表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
75/83

第74話 いつの日にか二人で



「……只今戻りましたー……」



巨大アウトレットモールの面積と比べればその半分以下しかない、決して広くはないはずの会場ホール内を胡桃ちゃんと二人で迷い流れて漂ってやっとこさお目当てのスケジュール表を大会本部でゲットした私。

それまでにかかった所要時間は約三十分。本部でホール内の見取りマップを貰って控え室へ戻るのに最短ルートを通ってみれば何て事はない、わずか五分足らずで帰って来れてしまった。

本部、メチャクチャ目と鼻の先だったんですけどー、胡桃先生? 何をどうやってどごを通ったら三十分も時間がかかる訳? 方向音痴にも程がある、まるで狐に摘まれたか神隠しにでもあったような気分だ。



「あら、お帰りなさい二人とも、随分と時間がかかったからてっきり中央線に乗って高尾山まで行っちゃったのかと思ったわ」


「……すいません橋口会長、実はちょっと道に迷っちゃいまして……」


「あらやだ、そうだったの? ちょっと胡桃ちゃん、初めてこの会場に来た妹ちゃんが道に迷わないように、ってあなたを案内役で一緒に行かせたのに、これはあまりにもお粗末な話ね、只でさえ人手が足りなくて参ってるのに、こんな事じゃ私、まいっちんぐマチコ先生よ? まいっちんぐ〜」



言葉使いやその仕草は間違いなく女性のそれそのものだが、やはり喋り声だけは明らかに酒焼けしたオッサンのガラガラ声である橋口ミミ会長。本名何だったっけ、しんのすけだっけ? 忘れちゃったよ、もう。つーか何で私、まだ十六歳なのに『まいっちんぐマチコ先生』知ってるんだろう……?



「ほ、ほんまにすみねだった会長さん! いや、あだしもこの控え室ば出るまではちゃんと本部の場所ば覚えてたはずだんずやんだけどー、いざ出発して人ごみの中ば入ったらすっかりテンパっちまって頭ん中真っ白になってー……」


「もう、相変わらず人がたくさんいたりすると慌てふためいちゃうのね、胡桃ちゃんは? それでも、もうこのホールに来るのはもう五回目なんだから、いい加減に大会本部室の場所くらい覚えないとダメねぇ、本部室、過去五回とも同じ場所にあるんだから」


「で、でも、あだし達の控え室の場所は毎回違うだよ! あだし、目的地が同じでも出発地点が違うとどさばどう通ればいいかわかんなくなっちまうから……」



……この子の空間認識能力や帰家能力、犬以下ですか? 五回も同じ場所に来てその度道に迷うって、あの小夜でさえ通学三日目には私が手を引かなくてもちゃんと真っ直ぐ学校から家に帰る事が出来たのになぁ。あの子よりヒドい方向音痴を見るのは初めてかもしれない。こりゃ迂闊に首輪つけずに放し飼い出来ないねぇ、胡桃ちゃん。持ち物全部に名前と住所書いた名札つけないとね。



「そ、それでもあたし、何とか思い出そうと一生懸命足りたい頭で記憶巡らせて頑張ったんだべ! そったら、あたしより先に那奈さんがズンズン一人で前に進んで行っちまって、あたしは道順ば思い出す余裕も無くなって後ばついていくのに精一杯で……」


「……えっ? ちょっと待って胡桃ちゃん、その言い方だと道に迷ったのってまさか私のせいになってない?」


「那奈さんだったらあだしなんかよりすげーしっかりしとるし、何てったってあの優歌先輩の妹さんだばってら、初めて来だ場所でも全然迷ったりしねんだ、やっぱすげーなー、なんて思って感心してたんだばって、そったら気ぃつくと何かいつの間にかボイラー室とか倉庫とかある変なとこ入っちまって、したらあだし余計テンパって自分が一体どこさいるのかすらも訳わかんなくなっちまって、元の道に戻るだけでもすげー無駄に時間いっぱい使っちまって……」


「……オイコラ、ちょっと待てっつーの」


「あだしが悪いんだ! あだしがしっかりしてねーから、何にも知らねー那奈さんに頼ってヘコヘコ後ばついて行っちまったからいけねーんだ! 会長さん、那奈さん、この通りだ、どうか許してしてけろじゃー!」


「とか言って胡桃ちゃん、本当は絶対自分が悪いって思ってないでしょ!? 思ってないよね、全然納得してないよね絶対!?」



……ハイハイ、そうですか、左様でごさいますか。ええ、そうですよ、全部私のせい私のせい。でしゃばって余計な真似した私が悪いんだよね。そりゃどうも失礼致しました。事情説明に必死になっていて決して悪気があって言った訳じゃないんだろうけど、シラッと人に全責任押し付けしやがってこのヤロー。お姉みたいにイジメちゃうぞ、ド田舎娘め。



「でもまぁ、私は無事に二人が帰ってきてくれただけで十分よ、それに、ちゃんと目的のエントリー確認とスケジュール表を持ってきてくれたんだからね」


「でも、本当はもっと早くこっちに帰ってきて私達が手伝わなきゃいけない用事とかあったんじゃないんですか、会長さん? 何かいつの間にか、控え室の中に無造作に置いといた荷物も全部片付いているし……」


「ああ、あれなら全部私と優歌ちゃんでまとめてやっつけたわ、やっつけたって言っても、必要な物だけ中から取り出して後は隅に寄せただけだけどね」


「……へっ?」



……お姉が、片付け!? あのお姉が!? 子供の頃からオモチャ出したら散らかしっぱなし、服脱いだら脱ぎっぱなし、食べても一切食器洗わない、下手すりゃ父さんみたいにトイレの水すら流し忘れるあのお姉が!? なにそれ怖い、天変地異の前触れか、もしくは世界の終わりの始まりか、大雨と霰と雹と吹雪が訪れて日本列島が丸々沈没してしまいそうな予感がする。洗濯物しまっておいたっけかなぁ?



「言う事があんまりねぇ妹ちゃんは、優歌ちゃんはね、あれでもジムではちゃんと自分の物以外もしっかり片付けを手伝ってくれたりするのよ? 胡桃ちゃん一人じゃまだ重くて持てないウェイトや練習用のマットとか、ねぇ胡桃ちゃん?」


「優歌先輩はすげーよ、あだしが両手で精一杯のダンベル、片手で軽々持ち上げちまうもん、体細ぇのに、どこさそげなば力あるんだかなー?」



何その外面美人。家では『あたしは茶碗より重てーもん持った事ねーしー』とか言って洗い物するどころか台所まで自分の食器すら持ってこないほどグータラのクセして、何よその人の変わり様は? 他人にそれだけ優しく接する事が出来るんなら少しは家族にも気を配れっつーの。

久々の母さん帰宅ってのもあったからかもしれないが、この前の自主的浴槽清掃でもかなりの奇跡に近い行動だった。それがまさかジムではそんな善人っぽい真似をしてるだなんて、とてもじゃないが生まれてからずっとあの人の一挙手一投足を見てきた私にはにわか信じがたい。つーか気持ち悪い。そんなお姉の姿、ちっとも想像がつかない。



「でも、もちろん片付け中はいつも通り愚痴に文句言いっぱなしだったわね、『アイツらどこで油売ってんだ、仕事サボってどこで一服してやがんだ、帰ってきたらまとめてシバき倒してやる』ってね」


「あー、やっぱりそうですよねー、あの人が本心から片付けや手伝いなんてする訳ないですよねー、嫌々に決まってますよねー、なるほど、その話を聞いて何か少しだけ私も納得が出来ました」


「うふふ、妹ちゃんはお姉ちゃんの事、何でもお見通しなのね、いい姉妹だわ、あなた達」



誰もやってくれる人、やれる人がいないからしょうがなく自分がやらざる負えないって事なのね。それでも、あの人の性格からすればかなり立派な事。何だ、お姉もちゃんと一社会人として成長できてるんじゃん。少なくとも父さんよりかは遥かにマシだ。お姉、偉いぞ。いい子いい子。



「……なーんて事、本人の目の前で言ったらいくら妹の私でもボコボコにシバかれるだろうな、さすがに……」



それはともかく、ところでそのお手伝いがちゃんと出来る、頭を撫でて誉めてあげたい優歌ちゃんの姿が見当たらないのはなぜ? 私達が帰ってきたら即行シバき倒すんじゃなかったのかな? 待ちきれなくて私達を捜しに行ってしまったのか、あるいはトイレか、それとも試合前だってのに一服しに行っちゃったのか?



「あそこよ、カーテンの中」



会長さんが指差す先には、着替えやマッサージ、怪我の治療等で使われる寝台が置かれているカーテンで仕切られた空間が控え室の奥に備えられていた。さっきこの部屋に初めて来た時はカーテンは開いていたのだが、今はきっちりと隙間無く360度密閉されている。中で何してんのあの人? もう試合用の衣装に着替えてんのかな、まだ試合までかなり時間あるよ?



「仮眠よ、優歌ちゃんはね、試合前は必ず数時間仮眠を取るのよ、入場の時間ギリギリまでね」


「……ギリギリまで? そんな事したら普通、逆に体がなまって動きづらくなったりしないんですか? 私もとりあえず格闘技やってるけど、試合前に寝るなんて絶対に有り得ないし寝たくても寝れない、ストレッチとかして常に体動かしてないととても気持ちが落ち着かないなぁ……」


「優歌ちゃん曰わく、『それらの無駄な動きは悪戯に体力を消耗するだけだ』ですって、寝つけないほど緊張するのは己の気持ちの弱さ、自信の無い証拠だってね」


「……何か、どこかで聞き覚えのある言葉……」


「耳が痛いかしら? ちょっと前に妹ちゃんが空手の大会に出た時、前日に全然睡眠が取れなかったって話、私も以前優歌ちゃんから聞いたわ、大変だったわね、でもそれが普通よ? 恥ずかしい事じゃないわ」



……ですよねー、これから殴る蹴る締める極めるやらかして、自分が怪我したり相手に怪我させたりする可能性があるのに、緊張感ゼロで容赦なく爆睡出来るあの人がおかしいんですよねー? まぁ、試合でもノールールの一般実戦でも経験豊富で、空手界で世界女王の座まで登りつめたお姉にすりゃ今更緊張なんてしないのかもしれないけど……。



「この私だって、現役時代は試合当日の朝方からかなりナーバスになって、とても十分な睡眠時間を取れたなんて記憶は無いわ、もちろん、同じ団体の選手でもそんな心臓に毛の生えた猛者はいなかった、こんなタイプの選手に会ったのは、優歌ちゃんが初めてよ」


「やっぱり、階級王者になった事がある会長さんでも緊張するもんなんですね、格闘技の舞台は……」


「そりゃそうよ、負けたくないもの、戦術やら試合ペースやら色々考えて頭も体もカッチカチよ」


「……普通そうですよねー、この前の私もそうでした……」


「ついでに、相手がイケメンだったりすると筋肉以上に体のある一部もカッチカチになっちゃって困っちゃったりしたわ、別の意味で素敵な寝技かけちゃおうかしら、なんて」


「……女子高生相手にまた下ネタ、これ立派なセクハラだよ、もう……」


「あだし、ジムに住み込むようになって毎日会長さんと優歌先輩のお下劣話ば聞いとるから、もうすっかり慣れっこだー、那奈さんは体は強ぇけど、まだまだウブっ子さんなんだなー? あだし何か、自信出てきたぞー!」


「……いや胡桃ちゃんそれ、自慢にならないから……」



……青少年教育上、環境悪過ぎるよなぁ、このジム。この子が住み込みで練習生をしている事はやっぱり何か間違っているような気がしてならない。学校以外の場所での道徳教育ってのも結構大事な事だと思いますよ、文部科学省各関係者方々様。翼のお母さん、美香さーん、何とかして下さーい。



「それとね、優歌ちゃんからすると、仮眠を取ると起きた後に頭がスッキリしてベストコンディションになるんですって、それはあくまでも、自分で自然に目が覚めて十分に睡眠が取れた場合だけだけどね」


「……それが、下手に人が叩き起こしたりした日にゃあ……」


「そんな事したらその後優歌ちゃんがどうなるかは、多分私達より妹ちゃんの方が良く知っていると思うわ、起こしに行った神崎ちゃんが帰ってこないから心配で控え室に行ったら顔中血だるまになって倒れてるし、そのままの不機嫌状態で対戦したこの前の相手選手に至っては本当に可哀想だったわ、敵ながら同情しちゃったもの、どんな惨事になったか詳しく知りたい?」


「……いや、いいです、皆まで聞かなくても大体予想つきますから……」



目覚めスッキリなら頭も体もピンピン絶好調で楽しく相手をボッコボコ、目覚め最悪なら完全不機嫌で近づく者みんな容赦なくボッコボコ。どちらにしろ格闘家として常にベストコンディションなんじゃんあの人。そりゃ自分で『天職だ』って言う訳だわ。

やだなー、絶対にこんな人間とは闘いたくないなー、命がいくつあっても足らない、つーか質悪すぎる。なぜ神様はこの様な危険な人物に格闘の才能を与えてしまったのだろうか。鬼に金棒どころかステルス爆撃機に核兵器だ。お姉、Bー2ですかあなたは?



「……もうカーテンの中に入ってしばらく経つんですか?」


「そうねぇ、五分前くらいだったかしら?」


「……じゃあ、もう寝てますね、近寄らない方が良いと思います」


「さすがね妹ちゃん、それだけでわかちゃうのね、じゃあ胡桃ちゃん、いつも通り試合前まで外に退避するわよ、準備して」



やっぱりここの人達もいつも退避してるんだ。そりゃそうだよねー、家でもお姉が部屋で昼間してるって聞いたら、私も翔太もまるで戦時中みたいにドアの開け閉めも慎重に、箸の転がる音すら立てないよう必死だもん。山中で冬眠している腹ペコ熊に出会しちゃった様な心境ですよ、本当に。



「でもあたし、未だ優歌先輩がそったら凶暴な獣みたいな人だなんて気がしねーだよ、あたしば悪い人達から助けてくれた先輩のまなごはすげー優しかったしー、むったど口が悪くて『シバくぞ』って脅されても、実際に暴力振るわれた事なんて一度たりもないだしなー……」


「……ですって妹ちゃん、空気も心も済みわたった平和な田舎で育ち、人を疑う事を知らずに育ったこんな純粋無垢な胡桃ちゃんに何か言ってあげる事、ある?」


「都会は雪山で遭難するより遥かに怖いよ、野生の熊より恐ろしい人間がたくさんいるよ、ここにいたら胡桃ちゃん、食 べ ら れ ち ゃ う よ ?」


「……あわわわわ、食われんのは御免だ、那奈さん、置いてかねーでけろじゃー!」



と、いう事で私達はメインイベントの試合が始まるまでのしばらくの間、ホール内をうろつき他の控え室で待機する別の団体の選手達の様子を見に行く事にした。ついでに試合会場の袖からそろそろ始まる第一試合の様子も見させて貰えるらしいから、格闘技好きの私にはかなり嬉しいサービスだ。

少し気がかりなのは控え室に椅子に座ったままうたた寝してた長老さんを一人にして置いてきちゃった事だけど、実の息子、ならぬ娘である会長もちっとも心配してない様子だったし、まぁまさか流石のお姉熊もあんなご老体にまで補食の牙を剥く事は無いだろうと思う。



「うちのパパはああ見えて熊退治は大の得意なのよ、若い頃は素手で何頭もの熊と殴り合いの大喧嘩をしたそうだから」


「……長老さん、どこの大山倍達ですか?」


「ちなみに、あのムツゴロウさんも若い頃に熊と殴り合った事があるそうよ、その道を極めた人達って、やっぱり強いのね」


「……ムツゴロウさん、スゴいなぁ、ライオンにふざけて噛まれた時も拳で顔面殴ってる姿を小さい頃テレビで見た事あるし……」



まぁ、ムツゴロウさんはさておき、ホール裏の通路を歩いているだけでも、試合前の練習かあちらこちらの控え室からパンチやキックのミット打ちの音がバンバンドスドス聴こえてくる。チラリと中を覗くとやはり女性らしく小柄ながらも鋭いキックを放つ選手らしき人、別の控え室では念入りに寝技のチェックに励む人の姿が。うーん、流石は格闘技大会会場、このピリピリした空気、他ではなかなか味わえない。

何だかんだ言って私もこういった『やるかやられるか』みたいな勝負の世界は大好きなクチで、人が闘っているのを見ると自然と勝手にこちらの体も疼いてしまう結構バトル好きなタイプなのだ。この前テレビでKー1を見ていてついつい気分が盛り上がってしまった時は、ついつい側で座っていた翔太の背中に思いっ切り回し蹴りを入れてしまった過去がある。

翔太、その場で悶絶して三日間ぐらい背筋伸ばせなくなったっけ。ごめんね翔太、悪気は無かったんだよ。この私の好戦的な性格、やっぱりあの両親からの遺伝なのかな? 私が学校で他の生徒から怖がられているのは、お姉の妹ってだけじゃなくこんな性格が外面にも若干滲み出てしまっているせいもあるかもしれない。ただでさえ中一の時に小夜を虐めてた先輩達を懲らしめちゃった事もあるしなぁ、私もあまりお姉の事は言えないな、こりゃ……。



「那奈さんはなんつーか、小綺麗なのにトゲがあるっつーか、まるで薔薇の花みたいな人だなー、んだ、薔薇の花っつーかトゲの鞭か? 下手に触れたら皮も肉もまとめてズタズタにされちまいそうだわ」


「胡桃ちゃんって気弱な振りして意外にシラッと暴言吐いてくれるよね、だったらお望み通りズタズタに引き裂いて挽き肉にしてやろうか?」



そういや、こんな小柄でイモっ子な胡桃ちゃんも普段はジムに住み込みで格闘技の練習やってるんだよね? って事は、それなりに打撃や寝技なんかも素人に比べれば強くなってないとおかしいよね。私とどっちが強いんだろう?



「いやいやいや……、あだし、まだミットに蹴るだけでもすねが痛くてまともに蹴れねーし、寝技なんてむったど会長さん相手に折り紙みたいに手足パタパタ折り畳まれちまうし、何ら素人レベルと変わりねーだよ」


「胡桃ちゃんってスゴい可愛いのよ、少し頸動脈締めただけで顔真っ赤にして手足バタバタ暴れさせて、あっという間にイッちゃって失神しちゃうの、もう可愛すぎてついついあんなイケない寝技やこんな過激な寝技、揉んだり舐めたり縛ったり色々試してみたくなっちゃうのよね、ウフフ」


「……一体何を教えてるんですか、会長さん?」



でも、寝技が出来るっていうのは立ち技オンリーの私からするとかなりスゴい事。サブミッション系は視聴者として見てる分でも複雑過ぎてよくわからないし、見た目も非常に地味なので私はどうも興味が湧かないのだ。だから、身に着けたいとも思わないし、そんなルールがある試合もしたいとは思わない。総合ルールだったら私、もしかすると胡桃ちゃんに負けるかも?



「んなこたぁねー、あだしなんかタックルで突っ込んだ瞬間、那奈さんの蹴りが顔面入って一撃KOだよー、那奈さん、空手強ぇーんだべ? どっだけ蹴りの威力あるんだべ?」


「うーん、とりあえずバット一本はへし折るくらいかな」


「……あんたの彼氏さん、よぐ生きてたなー……」


「ちなみにお姉は金属バットへし折った事がある」


「……あんた達姉妹は、どっかの国の大量殺戮兵器かターミネーターか!?」


「……だって父親が拳銃の弾をヒョイヒョイ避ける人だし……」



……あのー、くれぐれも読者の皆さん、どうかドン引きしないで下さい。確かに私、バットへし折りますけど至って普通の十六歳現役女子高生です。自分で言っちゃいますけど可憐です。清楚です。ツンデレキャラです。萌え要素たっぷりです。だからお願いします、そんな怯えた目で見ないで下さい。何か最近、私だけ小夜や翼や千夏とは一線されて『怖キャラ』として扱われている様な気がしてちょっと不安……。


……ちょっと脱線したので話を戻しますかね……


打撃には自信があっても、それは空手の試合、空手の形での事。だから、お姉が総合格闘技の世界に足を踏み入れたと聞いた時には正直驚いた。お姉だって出身は空手、その世界で若くして頂点を極めて別の格闘技の世界へと挑戦しようという気持ちはわかるが、やるなら同じ立ち技のキックボクシングか何かになるだろうと私は思っていた。



『何でもアリ、ってところに惹かれたのさ、馬乗りになって殴る、倒れている相手を踏みつける、ほぼ素手に近い状態で顔面を殴れる、これが合法として認められ、しかも金が貰えるんだぜ、最高じゃねーか?』



確かに、お姉の場合は空手以上にプライベートでのストリートファイトの方が経験豊富ってのもあるが、それでも全くの未経験の舞台へ何の躊躇も無く挑戦しようとするその勇気は感服するというかかなり呆れたのを覚えている。その挑戦意欲、もっと他の場所で生かせないもんですかね?



『相手の寝技なんかにいちいち付き合うつもりなんかねーよ、その前に倒しちまえば何の問題もねーしな、ちょっと前にミルコ・クロコップっていただろ? あたしが目指すのはあんな感じのファイターだからな』



実際、お姉は総合デビューしてこれまでの五試合全てを1ラウンドで対戦相手をKOしてきたらしい。初戦は同じくデビュー戦だった、か弱き十代の女の子を弄ぶ様に馬乗りになって両手ビンタ連発でリンチKO。二戦目はその選手が所属している団体の中堅選手が仇討ちに来たが、ゴング直後にダッシュしてコーナーに追い詰め獣拳ラッシュ、まともにパンチが相手の顎に入り僅か十秒で失神KOした。

三戦目は相手がタックルに来たところを押し潰して顔面に非情のサッカーボールキックを一発、ぐったりとした相手の顔面をさらに踏み潰しレフリーストップ。そして四戦目に至っては、オープニングアタックの右下段回し蹴り一撃で相手のすねの骨を闘争心ごとへし折ってみせた。試合時間五戦合計一分五十一秒。内一戦はデビュー戦の一分間リンチだから、ほとんど汗もかかずに勝利を手にしている。



「優歌ちゃんの対応力ってホントにスゴいわよね、いくら相手がまだ全日本ランククラスではないとはいえ、あれじゃ相手はどうする事も出来ないわよ、正にうちのエースね、まさかうちのジムからこんな選手が出るだなんて夢にも思っていなかったわ、あの子、まだまだ強くなるわよ」



それ以上強くなってどーする!? って感じなんですけどね、私は。ちなみに、対戦した相手は全て骨折やら大流血やらで病院送り。デビュー戦の女の子に至ってはショックでPTSDになり未だに通院治療中とか。空手時代でも一回り大きな外人相手に正拳で肋骨破壊とか下段蹴りでふくらはぎ裂傷とか平気でザラだった。悪魔ですよ、本当に。その柔軟な対応力、是非とも他の場所や場面でも生かせないもんですかねぇ?


そんな残酷惨たらしいお姉の試合を見てきたからなのか、すでにリング上で始まっている前座同然の第一試合の内容なんてもんはタダのキャットファイトにしか見えなかった。女同士が容赦なく顔面を殴り合い、鼻から出血し、腕を有り得ない方向に曲げ極める姿は一般人にはかなり衝撃的かもしれないが、私からすると何か物足りなくちょっと残念な感じだった。やっぱり私もお姉同様、結構悪魔?



「流石に目が肥えているわね妹ちゃん、特にスタンドでの攻防中に、やれガードが甘いだと間合いが悪いだとのブツクサ文句言いながら観戦してるところは、かなりの格闘技マニアと見たわ」


「……聞こえてましたか、すいません……、いや、ついつい、ああいった場面見ると熱くなっちゃう質なもんですから……」


「どう、妹ちゃん? ならばいっそ、妹ちゃんも私のジムに入ってお姉さんと一緒に汗を流してみない?」


「……いやー、それは流石にちょっと……、プロの格闘家になりたくて空手始めた訳じゃないし、それにまだお姉みたいに空手の道極めた訳でもないし……」


「あらそう、でも気が向いたらいつでもトレーニングだけ来て貰ってもウェルカムよ、胡桃ちゃんも練習相手が多い方が上達も早くなるかもしれないし」


「……うぇっ、那奈さんまで来たらあだし、どこにも居場所ば無くなるだよー……」



……格闘家、か……。


そういや私、将来一体何になりたいんだろう?


同じくスポーツで青春時代を謳歌する仲間達は皆、それを職業にするかどうかは別として、ある程度の高い目標を持って日々の練習に勤しんでいる。

翔太は亡くなった父親の貴之さんの跡を継ぎロードレースのチャンピオンになる為、翼は新作さんとの約束でサッカー日本代表選手になって活躍する為、一茶は名門柔道一家の面子にかけてオリンピックで金メダルを取る為。

千夏は私と同様最終目標がいまいち曖昧だけど、根っからの負けず嫌いで最近はイギリス時代の知り合いである元陸上メダリストのソフィーさんの指導を受けて七種競技の練習を始めている。でも本人、かなり嫌々みたいだけど。


始めた動機も曖昧、最終目標も曖昧、そしていつまで続けるのか、この経験を人生にどう生かすのか一番曖昧なのはこの私。まだ高一だから将来何なりたいのかなんて決めるには早過ぎるのかもしれないけど、何かそういったビジョンが極めて不透明なのはもしかしたら女子四人の中で私だけなのかも。あの小夜だって、技量はどうあれ瑠璃のお姉さんになる、と頑張っているのだから。



『……何で私、空手始めたんだっけなぁ……?』



その理由は思い出すまでも無くただ一つ。まだ小学校に上がる前の幼き頃、公園で意地悪な小学生男子達に私と小夜が虐められていた時、どこからともなく颯爽とお姉が現れみんなまとめてやっつけてくれた姿を見て、『私もお姉みたいに強くなりたい!』と思ったのが始まりだった。

同時、お姉もアルビノの疾患を馬鹿にするいじめっ子に負けないように空手を習い始めたばかりで、よく私も父さんに連れられお姉が通う空手道場に行ったものだ。辛い練習にも根をあげず涙も見せないお姉のその姿を目にして、幼心ながらにも強い憧れを抱いたのをよく覚えている。



『私も、空手やりたい!』



月の習い事代増加で自分の遊び賃が減る事を子供みたいに渋る父さんを何とか説得して、私はお姉と同じ道場に入会して空手の道を歩み始めた。最初は怖くて痛くてすぐにでも逃げ出したくなったが、たどたどしくも正拳突きの形を取る私の姿を見てニコニコと微笑んでいるお姉を顔を見たら、それも我慢して続けていく事が出来た。


全てはお姉みたいな男の子にも負けない強い女の子になりたくて、お姉みたいに弱い者を助けてあげられる優しい人間になりたくて……。


でも、その願いは次第に私の心の中で小さいものになっていった。お姉が優しい人間じゃなくなった、それもある。お姉が強きを挫き弱きも挫く大暴君になってしまった、それも……、ある。うん、あるある。お姉が私の理想的な立派な人間じゃなくなってしまったってのも確かにあるが、それ以上に、お姉が私から遥か遠くの存在になってしまった感が一番大きい。


中学生になってから全国大会でもメキメキと頭角を現し、二年生で全日本制覇、その勢いで初めて出場したジュニアの世界大会も制してしまい、高校一年生では並み居る世界中の成人女性選手達を圧倒的強さで次々と倒し無敵の空手女王をなったお姉。

もちろん、こんな大偉業を成し遂げた日本人選手は他にいない。私の前回の大会での中学生での関東大会制覇も相当凄い記録らしいが、お姉の残してきた記録に比べれば微々たるもの。全く敵わない。追い越すどころか、追いつける気配すら感じない。

正に雲の上の人。体力が、精神力が、何もかもレベルが違いすぎる。だから私は、『いつしかお姉みたいになりたい』から、『少しでも近づければ』程度にしか思わなくなってしまったのだ。つまり、挫折したのだ。



『おめーはあたしより遥かにデカい体になってフィジカルに恵まれたっつーのによ、どーも何かこう、メンタルが弱ぇっつーか、気合いがねーっつーか、覚悟がいまいち足りねーんだよなー』



ジムが休みの日、たまにお姉は空手道場に足を運んで私の練習する姿を見に来て、かつての師匠である道場の師範と談笑したりしてる。もし今も、お姉と一緒に同じ道場で汗を流す事が出来ていたら、私のモチベーションもこれほど下がらすに済んだかもしれない。今も尚、お姉に追いつく事を目標として心から鍛錬に励めてたかもしれない。

でも、もう道場の練習生の名札にお姉の名前は無い。世界女王になったお姉は程なく空手の道を絶ち、非行に走りその闘争心を日々の喧嘩や騒動に使うようになった。渡瀬家崩壊寸前の暗黒時代、私が小学校高学年だった頃の話だ。その話の詳細はまた、別の機会にでも説明させて貰うとしよう。


今現在、お姉がいた頃に練習生として道場に在籍しているのは私一人だ。もうかれこれ十年近くなるのかな。最近は不況からかあまり空手を習い事として子供にやらせる家庭も減ってきたし、大人の男性も当時に比べて三分の一くらいになってしまった。師範もすっかり、白髪が増えてお爺さんっぽくなった。

ほとんど惰性、他にやる事が無いから続けていると言っても過言ではない私の空手道。正直、もう続けているのが辛いと思う時もある。他に目指したい夢か何かあれば、多分すんなり辞められるんだろうけど、それでもダラダラと続けているのは、同じ屋根の下で暮らしながらも、何か最近さらに距離感を感じ始めたお姉との繋がりを保ちたいからなのかな……?



「だったら尚更、うちのジムに入って初心を取り戻すべきじゃないかしら?」



大会の試合はすでに第五試合まで終了していた。女子格闘技界きっての一大イベントだからか、会場には熱心な観客が時間を追う毎に連れ増えていき、中には男子の試合内容を凌駕するほどの熱戦が繰り広げられたバトルもあり、かなりの盛況振りを見せていた。



「……また、その話ですか、会長さん……」



しかし、かく言う私は先程からの自分のこれまでの人生の歩みやら将来への不安やらで完全にテンションは下降、自販機のある休憩所で一人、ジュースを飲みながら物思いに耽っていた。そこに、一息入れに来た橋口会長が現れた訳で。



「あれ、胡桃ちゃん、一緒じゃないんですか?」


「そろそろ優歌ちゃんの試合の時間が迫っているからね、色々と準備をさせているのよ、今のあの子には、重たい荷物を運ぶのもトレーニングの一環よ」


「……頑張ってるなぁ、あんなに体小さいのに、元気だなぁ……」



身体能力や格闘の強さは私の上なのかもしれないけど、夢に対する熱い気持ちや、もっと強くなりたい、もっと上手くなりたい、っていう向上心は彼女の方が数段上かも。私、どこで失ってしまったんだろう熱い魂。他人の事ばかりに必死になって走り回って、何か自分の事をずっと蔑ろにしてきてしまった気がする……。



「んっもう、優歌ちゃんから話を聞いて、妹ちゃんにはもっとこの大会を楽しんで貰えると思ってたのにね、何かあんまり、お気に召してないご様子ね」


「……そんな、気に召さないだなんてそんなつもりじゃなくて、楽しい事は楽しいんですけど、何かちょっと、同じ女性でこんなに頑張ってる人達がたくさんいるのに、自分は何やってんのかな、って……」


「それは多分きっと、妹ちゃんは観戦側より実戦側のタイプだからじゃないかしら? ウズウズしてストレスを感じているのよ体も心も、『こんな場所にいないで私もリングに上がって大暴れした〜い!』みたいな?」


「……そういう訳でもないんですけど……」


「じゃあアレね、別の形で欲求不満が溜まって女性ホルモンの分泌が悪くなっているんじゃないかしら? ダメよ我慢は、彼氏いるんでしょ? 怖がる事無いわ、ガンガンやりまくっちゃえばいいのよ! こういうのは若い内が華よ、歳取ったら私みたいに手も握ってくれなくなっちゃうんだから」


「……いや、それもかなり違いますし、相当話がズレてきてる気がしてならないんですけど……」



……しかし、何で私の周りってこんな性に対してオープンな人ばっかりなんだろう? 男性経験海千山千の姉に四十超えて未だビンビンの父にエロ話大好きのチビ子とビッチに変態丸出しの茶髪野郎……。しかも彼氏がムッツリスケベとくりゃもう百点満点ですよ、全く。



「でもね、それが青春ってもんだと、私は思うわ」



うなだれている私の肩をポンポンと叩いてウィンクをした会長さんは、自販機で買った炭酸栄養ドリンクを腰に手を当てて一気飲みした。前者は極めて女性らしい仕草だが、後者ははっきり言ってどこの風呂上がりのオッサンですか?



「妹ちゃんの年齢で人生のベクトルを定めた人なんて、そうそういたりするもんじゃないわ、妹ちゃんのお友達だって、やれプロライダーだのサッカー選手だの金メダリストだの言っても、それは親御さんの影響があって決めた事なんでしょ? なら焦る事なんてどこにも無いわ、むしろ、妹ちゃんには様々な選択肢があって様々な可能性が秘めているって事を有り難いと思わなくちゃ」


「……そう、なんですかね……」


「そうよ、私なんかパパの影響でどうしても格闘技の世界に進む事しか許されなくて、本当は普通の女の子みたいに可愛い服を着たりお化粧したりしてもっとお洒落したかったけど、男がそれじゃ対戦相手が気持ち悪がるからって格闘技選手らしく丸刈りにせざるを得なかったのよね」


「……それは、幾分仕方ないかと思うんですが……」


「それに、夢や希望は若い時に見つけたり叶えられなくても何も問題は無いわ、青春時代は生きている限り青春時代よ、私も嫌々、男としてやってた格闘家を引退してから、こうして希望通りの姿になれたんだから」


「……例え話が難解過ぎて、いまいちよく納得出来ないんですけど……」


「もうかれこれ私も四十になるけど、まだまだ私だって路頭に迷う時があるわ、煮え切らないな、中途半端だなって、今の妹ちゃんみたいに、ね」


「えっ、そうなんですか? 会長さん、思いっ切り人生謳歌してる様にしか見えないんですけど……、例えばどんな?」


「私って、女なのか男なのかって」


「………………」



激しく後悔。聞くんじゃなかった。



「つ〜ま〜り〜、迷いや悩みもみんな楽しんじゃえばいいのよ! アハハって笑い飛ばせばいいの! 妹ちゃんはどうも笑顔が足りないわね、今のネタ、優歌ちゃんなら床にのた打ち回って大爆笑よ?」


「……笑いどころってヤツですか、ごめんなさい、私にはやっぱりソレ系のネタ、難しすぎます……」



何か、肩の荷が軽くなったんだか重くなったんだかはっきりしない人生相談だった。でも少しは、モヤモヤした気分が晴れた気がする。そうだね、私は空手を始めた理由がお姉の影響で自分の意志じゃない事を少しネックに思ってたけど、よくよく考えてみたら翔太達も一緒なんだ。

つーか、何事もきっかけなんてそんなもんなのかもしれない。誰かに憧れて、そんな風になりたい、それに近づきたい。これだって立派な自分の意志なんだ。最初から自分の生まれた意味、成すべき事がわかっている人間なんて誰一人いる訳が無い。迷って、悩んで、苦しんで当たり前なんだ。



『あたしはさ、虎太郎ちゃんや麗奈ママみてーな強くてカッコいい大人になりてーんだ、ちょっと怖くて、ちょっと悪くて、ちょっとガキっぽくて、でもすげー優しくていい人、どうよ、最高じゃね?』



そういえば、お姉も昔こんな事言ってたっけ。そうなんだ、お姉だってそうなんだ。私がお姉に憧れた様に、お姉も父さんと母さんに憧れて、強くなりたくて空手を始めたんだ。私もお姉も、一緒なんだ!



「少し気が晴れたような表情になったわね、じゃあ最後に、妹ちゃんがこれからも頑張って空手を続けていけそうな気分になれるいい話を教えてあげるわ」



そう言うと、会長さんは休憩所の椅子に座っている私の前にしゃがみ込み、膝を抱えて笑顔で驚くべき事実を話してくれた。それは、今まで一度たりとも、私に明かさなかったお姉が抱いている夢。



「妹ちゃん、あの子はね、あなたの為に総合格闘技を始めたのよ」


「……えっ、私の為?」


「そう、あの子は、このまま女性が空手を続けていっても、それが食い扶持にならない事を悟ってたの、女性で師範代になって道場を経営するのはかなり困難な事だからね、でも、女子の総合格闘技界はまだこれからの展開によっては伸びしろが見込めるイベントだし、観客数が増えてギャランティが増えれば、ちゃんとプロとして食べていけるって思ったみたいよ」


「……あのお姉が? 明らかに貯蓄とかする堅実なアリタイプではなく、その日暮らしで後先考えないキリギリスタイプのあのお姉がそんな事を?」


「でも、現状のイベントの規模や観客動員数では各選手に満足のいくギャラが払えている訳では無いわ、どうしたって男子の大会とは華やかさもレベルも全然敵わないもの、実際、ほとんどの選手が他に副業を抱えて何とか日々の生活をしているのよ、仕事を終えて、クタクタの体で毎日練習を重ねているの」


「……大変そうですね、でも、それとお姉が私の為に総合を始めた事とどういう関係が?」


「あの子はね妹ちゃん、あなたが今までずっと空手で頑張ってきた努力を、タダの青春の1ページの思い出だけにしたくないのよ、確かな人生の糧になるような、そういう存在にしてあげたいって思っているの」


「……つまり、それって、私もお姉と同じ様に格闘技を職業に……?」


「そう、そこまではっきりとは口には出さなかったけど、あの子はあなたが自分と同じ、プロの道に進んでくれる事を望んでいるわ」



正直、ぶったまげた。まさかお姉が、将来とか生活とか老後の不安とか全くの無縁だと思っていたお姉がそんな事を考えていたなんて、夢にも思わなかった。ましてや、私にもプロの格闘技になって欲しいだなんて……。



「……でも、安定した生活をしていくには厳しいんですよね、女子プロの世界って……」


「今のままではね、だからあの子は、一度は道を断った格闘の世界に戻って、再び闘い始めたのよ、自分が派手な試合をして勝ち続けて、もっと観客を呼んで女子格闘技界を盛り上げて、もっと選手達の金銭的や生活面もケア出来る環境を作って、いつかあなたに将来の目指す職業として自分と同じプロ格闘家を選択して貰えるように、ってね」


「……そこまで決意して……、私、お姉がまた格闘技を始めた理由は、趣味か気紛れか何かだと思い込んでた……」


「あの子本気よ、その証拠に、只でさえ少ない自分の稼いだファイトマネーを、いずれイベント経営の基礎基盤となる団体株式会社の設立の費用にほとんど注ぎ込んでるんだから」


「……!」



……そんな凄い責任感、いつものお姉の口振りから一度も感じた事なかった。いつもお姉は自分の懐にファイトマネーが入ってくる事ばかりを喜んで、自慢して、そのくせそのお金は家に入れる事もなく、全部遊びで使ったとか、飲み代に消えたとかヘラヘラ笑って……。



「もうすでに、この優歌ちゃんの思想に便乗した関係者達が何人かいるわ、あの子一人じゃ金勘定すら危ういからね、かく言う私もその一員なんだけど」


「……お姉が、そんな事まで考えて闘っていたなんて……」


「実はこの大会だってその一環なのよ? 今日はまあまあの成果を上げた方ね、成功と言っていいわ、でも、その夢への実現にはまだまだたゆまぬ努力が必要よ」



でも、もしお姉のその理想が実現すれば、今現在も仕事をしながら試合に臨む他の選手達も生活に困窮する事なく練習に集中してコンディションを保てるようになる。そうなればもっといい試合が出来て見に来るお客さんも増えるかもしれない。あくまでそれは、理想の範疇にしか過ぎないけど……。



「でもね、言い出しっぺは大変よ、周りの環境が整っていない今、あの子はどんなにキツい状況下でもリング上で最高のパフォーマンスを見せないといけないんだから、そうでないとお客さんは呼べない、言い訳なんて出来ない、あの子は自ら、自分がスーパースターにならなきゃいけない道を選んだんだから」


「………………」


「しかしまぁ、私達格闘技界に属する関係者からしても、こんな野心溢れた人間が現れてくれた事は非常にウェルカムだわ、正に待ち望んでいたニューヒロインね、でも、本当のところは女子格闘技界の繁栄云々なんてどうでもよくて、ただ単に、あの子はあなたの事だけを考えて始めた事なのかもしれないわね、妹ちゃんがこれからも、挫けずに一つの道に精進してくれる事を願って」


「いや、そんな、いくら何でも、そこまでは……」


「だって、言ってたわよあの子、『もしあたしを倒す事が出来る人間がいるならば、世界広しとは言えただ一人、アイツだけだ』って」


「……えっ!?」


「これってつまり、自分が無敵のスーパーヒロインになった後、その称号をあなたに継いで貰いたいって意味なんじゃないかしら? それまでは誰にも負ける気なんてこれっぽっちも無いみたいね、どうやらあの子の本来の目的は渡瀬姉妹による女子格闘技界独占よ? まぁ怖い、私達の事情なんてとても眼中にないわ、でもまぁ、私は楽しませて貰えればそれで良いんだけどね」


「……お姉……」


「頭の痛い問題児だった困ったお姉さん、少しは妹ちゃんの見る目も変わったかしら? 心から愛されてるのね、本当に良い姉妹だわ、あなた達」



……どうしてくれるのよ。いい加減この御時世、空手少女なんてどこかの香港映画じゃあるまいし流行らないからそろそろ潮時かな、なんて思ってたのに、足やら腕やらいつも生傷や青あざが出来まくって学校の制服着るのに恥ずかしいから、ここらが引き時かな、なんて思ってたのに……。


絶対に辞められなくなっちゃったじゃないか、お姉のバカぁー!! もう本当に余計な事ばっかりして、人に何の相談も無しで勝手にズケズケと押し進めて、弱音も吐かずに、辛い顔一つも見せずに、全部一人で背負いこんで、そのクセ普段は馬鹿装って悪ぶって……。



「ちなみに妹ちゃん、私があなたにこの話をしたって事は優歌ちゃんには内緒よ、本当は口止めされてるの、『こんな性に合わねー話、アイツの前じゃ絶対口が避けても話せねー』ってね、でないと私が『お喋りババア』って怒られちゃうもの、いいわね、女同士の約束よ?」


「……はい、話してくれてありがとうございます、会長さん……」



……もう本当、バカだよお姉。本当に素直じゃないよ。過去の悪事をふてぶてしく自慢するくらいなら、今やろうとしている善意の事を胸張って自慢しろっつーの! この話、父さんや母さんが聞いたらきっと喜んで褒めてくれるはずだよ。お姉も立派な大人になれたんだ、って。いづみさんだったら泣いちゃうかも。でもあの人達もお姉以上に素直じゃないからなぁ……。



「会長さーん、ここにおったどですか」


「あらやだ胡桃ちゃん、もうそんな時間?」



外と休憩所を仕切っているガラス戸から、ひょっこりと顔を出してきた田舎っ子顔。何とも間の抜けた東北弁が、ちょっとヒートアップして目頭が熱くなってた私の心をクールダウンさせてくれた。そうだ、もうメインイベントの時刻まであと三十分ほどになったんだ。



「ありゃりゃ、那奈さん、目ぇ真っ赤だで、花粉症か?」


「……いや、ちょっと、ね、まぁ気にしないで」


「都会っ子はこれだから駄目だんずなー、花粉症とかアレルゲーとかインフレエンザに簡単にかかっちまうしよー、免疫足りねーっぺよ、毎朝起きた後、寒風摩擦とかしねーからそったら鰯っ子なんだべ」


「本当に一言一言余計だよねアンタ、すっかりムードぶち壊しだよ、お礼に金属ヤスリで磨り減って無くなるまで擦り続けてあげようか?」



さて、それはともかく試合時間が近づいているという事は、その愛しのお姉様を深い夢の中から現へと連れ戻さなければいけない訳で。でもそれは屋根が燃え落ちそうな火災現場から中に取り残された人を救助しなければならないくらい、非常に困難で危険なミッションな訳で。



「犠牲となる獲物が必要ね、胡桃ちゃん、神ちゃんは今何してるの?」


「何か神崎センセー、今日はがっぱど試合で怪我した選手がおって、全然手が離せねーみてーなんだべ、さっきた医務室行ったらすげー慣れた手つきで瞼の傷口縫合しとったんずや、やっぱりお医者さんだんずやんだなー、あの人」



……いや、そりゃあ彰宏さんだって大手大学病院に勤めてた時は評価の高い若手の外科医だったらしいからねぇ、基本縫合ぐらい出来ないとマズいでしょ。例え今は作品内随一のヘタレキャラだとしても。



「じゃあ、どうやら適任者は一人しかいないみたいね、妹ちゃん、後はよろしく」


「……ですよねー、そうなりますよねー、やっぱり……」


「あなたの大好きな眠れる森の美女のお姉様、その優しいキスでその目を開けてあげて頂戴な? そのまま頭から食べられないように十分気をつけてね」


「那奈さーん、どうかご武運をー」



眠れる森の美女? 眠れる獅子か森のクマさんの間違いじゃないですか、この場合? 嫌だなぁ、この役目。私、ムツゴロウさんじゃないから猛獣の扱い慣れていないんですけどー!? ましてや大山先生ほど空手道極めている訳じゃないしー!

どんなにお姉が私の事を想っていてくれていたとしても、こればっかりは話が別! 誰か麻酔銃用意してー! もしくはいっそ猟銃会の人呼んでー! 熊出没注意、嗚呼、多分数分後の私は川を登る秋鮭の様に、鋭い爪撃で空高く狩り飛ばされてるんだろうなぁ……。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ