第68話 エソラ
普段は無口で無表情、大きな体の割には存在感か薄く喜怒哀楽の感情すら滅多に表に出さない、まるでアフリカの大地にいる巨大な草食動物の様な物静かな一人の高校生男子が、初めて人前で披露してみせたあまりに意外過ぎる超絶パフォーマンス。
それまでその存在すらほとんどの生徒に知られていなかった埃臭く冷たい空気が漂っていた第二音楽室は妙な熱気を帯び、室内の雰囲気はあまり感じた事のない不思議な緊張感に包まれていた。
『……あの航が、絶対音感の持ち主……?』
航の演奏を目の前で目撃したナカシマとザビエルに音楽室に入ってきた最初の頃の余裕っ振りは影を潜め、ただ呆然と小夜と喋っている航の姿を見つめるだけ。それまでキャーキャー騒いでいた千夏と薫も完全に無言になってしまった。翼も緊張の余りかトイレに行ったきりまだ帰ってこない。
さっきまで楽器の音がけたたましく鳴り響いていた室内は嘘みたいに静まり返っていた。元々は小夜のワガママによる部活動探しだけの校舎内探索だったのに、こんなとんでもない展開が繰り広げられる事になるとは、一体ここにいる誰が予測出来たであろうか……。
『……でも、今のこの現状って、ちょっとマズいよね……?』
航とナカシマの凄まじい演奏対決に私もすっかり頭の中がトリップしてしまっていたが、ここに来た本来の目的を思い出して我に帰り、一気に焦りの感情が脳内を駆けずり回った。そうだった、航の事なんてどうでもいい、小夜でも出来そうな部活動を探さなきゃいけなかったんだ!
「……あのー、ナカシマ君とザビエル君、それに興梠君だったよね? 何か、友達が勝手な事をしてごめんなさい、みんなの練習の邪魔しちゃったみたいで……」
航の件はさておき、先程のナカシマとザビエルの演奏は高校生のお遊びを遥かに凌駕した本格派で、バンドリーダーであるロギに至っては麻美子以上かもしれない絶対音感の持ち主と思われる天才。この軽音楽部、レベル高すぎ。とても小夜が入部出来るような場所じゃない。やっぱりここは早いところ退散しよう!
「……演奏聴かせて貰って痛感しました、やっぱりこの子にはとても無理です、この子や私達みたいな音楽センスゼロの素人が入部なんかしたら、多分みんなの足を引っ張っちゃうと思うんで、今回の入部の件は無かった事に……」
「……え、えっ? あっ、そうなんだ……、せっかく久し振りに新入部員が来たと思ったんだけど、ちょっと張り切り過ぎちゃったかな……」
「非常ニ残念デヤンスヨ〜、女ノ子ノ部員サン来テ、Oreトッテモウキウキシテタデヤンスノニ〜」
ただでさえ勝手に部室に入り込み、勝手に人様のギターを弾いて、更に下手をすれば彼らのプライドや自信に傷をつけてしまいかねない大暴挙までやらかしてしまう始末。私は彼らに深々と頭を下げてこれらの無礼を謝り、何とか事の収集をつけバカ迷惑なお友達連中をこの場から撤収させようとした……。
その時だった。
「……じゃあ彼は入部、するの……?」
「えっ?」
頑なに沈黙を守り一部始終を見物していた静かなる音楽の申し子、興梠一寿ことロギ、遂に動く。明らかに私に対して質問を投げかけているにもかかわらず、その目線の先は真っ直ぐ航に一点集中。私達の姿は眼中に入っていない様子。
突然の質問に意表をつかれた私が返事に焦り何か言葉を発しようとするか否かのその瞬間、ロギはソファーから飛び上がる様に立ち上がり、姿勢の悪い猫背に両手をズボンのポケットに入れた状態でゆっくりと航の元へと歩み寄っていった。
「……お、おいロギ、一体何を……?」
「………………」
ナカシマの問いかけにも全く返事をせず、ロギは航と小夜の横を無言で通り過ぎると籠の中にある別のエレキギターを一本片手でスッと取り出し、再び航と小夜の横を通り過ぎてこちらに戻ってくると先程同様ソファーに飛び乗りあぐらをかいて座り込んだ。
そして、不思議そうにその姿を見つめる私達を気にする素振りも無くギターと側にあるアンプスピーカーに音源コードを繋ぐと、ギターの弦六本をポケットから取り出したピックで鳴らしチューニング作業をし始めた。
「……な、なぁザビ、ロギの奴、何を始めるつもりなんだろう……?」
「ソリャ、ギター弾クニ決マッテルデヤンスヨ」
「そ、そんな事は僕だって見ればわかるよ! 何なんだよ、このバンドを設立してから前代未聞の一大事だっていうのに、何でザビはそんなにお気楽でいられるんだよ!? 僕なんてもう緊張で足が震えてんのに……」
「馬鹿馬鹿シイト思ウナヨ、ヤッテル本人大真面目〜! Oreノ体ヲ流レル、オジイチャンカラ受ケ継イダ『ラテン』ノ血ガソウサセルデヤンス! ソンナ事ジャkatsu、初ライブノ時ニオ漏ラシシチャウデヤンスヨ〜? ソンナ事ヨリ、ナナ、Oreの話ヲ聞イテ聞イテ!」
「……バ、バンドの一大事より女子とのお喋りが優先かよ、もうヤダよこのメンバー、お腹痛い……」
リーダーは音楽以外の事柄に無反応、ドラムはアフロの中の脳みそが女っ気一色のお祭り男、どうやら実質このバンドの全てを取り仕切っているのは頭にドがつくほと真面目人間のナカシマのようだ。仕切らなきゃいけない立場にあるのってしんどいよねぇ。何か凄く苦労がわかる気がする。
私も毎日、ド天然娘にミニチュア人間雑音機にイングリッシュビッチに電柱男に変態インチキ外国人にもう大変だもん。最近は柔道ゴリラも仲間に参加するようになったし、家に帰れば血に飢えた野獣共が獲物を求めて爪を研ぐ……。あー、何かこっちまで胃が痛くなってきた。
「那奈、Rogiニハ『チューナー』ナンテ小道具ハ不要テヤンス、自分ノ耳ダケデ全部ノ楽器ノチューニングガ出来ルデヤンスヨ〜!」
「……耳だけ、聴いただけで音程にズレがあるかどうかわかるの!? あぁ、そうか、絶対音感の持ち主だもんね、それくらい出来て当然なのかな……」
「チナミニ、Oreハ女ノ子ノ尖ッタハートヲチューニングスルノガ得意デヤンスヨ〜! 那奈ノチョット怖ソウナツンツンシタハートビート、是非チューニングシタイデヤンス〜!」
「……このアフロ馬鹿、薫と同じ対応しちゃっていいのかな?」
「同ジ対応? 地デジ対応? アンテナ良シ、Oreツヨシ! 2011年、地デジノ準備オ願イシマスでヤンス〜! デモ、オ酒飲ミ過ギテ裸ニナッチャ駄目デヤンスヨ〜、Hohohoh〜!!」
「問題無さそうね、はい有罪確定、中段廻し蹴りの刑」
「Ai! Wanderlei Silvaモビックリノミドルキック、OreノHipニCuteニHit! 痛イデヤンス! Valha-me Deus!!」
どうしてこうもまぁ、外国の血が流れている人間っていうのはこうも腹立たしいほどノリが軽過ぎるのかね。初対面とはいえ、薫同様ここはガツンと思い知らせてやった方が良さそう。もう数発蹴っ飛ばしてやろうかな……? 私がそんな事を考えていた、その時だった。
「……うわっ……!!」
何の前触れも無く、いきなりアンプスピーカーから風圧と共にけたたましく流れてきた独特の金属製の機械音。時には鼓膜を突き破るぐらいに甲高く、時には地震のように足元の床から揺さぶられる重低音が音楽室全体に響き渡る。その音源の正体は、ロギが弾くギターの演奏音だった。
『……うわっ、何コレ、スゴい音……!』
スピーカーを最大音量まで全開にしたのだろうか、耳を塞いでいないととても我慢出来ないほどの爆音は私達の喋り声や周りの物音全てをかき消してしまった。正直言って素人には雑音としか聞こえないやかましいギターサウンド、嘘でしょ? こんなのが天才と呼ばれるミュージシャンの卵がする演奏だっていうの!?
「……や、何……、起こっ、……やっ!?」
突然の騒音に驚いたのか、トイレから音楽室に戻ってきた翼が両耳を押さえながら私に向かって大声で何か話しかけてきた。しかし、何を言っているのかさっぱり聞き取れない。小夜や千夏や薫はもちろん、楽器の音には慣れているはずのナカシマとザビエルまでもが指で耳栓をするほどの大音量。唯一、無表情で涼しい顔をしているのは航一人だけだった。
「……何なのいきなり、何考えてんのよ、あの男……?」
「おおぉぉいいぃぃ那奈ああぁぁ!! ウチがおらん間に一体何があったんやああぁぁ!!??」
「うわっ、うるさーい!! もう演奏終わったんだから耳元で大声出さずに普通に喋れぇー!!」
「あっ、ホンマや! 何や急にメッチャ静かになってたなぁ?」
「……絶対わざとだろ、この人間騒音スピーカー女め……」
……あー、耳が痛い。まだ頭がキンキンする。まるでライブ会場の最前列にいたみたいだ。私も千夏に誘われて小夜や翼と一緒に真夏のライブイベントに行ってあの会場独特の大音量を体験した事があるが、今回のこれはあまりにヒドすぎる。洒落にならない。ほとんど雑音にしか聴こえてこなかった。このロギと言う人物、やっぱり何を考えてるのか全然わかんない。冗談キツいってアンタは!
「……これ、出来る……?」
「…………?」
「……そう、君だよ、君……」
消音加工がされてなかったら間違いなくご近所騒動になっていたであろう無茶苦茶な演奏を一っ通りを弾き終えたロギは、さっきの爆音と比べると超音波並みの全然聞き取れない小さいボソボソ声で航に話しかけた。どうやら先程ナカシマにやってみせたあの神業を、今度は自分相手にもう一度やってみろ、という事らしい。
音を聴き取る楽器の種類がベースから航と同じギターに変わり、演奏を真似て披露するには少し条件が良くなったようにも思える。しかし、相手はナカシマとザビエルが『天才』と呼ぶ類い希な音楽の才能の持ち主。耳を塞ぐ事に集中してしまった為、すっかりその演奏テクニックを見逃してしまったが、やはりかなりのものと予想して良いだろう。
しかも、私には肝心の演奏の音量が大きすぎてロギが弾いたメロディーがどんなものだったのかちっともわからない。それは多分、一緒にここにいる音楽センスゼロのおバカさん軍団も同じだろう。ナカシマとザビエルは聴き取る事が出来たのかな? そして、当の航は果たして……?
「…………凄く難しい」
「……やっぱり、無理……?」
「…………でも、やってみる」
楽器無しの会話だけだと、遠くの港に停泊する船の汽笛すら聞こえてきそうなくらい静かな二人のコミュニケーション。何か急激に緊張感が緩む。無口な人間ほど別の方法でのパフォーマンスが派手だとは良く聞くが、正にこの二人は典型的な例かもしれない。つーか、そんな事より航、まさかこの演奏までさっきみたいに真似出来るって言うの!?
「…………えーと」
「ちょ、ちょっと航! 頼むから何の前触れも無くいきなり演奏始めるのやめてよ! せめて『ワンツー』とか『せーの』とか言えっつーの!」
またも全くリズム感の感じられない直立不動状態で、何の掛け声も無く突然始まる航の身勝手演奏。聴いているこっちは毎度毎度タイミングが狂ってかなり不愉快でストレスが溜まる。例えるなら出発動作の振動がヒドすぎる下手な運転手のバスに乗らさている感じだ。
しかし、いざ始まってみれば航の弦を行き交うその高速な指さばきに私達は唖然茫然、その光景が映る自分の目を疑ってしまった。ナカシマの時より遥かに難しくなっているはずのギターテクニックを、航はものの見事に全員の前で難なく実演してみせたのだ。
「Yes! いやぁ〜ん、このメロディースッゴいCoolじゃない? アタシが育ったロンドンの本場UKロックを彷彿させるHardなBeat sound! アタシ、超気に入っちゃった!!」
「そんじょそこらの最近のヘタレバンドが奏でる音楽とは一線違うでこれは!? 航、やるやないか! めちゃめちゃカッコエエでぇ!!」
その演奏メロディーには芸能音楽の話題に一言うるさい翼と千夏も大絶賛。良く見ると、航の右手にはいつの間にかピックが握られていた。どうやらさっき、ギターを取りにいった際にロギがいつの間にか航に自分の物を一つ手渡していた模様。どこぞの違法売人みたい。
それはともかく、まるで流れるような指使いでギターを奏でる航のその姿は、演歌歌手みたいな直立不動状態を除けば一端のギタリストそのもの。あの不器用そう航がねぇ、人は見た目だけでは判断出来ないものなんだなぁ。私は改めて驚かされてしまった。
「……あの〜、ところでこれって物凄く大事な事なんだけどさ、今、航先生が弾いているメロディーと、さっきロギ氏が弾いたメロディーが全く同じものなのかどうか、聞き分けられる人って誰かいるんスか〜? 薫ちゃんにはその肝心なところがぜ〜んぜんアイドンノ〜ウなんスけど〜……」
そうなんです、そこが一番の大問題。航の演奏が上手いか下手かは別として、今、私達やロギ達が知りたいのは、本当に航には絶対音感の持つ麻美子やロギと同様、聴こえてくる音がちゃんと頭の中で音階として整理されているのかどうか、あのロギの演奏を覚えそのまま再現する事が出来たのかどうかだ。
その前のナカシマの演奏はベースとアンプスピーカーが繋がっていなかったので、生の楽器の音で私達も互いの演奏を自分達の耳でも聴き比べる事が出来た。しかし、今回のロギのはスピーカーからの大音量で聴き取るどころか鼓膜が破れないようにするのが精一杯、どんなメロディーだったかすらも私達には全然わからずじまい。
そこへもって、航が弾いているのはロギと同じエレキギターとはいえスピーカーを通していないので、聴こえてくるのは弦を弾いた時に鳴る張り詰めた生の金属音のみ。この条件でこの二つの演奏を聴き比べるには私達素人の聴覚ではほぼ不可能。二つのスイカを叩いてどっちが甘いかを聴き分けるくらい無理な話だ。
……と、いう事で、この判定は普段から弦楽器に親しんでいて、物事をちゃんと正しい思考で受け止める事が出来る真人間、ナカシマ審査委員長にして貰う事にしよう。
「……う、嘘だろ、ロギのあの高速ギターテクニックまでそのままカバー出来るだなんて、そんなバカな……」
判定、『同じもの』、らしい。私達にはただの雑音にしか聴こえなかったロギの演奏も、普通に弾けばこんなにカッコ良くてシビれる曲だったのか。まさか、これも彼のオリジナルなのかな? それにしても、ナカシマの反応は非常にオーバーで一目瞭然なので、音楽の知識の無い私達にはわかりやすくとても助かる。
「……じゃあ、次はこれ……」
そんなナカシマとは対照的で顔色一つ変えずに淡々と演奏を続けるロギ。相変わらず半分寝てるようなボッーとした表情をしながらもギターを弾くその両手の動きは、ちょっと例えが悪いがまるで這いずり回っている昆虫の脚の様に素早く私は何とか目で追っていくのがやっとだった。
そして、また今回も頭の中をグチャグチャに破壊されそうな強烈な大音量。しかも今回は何やらギターのエフェクトを変えたのだろうか、普段良く聴くエレキサウンドとは違い、何かの吹奏楽器みたいな奇妙でちょっとふざけた感じのサウンド。これまた私達にはいまいちメロディーを聴き取りにくい加工がされていた。
「……………やってみる」
ロギの演奏が終ると、二人は無言でアイコンタクトを交わし、ポツリとそう呟くと今度は航が相変わらず何のタイミングも取らずいきなり演奏を開始する。聴いているこちらは何も心の準備が出来ないのでかなり心臓に悪い。さっきのハードロック調とは違いこの曲もファンキーな感じでかなり好印象。でも、やっぱり私達の耳では同じ曲なのかどうか区別がつかない。ナカシマ、出番ですよー。
「……こ、これはもう完全にアマチュアの領域を超えているよ、とても僕がこの二人の間に入り込める余地なんて無い……」
……だ、そうです。じゃあつまりこれも同じ曲なんだね。しかしナカシマも良く聞き分けられるもんだねぇ。やっぱり普段から音楽に携わっている人間は、聴覚やそれを情報処理する脳の構造が普通の人と違いがあるのかな。私も少し楽器とかに親しんでいれば良かったかも。
「うわー、航クンもコオロギさんも二人とも良くわかんないけど何かスゴーい! まるでおとーさんがピロピロピロピロって弾いてるギターみたいだよ、ねー、那奈!」
「……とは言え、小さい頃からずっと間近で音楽聴いてても、誰もがそういう聴覚を持てる訳じゃないみたいね、小夜を見る限り……」
……で、この表情からでは一体何を考えているのか全然読み取れない奇天烈人間の二人のギターセッション、実は何とこの後、約一時間近くぶっ通しで続いたのだ。まずロギが適当にワンフレーズを弾いて、後から航が同じフレーズを弾く。中には私達も耳にした事のある既存の曲もあったりしたが、ナカシマ曰わくほとんどの曲がロギの即興だったらしい。
つまり、航は私達の予測通り自分が既に知っている曲を弾いているのではなく、直前に聴いたばかりの知らない曲を即座に脳内で整理し丸々コピーして弾いているのだ。これはもはや偶然の出来事でも無ければ人業でもない。こんな芸当が出来るのは、やはり航には絶対音感の才能があるからなのか……?
「……い、今日の今まで、少しでもロギに追いつきたいと思って必死に練習してきた僕の努力は一体何だったんだ? たった一つの才能があるだけで、バンド経験も無い同い年の制度にいとも簡単に追い抜かれるなんて……、ヒドいよ、世の中不公平過ぎるよ、あんまりだ……」
「ヘイKatsu、Forca! ドウセOre達コンナモン、何モ人生悪イ事バカリジャナイデヤンスヨ、明日ガアルサ、明日ガアル、上手クナクテモバンドヤッテリャ、ソレダケデ女ノ子達ニハモテマクリデヤンスヨ〜!」
「オイコラそこのアフロブラジル人、オマエの励ましは気軽で不純で何のフォローにもなってへんぞ? それよりあの二人、一体いつまでギターやんねん? いい加減ウチも聴いててしんどくなってきたわ」
「アタシももう疲れちゃったぁ〜! 早くMy homeに帰りたぁ〜い! あんまり帰りが遅いと悪い男に捕まったんじゃないかってママが心配しちゃう〜!」
「そろそろ夕日も沈んで空は一段と暗くなり、夜行性の動物達が活発化して大量発生しま〜す、そんな薫ちゃんも実は夜行性動物、月夜の晩にはイケない狼さんに変身して美味しそうな女の子達に噛みついちゃうのさ! ワオーン!」
「いやぁ〜! 何よこの薄汚い野良犬男〜! Don't approach! Don't touch! Fuck off!!」
「ベタベタとウチらに抱きついてくんなや、この変態鬼畜犬が!」
「キャイーン!」
……いや、本当にマジでもう私も帰りたい。窓から見える空は夕暮れを過ぎて星がチラホラと見え始めているし、ふと教室の時計を見てみれば時間はもう夕方六時を回っている。お腹も空いてきた。もうフルラウンドドローって事にしませんか、両選手?
「……君って、面白いね……」
「…………どうも」
何度となく難易度の高いギタープレイを題にあげながらも難なくついてくる航が余程気に入ったのか、無機質一辺倒だったロギの表情は少し緩み、軽く口元には笑みが浮かんでいた。それに対する航もどうやら悪い気ではなさそう。お互い、まだまだやる気満々の様子。困ったね、こりゃ。
「……じゃあ次は逆で、やってみよう……」
「…………逆?」
「……そう今度は、君から何か曲を弾いてよ、それをボクが真似てみせるから……」
この会話のやり取りこそが、航の常識を軽く凌駕した謎の行動の数々が一体何の才能によるものなのかが判明する重要なターニングポイントになった。突然のロギからの提案に、今まで表情一つ変えなかった航の言動に微妙な変化が現れ始めたのだ。
「………………」
「……どうしたの? さあ、どんな曲でも良いから弾いてみてよ……」
「……せ、戦略を変えてきたか! さすがはロギだ、そうだよ、たかだか数年フォークギターを弾いてきたくらいの人間に、僕達のロギが負ける訳がない! 栗山君とやらも確かに凄かったけど、どうやらここまでのようだね!」
「何やとコラ、ナカジマァ! オイ航、オマエこのボサボサ頭から生意気にも挑戦状叩きつけらとるんやで! ここで引いたら男や無いで、何が天才や、何が軽音楽部や! 遠慮したらアカンで、このままオマエのその訳わからん神業で軽く捻り潰したれや! んでもって、オマエがこの部を乗っ取ってやりゃええねん!」
何かの道場破りの様な雰囲気になってきた軽音楽部を代表するロギと、私達へなちょこ素人軍団を代表する航の、長時間に及んだギタープレイ対決。しかし、ここにきて航の指が、手が、体が全く動かなくなってしまった。疲れている訳ではなく、何やら悩み込んで動けなくなっている様子だった。
「……さぁ早く、君の音をボクに聴かせて……」
「………………」
「……弾けないの、かい……?」
「…………わからない」
しばらくの沈黙の後、やっと口から出てきた航の言葉は、聞いているこちらも『わからない』不可解なものだった。これまでの展開の流れからは想像も出来ない航の言動に、私達はおろかナカシマやザビエルも拍子抜けしたようにポカンと絶句してしまった。
「……って言うかぁ、航ちゃんよりアタシ達の方が超I don't understandって感じなんだけどぉ? 航ちゃん、さっきまでスッゴい難しそうな演奏を超Easyにやってたじゃない、なのに急にどおしてぇ? Why?」
「ゴラァ航! オマエいきなり何をアホな事抜かしてんねん! 何がわからないやねん、簡単な事やろ!? 何でもええからさっきみたいなメチャメチャ難しい曲をこのボサボサ頭に一発かましてやればええだけやろが! 何やオマエ、ここまできて急にビビったんか!? こんだけ喧嘩売られて怖じ気づぐやなんて、オマエどんだけ腰抜け……!」
「ちょっと、翼も千夏もちょっと静かにしなって! 何かおかしいよ、明らかに航の様子がおかしい!」
私が大騒ぎする翼と千夏を制している間も、航の表情は明らかに動揺していてその目線にも落ち着きが無かった。ビビって敗走? それは無いだろう。だって、中学生の時は小夜と瑠璃を守る為に車を暴走させていた質の悪そうな大人相手に全く怯む事無く立ち向かい、過去に様々な辛い経験に遭いながらもずっと頑なに耐えてきたあの航が、この程度の場面で怖じ気づくようなタマだとは私には到底思えなかった。
これは何か別に理由がある、航が突然ギターを弾けなくなった理由が。何があったのか、私は恐る恐る本人にその理由を問い質してみた。
「……航、どうしたの? わからないって、一体何が?」
「………………」
「……航?」
「…………何を弾いて良いのか、わからない」
後々になって考えてみると、この時の航の言葉こそが、皮肉にも航には絶対音感の才能と音楽の創造性が備わっていない事を自ら証言する答えそのものだった。当時まだ私達にはその言葉の真の意味を理解する事は出来ていなかったが、ロギだけは航の本当の姿を見抜く事が出来ていたようだ。
「……君にはまだ、君の音が見つかっていないんだね……」
「………………」
「……やっぱりそうか、君とボクは、違う存在……」
時間にして約二時間半ほど延々と続いた航とロギの別世界の様な驚愕のギターセッションは、航の続行不可能という意外な形で幕を閉じた。一体、何曲のメロディーが二人の間を行き来しただろうか。私達は麻美子の件以来、改めて音楽の凄さをひしひしと痛感させられた、そんな一日だった……。
「……ってな感じだっだのよ、昨日は」
「待てーい! ちょっと待て待て待てぇーい!!」
昨日の回想の続きから再び現在に戻る。教室のある校舎本館から結構距離のある別館一階の第二音楽室に到着するまでの間、前回分で話しきれなかったここまでのあらすじを全て教えてあげたというのに、未だに翔太は頭の中が混乱している様子。相変わらず鈍感で物分かりが悪いなぁ、この男は。
「何よ翔太、まだ何かわからない事でもあるの?」
「あるアル有る在るっつーかわかんねぇ事だらけだよ! 何が『そんな一日だった』だよ! 全然話が最後までまとまってねぇし、何で航が急に演奏が出来なくなったのかの説明が一つもねぇし、第一、それだけで何でお前らは航に絶対音感の才能が無いってわかったんだよ!? 航が人の演奏を聴いて、それを完全に真似てみせたのは事実なんだろ? なら、どうやって航はそんな人並み外れたスゴ技を成し遂げる事が出来たんだ!? もう全然訳わかんねぇ! もっとちゃんと丁寧にわかりやすく一つ一つの詳細まで省略せずに説明してくれなきゃ理解出来ねぇっつーの!」
「本当、アンタって呆れるくらい面倒で手がかかるわよね、赤ん坊みたい」
「……おまっ、那奈、その言い分はねぇだろ!?」
「翔太君ってぇ、何をするにしてもこっちが助けてあげないと何にも出来ないダメダメ亭主になりそうなタイプよねぇ? 洗濯物はキレイにたたんで置いてあげないとダメとか、魚食べるにも全部骨を取ってあげないとダメとか、もしかしたら、その制服のネクタイもママに結んで貰ってたりしてぇ〜?」
「何だよ、千夏ちゃんまでヒデぇよ!? ネクタイくらい毎日自分で結んでるよ! つーか、この一件と俺の魚の食べ方とどう関係があるって言うんだよ!」
「うるさいなぁ、ちょっと落ち着きなよ? あのね、私達が言いたいのは、事の全ての詳細を人に『教えて、教えて?』って強請るんじゃなくて、少しは自分の頭の中で話をそれなりに整理して、それで自分なりの予測を立てて考えてみろって事なの! 昔っからアンタと小夜は何においでも『何で何で何で?』って答え急ぎすぎ!」
「いや、だってよ、今回のこの話はいくら何でも俺以外の人間だって訳わからなくなるって! じゃあよ、実際に那奈や千夏ちゃんはその航の例の摩訶不思議な才能の正体が、その場で見て聴いただけで何なのかすぐに理解出来たって言うのかよ!? 自分の頭の中で予測立ててピーンときたって言うのかよぉ!?」
「……うわぁ、何コイツ、本当にガキだなぁ……」
「……那奈、絶対に苦労するわよ? 翔太君との結婚生活……」
そうだねぇ、苦労するだろうなぁ……。って、ちょっと待て! 千夏、気が早過ぎだから! 第一、アンタにいちいち心配される筋合いありませんから! 何よいきなり、結婚生活だなんて、全然まだまだ先の話じゃない、そんな大きな声で言わないでよ、恥ずかしいよ、やめてよ、全く、もう……。
……? う、うぅん! さて、気を取り直して話を進行しますかね。えっ、何? 今、デレただろうって? いいえ、デレてない、デレてないッスよ。まさか? デレてないって、デレてないったらデレてない! はい、もうおしまい、話を進行します! 強引でも進行しまーす!!
……ふぅ。まぁ、実のところ正直言うと、私達もその時すぐに事の全てを理解出来たと言う訳では無い。ロギの『ボクとは違う』の言葉から、航には絶対音感が無いという事ぐらいは朧気ながらも予測が出来たが、じゃあなぜ航が人の演奏をコピー出来たのかまでは全く検討すらつかなかった。昨日の夜、突然携帯に翼からの電話がかかってくるまでは。
「何かね、航には絶対音感とは違う、他の飛び抜けた才能があるみたいで……」
「おっーとお嬢! ここからはそのほぼ決定的な仮説を唱えた本人である、この桐原薫人類スケベ学名誉教授が直々にお答え致しましょうぞ! この桐原薫の手にかかれば、頭の中が女の子のおっぱいやおパンツやあ〜んな事やこ〜んな事でギュウギュウ大渋滞のむっつりどスケベ星人の翔太の旦那相手でも、スッキリ明解で目の覚めるような説明を論じて差し上げましょうぞ!」
「……あのなぁ、やっと喋れる順番が来たからってベラベラと長い台詞を並べやがって、お前なんかにどスケベなんて言われたくねぇよ、この変態教授が!」
「まぁまぁまぁまぁ、わかるわかる、わかるわかるよ〜、翔太の旦那が言いたい事はよ〜くわかる! しかしまぁ不毛な積もる話もなんですから、ここは黙ってこの薫ちゃんの有り難い講談を聞きんしゃい? じゃあ愛しのマイダーリン、サポートよろぴくぅ〜!」
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャ〜ン! コラ翔太、この松本翼様が血と汗をもって世界中からかき集めた仰天スクープを耳かっぽじって良く聞きや? 昨日あの後ウチな、どうしてもあの航のスペシャルなギター演奏の真実が気になって気になってしゃあなくなってしもてな、そしたら薫が急に『似たような話を以前に聞いた事がある』って言い出してな、帰りしに二人でインターネットカフェに寄って少し調べてみたんよ」
一度気になりだすといてもたってもいられなくなり、詳細の隅々まで徹底的に追求しなきゃ気が済まないのが翼の性格。そこに薫のゴミ屋敷みたいに無駄に大量の雑学知識が加わり、あの後は二人だけで色々と情報収集に励んでいたそうだ。研究熱心なのは結構だけど、見た目完全に小学生と変態不審者が夜遅くまで彷徨いてたらお巡りさんに補導されちゃいますよ、ご両人。
「なぁ翔太、『絶対音感』を持つ人間の特徴ってのは、以前の麻美子の話で良く知っとるやろ?」
「……まぁ、何となくな、演奏や人の喋り声とかの全ての音がドレミファソラシドの音階で聴こえてきて、それを即座に楽器で表現したり線符に書き写す事が出来るんだっけか、確か?」
「せや、メロディーの音階が全部聴くだけでわかるんやから、人が演奏したもんをまるっきり真似してみせるっちゅう事はその能力を持っとる人間やったらそれほど難しい事やない、ウチら普通の人間が他人の喋った言葉をそのまま復唱する事と大差の無い事やからな、せやからあの時、ウチらはそれをやってのけた航には絶対音感がある、って思った訳や」
「え〜、しかしながら〜、残念な事に航先生にはその才能が備わっていなかったんです〜、これは実際に絶対音感の持ち主であるロギ氏と、その当人である航先生から確かな証言を戴いております〜、ムフフゥ〜」
「……オイ薫、それ一体誰の物真似だよ?」
「桐原任三郎です〜、ムフフゥ〜」
「……似てねぇ……、それより何だよ、航は自分が絶対音感を持ってない事をあっさり白状しちゃったのかよ? じゃあ、航の耳は俺達と同じで、全ての音が音階で聴こえてきたり、メロディーの音階を聴き分けるたりする事は出来ないって訳なのか?」
「ん〜、そうなんです〜、それについてはかなり早い段階でロギ氏もこの真実を見抜いていたみたいです〜、航先生には楽器の音や人の喋り声などを音階で聞き分けるなんて事は出来ません〜、つまり〜、航先生は楽器の音を聴いて演奏の仕方を覚えたんじゃありません〜、他の方法、他の能力でメロディーを覚えたんです〜、ムフフゥ〜」
「……他の方法、能力? 何だよそれ? 音楽のメロディーや音階を聴く以外に完璧に覚えられる方法って、何か他にあるのかよ!? そりゃ一体何なんだよ!? オイ薫、勿体ぶらないでちゃんと教えてくれよ、オイ!」
「え〜、この詳しい説明は〜、ワタシの助手の今泉クンにお願いしましょう〜、お〜い今泉ク〜ン、例の話、翔太の旦那にしてあげて〜?」
「誰がガスター10やねん、このどアホが! ……まぁ、どうでもええわ、それより翔太、これはな、あくまでウチらの調査資料による憶測にしか過ぎない話なんやけど、多分、多分やで? アイツ、栗山航はな……」
「……航は?」
無表情、無反応、無口で無趣味で呆れるほど無気力。190センチという軽く高校生離れした大きな体を持ちながら、まるで剥製か仏像みたいな置物程度の存在感しか無い、一人の男子が隠し持っていたものとは、常識ではとても考えられない奇想天外な才能だった。
「航は、耳で楽器の音を聴いてメロディーを記憶したんやない、人が演奏しとるその方法、体、腕、指の動きを『目で見て』、それを完璧に脳に記憶してそのまま再現してみせたんや」
「……オイ、それってお前らお得意のいつもの冗談だよな?」
「……あのなぁ翔太、いくらウチらかてたまには真面目な話くらいちゃんと……」
「嘘だっー! お前ら、また俺を変な罠にかけて誘導尋問してからかおうって魂胆だな!? そう何度も同じ手に引っかかってたまるか! たった一度、人がやった動作を見ただけでそれを全部記憶出来るだなんて、動画ビデオカメラじゃあるまいし……!」
私も翔太と同様、電話で翼からこの話を聞いた時、正直なところあまりに現実離れし過ぎた憶測話で素直に受け止める事が出来なかった。私だって現地でロギとナカシマの演奏を見たけど、指の動き一つにおいても常識外れなくらい複雑に素早くて、あれを一度見るだけ記憶するなんてまず無理、有り得ない、出来る訳が無い、と。
しかし、その後に続いた翼と薫による詳細な裏付けの調査結果により、私も『そうなのかもしれない』と感じられるようになった。そもそも絶対音感と言う特別な能力ですら信じがたい存在なのに、すでに私達はその能力を持つ人間に二人も出会っているのだから、人並み外れた何かしらの別の能力を持つ人間がすぐ近くにいたとしても何ら不思議な事ではないのだ。
「はいはいはいはい、ここからはこの桐原任三郎がおバカな翔太の旦那でもわかるように丁寧にご説明しましょう〜、え〜、風間翔太さん、あなた、『キム・ピーク』という人物をご存知ですか〜?」
「……キム・ピーク? 誰それ? 全然知らねぇ……」
「ん〜、やはり新聞も本も読まない頭の中がエンジンのモーターで出来てる翔太さんにはわかるはずがありませんでしたね〜、いやいや、これは大変失礼致しました〜」
「てめぇ、このヤロ……!」
「質問の内容を変えましょう、風間翔太さん、あなた、『レインマン』という映画はご覧になった事はございますか?」
「……レインマン? うーん、タイトルだけなら聞いた覚えがあるけど……」
映画『レインマン』とは、今から約二十年前に全世界で上映されアカデミー賞にも選出されたハリウッドムービーの名作である。主演にダスティン・ホフマンとトム・クルーズを迎え、日本でも大ヒットして舞台化もされている。
ストーリーはある一人の青年の父親が亡くなり、その遺産のすべてが別々に暮らしている自閉症の兄に承継される事になった。青年扮するトム・クルーズは遺産を手に入れる為に兄扮するダスティン・ホフマンを施設から強引に連れ出すのだが、自閉症による不可解な言動に振り回されて苦悩の日々を過ごす事になる。
しかし、ある時青年は兄に常人では有り得ない突起した才能がある事に気づく。それは記憶力。毎日の図書館通いが日課になっていた兄は、図書館に置かれていた様々な本の一字一句を全て脳で暗記し、電話帳に載っていた個人の番号や住所までもその人間の名前を聞いただけで即座に答えてみせたのだ。
この兄である役名『レイモンド』のモデルは実際に現在もアメリカ合衆国で生活をしている『キム・ピーク』と言う人物で、彼は先天性による脳の損傷を持ち毎日の生活には介護が必要となる障害者ではあるが、映画の物語同様常識では計り知れないほどの膨大な記憶力を持ち、日本のテレビ番組でも何度か取材されている。
「そのキム・ピーク氏以外にも、様々な障害や幼少時の記憶や体験などで人並み外れた才能を持った人間が世界には数人確認されています〜、それらの例は医学的名称で『サヴァン症候群』と呼ばれているんですよ〜、ムフフゥ〜」
「……サヴァン症候群、ねぇ……、ん? ちょっと待ってくれ、つーかよ薫、世界ビックリ超人みたいなその話と今回の航の話と、一体どんな関係があるって言うんだよ?」
「……翔太オマエ、ホンマ正真正銘のアホか?」
「……えっ、何で?」
ここまで丁寧に説明してやってんのに話を察する事が出来ないチンプンカンプンなバカ男。何でわからないかなぁ? つまり薫と翼が言いたいのは、航の驚異的な記憶能力はもしかしたらそのサヴァン症候群に近い非常に稀な特殊能力なのかもしれないって事なの! わかった!?
「……ってもよ、航は別に脳に障害がある訳じゃねぇし、第一、これまでの俺達と一緒の学校生活でだってそんな特殊な才能を発揮した場面もほとんど無いし……」
「ムフフゥ〜、サヴァン症候群の該当者達は何も障害者だけに限った事ではありません〜、例えば、物心つかない幼少時に何らかのショッキングな出来事に遭遇して精神的にダメージを追った者や、心を病んでしまった人間なども存在します、つまり、幼少時に悲運なアクシデントにより一家が崩壊し一部の心無い大人達に虐げられてきた過去を持つ航先生には、十分サヴァン症候群と思われる特殊な能力を身に付ける事が出来る環境が揃っていたんです〜! え〜、風間翔太さん、それはあなたも良くご存知の筈です〜」
「……あっ、そうか……」
随分前の話でも語られた通り、航は生まれて間もなく記憶も無い内に実の母親と死別し、その後父親と再婚した義理の母親は不慮の事故により目の前で命を落とすという壮絶な過去を経験している。父親の逮捕後はまだ言葉も喋れない赤ん坊同然の妹・瑠璃と共に各地の孤児施設を転々とし、場所によってはイジメや嫌がらせを受けてきたそうだ。
今でこそひょこっと会話に参加してきたり挙動もすっかり安定してきたが、私達が初めて航に会った当時は会話もほとんど交わせる状態では無く、瑠璃に近寄る者や自分の父親の話になると敵意をむき出しにして大激怒する事がしばしば見られた。確かに、薫の言う通り航にはそのサヴァン症候群と呼ばれる人達が育った環境とかなり類似点がある。
「それにな、あんまり目立たへんけど航はこれまでのウチらとの関係の中でもちょくちょくその記憶力を発揮しとる時があんねん、ウチらが普通に受け流して忘れとるあんな事やこんな事、ちょっと思い出してみ」
私も翼との電話での会話中、これまでの航が私達の前で起こした行動を色々と回想してみたが、そもそも活発に行動するタイプの人間ではないので数も少なく、それに該当する良く考えるとかなり奇妙な場面を即座に思い出す事が出来た。
まずは出会って間もない頃に遠藤病院にお邪魔して麻美子や瑠璃と一緒に駅まで歩いた冬の帰り道。小夜が無茶して瑠璃をおんぶして車道の真ん中で転び、そこに猛スピードの車が突っ込んできたあの時、私達より遥か後方にいたはずの航は間一髪車より先に二人を担ぎ上げ助けてみせたあの場面。
後から聞いた話によると、その後あの場所では同じくスピードを出した車が歩行者を跳ねるという痛ましい交通事故があったそうで、あそこは登り坂の為アクセルを強めに踏み見通しの悪い交差点に突入するドライバーがかなり多く、有名な事故の多発場だとか。
特に小夜と瑠璃が轢かれかけたあの車のドライバーは道路交通法違反の常習犯で、度々計算に検挙されていて回覧板にも掲載されるほど近所でも悪名高い迷惑者だったそうだ。もしかすると航はその情報をすでに記憶していて、例のその車が接近している事に気づき、車より先に二人の元に駆け寄ったのかもしれない。
そして、もう一つは翼の父親の新作さんに誘われてみんなで行った初夏のキャンプ場。先に進む吊り橋が先日の豪雨によって川に流され、私達は案内人に教えられた上流の浅い岩場を渡って川の向こう岸を目指す事になった。そこでも小夜が水を怖がり立ち往生、それを航は何の躊躇も無く川の流れに足を突っ込み小夜を抱えて助けてみせた。
いくら膝ぐらいまでの浅瀬だったとはいえ、上流だけに水の流れはかなり速く足を滑らせたら大事故にもなりかねなかったあの大胆な行動にも実は裏事情があった。案内人に道を尋ねている時に、その岩場で安全に渡れるルートを自らの足で下調べをしているキャンプ場のスタッフの姿があったのを遠くからうっすら見えたと後に新作さんが証言しているのだ。
私達が現地に到着する三十分前くらいの話らしい。最悪川に落ちても大丈夫かどうか水の深さまで丁寧に調査している感じだったらしく、新作さんもその時それを見て子供達を連れていても問題なく渡りきれるだろうと判断したそうだ。
吊り橋から岩場までの距離は約二百メートルはあっただろうか。もちろん、新作さん以外の私達はそんな事には気づきもしなかった。もしかすると、一番背の高い航もそれを見ていて、川のどこを歩けば安全なのかをすでに知っていたのかもしれない。
私達が突然の出来事で慌てふためいていたそれらの場面でも、航は常に冷静な対応と素早い行動で最悪の状況を未然に防いできた。しかし、普段のボッーとした雰囲気から察するに、それは何も反射神経が良いという訳でも危険予知能力が高いという訳でもなく、脳内に一瞬で蓄積できる膨大な記憶量が航を事前に先回りさせているのではないだろうか。
で、ないとこれらの航の迅速な行動の数々の理由を上手く説明する事が出来ない。あのデカい図体に寝てるんだか起きてるんだか良くわからないナマケモノみたいな人間がとっさの判断で素早く動けるとはとても思えないし、実際私には急に思いついて行動している感じには見えないのだ。
「しかもアイツ、人がとっくに忘れてしもてるようなしょーもない事まで覚えてたりする事あるやろ? ウチらが以前遠藤家に遊び行って麻美子のオカンからおやつのチョコアソート一袋貰た時も、ストロベリーチョコ十個あった内の七個をウチが食べた事をアイツ一人だけきっちり覚えとんねんもん、バレんようにチョコの袋を全部ゴミ箱に捨てて誰が何個食べたかなんてみんな忘れてたのにやで? お陰で一個もストロベリー食べてない小夜にそれがバレてその後ギャーギャーと大ゲンカになってしもたもんなぁ」
「そぉそぉ、そういえば帰り道でみんなと一緒にコンビニ寄った時もぉ、店員さんがお客さんにポン酢がどこにあるのか訪ねられて見つけるのに困っていると、なぜか航ちゃんが二人に場所を教えてあげてた事があったわね、ポン酢の在処に詳しい高校生なんて普通、そんなにいるもんじゃないわよねぇ?」
「そ〜し〜て〜、極めつけはここにいる誰もが忘れていたあの第二音楽室の存在を入学式に配布された校舎見取り図を一見しただけで記憶していたという事です〜、ムフフゥ〜」
それだけではない、それ以外にも航の記憶力にはハッと驚かされる事が多々ある。そのほとんどは大して役にも立たない下らないものばかりだが、私達が一つの事柄をなかなか思い出せなくてウーンと悩んでいる時、必ずと言っていいほど最後は航がポツリとその答えを口にする。やはり航には記憶に関する何かしらの特別な能力があるとしか思えないのだ。
「普通なら簡単に見落とし忘れてしまいそうな事柄、風景、他人の言動一字一句一挙手一投足を、航先生はまるでビデオテープに録画したように鮮やかに記憶する事が出来る、実際に航先生はそれをギタープレイという方法で我々の目の前で実演してみせました〜、私はサヴァン症候群の人に直接会った訳ではありませんが、航先生がやってのけたあの超常現象の仕組みを説明出来る言葉はこれ以外に存在しません! 航先生は演奏を聴いて覚えたのではありません、驚異の記憶力により演奏を見て覚えたのです!」
「……マジかよ……」
「……え〜、私の推理は以上です、風間翔太さん、何か反論があるならどうぞ?」
「……薫、お前は一体どこで航には絶対音感とは違う特別な才能があるって気づいたんだ?」
「ムフフゥ〜、私は航先生とロギ氏がギターセッションを始めた時からすでに怪しいと感じていました〜」
「……まさか?」
「え〜、あの時ロギ氏はスピーカーアンプを利用して敢えてメロディーが聴き取りにくいほどの爆音でギターを弾いていました〜、あれだけの音量で音階を判断するのは例え絶対音感を持つ人間でもかなり困難かと思います〜、そ・こ・で、私はそのロギ氏の行動の理由には『何かある』と察して調査を開始した訳です〜」
「……参りました、降参です……」
「以上、桐原任三郎でした」
「……最後まで似てねぇ……」
脳細胞の成長が最も著しい幼少時に母親の無残な姿をその目にし、誰一人救いの手を差し伸べてくれない孤独な生活を余儀なくされ、幼く無力な妹を守る為にいつしか誰も信用しなくなり心を閉ざしてしまった不遇の日々。そんな辛い現実の数々が、いつの間にか航に人並み外れた記憶能力を備わせたのかもしれない。自分とたった一人の家族である瑠璃を守る為に……。
しかし、それにしてもここまでの薫の推理力と翼の情報収集力は素晴らしいの一言だった。下手なマスコミなんかよりも勘が良く迅速かつ正確な仕事、さすがは変態雑学王子に世界的ジャーナリストの娘といったところか。だが、それでも航のこの能力に対して完全に説明しきれていない部分が二つほどある。
「……でもよ、仮に航がそのすげぇ記憶の才能の持ち主だとするなら、その気になったらアイツ、国語も数学も社会も理科も学校で習う事全部丸暗記するのも不可能じゃないって事だよな? 見様見真似で人がやった行動をそのまま表現出来るなら、体育の授業も楽勝じゃね? なのにアイツ、学問も運動もそんなに成績良い方じゃないよな? 何で?」
その一つは翔太が今疑問に挙げたその話。中学からの過去三年間三学期、私達は航の成績表を見てきたがそれはあまり他人に話せるようなものではなかった。一言で言えば実に平均的、悪く言えば中の下といった感じ。特にズバ抜けて良い教科も無ければ極端に不得意な教科も無し。感想としては『もうちょっと頑張りましょう』あたりか。
もし、航が薫の言う通り世界各地で研究が進められている『サヴァン症候群』と言う特別な才能の持ち主ならば、その能力をいかんなく発揮して高成績をあげる事は実に容易いはずだ。しかし、その才能は今のところ全然発揮されていない様子。これは一体、なぜ?
「あのな、サヴァン症候群ってのは何もその人間達が一つの弱点も無い万能の大天才って訳や無いんやで? 先に言うたやろ、それらの人々には脳や精神に何かしらの障害があるってな」
「ん〜、サヴァン症候群に見られるその特殊な才能とは他人にとってあまり役に立たない、簡単に言えば無駄な知識である事が多いんですね〜、なぜなら、その能力が発揮されるのは彼らそれぞれが興味深意を擽られたものに限られてしまう例が多いからなんです〜」
「せやから、その人達のほとんどはそんな素晴らしい才能を持ちながらも、それを十分に社会の中で発揮するだけの基本的な人間心理が構築されてない人が多いんや」
「なので、自分の関心事以外の情報に対しては彼らもいわゆる一つの普通の人間と同様か、あるいはそれ以下の脳内処理能力しか備わっていないんですね〜、ハイ〜」
「……オイ薫、オマエ明らかに途中からナガシマに変わっとるやないかい?」
「ん〜、どうでしょう〜、ストレート狙いと見せかけて、直球一本狙いでフルスイングOK?」
「それ一緒やないかい!」
つまりそういう事。栗山航と言えば常識では考えられないほどの超無欲無気力無関心人間。向上心ゼロ、集中力ゼロ、夢も無い、趣味も無い、努力したり熱中しているところなんて一度たりとも見た事無い。勉強も運動もこれっぽっちも興味が無いからちっとも覚えようとしない。これこそ正に宝の持ち腐れってヤツです。その才能、少しでいいから私に分けてくれ!
「……って事はさ、そんな無趣味な航でも音楽や楽器には多少なりとも興味があったって訳だよな、ギターの演奏に対してそれだけの記憶力を発揮したんだからなぁ……」
「ううん、そうでもないみたい」
「えっ、何で? 何で何で何で?」
そりゃこっちが聞きたいよ。翔太は昨日現地にいなかったからわからないだろうけど、散々続いたギターセッションを最後まで付き合わされて、いよいよロギ達からバンド参加の話が出てきたってのに、私達はその後の航の言葉に頭に金タライが落ちてきたような衝撃を受けて一同ズッコケたんだから……。
「せやから最初に言うたやろ? アイツな、こんだけエラい事やらかしといてバンドの誘いに一秒も迷う事なくバッサリ断ってみせたんやで」
「ロギ君がバンドメンバーをスカウトするなんて初めての事だったらしいわよぉ? なのに航ちゃんったらいとも簡単に『興味無い』の一言、アタシ、あんなに残念な気持ちになったの生まれて初めてかもしれなぁ〜い」
「そういえば一茶の親分も何度か航先生を柔道部に誘っていだけど、その度ことごとくお断りされてましたなぁ? 航先生の琴線に触れる事が出来るものとは一体何じゃろなぁ? 学問? 運動? 娯楽? やっぱり男の子なんだから女子やエロ系とかかなぁ?」
「もし薫にそんな能力が備わったらって考えるとホンマにゾッとするわ、なぁ千夏?」
「即座に通報して無期懲役でプリズン送りよね、ホンット、航ちゃんで良かったわ」
「ショボーン」
そうこうしてる内にやっとこさ別館一階の第二音楽室の目の前まで到着した。すでに一足早く教室の前にはベースギターをカバーに入れ肩に背負っているナカシマと相変わらず一人でヘンテコダンスを刻んでいるザビエルの姿があった。この二人、遠目から見るとやっぱりかなり怪しい。
「二人とも、早いね」
「Boa tarde! ナナ、今日モトッテモ綺麗デヤンスネ〜! アナタノ笑顔で今日モ一日トッテモ幸セナ気持チニナレルデヤンスヨ〜!」
「ちょっとちょっとちょっとぉ〜!? ねぇザビ、アタシは? アタシだって綺麗でしょ〜!?」
「モチロンデヤンス、チナツモ綺麗デヤンスヨ〜! ソレナリニ」
「何よそれ! 超ムカつく、Fuck!」
どうやらブラジル人には千夏タイプのキラキラカワイイ系よりも私のような着飾らないタイプの方がモテるのだろうか? 嬉しいような、そうでもないような、ちょっと微妙な気分だ。
「オイコラナカジマ、オマエウチと千夏を置いてホームルーム終わったらさっさと一人で教室から出て行ったやろ!? 友達甲斐の無いヤツやな、女を無視していくなんて男として最低の行為やぞゴラァ!」
「で、ででで、ですから僕はナガシマじゃなくてナカシマ……!」
「Katsuハ女ノ子ト一緒ニイルノガ苦手デヤンス〜、恥ズカシクテ顔ガ真ッ赤ニナッテシマウデヤンスヨ〜!」
「ち、違っ、違っ、違う! 僕はそんな弱い男なんかじゃないぞ、女の子の一人や二人、全然何て事無い……!」
「いやぁ〜ん、ナカシマ君って見た目通りのShy boyなのねっ! 何か超カワイイ、アタシのペットにしたぁ〜い!」
「クソビッチ女の面目躍如やな」
「うほ〜い! 俺も俺も、是非とも薫ちゃんも千夏ちゃんの性奴隷になりた〜い! 嗚呼、女王様! このオス犬にアザがつくまでキツく愛の鎖を締め付けて下さいませ〜!」
「代わりにウチがこの両腕で失神するまでチョークスリーパーで頸動脈締め付けてやるで、この鬼畜変態!」
「ぐけええええぇぇぇぇ!! 後頭部にあるはずのおっぱいの感触がちっとも感じられないよ〜! まな板だよ、洗濯板だよ、肋骨がゴリゴリ当たって痛いよ〜!」
まぁー、出会ってまだ一日目だっていうのに随分と皆さん仲の良い事。世界情勢もこれくらい各国仲が良いと平和なんだけどなぁ。でも、さすがに今回が初対面の翔太は一人だけ六カ国協議の日本状態でポッツーン。
「……いきなり何なんだよこのテンションは? マジでアフロのブラジル人とかいるし、いくら何でもちょっと俺、ついていけねぇよ……」
「まぁ、その内慣れてくるんじゃない? この二人で戸惑っているようじゃ、とてもあのバンドリーダーさんとは会話すら成り立たないよ?」
二人と合流したところで、いざ音楽室の中に入ろうとナカシマが職員室から借りてきた鍵を入り口のドアの鍵穴に差し込もうとすると、どうやらちょっと様子がおかしい。鍵が間違ってたのかな?
「……あ、あれ?」
「何よナカシマ、どうしたの?」
「……か、鍵、開いてる……」
どうやらすでに私達より先に侵入者がいる模様。耳を済ますと中からは複数のギターをかき鳴らす音とキャッキャッとハシャぐ女子の黄色い声。誰と誰と誰がいるのかぐらいいとも簡単に予想は出来たが、一体コイツらは鍵も無しどうやって中に入ったのだろうか?
「あっ、みんないらっしゃーい! コオロギクン部長さん率いる軽音楽部へようこそー!」
授業が終わった途端にさっさと教室から姿を消したと思いきや、気分はもうすっかりここの部活の窓口嬢兼案内役気取り。昨日までのあのグズりベソ泣きワガママ言いたい放題の駄々っ子お嬢様はどこへやら。何が『ようこそー!』よ、全くもう……。
「……カツ、ザビ、遅い……」
「な、なぁロギ、鍵も無しに一体どうやって教室に入れたんだよ?」
「……合い鍵、作った……」
「Ena pa! 学校ノ備品ヲ勝手ニ複製シタラ、先生ニ怒ラレチャウデヤンスヨ〜! 相変ワラズRogiハヤル事ガ大胆デヤンス〜!」
「ロ、ロギ、それはマズいよ! そんな事したらロギだけじゃなくて、一緒にいる栗山君だって同罪に……!」
「…………ナカシマさん、こんにちは」
「……え、えっ? あ、はい、こんにちは……」
「……ワタル、彼の呼び名はカツで良いよ、カツもこれからは、ワタルと呼んであげて……」
「…………了解、カツ、こんにちは、ワタルです」
「……カ、カツです、どうも……」
「何カ、彼モRogiミタイナ謎ダラケデ調子狂ウデヤンスネ〜」
あらま、いつの間にやら互いを名前で呼び合う仲になっちゃったよこの二人。まぁ、お互い無口で無表情で考えている事が良くわかんない不思議ちゃん同士、類は友を呼ぶって言うもんね、気が合うのかな?
「おいおいちょっと待てよ、何でここに小夜が一緒にいるんだよ? まさか、お前までバンドに入ったのか!?」
「あー、翔ちゃんだー! もう元気になったんだねー! 翔ちゃんあたしね、昨日からこの軽音楽部のマネージャーさんになったんだー!」
「……マ、マネージャー? お前が?」
そうなんだって。あれだけみんなで小夜にも出来そうな部活部を校舎内全域隅から隅まで散策してあげたのに、結局は赤ん坊の頃からずっと慣れ親しんでいる音楽系の部活に落ち着く事になったんだって。楽器なんて家に帰ればお店を開けるほどたくさんあるっていうのに、やっぱり良くわかんないや、この子は……。
「……おい那奈、小夜のヤツ、このまま放っといちゃっていいのか?」
「もう、別にいいんじゃない? 小夜がマネージャーとして入部したお陰で、航が前言撤回をしてバンド参加を決意してくれた訳だし」
「……小夜のお陰?」
何時間も続いたギターセッションのその後、音楽の才能こそ備わってはいなかったが、今まで出会った事の無い特殊な能力を持つ栗山航と言う人間にバンドリーダーであるロギはすっかり興味津々。ナカシマやザビエルに相談もせずに航をバンド内の空白の一席だったギタリストとして勧誘してみたのだが、航はこれを軽く一蹴してしまう。
航の連れない答えに少し興奮気味な表情を見せていたロギもすっかり意気消沈して妄想モードに突入。ザビエルも気球みたいにパンパンに膨れ上がっていたアフロ頭が一気に萎んでマッチ棒みたいになり、ナカシマに至っては残念なのと同時に自分の現在の立場を航に奪われなくて済み、気持ちの悪い引きつった笑みを浮かべていた。
もちろん、側にいた私達もガックリと肩の力が抜け脱臼したみたいに両腕がブラーンとなって『やってらんねぇ』とばかりにさっさと帰り支度。天から授かった貴重な才能が呆気なくドブ川へ。その虚しさに私達が哀れんでいると、まるでそれをすくい上げで再び選択の機会を与えるが如く音楽室内に響き渡った音楽の女神、ミューズの箴言。
『えー! そんなの勿体無いよ航クン! せっかくこんなに上手くギターを弾く事が出来るのにー! もし、お兄ちゃんがカッコいいギタリストだって知ったら、絶対に瑠璃ちゃんは大喜びするのになー!?』
この時、私はなぜ無関心の代名詞みたいな航がギターに対して興味を持ち、あの様な驚愕の才能を披露してみせたのか、何となく理解する事が出来た。実際は家に帰ってからよくよく思い出してみて気づいた話だが、航が周りを驚かせるような行動を起こす状況には、必ずと言って良いほど同じ共通点、同じキーワードがあった。
『小夜』と『瑠璃』。
やはり今現在、航自身には何か将来夢見ている事や、没頭出来る趣味や嗜好といったものは存在していないみたい。そんな無気力人間を奮い立たせ超人的な能力を発揮させる原動力、それは多分、自分の命より大切な存在である妹の瑠璃の笑顔と、その瑠璃が心から敬愛してやまない唯一の存在であり恩人である小夜の笑顔なのではないかと。
自分自身は興味や理由が無くとも、それが小夜と瑠璃の為に役に立てるのであれば全力で立ち向かう。その想いこそが航に備わった瞬間的に物事を記憶する特殊な能力を発揮させて、これまでの不可解な行動の数々を起こさせたのではないだろうか。
そもそも昨日、ここで航がギターを弾き始めたのも自主的な行動ではなさそう。確かに航は自らロギのギターを勝手に手に取り眺めていたが、いつもの航なら私達が注意をすれば静かにギターを元に戻していたはず。なのに、それを無視して演奏を始めたのはアレのせい、小夜の『弾いてみてー!』のあの一言。
実際、一度はバンド参加を断った航が一転その答えを考え直したのも、小夜の口から『瑠璃』の名前が出てきた次の瞬間だった。それまで何事においても興味無い、興味無い、興味無いと呪文のように言い続けていた男が、途端に『…………やってみる』と言い出すくらいなのだから。本当、極端。実にわかりやすい簡素な思考。航が天才人間に変身するスイッチは、どうやら小夜と瑠璃が握っているようなのだ。
「……でももしよ、那奈のその予想が当たっているとしたら、そんなハンパねぇスイッチを小夜に握らせておいて大丈夫なのか……?」
「……二人分の監視と指導が必要になりそうね、翔太、アンタも面倒がらないでちゃんと小夜を見守ってあげてよ……?」
……まぁ、二人には私達以外にもこうして新しい仲間が出来た訳だし、たまに後ろからサポートしてあげるくらいで良いんじゃないかな。そろそろ小夜にも一人立ちしてもらわないと、私は自分の事がいつまで経っても何も出来ないからねぇ。今回の部活動参加は良い機会かもしれないね、小夜にとっても、航にとっても。
「……で、でさ、ロギとワタルは今までずっとギターの練習をしていたのかい? ロギの指導ならワタルも結構上達してたりして……」
「うん! ねーねーカツ君、航クンねー、みんなが来るまでの十分間くらいでいっぱい上手になったんだよー!」
「……レパートリー曲の演奏、全部教えた……」
「……え、えっ? ちょっと待ってよロギ、僕達のレパートリー曲って、すでに軽く五十曲超えてる……」
「…………全部覚えた、すぐに弾ける」
「え、え、え、ええええぇぇぇぇ!!!!」
「Wao! コレジャkatsuノ立場ガ全ク無イデヤンスネ〜! Ore、ドラマーデ良カッタデヤンス〜!」
「……ア、アハ、アハ、アハ、僕だって全レパートリー曲をマスターするのに三年近くかかったのに、たった十分間だけで、アハハハ……」
「……カツ、ザビ、チューニングの準備、早速練習を始めよう……」
「ワーイワーイ! 今からあたし達だけのシークレットライブが始まるよー! 何かこういうの久し振りー、今度は麻美ちゃんも連れてきてあげようかなー?」
新たに結成された若い才能による将来有望なフォーピースロックバンド、色々と一番苦労するのはやっぱりナカシマなんだろうなぁ。さっきも言ったけどまとめ役って絶対損な役割だよね、しかも肝心のマネージャーがアレでしょ? 大変だよー? まぁ、せいぜい頑張ってちょーだい。
「オイ千夏! やっぱコイツらホンマもんやで! このバンド、絶対プロデビューしたら成功するで!」
「いやぁ〜ん、四人ても超Cool! メチャメチャカッコいいわぁ〜! アタシ、これから学校中にこのバンドを大々的にアピールして、もっともっとファンを増やしちゃうんだからぁ!」
「ん〜、これはいわゆる一つのロックンロールがポップしてビートしてソウルフルなシェケナベイビー! 音楽は大海を渡り人々を熱狂させるパワートゥーザミュージックでセコムしてますかぁ!?」
それぞれの自己紹介と挨拶の代わりとばかりに、ロギ達は練習がてらに数曲ほど私達の目の前で自分達のオリジナル曲を披露してくれた。この前の即興演奏とはとても比べ物にならない激しく痛快なロックサウンドに音楽室は一瞬にしてライブハウスに早変わり。
先程までの情けない姿が嘘のようなナカシマの重厚でカッコいいベースにザビエルのブラジルの情熱の血を彷彿させる魂のドラム、そして何より私達が呆気に取られたのは物静かなその風貌からは予想もしなかったロギの跳躍的なギタープレイと惚れ惚れするような力強く胸に響く圧倒的ボーカル。
起きているのかどうかもわからないくらい細く朧気だった瞳はカッと見開きギラギラと光輝き、その表情と神か何かが乗り移ったかのように全身を使ってリズムを刻む姿はまるで別人。そして、その歌声はカラオケレベルどこの騒ぎじゃない。一度聴いたら延々と耳に残る、ワイルドながらもとても美しい歌声だった。
これが絶対音感を持つ音楽の天才の本来の姿なのか。なるほど、メンバーであるナカシマとザビエルが心底から尊敬し崇拝する訳だ。翼や千夏みたいにキャーキャーとミーハーみたいな真似はしたくないけど、このバンドは本当に成功すると私も心から実感させられた。
「……なぁ、那奈……」
「……えっ、何? 何よ翔太? 今スッゴいノリノリで最高の気分なのにー!」
「……アレ、アレさ、やっぱりちょっとおかしくね?」
翔太が指差す方を見ると、そこには長い指を器用に使ってギターを弾いている航の姿が。うん、ちゃんと演奏出来てるじゃん。たった十分間の練習時間ながらも、どうやらロギが教えてくれたギターテクニックを完全に会得してみせたようだ。
さすがは驚異の記憶力、こりゃ私も少し航に対しての見方を変えなきゃいけないかもね。小夜じゃないけどあの高い身長と線の細さに手足の長さ、これで黒ずくめの衣装に長いコートとサングラスをかけたら、パッと見だけでも啓介さんみたいだね。航、マジで凄いよ!
「いやいやいや、俺が言いたいのはギタープレイとかテクニックじゃなくて、航の演奏しているあの格好……」
「……格好?」
沸騰気味になってる心拍数を一息吐いて冷静を保ち、少し引き気味の視界でバンドメンバーの四人を見た時、私は翔太が言っている事の意味がやっと理解出来た。曲を聴いている小夜達同様、演奏しているロギ、ナカシマ、ザビエルも汗まみれになるくらい飛ぶわ跳ねるわの完全トランス状態。しかし、ギターを弾く指と手以外ピクリとも微動だにしない人間が若干一名……。
「……みんな揃ってすっげぇノリノリ状態なのにさ、何でアイツ一人だけ演歌歌手みたいに直立不動なの?」
「……もしかして、航にはリズム感ってもんが全く存在して無いのかなぁ?」
……だとしたら、ギタリストどころかミュージシャンしてかなり致命的な話ですよコレ。そういえば、昨日のギターセッションも何の前触れもなくいきなり演奏を始めたり、あの時も真っ直ぐピーンと立ったまま全然動かなかったっけ。
『……君はまだ、君の音が見つかってないんだね……』
あの時のロギの言葉はそういう意味だったのか。どうやら、今の航には人がやってる演奏を見て記憶して、それを丸々真似する事だけしか出来ないみたい……。
「イエーイ! ねーねー航クーン、ノッてるかーい!?」
「…………ィェーィ……」
あちゃー、こりゃ音楽のイロハってヤツを一から教わっていかないとダメかもね。それまではロギのコピーロボット状態になるのかなぁ? 前代未聞の音楽知識リズム感ゼロの高校生バンドマン、栗山航が妹・瑠璃の自慢のスーパーギタリストになれる日はいつの事になるのやら……。