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第75話 君がいた夏



「……ぐがー、ぐがー……」


「……さて、と、どうしますかねぇ……」



こちらスネーク、たった今、世界中の全人類の脅威である無差別大量殺戮生物が眠る会場ホール内の控え室に潜入に成功した。ターゲットは未だ大イビキをかいて爆睡中の模様。私に課せられたミッションは、この凶暴な生物に不快な刺激を与える事なく気分爽快な目覚め方をさせる事、である。

無論、失敗は許されない。失敗、それは即座に私の死を意味する。下手な起こし方をすれば例え姉妹とはいえ容赦なく、その殺人兵器とも言えるコンクリートよりも硬い鉄の拳と、金属バットすらもへし折る金棒のような回し蹴りが襲いかかってくるのは過去の経験で嫌というほど学習済みだ。

かといってこのミッションを放棄する訳にはいかない。この控え室の外では、すでに支度を済ませあとはリング入場の時を待つのみの会長さん達と、今宵のメインイベントを飾る主役の登場を楽しみにしている、会場に詰め掛けたほぼ満員に近いたくさんの観客が控えているのだ。

これは私にしか出来ない、達成出来ない重要なミッション。この大会が成功するか否かは全て、私のこの腕にかかっているのだ……。


……なんちゃって。まぁ実際はそれ程重要なミッションでも何でもないんだけどね。簡単に言えば、会長さん達にうまい事危険かつ面倒臭い役目を無理矢理押しつけられてしまったって訳。

ヒドい扱いです、私が部屋に入った途端、会長さんか胡桃ちゃんか知らないけど誰かが外から扉の鍵閉めやがった。室内の安全が完全に確保出来るまで外に出てくるな、って事? 

私は生贄かっつーの! 最低だあの人達、その正体は絶対人の面を被った鬼か悪魔だ。一般兵一人ぐらいがどうなっても当局は一切関知しないと、そう存じ上げますか? これだから上層部の人間ってヤツは……。




「……お姉?」


「……ぐっがっがっ、すぴー、ぐがー……」



お姉に心地良い目覚めを体感してもらう為の方法として、横になっているソファーを蹴り飛ばして床にダルマ落とし状態にするか、顔に塗れタオルをかけて窒息させるか、それともお姉が持っているタバコに火を点けてそれを火災報知器に近づけスプリンクラーを発動させてずぶ濡れにするか、あるいは昔のバラエティー番組よろしく早朝バズーカでもかましてやろうか、などなど色々と考慮をしてはみたものの、どれもネタとしては最高かもしれないが、それらは間違いなく私の命と引き換えのコメディーになると思われたので自粛した。

私だってまだ早死にしたくはない。いくら空手やってるからってそりゃ殴られたら私だって痛いもんは痛い。正式な組手でも勝てる気がしないのに、マジ喧嘩したら間違いなく一方的にボッコボコにされるのは目に見えている。これじゃコメディーどころかR15指定の血みどろの大惨劇になってしまう。

やはり最善かつ最も安全な方法はいつも通り、引火性爆発物を取り扱うように細心の注意を払って、丁寧に優しくそしてたっぷりの愛情を持って起こすのが一番だろう。とはいえこの方法で私の身の安全が100%保証出来る訳では無いが、少しでもゲームオーバーになる確率を減らしておく事に越した事はない。

第一、この身を犠牲にしてまで笑いに走る勇気とキャラ設定は私には無い。そんなヨゴレ役は翼と薫のお笑いコンビがやればいいのだから。あの二人なら笑いさえ取れれば命を落としかねない強烈な殺人ツッコミでも喜んで受け入れるだろうし。



「……ねぇ、お姉、もう時間だよ? そろそろ起きようよ、ねっ?」


「……むぅ~ん、にゃむにゃむ、もうこれ以上殴れないよー、にゃむにゃむ……」


「……ハァ?」



……何の夢見てんの、この人? 『もう食べれない』とかなら良く聞く寝言だけど、『殴れない』ってどんだけ物騒な悪夢ですか? いや、本人からしたら悪夢じゃなくて最高のシチュエーションか。夢に出てる人達が可哀想です。『二時間殴り放題バイキング』なんてタイムサービスあったら喜んで行っちゃいそうだなぁ、この人。従業員死んじゃうよ、みんな。



「……ほらお姉、会長さんも胡桃ちゃんもみんな待ってるよ、いい加減そろそろ起きないと試合開始に間に合わない……」


「……うるせーなぁー、あとムエタイとコマンドサンボとブラジリアン柔術を三皿くらい……」


「殴れないとか言っといて全然殴り足りてないじゃん!? つーかもうタイムサービス終了ですよ、お客様! 当店は持ち帰り厳禁ですから残した商品をパウチとかに詰め込まれたら困ります!」


「ああああぁぁぁぁ!!!! 人が気持ち良く寝てんのにギャーギャーうるせーな、てめーはよ!!」


「ちょ、ちょっと待った! お姉、まだ寝ぼけてるでしょ!? 私だよ私、肉親殺害は重罪だよ! 暴力はんたーい!!」



しまった。不覚。あまりに下らない夢の中の話についついツッコミがキツくなって、制御に失敗してお姉原子炉の臨界点突破を許してしまった。扉に鍵を閉められ密室状態の控え室に閉じ込められた私と寝起き最悪の人間核爆弾。もう大変です。エクスプロージョンです。逃げる間も無く次の瞬間には、私の身にチェルノブイリの五倍ほどの衝撃波が襲いかかってきた。

さっきまで横になってたソファーをこっちに向かってブン投げてくれるわ、壁に立てかけてあったパイプ椅子を持ち出して脳天に振りかざしてくれるわ、もんどりうって倒れた私の両足を掴みグルグルとジャイアントスイングして放り投げてくれるわ……。これらのお姉の暴走で私がどんな惨たらしい姿になったかは皆様の御想像にお任せします。これって軽い死刑執行だよね? 私、そんな残酷な刑を受けるような大罪、いつ犯したっけ?



「……ん、あれ? 何だ、良く見たらおめー、那奈じゃねーか? 何だよ、てっきり翔太か神崎のアホがあたしの安眠を邪魔しに来たのかと思って勘違いしちまってたぜ」


「……良く見なくても声聞きゃわかんだろ、気づけっつーの……」


「オイオイ那奈、おめーは何で髪も服もグシャグシャになって、しかも頭から血ぃ流してんだ? 襲われたのか!? 誰にやられた!? あたしの可愛い妹をこんなに痛めつけるだなんて、どこのどいつだ、許せねー話だな!!」


「アンタの仕業アンタの仕業これ全部アンタの仕業! 控え室の中がメチャクチャなのも、ソファーが壁に突き刺さってるのも、私の頭がパックリ割れてんのも、みんな全部全部アンタの仕業!!」


「しかも結構深い傷みてーだな、あまりカリカリしてっと噴水みてーに血がドバドバ噴き出しちまうぞ?」


「……そりゃあ、パイプ椅子で殴られた後、ジャイアントスイングで頭から壁に向かって投げられりゃあ誰だって出血ぐらい……」


「急いで止血しねーとな、とりあえず紐か何かで頸動脈締めときゃ止まるか?」


「まだ痛めつけ足りないと仰られますか!?」



……まぁ、出血したって言ってもそんな大した程でもないんだけどね。傷口にちょっと指を触れたら血が付く程度で済んだよ。私だって伊達に普段から体鍛えている訳じゃないし、こんな理不尽な暴力行為はいつも家でも日常茶飯事ですから、もう慣れっこです。

お陰様でマンションの二階のベランダから植木鉢が落ちてきても怪我一つしない頑丈な石頭を持つ少女に成長する事が出来ました。幼稚園時代に私をバイクの後ろに乗せて路面に振り落としてくれた父と、生後八ヶ月の時に『高い高い』をして頭から真っ逆さまに地面に落としてくれた母と、私を毎日サントバックの様に殴る蹴るして遊んでくれた姉の温かい愛情にはとても感謝しています。本当にどうもありがとうございました! ……バカヤロー……。



「……で、もう気が済んだ? 済んでない訳無いよね、こんだけ好き勝手自由に暴れまくったんだから」


「おう、スッキリだぜ! いやー、しっかし良く寝たわー、やっぱり寝起き後の運動は気持ちが良いもんだな! これで頭も体も完全にリフレッシュ出来たぜ」


「……あー、そうですか、そりゃ良かったですね、こっちはたまったもんじゃないけど……」


「んで、朝飯はマダー?」


「……ここ、家じゃないし、しかも朝じゃないし……、つーかお姉、自分が今どこにいるかちゃんとわかってる?」


「あー、そうか、そういやここはホールの控え室だったっけか? おめーがいるから家にいるんだとすっかり勘違いしちまってたぜ」


「……ちゃんと起きてる? まだ寝ぼけるんじゃないの、お姉?」


「あれ、つーか何であたし、ここにいるんだっけ? ここに何しに来たんだっけ? 最近物忘れがヒドくてなー、歳は取りたかねーなー、全く」


「……頭出しな、仕返しも兼ねて思いっ切りパイプ椅子で頭ブッ叩いて記憶回路治してやるから」


「……冗談だよ、そんな怖えー顔すんなって、気弱で繊細でいたいけなお姉さんにもっと優しくしてーん?」



何がいたいけだ、その前にアンタがもっと可愛い妹に対して優しくしろっつーの! 相手がまだ私だったからこの程度の被害で済んだけど、並みの人間だったら今頃病院か火葬場送りだよ、この暴挙は? 前にお姉を起こしに来た彰宏さんが生死をさ迷う羽目になった理由が良くわかった。下手すりゃ警察沙汰の立派な暴行事件になっちゃうよ、これは!



「……確かに、歳を取ると物忘れが多くなって困るのう、ワシもいつ飯を食ったのかすっかり忘れて、いつも嫁に怒られてばかりじゃ」


「うわっ! いたんですか長老さん!?」


「おうジジイ、おはよう」



私のお姉の間に、いつの間にか入り込んで椅子に腰を掛けてるヨボヨボフガフガのお爺さんが一人。橋口会長の実のお父さん、通称長老さん。そういえば私が胡桃ちゃんと大会本部室に向かった時からずっとここでうたた寝してたっけ。

……ん? ちょっと待って、つーかこの人、お姉が暴れて部屋を破壊しまくってた時、どこにいたの!? あんなにソファーやら椅子やらが控え室の中を飛び回っていたのに、何で傷一つ負わずに平然とここに座っているの!?



「お嬢ちゃん、ワシはここから一歩も動いてはおらんぞ、お前さんがワシの気配に気づいてなかっただけじゃ」


「那奈、このジジイをタダのボケ老人だと思ってナメてかからない方がいいぜ、リアル亀仙人って言うのはこのジジイの事を言うのさ」


「……リアル亀仙人? 何それ、スケベって事? あるいは普段サングラスにアロハシャツ着てるとか?」


「わかってねーな、こう見えて実はとんでもねー武道の達人だって事だよ、まぁ、おめーもこれから何度かジムに通う事になりゃ嫌でもわかるさ、マジでハンパねぇぞ、このジジイ」


「……そういえば、さっき会長さんも熊がどうのこうのとか言ってたっけ……」



何がどうハンパねぇのかはよくわからないけれど、武道や喧嘩の強さでこれほどお姉が他人を称えるだなんて珍しい話だ。父さんぐらいじゃないかな、こんな特別扱いするのは。って事はこの長老さんも機動隊百人を全滅させたり拳銃の弾避けたりするレベルなの? 何か最近の私の身の回りの人達、超人じみてる人多すぎだよ。いずれは本当にかめはめ波まで放つ人物が現れそうな予感……。



「あら、もうすっかりお目覚めのご様子ね、優歌ちゃん? もう試合前の準備運動やストレッチすらも必要ないくらいハッスルしたみたいね」


「おーう会長、まだまだ暴れ足らねーな、残りはリングの上で晴らすぜ、今日はこの優歌様のキャリア最高の試合を見せてやるよ」


「あらあら、相変わらずお転婆さんな事、楽しみね、ウフフ」



内から物音が聴こえなくなってもう安全だと判断したのか、厳重に閉じられていた控え室の扉の鍵を開けて、会長さんが悲惨な室内の状態に気にする素振りもせず普通に中に入ってきた。目の前の惨状に気づいてない? 目線に入ってない? それとも、敢えて見て見ぬ振りしてる? あのー、ソファーとか机とか室内に置いてあったテレビとかみんなボコボコになってるんですけどー、これって会場関係者宛てに弁償とかになったりしなんでしょうか、会長さん?



「妹ちゃん、お役目ご苦労様、外からでも物凄い怒号と爆弾テロみたいな騒音が聴こえてきたから、さすがの妹ちゃんでも命が危ないかしら? と思って危うく横田基地にSWATチームの出動を依頼しちゃうところだったわ、でも、やっぱり妹ちゃんはお姉さんの扱い慣れているのね、あなたにこの役目を頼んで正解だったわ」


「……ハァ……」


「あらやだ妹ちゃん、頭からうっすら血が滲んでるわよ? これは大変だわ、今すぐ医療室に行って首を縛って止血しないと」


「……アンタ達、マジで覚えとけよ……」



……SWAT呼んでる暇があるなら、アンタが助けてよ! とりあえずはお姉の師匠なんだから強いんでしょ!? って話だよ、全く。それより何より気軽に電話一本で米軍SWATチームが出動出来るかっつーの、蕎麦屋の出前じゃないんだから! もうどこまでが冗談でどこからが本音なんだか全然わかんない。会長さん、あなた一体どこの米国防長官なんですか?



「……なんまいだぶつ、なんまいだぶつ、なんみょーほーれんげーきょー、はんにゃーはらみた、ぎゃーていぎゃーてい、はらぎゃーてい……」


「……胡桃ちゃん、私、まだ死んでないから……」


「うわああああぁぁぁぁ出たああああぁぁぁぁ!!!! 祟りじゃー、山神様の祟りじゃー!! 那奈さん、あだしは悪くねーよ、どうか恨まんでけろじゃー!! 悪霊退散、悪霊退散!!」


「だからまだ死んでねーっつーの!!」



……胡桃ちゃんに至ってはこの有り様。会長さん曰わく、室内からの物騒な物音を聞いて、てっきり私がお姉に虐殺されたと思ったらしく、ずっと扉の前に正座をして私が成仏出来る様に延々とお経を読み続けていたらしい。いざ私の姿を見るや塩まで投げてきやがった。筋違いな余計な優しさどうもありがとう。もし、本当に私が死んだ時は絶対アンタも地獄に道連れにしてやるからな、覚えとけよ。



「……じゃあ優歌ちゃん、あと五分よ、急いで準備してね、胡桃ちゃんはパパを先にセコンド席まで連れて行ってあげて頂戴」


「はーい、長老さーん、あだしと一緒に先に会場に行きんずやよー」


「おお、もうお迎えが来たのか、すまんのう香織、わざわざ三途の川を渡ってワシを待っていてくれたのか、フガフガ」


「あらやだパパったら、悪いブラックジョークね、『香織』って一体何号目の女なのかしら、モテモテなのね、ウフフ」



室内でちょっとした雑談を数分交わすと、会長さん達は一足早く入場口へと向かっていった。控え室に残ったのは私とお姉の二人だけ。



「何だ那奈、おめーも一緒に行かねーのか?」


「私は見張り役だってさ、お姉が二度寝しないように、あと試合用のパンツの中とかに催涙スプレーやメリケンサックとか凶器を仕込まないように、って会長さんが」


「するかアホ、集団で大乱闘するならともかく、タイマン勝負でいちいちそんなもん使うかよ」


「……じゃあ、乱闘では使ってんだ?」



実のところ見張り役っていうのは半分嘘で、今回のこのイベントで今までよりもう少しお姉との会話の距離を詰めたかったのに、なかなかその機会に恵まれなかった私に対して会長さんが気を使ってここに残してくれたのだ。ついでにお姉の緊張も解してあげて、との事。とても緊張してるようには見えませんけどねー。



「………………」


「……何だよ、何を黙ってこっちをジッーと見てんだよ?」


「……いや、別に……」


「あたしが試合用の服に着替えるのがそんなに気になるのか? この前風呂であれだけあたしの素っ裸のあんなとこやこんなとこ見てもまだ見足りねーってか、オイ?」


「バカ! 違うっつーの! そんなんじゃないよ!」


「そうかそうか、じゃあしょうがねーな、ならばおめーの為にストリップダンサーみたいにエロやらしく一枚一枚脱いでいってやるよ、ちょっとだけよ〜ん、アンタも好きねぇ〜」


「気持ち悪い! いちいち体をクネクネさせて脱がなくてもいいから! つーかカーテンあるんだからそこで着替えなよ! いくら私しかいないからってここは家じゃないんだから、公共の建物の中で全裸になってはしゃぐなっつーの! 誰かが部屋に入ってきたらどうすんのよ!?」


「上等だぜ! あたしは男がいようと女がいようと常にウェルカム戦闘状態、全裸が正装だからな!」


「胸張るな! 自慢にならん! バカ言ってないでさっさと服を着なさい!」



……どうやら緊張してるのは私の方か。お姉からこのイベントに誘われた時、普段の生活の中ではなかなか切り出せない事も、こんな特別な場面なら言い出せるんじゃないかと思ってたのになぁ。二人きりになれたせっかくのチャンス、聞きたい事がたくさんあるのに、何も言葉が出ない。何を聞いたらいいのか、ううん、何て聞き出したらいいのかわからない。



「……あのさ、お姉、あの……」


「ん? 何だ?」


「……あの、お姉の、お姉のさ……」


「あたしの、何だ?」


「……お、お姉の試合の相手ってどんな選手なのかな!? そういえば私、相手の選手の事何にも知らないんだよね、どんな選手なの? 強い?」



……違う、そんな事じゃない。私が聞きたいのは、ずっと、ずっとお姉に聞きたかった事はそんな……。



「……うーん、『並』の選手が相手になったら強ぇーんだろうな、何せ全米女子の階級別アマレスチャンピオンらしいし、黒人だし、女とは思えねーすげーガタイしてるしな」


「えっ、相手外人!? しかもチャンピオンって、嘘でしょ? 何でそんな輝かしい経歴を持つ選手がわざわざ日本で総合格闘技なんか出るの?」


「コーチが総合格闘技経験者らしくてな、レスリングじゃもう相手がいねーから、新たな戦場探してたところをこの大会のゼネラルマネージャーが結構な契約金積んでマッチアップしたんだとよ、要は半分売名、半分金稼ぎってところか」


「……ふーん、でもいくらレスリングチャンピオンとはいっても、総合に対して適応出来るテクニックとかあるのかな? よく男子の試合でも、元金メダリストとか鳴り物入りでデビューしたのにいざ試合やったらボコボコにされちゃった選手とかいるし」


「実際、現地でも何試合かやって未だ負け知らずらしい、つっても向こうの女子格闘界がどれくらいのレベルなのかはよく知らねーけどな、今回の対戦、やっこさん達はあたしをタダの噛ませ犬だと思ってナメてかかってるらしいぜ」


「……うわぁ、その選手マジで鳴り物入りでボコボコパターンまっしぐらになりそう……、でも伊達にアマレスチャンピオンじゃないだろうから、お姉でもいざ掴まれたりしたらヤバいんじゃない?」


「掴まれると思うか? この渡瀬優歌様が?」


「……不用意な失言、失礼致しました」


「逆に掴みに来てくれりゃこちらから間合い詰める手間も省けるって話だ、黒い肉ダルマはさぞかし叩き甲斐蹴り甲斐があるだろうなー、飛んで火にいる夏の虫ってか、売名に使わせてもらうのはこっちの方だぜ! 見てろ那奈、今日はド派手に決めるぜ、全米大号泣させてやるよ」



……やっぱり、聞けない。お姉が試合前でこんなにモチベーションが上がっているのに、わざわざそれを下げさせるような真似なんて出来ない。私がお姉から聞き出そうとしている話は、全てお姉からすれば他人に触れて欲しくない事ばかりだ。そんな事で試合に影響が出たら間違いなく私は後悔するだろう。今のお姉には、女子格闘技界を盛り上げていかなきゃいけない使命があるのだから。



『やっぱり、今まで通りの生活を過ごしていく事が、私達姉妹にとって一番良い事なのかな……』



「………………」


「……だから、何だよ? 湿気た顔してだんまり決めやがって、何かあたしに不満でもあんのか、アン? あんなら言えよ、お互い腹割って拳で語り合おうぜ、シュッシュッ!」


「いや、言葉で語り合うだけで結構です、つーか何でもないよ、個人的な悩みだから気にしないで……」


「個人的な悩み? 生理が来ねーとか?」


「何でそうなるの?」


「いや、それは悩みじゃなくてめでたい事だな、おめでとさん、元気な赤ん坊産めよ」


「だから何で?」


「よし、御祝儀だ、お姉さんがなけなしのポケットマネーからお小遣いをあげよう、好きなもん買ってこい、あたしはいつものボスレインボーな」


「もう試合まで三分もないのに自販機まで走れって? 何が御祝儀よ、タダのパシリじゃん、まぁ良いけど……」



つーか、試合前に缶コーヒー飲む格闘技選手ってどうなの? お姉はいつも試合前こんな感じなのかなぁ? 信じられない、私なんか試合中に吐きそうで絶対飲み物すらも口に出来ないのに。いくら義理の間柄だとは言え、ここまで性格や行動が違う姉妹も珍しいんじゃないだろうか……。



「……ん?」



お姉が自分のバックから財布を取り出し小銭を出そうとした時、その小銭入れの裏の隙間から一枚の白い紙のようなものがヒラリと床に落ちた。落としたお姉本人は気づいていないみたい。レシートなんて集めるような人じゃないし、落ちる時一瞬だけ裏面が見えたけど何か人影のようなものが描いてある、あるいは写ってるように見えた。何だろう、これ?



「……お姉、何か落ちたよ、何これ?」


「ん? おぅ悪ぃ、札か? ったく、諭吉ちゃんはそんなにあたしの財布じゃ居心地悪いって言うのかよ」


「……ううん違う、これ、……写真?」


「……!」


「ちょ、ちょっとお姉!?」



私が拾ったその写真らしきものを見せると、お姉はこれまで見せた事もない様な驚いた表情をして、焦った様子で私の手からそれを奪い取った。そしてそれを再び財布の小銭入れの裏にしまい込み椅子に座ると、さっきまでの饒舌が嘘のように下唇を噛んで黙り込んでしまった。



「……お姉……?」


「………………」


「……写真、だよね? ハサミか何かで小さく切り取ったような、あれって……?」


「……何でもねー、何でもねーよ」



見られたら困る物だったのだろうか。でも、私は見てしまった、その写真を。その写真に写る、一人の女の子の姿を。中学生くらいの小さい体に、まるで人形の様な白い、いや銀に近い軽くウェーブの掛かった綺麗な長い髪、そして絵に描いたような美しく可愛らしいその表情……。誰? 少なからず私にとっては、一度も見た事の無い女の子……。



「………………」


「……お姉、あの……」


「……何でもねー……、訳ねーよな、そんないい加減な言葉で済まされねーよな……」



お姉はフゥと一つ溜め息をつくと、目を瞑ったまま一瞬笑みを浮かべて何かを決意したように両股を叩き私の顔を見た。その表情は昔、幼い私を公園のイジメっ子達から守ってくれた優しい笑顔。先程の写真の女の子の笑顔にも似た、温かみに溢れるものだった。



「こうなっちまったらもう、無理に隠し通したり話をはぐらかし続けたりのも限界だな、ほらよ、よく見ろ、多分これが、おめーが昔からずっとあたしに抱いてた疑問の答えだ」



さっきしまった財布を取り出し例の写真を取り出すと、お姉は躊躇無く私にそれを手渡してくれた。床に落ちた時に白い紙に見えたのは表が下を向いていたからかな。やはり写真だった。しかも、かなり年季が入っていて若干セピア色になっている。それでも、写真に写るその女の子の髪や素肌や着ている服の色はちゃんと確認出来た。



「……凄く綺麗で、可愛らしい子……、本当、お人形さんみたい」


「……人形、ね、しかも『子』ときたか、ひでぇ言われ様だな、ハハッ」


「……えっ、失礼だった? まさかこれ、お姉じゃないよね?」


「んな訳ねーだろ、何十年前の写真だと思ってんだ? 第一、あたしがこんなに髪伸ばしてた記憶がおめーにあるか?」


「……じゃあ、この人は、まさか……」


「……ああ、あたしの、本当のお母さんだ」



……この人が、お姉を産んだ本当のお母さん……! 私がずっと知りたくて、それでも聞けなかったお姉の出生の話。こんな綺麗な人がお姉のお母さんだったんだ。意外と言ったら失礼だとは思うけど、正直驚いた。年齢は中学生ぐらい、私達と同じくらいの頃の写真だろうか。正に美少女と言える、女の私でも見とれてしまう美しい容貌だ。



「あたしの本当の名字はな、『蓑田』って言うんだ、んで、そこに写ってるお母さんの名前が『カヅキ』、『歌』に『月』って書いて歌月な、カゲツじゃねーぞ、それじゃ吉本の漫才ホールになっちまうからな」


「……歌月さん、か、月に歌う、名前も素敵だなぁ……」



『歌』と聞いて思い出したが、そういえばお姉も『ユウカ』の『カ』の部分が、良くある『香』とか『花』ではなく『歌』だ。お互いに小さい頃、お姉の名前を聞いた大人の人達が『この当て字はかなり珍しいね』と毎度毎度言っていたのを隣にいて聞いていたのでよく覚えている。

そうか、お姉の『歌』はお母さんの名前から一文字譲り受けたものだったんだ。じゃあ、『優歌』と言う名前は私の父さん母さん夫婦が名付けたものではなく、本当のご両親が名付けてくれた名前だったんだね。謎一つ、解明。


しかし、それによりまた一つの疑問が私の頭の中に渦巻いた。歌月さん、『蓑田歌月』さん、だよね? えっ? いや待ってよ、日本人なの? だってこの人、髪の色は銀色っぽくて、肌は透き通って血管が浮き出て見えそうなくらい真っ白で、私にはどこをどう見ても白人にか見えない。さらに、瞳の色が黒じゃなくて、何か茶色っぽいと言うか、赤に近いと言うか……。



「おめー、バカか?」


「えっ、何でバカ?」


「あたしと何年一緒にいるんだよ、あたしの本当の目と髪の色、何色だ?」


「……あっ!」



……そうだった。お姉は先天性の色素欠乏症、『アルビノ』の疾患者だった。普段はコンタクトレンズやヘアカラーで髪や目の色をカモフラージュしてるから見た目だけじゃわからないけれど、実際は髪は少し灰色がかっていて目の色も少し茶色い。お姉の場合は遺伝による疾患だと担当医が言ってたっけ。って事は、つまり……。



「……お姉のお母さん、歌月さんも、アルビノ……?」


「……ああ、あたしとはとても比較にならねー程の重度疾患者だったんだ、昼間じゃまともに外にも出れねーぐらいさ、普通の人にとっては有り難いポッカポカのお天道様の光が、一転殺人ビームになっちまうんだからな」



二つの謎、解明。と、いうか今回は私が少し鈍かった。お姉に対しても歌月さんに対してもちょっと失礼だったなぁ。一番の理解者だなんて言っといて、これじゃ無知な一般人と言ってる事が一緒じゃん……。



「おめーはたまに頭の回転が良いんだか悪いんだかよくわからねー時があるよな、その辺はホント虎太郎ちゃんと麗奈ママにそっくりだわ、おめーの記憶回路の方がよっぽど心配だぜ、もう数発頭叩いて治療してやろうか?」


「……失礼致しました、もうパイプ椅子だけは勘弁して下さい……」


「……ふぅ、まぁいいや、詳しく教えてやりてーところだが、時間がねーから適当に話すぞ」



お姉は試合前で時間が無い事もあって、ちょっと早口で簡潔に歌月さんの生い立ちと、お姉が生まれてから一緒に過ごした数年間の思い出を私に話してくれた。



「まぁ、あたしも人伝で聞いた話だから、あたしが生まれる前の時代の事は詳しく知らねーんだけどな……」



歌月さんも生まれた時から先天性のアルビノを患っていた。まだ当時の日本にはこの疾患に対する知識が不十分で、そのせいか歌月さんはまだ乳飲み子同然の頃に気味悪がれた両親に捨てられてしまったのだそうだ。その後、裕福な家庭に拾われ養女となったそうだが、実際は娘というよりもその珍しい容姿と生まれ持った美しい顔立ちから外国の人形の様な扱い方をされ、養父には玩具みたいに友人の家族に貸し借りされるなど、『一人の人間』として見てもらえない不遇の幼少期を送っていた。

その後、その心無い養父母から『飽きた』とばかりに捨てられた歌月さんは再び孤児となり、小学生から中学生までの間を孤児院で暮らす事になった。しかし、中学を卒業した頃、『彼女を貰い受けたい』と訪ねてきた一人の男性に迎えられ、彼女は再び一家族の養女となった。その男性は配偶者との間に実の子供は無くすでに死別していて、唯一の家族であるもう一人の男子の養子と一緒に暮らす大企業の重役だった。

そこでは以前の様な酷い扱いをされる事はなく、養父となったその男性からは本当の娘のように可愛がられたらしい。そしてしばらく時が経ち、いつしか一緒に暮らしていたもう一人の養子である男子と恋愛関係になり、普通の女性と同じように結婚をした。そして、その二人の間に生を授かったのが、何を隠そう渡瀬優歌、お姉だ。



「……まぁ、幸せって言えば幸せな家庭だったのかな、生活には困らねーし、いつもあたしの側にはお母さんがいてくれたしな」



しかし、現実は残酷だった。その後の歌月さんはただでさえアルビノの影響により幼い頃から病弱な上に、子供を出産するという大変な大仕事で体に負担をかけた事により、体内の免疫力が極端に低下し紫外線によって出来た小さな皮膚ガンが様々な内臓機関に転移して、毎年のようにガン摘出の手術を受けていたそうだ。



「……無理してあたしを産んだ事が原因の一つだって知ったのは随分と先の話だったな、言わねーんだよあの人、そんな事一言も漏らさなかった、病室でしんどいはずなのにいつもあたしに笑顔をくれて、誕生日にはケーキを買って看護婦さんと一緒に祝ってくれてよ、『生まれてきてくれてありがとう』だなんて……」



例年に比べ非常に気温の高い、お姉が四歳の時の夏の暑い日、歌月さんは眠るようにこの世を去った。亡くなる前日まで一人の女性として、母親としてこの世に残す事になる愛する娘を慈しみ、目一杯の愛情を注ぎ、そして、その未来を心配していたという……。



「……最期の頃はずっと謝ってばっかりだったな、『お母さんの病気、移してごめんね』ってよ、謝る事なんかじゃねーのによ、あたしからすりゃこのアルビノは、逆に自分が『蓑田歌月の娘なんだ』って証明してくれる誇り高い勲章みたいなもんだからな……」



歌月さんが亡くなったその後は私が知っている通り、お姉は渡瀬虎太郎と麗奈の夫婦に養女として迎えられ、後に二人の間に生まれてくる私の義理の姉となった。お姉は養女だろう何だろうとと大人気ないくらい容赦なく本気で向かい合ってくれる二人に対して『本当のご両親以上』の愛情を感じているらしい。

それでも時には、夜空に浮かぶ月を見てお母さんの事を思い出してしまうそうだ。父さんを『虎太郎ちゃん』と呼ぶのは出逢った頃からの呼び名らしいが、母さんを『お母さん』ではなく『麗奈ママ』と呼んでしまうのはどうしても歌月さんの事が忘れられないからだとか……。



「……あの二人と違ってよ、優しすぎなんだよな、あの人は、厳しく叱ってくれりゃ少しは嫌いになれたのによ、一度も怒られた記憶ねーんだよ、あたし」


「……自分が辛い思いをしてきたからこそ、それだけ人に優しく出来たのかもね、お姉のお母さんは……」


「かもな、昔からすげー辛い思いしてきたんだから性根腐ったっておかしくねーのによ、透き通るほど真っ白で、呆れちまうほどピュアで、決して他人を蔑んだり、攻撃したりする事のない、仏様みたいな人だったな……」


「………………」


「……真逆だな、あたしとは、あたし何やってんだか、な」



お姉は一瞬肩を竦めて首を捻ると、珍しく自分のこれまでの人生を悔いるような弱音を吐いて苦笑いした。大丈夫だよお姉、確かにお姉は言葉も行動も乱暴で人に迷惑かける事がたくさんあるけど、あなたがお母さんに負けないくらい辛い思いをして人に優しく出来る事を私は良く知っている。

だって自分の身を犠牲にしてでも自殺しようとしてた麻美子を助けてくれたり、格闘技関係者の人達の将来を案じて人気を盛り上げようとリングに立って闘っているんだから。方法が違うだけで、お姉は十分、歌月さんの娘として誇れる人生を送っていると思うよ。まぁこんな事、実際に口にしたら生意気だって殴られるから言えないけどね。



「……で、どうだ? 長年の疑問が解けてもうスッキリしたか、妹ちゃんよ?」


「……うん、知れば知るほど胸が痛む話ばかりだったけど、聞いておいて本当に良かったと思う、胸が痛いのは私よりお姉の方だよね、辛い事思い出させてごめんね、教えてくれて本当にありがとう……」


「お安い御用さ、気にすんな、ちゃんと話さなかったあたしも悪いんだからな」



私に笑いかけるお姉の雰囲気が、いつもの明るいお姉で正直ホッとした。もし、変な気遣いをさせてこの後の試合にズルズルと引きずらせたら元も子もない。このお姉のノリなら、きっと素晴らしいファイトをリング上で見せてくれるだろう。

お姉の言葉じゃないけど、やっぱり腹割って殴り合う、もとい話し合うって大切な事なんだな。以心伝心も良いけど、どんなに親しい仲でも言葉にして話さないと伝わらない真実や想いってのは必ずある。これからは翔太や小夜達に対しても腹に溜めずにちゃんと言葉に出そう。出すって大切、お陰で私も胸の支えが取れてもうスッキリ……。



「……してない」



まだある。お姉の知られざる秘密の数々。本当のお母さんの事はわかったけど、そもそもどういういきさつでお姉は父さん母さんの養女になったの? つーか本当のお父さんの方の話は? 歌月さんと同じ養子だったって事は聞いたけど、一体どんな人だったの? それに父さんは昔、私とお姉は全く血の繋がりが無い訳じゃないって言ってたけど、これじゃ全然話が食い違っちゃうよ、どうなってんの? そこら辺の事、さっきの話のくだりの中に何一つ語られてないんですけど……?



「……ねぇお姉、せっかくだからもう少し教えて欲しいんだけど……」


「あ? まだ何かあんのかよ、何だよ?」


「ちょっと優歌ちゃん、妹ちゃん!? もう何分経ったと思ってるの!?」


「あっ、やべー!」



私の質問を遮る様に、先程までの色っぽいオネエ系から完全にオッサンの血相に変貌した会長さんが控え室の扉を蹴り破って中に入ってきた。時計を見るとすっかり予定の五分どころか十分近く時間が経過していた。ヤバーい、大遅刻だー!!



「ちょっと妹ちゃん!? いくら色々と事情があるといってもこれはあんまりよ!? お姉さんを失格にさせるつもり!? 建て前は見張り役としてここに残したんだから、本来の役目はきっちり果たして頂戴!!」


「てめー那奈コノヤロー、おめーの話がグダグダと長くてすっかり缶コーヒー飲みそびれちまったじゃねーか! これはあたしの勝利の方程式、試合前のお決まりのルーティーンだったんだぞ! それをおめー、どうしてくれんだバカ野郎!!」


「もーう、妹ちゃんのお陰で今日は最初から最後までドタバタだわ、お肌が荒れちゃいそう、胡桃ちゃんの世話だけで精一杯だっていうのに」


「全くだぜ、出来の悪い妹、いやセコンドを持つと試合前から疲れちまうぜ、これであたしが負けたら戦犯はおめーだからな、覚悟しろよ」



何その理不尽発言の数々? しかも何よルーティーンって、お姉あなたそんなゲン担ぎするようなイチローみたいな細かい性格でもないでしょ? 会長さんも会長さんだよ、時間が押し迫っているならもっと早く呼びにきてくれれば良かったのに……。

私、本当はゲストだよね? 招待客だよね? 人手が足りないって言うから色々と準備手伝ったのに、それがこの言われ様ってあんまりだよ。胡桃ちゃんが道に迷ったのを私のせいにしたのは、きっとこの意地の悪い大人達の影響を受けてるからに違いない。歌月さーん、コイツらまとめて天国から叱り飛ばして下さーい!



「オイ那奈、あとの詳しい話はおめーがよーく知ってる人物から聞くんだな、あまり余計な事を喋るとあたしが怒られるんだ、あたしにお母さんの子供の頃の話を教えてくれたのも、さっきの財布の中の写真を譲ってくれたのもその人だしな」


「私のよーく知ってる人間? 誰よ、それ?」


「やっぱりおめーはちょっと勘が鈍いなー、わかんねーかなー? じゃあヒントやるよヒント、多分これでわかるだろ」


「ヒント?」


「あたしのお母さんが最初のクソ里親に捨てられて、その後次の里親に貰われるまでの間、身を置いていた場所はどこだ?」


「……孤児院、だっけ?」


「そういう事だ、じゃあ、しっかりセコンド頼むぜ」


「ちょっと待ってよ、意味わかんない! お姉、お姉ってばー!」



大会のメインイベントであるお姉の試合は、何とか無事十五分遅れで開始する事が出来た。私は空手の大会ではとても考えられないド派手な入場演出に付き合わされ、押し掛けてくる会場の観客の手からお姉を守る為に代わりにもみくちゃにされる羽目に。

どさくさに紛れて体を触ってくる輩がいたので会長さんの許可を貰ってこちらもどさくさで何人か殴ってやったけど、胡桃ちゃんは蟻地獄にハマった蟻の様に人混みに飲まれ、断末魔の叫び声を残し途中でどこかに消えてしまっていた。ハァ、セコンドって仕事は色々と大変な仕事なんだなぁ。しんどいなぁ。


……んでですね、肝心の試合内容なんですけど……。


結果だけ報告します。1ラウンド八秒、右上段回し蹴り一撃KO。もちろん勝者はお姉。キャリア最短試合更新。ゴングが鳴って自信満々で迂闊に自軍コーナーから飛び出してした全米アマレス王者をナタの様な左下段回し蹴り一発でぐらつかせると、返す刀で次の瞬間にはガードの下がった相手の左の首筋から延髄にかけてお姉の右足の甲がグッサリとめり込んでいた。

実況する暇すら無い。もう少しリアルタイムな状況説明をしたかったところだったが、何せ試合時間が短すぎる。正に一瞬、刹那。ほとんど一発目の下段蹴りで決まったようなものだった。私が『危ない!』と思った瞬間には、相手のガチムチ王者さんは膝から崩れるようにグニャリと倒れ失神してしまっていたのだ。



「どうだ、見たかクソヤローども!! これがリアルストロングだ、これがこの渡瀬優歌様の生き様だ!! 勇気があるヤツはついて来い、もっとすげーもん、もっとたくさん見せてやるぜゴラァ!!」



会場の空気は衝撃のKOシーンに一瞬凍りついた様に静まり返ったが、コーナーポストに登り威勢良く啖呵を切るお姉の姿を見るや地面が揺り動くほどの大歓声が上がり、全会場中の観客がスタンディング・オベイションとなった。それはまるで、この先の日本女子格闘技界の繁栄を予感させるものだった。



「……やっぱり強い、この人、強過ぎる……」



私がリングの下から見上げる先には、不敵な笑みを浮かべてこちらを指差す、汗一つすらかいていないお姉の姿があった。私がどんなに近づこうと必死に追いかけても、お姉は常に遥か先を突っ走り、私を簡単に置き去りにしていく。



『あたしを倒せるのは、アイツだけだ』



お姉が会長さんに漏らした言葉。それは本音なの? 本当にそう思ってる? 私はそうは思えない。私にはやっぱり、お姉は永遠の憧れ、そして、決して越える事の出来ない巨大な壁、そんな気がしてならないよ……。



「……し、死ぬかと思っただ、なんとか人混みの中から抜け出す事が出来だよ、なぁ那奈さん、優歌先輩は勝ちたんずやか? あだし、全然試合見れる余裕無くて……」


「あれ、胡桃ちゃん、生きてたんだ?」


「ひでーだよ、何かよくわがんねーうちに観客さん達に袋叩きにされて、挙げ句には試合が良く見えねーからってみんなに椅子代わりの踏み台にされて、ちっとも生きた心地がしなかっただ、都会人は怖ぇーよ、あだしもう故郷さ帰りてーよ……」


「……それはご愁傷様、なんまいだぶつ、なんまいだぶつ……」



歌月さんと父さん母さんの関係、お姉のお父さんの事、それと、なぜ私に子供が産めない体になってしまっていた事を隠していたのか、まだまだお姉には聞きたい事がたくさんある。謎だらけだ。でもそれは、知れば知るほどそれに見合った『痛み』を代償にしなければならないのかもしれない。今の私に、それに耐える勇気と強さは備わっているのだろうか……?


手を伸ばせば簡単に触れられる、でもその奥底までは全然届かない。近くて遠い、隣にいるのに雲の上の存在の様な人。少しだけ隠し事が減って心の距離は近づいたかもしれないけど、何か今まで以上にお姉との距離が長く感じてしまった、そんな一日だった。



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