せざるを得ない。
「……そういう事、そういう事やろ、なっ、オトン?」
「………………」
「……オトン?」
「……『真実』か、せやな、時が満ちれば……、上出来や翼、全くもってその通りやで……」
翼の呼びかけに一瞬深刻な表情を見せた新作さんは、二度目の呼びかけにはニコリと笑顔に戻り感慨深く何度も頷く素振りをした。どうも意味あり気な今の二人のやり取り、この親子の間にも私の家族と同様、何か他人には明かせない、今は話せない難しい事情があるのかな? 何となく気になる、ちょっと微妙な空気間だった。
「……うーん、しかしせなや、どないしようかな、もうええ加減ずっと黙り込んどるのも宜しくない気もしてきたわ、アイツにとってもなぁ……」
何やら考え込みながらベッドに胡座をかき膝をポンポンと叩いた新作さんは、意を決した様にベッド横の机の引き出しから小さいバッグを取り出すと、中をガサゴソと探り始めた。
「何やオトン、ウチらに小遣いでもくれるんかいな?」
「アホ、そない端金ある訳無いやろ、さすがの俺も女子高生に小遣い与えてイタズラしようなんて悪趣味はあらへんで」
「ちょっと待ちなよ新作、お前まさか……? やめときなって、私達から余計な事話す必要無いって、これは那奈と虎太郎達の問題なんだからさ」
「せやからってこのまま子供相手に知らぬ存ぜぬ見て見ぬ振りすんのも年輪重ねたええ大人がする事とちゃうやろ、優歌が吹っ切れたんや、もうアイツかてええ加減吹っ切らんとあかん時期が来とんねん、それにこのまま内密にして那奈が気にして不眠症にでもなったりしたらそれこそ迷惑な話やからな、ちょっとぐらい喋ったって別に罰当たらんやろ」
……アイツ? 一体誰の事だろうか? そして今、いづみさんの制止を振り切り新作さんが取り出そうとしてる物は一体何なんだろうか? 期待と不安に自分の鼓動が早くなってるのがわかった。緊張が一気にピークに達する。
「……えっーと、これはこの前六本木のお店で聞いたエミリちゃんの電話番号のメモやろ……、これは随分前に虎太郎や啓介と行った銀座のお店のママも名刺や、あちゃ~水割りサービス券期限切れとる、もったいない事したわ……、あれ、おっかしいなぁ見つからへん、どこしまったっけなぁ……?」
「お前のバッグは水商売関係の四次元ポケットか!? よくもまぁそれだけ無駄なもんばかり集めたもんだね、掃除しなよ……」
「まあな、開店祝い水割りサービス券からお店在籍女の子リストまで選り取り見取りや、年期入っとるでぇ、ほれコレなんて生前の貴之と一緒に行ったノーパンしゃぶしゃぶ店のアルコール品引換券やで、かれこれもう熟成二十年モンの限定ヴィンテージ品や」
「……ちょっと待て、聞き捨てならないぞ今のは、ノーパンしゃぶしゃぶ!? あの貴之が!? 嘘をつくな嘘を! お前と違ってあんな真面目な男がそんな卑猥な店に行くだなんてそんなまさか……!」
「いや~、飛び跳ねて御満悦でしたでお宅の旦那さん? ああいうお店初めてやったらしくてなぁ、最初は目のやり場に困っとったみたいやけど、日頃のレースのストレス溜まってたんやろか、アルコール回り始めた途端あんな過激な行動してまうとはあの時俺はとてもとても予想出来ん……、おっ、これやあったあったやっと見つけたわ例の物」
「話をはぐらかすな! いつの事!? 私と結婚した後!? まさか翔太が生まれた後じゃないでしょうね!? それより過激な行動って何よ!? アイツ、父親にもなって私に隠れて何やってんの!? って言うかお前、何勝手に人の旦那をそんな場所へ案内してんだよ!? おいコラ新作、ちゃんと最後まで詳しく話しなさい……!」
「絶対に知られたくない戦いが、そこにはある! 嫁の見てない所でそないハッスルしてもうてもいいんですかぁ? いい~んですっ!」
「川平慈英かよ!? うるせぇそんなのどうでもいいから話せよゴラァ、過激な行動って一体何なんだよ!? てめぇ吐かねぇとその首根っこ締め潰すぞコノヤロ」
「そない突っ込んで食ってかかられたら心臓止まってまうがな、いづみも人の事言えへんなぁ、もし俺の体に何かあったら責任取って緊急蘇生術でもしてくれるんかいなオマエは?」
「肋骨が粉々になるまで心臓マッサージしてやるよ、その話を全て聞き出すまでは死んでも死なせるか!」
……緊張の糸、プッツリ切れました……。どれだけネタあんのよこの二人? もうお腹いっぱいです、勘弁して下さい。とりあえず貴之さんのハッスル話は別として、新作さんが探していた物、それは風俗嬢の名刺でもなく水割りサービス券でもない、一枚の手のひらサイズの白い紙。紙と言うよりフィルムみたいな物だった。まさかコレ、お姉の時と一緒? また写真?
「うわぁ、久し振りに見たけど俺若いなぁ~! 絶世の美少年やな、こりゃ当時のクラスの女の子達がぎょうさん寄りついてくる訳やわ」
「ヤダ何これ、三人とも田舎のクソガキって感じ丸出しじゃん!? 麦藁帽子にランニングシャツに半ズボンって、今の子供達はこんな格好恥ずかしがって絶対にしないよね、これって中学生の時?」
「せやなぁ、確か二年の時の臨海学校で撮ったもんやと思うわ、俺らがいづみと知り合う前の話やな、エラい懐かしいわ、もう四半世紀以上も前の事なんやなぁ……」
「あのー、二人だけで盛り上がってないで私に見せて下さいよ、それ、一体何が写っているんですか?」
新作さんは一瞬ニヤリと笑みを浮かべると、手を伸ばしてその写真を私に渡してくれた。大昔の写真の様だが、ノーパンしゃぶしゃぶ店のお姉ちゃんが写った写真ではない事は確かだろう。詳細が気になったのか小夜と翼も私の肩越しからその写真に目を通す。
「うえっ! これ写ってんの誰やねん!? このメガネ少年、まさかオトンかいな!?」
「スゴい古い写真だー! 眼鏡の男の子が翼のお父さんなら、この一番端の背の高い男の子って、もしかしてー!?」
私は驚きのあまり息が詰まってしまった。なぜなら、この写真の中で三人の少年の間にいる一人の銀髪の少女、昨日お姉が私に見せてくれたものと一緒の姿をした歌月さんがそこに写っていたからだ。あの時お姉が持っていた写真は歌月さんが写っている部分だけ小さく切り取られ全体の風景までは確認出来なかったが、着ている服、少し恥ずかしそうしている仕草、引き込まれてしまいそうな可愛らしい笑顔……。間違いない、あの写真とこの写真は全く一緒のもの、同じ場所同じ時間に撮られたものだ。
「……新作さん、これは……?」
「……カッちゃん、いやもとい、蓑田歌月はな、俺らと同じ『森川の里』の出身なんや」
ちょっとどころの騒ぎじゃない、とんでもない新事実が湧き出してきた。『森川の里』と言えば父さん啓介さん新作さんの兄弟同然の三人衆が幼少期を過ごした伊豆の孤児院の名前。と、いう事はこの写真に写る左端の眼鏡少年はやはり若かれし頃の新作さんで、右端の背の高い中学生離れした大人っぽい少年が小夜の予想通り啓介さんだろう。ならば、その中央に偉そうに腕を組んで陣取り、馴れ馴れしくピッタリと歌月さんの右隣に寄り添ういかにも悪ガキそうな坊主頭の少年はまさか……?
「……父さんと歌月さんは、小さい頃一緒に暮らしていたんですか……?」
「中学までやけどな、俺らが高校に上がる前、カッちゃんはどこかのお偉いさんに連れられていなくなってもうたんや」
「富豪の養女に……、お姉の話と合ってる、この写真は新作さん以外にも父さんや啓介さんも……?」
「捨ててなけりゃ持ってるはずやで、俺らの大切な青春の思い出やからな、さっきの俺みたいにどこしまったか忘れた、っちゅう話ならあるかもしれんがな、特に日頃忙しい啓介辺りは」
「……じゃあ、この写真から歌月さんの姿だけ切り取って、それをお姉に譲ってあげた人物っていうのは……」
「いや~、あの頃はホンマ楽しかったわ、よう四人で一緒に色んな所遊びに行ったもんやで、今見てもホンマ可愛えな、どうや、メチャクチャ美人やろカッちゃん? 里の男子はみんなカッちゃんに夢中やったわ、俺はもちろん、あの啓介までギターそっちのけでムンムン色気づいとったぐらいやからな、毎日何とか気ぃ惹こうとみんなして必死になってな、誰が彼女を落とすか競い合ってたもんやで」
へぇ、三人は小さい頃一人の女の子を巡って争っていた時代があったんだ。あまり恋愛に興味が無さそうな啓介さんまで必死になっていたなんて意外。つーか一番意外なのは父さんだ。気を惹くなんてめんどくせぇーとか言って強引に相手を拉致しかねないあの理不尽人間がねぇ。でもあの人って女性が百人いたら百人全員モノにしないと気が済まない性格だから、多分ピュアな恋心で歌月さんに迫った訳じゃないとは思うけどねぇ……。
「男三人で女一人を奪い合いね、何かドラマみたいな話だね、悪ガキにギターバカにエロ河童、か弱き彼女はこんな野獣みたいな三匹に追い回されてさぞや毎日気苦労が絶えなかっただろうね、何か可哀想、同情しちゃうわ」
「んでや、カッちゃんおらんなって寂しいなぁ、同じ高校行きたかったなぁ、と思っとった俺らの前に現れたんがこの不良女や、さすがの俺らもコイツに対してはそんな気にはならへんかったな、だって可憐で清楚で学業優秀なカッちゃんに比べたらこの女の可愛げ無い事、外見性格学力素行全て悪い事悪い事」
「可愛げ無くて悪かったな! お前ら三人にチヤホヤされるだなんてこっちからお払い下げだよバカヤロー!」
そうだったのか。父さんと歌月さんはそんな昔から顔見知りの間柄だったんだ。なら歌月さんが亡くなった後、古くからの知り合いだった父さんが頼まれてお姉を貰い受けたのも理解出来る。意外と単純な理由だったのかな、お姉が渡瀬家の養女になったのは。私ちょっと、難しく考え過ぎてたのかな……。
「ところでやオトン、オトンら三人の中でこのアイドルちゃんを落とす事が出来たんは一体誰やねん?」
「あー、それあたしも知りたーい! おとーさんって昔モテモテだったのかなー? お母さんに出逢う前はいっぱい女の人とお付き合いしてたのかなー?」
「バンドマンはモテるやろうからな、多分一番優位に立っとったのは小夜のオトンな気がするわ、オトンは多分エロ過ぎて嫌われとったんとちゃうか?」
「ねーねー、この歌月さんって人と一番仲良くなれたのって一体誰だったのー?」
「もしかしたら三人とも見事にフラれてたりしてな、ウヒヒ」
色恋沙汰話になると途端に色めき立つ年頃女子高生どもめ。自分達の父親がどれだけ女性にモテてたかそんなに気になりますか? まぁそうだなぁ、私も翼の予想通り三人まとめて良い友達止まりで撃沈ってところだと思うけどなぁ? 釣り合わないもんね、控えめな歌月さんとこのキャラの濃すぎる三人じゃ。特に父さんなんて絶対歌月さんから怖がられて敬遠されていたに違いない……。
「そんなんその写真見りゃわかるやろ、真ん中で仲良う二人並んでな、俺と啓介なんて端に追いやられて外野扱いや、弾みでもカッちゃんの手なぞ握ったらその場で袋叩き、手どころか指一本すら触らせて貰えんかったもんやで」
「……えっ……?」
「リーダーの特権乱用しまくりやったわあの男は、神が齎した運命の出逢いだーだの俺は彼女を守る為に生まれてきたんだーだのアレコレほざいて俺らの恋心なんてハナから度外視お構い無し、それどころかカッちゃん人見知りで怖がりやのにそないな事気にせず感情の赴くまんま直球体当たりやったしな、カッちゃんが里に来た初日からいきなり結婚してくれ言い出して鈴子母ちゃんに叱られとるわ、学校でカッちゃんをイジメる生徒達はもちろん偏見の目で見る教師達大人まで全員叩きのめして大問題になるわ、あまりの暴走っ振りに俺も啓介も途中で怖なってほとんど諦めとったもんな、下手したら何されるかわかったもんやないしな」
「……あの、さっきから新作さんが言ってるアイツとかあの男って、やっぱり……?」
「遂にはカッちゃんもその熱意の前に観念してもうてな、ほとんど脅して無理矢理交際取り付けたみたいなもんやでアレは? それでも、アイツはカッちゃんには見てて気持ち悪いぐらい優しくて心底尽くしまくっとったな、カッちゃんも最後はホンマにアイツの事が好きになってしもたみたいやし……、いやまぁしかしや、アイツが一人の女にあそこまで夢中になっとる姿、俺は今にも過去にも他に一度も見た記憶無いわ」
「……ちょっと、ちょっと待って下さい! 新作さん喋りだしたら止まらなすぎです! えーと、話を整理するとそれを聞く限り当時歌月さんと恋愛関係になった人っていうのは、まさか……?」
「……ああ、そのまさかやで、何せアイツにとってカッちゃんは生涯唯一無二の……」
予想だにしてなかったまさかの新事実。新作さんは昔の淡い思い出話に熱中し完全に口が緩んでいる。これはチャンス、今なら全てを聞き出せるかもしれない。私は核心に迫ろうと一気に攻勢をかけた。きっとこの話の裏側に私が知りたい全ての原点が隠されているに違いない。真実はすぐそこにある、あと少しだ、あともう少し……!
……が、次の瞬間、そんな私の切なる願いを打ち砕く小さな邪魔者の声が病室内に響き渡った。
「イエーイ、今日の主役登場だぜぃ~! お待ちかねのみんなのアイドル、みータン今到着~!」
「あっ、みータンだ! みータン、久し振りー!」
「あっ、小夜タンだ、さーよターン! って久し振りじゃないよこの前会ったばっかじゃん」
「あれ、そうだったっけー? そうかー、そういえばそうだねー、この前あたしと瑠璃ちゃんと三人で麻美ちゃんのお見舞い行ったんだっけー、忘れちゃってたよエヘヘ」
「相変わらず小夜タンはいつまで経っても頭の中がボケボケですねー、小夜タンに瑠璃にみータンは手のかかる子供の面倒ですっかり肩が凝っちゃいましたよ、あーあ」
……誰も待ってねーよ、あともう一押しで全部聞き出せそうだったのに……。見た目は可愛らしい、しかし並みの大人より遥かに腹黒い小悪魔登場。姉より更に生意気娘の松本家次女・岬が勢い良く病室内に駆け込んで来た。相変わらずなのはこの子も同様、いざ口を開けば小学生とは思えないマセた言葉を並べ立てまくる。どこで覚えてくるんだかこんなセリフ、最近の小学生ってヤツはみんなこんなのばっかりなのかなぁ?
「と、いう事でお姉タン、早速だけどみータンの肩揉んでちょーだい」
「何でウチがオマエの肩なんか揉まなアカンねや! 姉様ナメとんのかこのクソガキが!」
「ダメですねー、お姉タンも相変わらずサービス精神ゼロで思いやりの欠片すらないダメダメ人間ですねー、こんな不甲斐ない姉を持ってみータン、肩どころか目も腰も辛くなってまるで更年期障害にでもなった気分です」
「アリナミンVでも飲んどけ、このどアホ! 全く、到着早々ドタバタ走ってギャーギャー騒ぎまくりよってからに、今さっき病室では静かにせえって話したばかりやがな! それをオマエは……」
「ねぇねぇパパー、みータンね、昨日の学校のテストで100点取ったんだよー! ホラホラ見て見て超スゴくな~い? お姉タンと違ってみータン超イケてるって感じでしょ~?」
「最後まで人の話をちゃんと聞かんかいゴラァ! ってかオトンしんどいのにベッド飛び乗ってピョンピョン飛び跳ねんなや、オトンの病状悪くなったらオマエどないしてくれんねん! 何かあったらオマエは責任取って緊急蘇生術でも……!」
「ねぇねぇお姉タン、顔に何かついてるよー!」
「……えっ? 何や何や、何がついてんねん?」
「鼻でした~、プププ」
「……オマエ、シバくぞゴラァ!!」
「アハハ、お姉タンが怒った怒った~!」
……ダメだ、岬に新作さんの所有権を奪われこれではとてもさっきの話の続きが出来る状態じゃない。あーウザい。周りの空気をちっとも読まずに自由奔放に愛嬌を振りまく幼い妹と、それをデカい怒鳴り声で追いかけ回す更に精神年齢が幼い姉。どっちもうるさい、迷惑です。ここは病院ですよ、他の患者さんに迷惑かけないようにもっと良い子な対応をして下さい。特にお姉さん、あなたさっきまでの面子が完全に丸潰れになってますよ。あの一丁前な説法は一体何だったんでしょうか、もうガッカリです。
「コラッ! 翼、岬! いつも顔合わせれば姉妹ゲンカばかりして、病院内ぐらい仲良く出来ないの!? 二人ともいい加減にしなさい!」
「いやだってやオカン、またコイツがウチの言う事利かんとギャーギャー騒いでオトンに負担かけよるから……」
「お姉ちゃんがそんなに大声出したら妹が真似するのも当然でしょ!? ここは家じゃないのよ、高校生にもなってこんなくだらない事で怒られていてどうするの、もっとしっかりしなさい!」
「……またや、またウチが怒られた……」
「しっかりしなさーい! プププ、やーい怒られた怒られたー、やっぱりお姉タンは怒られてばっかりのダメダメ人間ですねー」
「オマエも同罪のダメダメ人間やこのボケっ!! こんな事になったんはそもそもオマエが……!」
「ねぇねぇお姉タン!」
「何や今度は、何がついてんねん!? 目か、耳か、それとも口か!?」
「ただ呼んだだけ~」
「……オマエ、マジでぶっ殺したる!!」
「怖~い、殺人予告犯発見~! お巡りさ~ん、ここに犯罪者がいま~す!」
「オマエ一匹殺したところで罪に問われるかい、むしろ感謝状貰うて表彰もんや! 逃げんなやコラこのクソガキ、今日こそ姉の偉大さってもんをその身にたっぷり叩き込んだる……!」
「もういい加減にして! 殺すとか殺さないとかそんな不吉な言葉並べて、ここをどこだと思ってるの!? そんなにケンカしたいなら二人とも家に帰りなさい! もう二度とお見舞いに来なくて結構です!」
「も~う、何でいつもこないオチになんねやぁ~!?」
岬から遅れて美香さんが病室に到着。清涼感溢れるビジネススーツを着こなしトレードマークの綺麗なストレートヘアと縁無し眼鏡がとても良く似合っている。うーん、相変わらず美人だ。こんな時間まで仕事に勤しんでいたとは思えないほどその佇まいからは疲労の影が見えず、身なりがキッチリ引き締まっている。先程のお言葉、ごもっともです。私が言いたい事を全て代弁してくれた。親を困らせる不届き娘どもめ、少しは見習え。
「皆さん遅くなりました、……いづみ、こんな遅い時間まで残らせちゃってごめんね、無理なお願い聞いて貰っちゃって本当にごめんなさい」
「なぁ~にを今更そんな余所余所しい事言ってんのよ、私とアンタの間柄でさ? 美香こそこんな遅くまでお仕事お疲れっ! とりあえず洗濯物の収納とか花瓶の水やりとか出来る事は大体やっといたからさ、朝からずっと働きっぱなしでしょ? 少しは落ち着いてゆっくりしなよ」
「うん、ありがとう、凄く助かる……、いづみ、いつも側にいてくれて本当にありがとう」
「だからやめてよそんな改まってさ、何か照れるじゃんかよ、エヘヘ」
美香さんからお礼の言葉をかけられると、いづみさんは嬉しそうに頭を掻いて少し恥ずかしがった。やっぱり仲良いんだなこの二人。さすがは幼馴染からの親友同士だけある。持つべきものは友か、果たしてここにいる私の友人達は二十年三十年経っても困った時に手を差し伸べてくれたりするだろうか? 今現在においても私が助けてあげるばっかりでこの二人にこちらが助けて貰った記憶がほとんどと言っていいほど無いような気がするのだが。
「新作クン、遅くなってごめんね、もっと早く来れるように急いだんだけど……」
「……何でもかんでも先に謝ってまうのは美香ちゃんの悪い癖やな、とんでもない、むしろ謝らなならんのはこっちの方や、いつも遅くまでホンマお疲れ様、ホンマおおきにやで」
「ホレ岬、オマエのオトン独占タイムはここまでや、さっさとベッドから降りてその場所オカンに譲ったれ」
「えっ~、今さっきここに来たばっかりなのに~! もっとたくさんパパとお話したい事がいっーぱいあるのに~!」
「ええからさっさと降りんかい! こっち来て大人しくしてろや、空気読め!」
「チェッ、つまんないの~」
ありゃま、何と聞き分けの良い空気の読める姉妹だ事。やれば出来るじゃん、世界屈指のファザコンである翼もちゃんと母親に譲るべき時は譲るんだね。これが松本家円満の秘訣なのかな。まぁそれも両親夫婦同士が何年経ってもラブラブだからそうなれる訳で、渡瀬家夫婦みたいに巡り会ったが百年目今日こそ積年の決着つけてやる、みたいな因縁関係だと逆に二人きりにしたらとっても危険なんですけどね。また大喧嘩して家壊されちゃうよ。
「あっコレ、新作クンから頼まれてた例の物、まだ仮出版の状態だけど無事刷り上がったから」
「おっ、ホンマかいな? いやぁ~待っとったわ、ようあんな酷い保存状態からここまで立派に仕上げてくれたもんやなぁ! これはグッジョブやで、ホンマおおきに!」
「それが新作が美香に頼んでいたっていう野暮用? 何それ、写真集?」
「うん、これは新作クンが以前……」
「嗚呼、やっぱりか、美香アンタついにこのエロバカの為にヘアヌード写真集まで買い与えるようになっちまったんだね、何てこったい、あたしゃ虚しくて悲しくて涙が出てくるよ……」
「何でやねん! せやから違う言うとるやろ! いくら俺でも嫁にそないなもん買わせるほど落ちぶれてへんわ!」
「違う、違うよいづみ! これは以前新作クン達が海外で取材をしてた時に撮った写真をまとめたものなの! 当時一緒にコンビを組んでたカメラマンさんが亡くなって今年でちょうど十年忌でね、それを偲んで彼が残していった記録を一つの写真集として出版出来ないかって新作クンから頼まれてたの」
「これらの写真のほとんどは一度爆発に巻き込まれて燃えてしもうてな、何とか全焼せずに済んだフィルムも状態が悪うてとても現像化するんは不可能やと思っとったんやけど……、最近の復元補修技術は凄いわなぁ、これは十分に納得出来る出来映えやで、ホンマありがとな美香ちゃん、さすがは俺の最高の嫁はんや」
「そんなおべんちゃら使って……、お礼なら出版社の関係者の人達に言ってあげて、私は何もしてないもん……」
「いやいや、これは美香ちゃんやないと出来んかった仕事やで、ホンマおおきに、心から愛しとるでホンマに」
「……もぉう、子供達が見てる前でバカなんだからぁ……」
真っ赤になって照れる美香さんの姿はまるで十代の少女の様。もしもーし、何度も言うようですがここはデートスポットじゃなくて病院ですよ、お二人さーん。自分達の子供どころか余所の子も見てるんだから少しは弁えて下さいよ。見てるこっちが恥ずかしくなっちゃうよ、全く。
「ホンマええ出来や、完璧やで、これでやっと俺もアイツに報いてやれた気ぃするわ、これでまた一つ、思い残す事が無くなったわ……」
「……新作クン……」
「あーあ、いつまで経ってもお熱いお二人だ事、嫁の前ではこんな歯の浮く様なセリフ宣って裏ではナースの尻追い回してる懲りないスケベ野郎の事だからさ、私はてっきり女の裸でも載ったいやらしい写真集か何かだと思っちゃったけどね」
「……懲りない、スケベ? ナースの、お尻? どういう事かしら? いづみ、ちょっとその話詳しく教えて」
「オイいづみ、オマエええ雰囲気やのに余計な事言うなや!」
ヤバい。余計ないづみさんの一言にそれまでウットリと優しい目をしていた美香さんの眼鏡のガラスが一瞬にして曇る。と、同時にそれまで岬の話し相手をしていた旦那様の眼鏡のガラスも冷や汗の湿気で一瞬にして曇る。病室内に漂っていた暖かい春麗らの様な一家団欒の空気が一転、身の毛のよだつ様な冷たい殺気地味たツンドラ気候へと変わっていく。うわぁ、何か急に吐く息が白くなってきたー。
「なななな何を急に訳わからん事言い出しとんねやこの風間家のお母ちゃんは? スケベとか尻とかさっぱりわからん、俺ずっとええ子にして愛しの美香ちゃん待っとったやないかい? なぁ、せやったよな那奈?」
「………………」
「いやいやいやいやその意味ありげな無言はおかしいやろ? 何を急に黙秘権なんか行使しとんねんオマエは? 証人の義務全うせぇよ、黙っとったらわからんがな、そないな事じゃ将来世渡り上手になれへんぞ? ホンマやで俺嘘なんかついてへんもん、美香ちゃんまだかな~、早よ会いたいな~、って、もう寂しゅうて寂しゅうて涙ポロポロ溢れて大変だったんや、なぁ、せやったよな翼?」
「……オトン、見苦しいわ、そんなオトン、ウチ嫌いや……」
「ブルータス、オマエもか!? 嫌いとは何やねん、オマエまでオトンを見殺しにしようとするんかいな!? アカンがなアカンがなアカンがな、最近の若い子はみんな嘘つきで素直やないなぁ? 俺は命尽きるまで一人の女性にこの身を捧げるロマンチストやで、そないまだまだ青臭い小娘どもの尻ごときに夢中になる訳が無いやん、俺には美香ちゃんしか眼中あらへんがな、当たり前やないか何を今更」
「オイ新作、今のお前すげーみっともないぞ、男だろ、潔く腹切れよ」
「四十路過ぎの欲求不満なオバハンは黙ってといて貰えまへんか!? あ〜もう翼も那奈もいづみもアカンアカンアカン、こんな切羽詰まった場面に笑いもボケもいらんのや、そないあくどい嘘までついて俺を陥れて一体何が楽しいっちゅうねん? 小夜は違うわな、オマエは素直でええ子やもんな? 言ったれや、俺がどんなに美香ちゃんを想っとるかをなっ!」
「うん! さっき翼のお父さん、翼のお母さんが世界で一番だって言ってたよー!」
「おう、せやっ! どうやこれが真実や、真実はいつも一つやでぇ! でかしたで小夜、良うわかっとるやないかオマエは! さすがは啓介の娘やな、羨ましいがな、アイツも素直でええ子に恵まれたもんや……」
「翼のお母さんが世界で一番エロくてナイスボディな女の人なんだってー!」
「どアホ~っ!! そいつは余計な話やっ!!」
「あとねー、バッグの中にいっーぱい女の人の名前が書いてあるメモがたくさんあったよー! 翼のお父さんってモテモテなんだねー、そんなモテモテな人と結婚出来た翼のお母さんってやっぱスゴいなー!」
「褒めてへん褒めてへんそれ絶対褒めてへんしフォローにもなってへんがな、オマエ一体俺に何の恨みがあんねん途方もない大告発かましといて何ニコニコしとんねん人様の家庭メチャクチャにして何がそない楽しいねん今日一番心臓に負担かかったわオマエは俺を殺す気かああああぁぁぁぁ!!」
決定的。致命傷。見事なトドメの一撃だ。『溺れる者は藁をも掴む』とは正にこの事。小夜に助言を求める事自体とんでもないミステイク。小夜がニコニコしてるのは通常仕様です。本人悪気なんてこれっぽっちもありません。自業自得、全てはあなた自身が蒔いた種です。策士・松本新作、策に溺れるでごさるの巻。
「……へぇ、そうなんだ、ふーん……、新作クン、話があるからちょっとついて来て」
「いやいやちょっと待ってぇな美香ちゃん違うねん違うねん誤解やねんそない怖い顔せんでいつもの可愛い笑顔で笑って許してぇな頼むわってか俺絶対安静の身やからベッドから降りたら死んでまうがな死んじゃう死んじゃうホンマに死んでまうし」
「い い か ら 来 な さ い」
「はい」
両腕を組んだまま無言で病室の外へと先導する美香さんの後を追う新作さんの姿は、医者から余命申告を受けた直後の様な何とも言えない絶望的な雰囲気が漂っていた。カラカラと引きずる点滴用の三脚のタイヤの音が物凄く虚しく聞こえてくる。死相が出てたね。さすがにこの後新作さんからさっきの話の続きを聞くのは鬼だよね、本当に死んじゃうかも。今日はもう自粛しよう。とりあえずは合掌、哀れなスケベに神のお導きがありますように、チーン。
「……何で男っていくつになってもああなんだろうねぇ、多分アイツは死ぬまで女の尻追い回すんだろうなぁ、やっぱり美香は結婚相手間違えたよ……」
「……夫婦で生きていくって大変なんだなぁ、何か、結婚って本当は凄く怖いイベントなんだな、ってつくづく思い知らされた気がする……」
「那奈も気をつけなよ、ダメな男捕まえるとろくな事無いからね、それでも、結婚するって悪い事ばかりじゃないとは思うけどさ」
「じゃあダメな男にならないように十分厳しくしつけて下さいよ、自分の息子さんを……、ところでいづみさんは貴之さんと結婚して正解だったと思いますか?」
「うん、私は正解だったと思ってるよ、貴之はちゃんと私を妻として愛してくれたし、息子にとっても優しい父親だったし、百点満点中九十九点の結婚相手だったね」
「減点一点は?」
「私と翔太を置いて、さっさと先立たれちゃった事かな……」
「……いづみさん……」
「あっ、思い出したー! 貴之叔父さんねー、昔あたしにいづみ叔母さんの料理が美味しいって自慢してたよー! カボチャの煮つけが美味しいって、最高の奥さんだって言ってたー!」
「……まだ赤ん坊同然の頃の小夜にまで嫁の自慢話するとか、本当バカだねぇアイツはもう……、そういえば貴之、カボチャの煮つけ大好物だったっけなぁ……」
「あとねー、カボチャを素手で真っ二つに叩き割る女性なんて初めて見た、ゴリラみたいですげー感動した、だってー! 包丁いらなくてとても便利だ、ってスゴいニコニコしながら嬉しそうだったよー!」
「……余計な事ベラベラ喋りやがってあのヤロー、今度位牌ごとカボチャと一緒に圧力鍋でグツグツ煮込んでやろうか……?」
◇
……プルルルル……、プルルルル……。
「ハイもしもし、那奈? あぁ、やっと連絡取れた、いやさぁ大変なんだよ今、親父さんと麗奈さんに捕まって昨日からずっと練習されられまくっててさ、丁度今休憩貰えたところなんだけどまだまだ帰らせてくれそうにないんだよ、俺このままじゃ二人に殺されちゃう……」
『ねぇ翔太、私の良いどころを一つ褒めるとしたら、どこ褒める?』
「な、何だよ急に? それよりさ、近くに母さんか誰か大人の人いない? 頼むから親父さんと麗奈さんを説得してよ、本当にこのままじゃ帰れそうにないんだよ、学校にも行けやしない、誰か何とかして……」
『ねぇ、どこ褒める? 速やかに答えて』
「……答えたら説得してくれる?」
『その答え次第』
「……喧嘩に強くて不良に絡まれる心配が無い事、かな?」
……プツッ、ツー、ツー、ツー……。
「えっー! 何でー!? 空手やってる人間にとって『強い』って最高の褒め言葉じゃないのかよー!? 何も電話切らなくたっていいじゃん、しかも着信拒否にされてるし! ちょっと待ってよマジでヤバいんだって、俺このままじゃ本当にここで野垂れ死ぬ……!」
「ゴラァ翔太! もう休憩は終わりだ、あと三百周くらいざっと回ってこい、そしたら帰してやる」
「まぁ、あと三百周も走れるだなんて有り難い話じゃない、あなたは世界一幸せなライダーね、翔太」
「もう土下座でも何でもしますから許して下さーい!!」
◇
……やっぱり蛙の子は蛙だったか。男性の皆様、是非とも女性を誉める際にはその部分に十分ご注意下さい。余計な発言は控え目に、壁に耳有り障子に目有り、どこで話を聞かれてるかわかったもんじゃありませんよ。愛情表現は計画的に。
「………………」
「ねぇねぇお姉タン、それなーに?」
「……子供の見るもんとちゃう、ってか見ん方がええ……」
それよりさっきまで騒ぎまくってた翼が急に黙り込んでしんみりしてしまったのが気になる。美香さんが持ってきたあの写真集が原因の様だが、一体何が写っているのだろうか? 見ない方が良いもの、亡くなったカメラマンさんが残した取材の写真、それだけで何か嫌な予感がするのだが……。
ここまで終始穏やかで楽しい会話で進んできたこの一時。しかしこの数分後、この写真集によってこの世界中で最も悲惨で、最も困難な問題と向き合う事になるとはこの時私は思いもしていなかった。それどころか近い将来、それが私達の人生に深く関わり、遠い地球の裏側の他人事では済まなくなるとは、とても想像出来てなかった訳で……。
その話は、また次回。
「ってか病院では携帯の電源切れや、どんだけマナー違反やねんなオマエは? 今日は小夜の方がよっぽど大人やぞ」
「ホント今日の那奈は怒られてばっかりだねー、ダメダメだなー、そんなんじゃあたしの事何にも言えないよー!」
……仰る通りです、失礼致しました、アイムソーリー……。