第61話 Monster
「……ねぇ、どうするの?」
「……どうするって、何で俺に聞くんだよ?」
「……女にこんな事決めさせないでよ、男でしょ?」
「……そんな事、いきなり言われてもさ……」
「……ねぇ、翔太が決めてよ?」
「……俺が、決めちゃっていいの?」
「……うん、いいよ……」
「……那奈は、後悔しない?」
「……うん……」
「……じゃあ……」
「……じゃあ?」
「……このまま待機!」
「もーう! 埒が明かなーい!」
学校から家に帰宅してから早や十分、私と翔太は未だに『恐怖のホラーハウス』に入る覚悟が出来ないまま、玄関の扉に背中をつけて体育座りをして青空を見上げて途方に暮れていた。
家の中にはほぼ確実的に血に飢えた悪魔が二匹、私達の帰りを今か今かと待ちわびている。しかも、お姉の話ではすでにかなりの量のアルコールを摂取している模様。非常に危険、危険過ぎる状態にある。
今の私達の心境を他で例えるならば、古代ローマのコロッセオで野獣の檻に押し込められた奴隷の様だ。この先に待つのは自由か地獄か、生か死か、行くべきか行かざるべきか、正に瀬戸際。今、私達は究極の選択を突きつけられているのだ。
「そろそろいい加減、翔太も覚悟を決めたらどうなの!? 私達、このままずっとここにいる訳にもいかないんだよ!? アンタがヘタレなのは百も承知だけど、ここは男らしく私を庇って先陣切ってよ!」
「おいおい、勘弁してくれよ! そう言う那奈は親父さんと麗奈さんの実の娘だろ!? だったら二人の事を何もそんなに怖がったりする必要無いじゃないか!? ここは那奈が仕切って先に家の中へ入ってくれよ!」
「バカッ! あのね、言わせて貰うけど私は別に父さんと母さんが怖い訳じゃ無いの! 酔っ払ってベロベロになってる父さんならいつも介抱して慣れてる事だし、母さんだって本来は話をすればちゃんと通じる真人間だから、お互いへの個人個人の対応なら何の問題は無いの! ただ、ただね……」
……私が足先の指まで震え上がるほど恐ろしいのは、この家という限られた狭い空間の中に、顔を合わせたらこの地球上で天変地異が起こり世界が滅亡するとまで言われている渡瀬夫婦が共存しているって事!
すでに激突が起こり内部では次元の法則が乱れ空間の崩壊が始まっているならいざしらず、ゴキブリ一匹でさえも生存出来ないほど冷たく凍りつき、無の静寂が広がるこの室内の状況はとても尋常じゃない!
触らぬ神に祟り無しじゃないけど、とてもこの空間に普通の人間は入り込めない! どんなに気密性抜群の宇宙服でさえも、あっという間に押し潰されてグシャグシャになるに違いないってば! いくら何でも私、そんな命知らずな勇者には絶対になれないから!
「じゃあ、俺はこの圧力の前に犠牲になってグシャグシャに潰れちまえって言うのかよ!? あんまりだぜ那奈! お前は自分が助かれば俺はどうなってもいいって事かよ!?」
「命懸けで女を守るのが男の役目でしょ!? 情けないよ翔太、そんな事じゃ私、この先とても翔太にはこの身を預けられない! 翔太の事を心底から信用出来ないよ!」
「いやいやいや、男女の問題の前に那奈の方が間違いなく俺より全然強いじゃん!? むしろ助けて貰いたいのは俺の方だって! さすがにあの二人も血の繋がった実の娘相手なら多少加減をしてくれるだろうけど、居候の俺は百パーセント血祭りにされるのが目に見えてるって!」
「あーもう、本当に埒が明かなーい! 早く自分の部屋に戻って一休みしたーい!」
……それからさらに五分経過。状況は何一つ改善せず、ただ空には白い雲がこちらの苦悩など知らず存ぜぬの顔をしてのどかにプカプカと漂っていた。日差しは時より雲に覆われたりするものの、至って日当たり良好である。
肝心の家の中からは未だに物音一つせず、この扉の向こう側はブラックホールか、あるいは何か未知の空間に通じているのかと錯覚してしまうほど静かで気味が悪かった。
「もう限界! 失望した! どこまでヘタレ男なのアンタは! 今更実の娘も居候も関係ないでしょ!? 翔太だって一体何年この家に住んでるのよ!? もうほとんどみんな家族同然みたいなもんなんだし、それにいつかは私と翔太も本当の家族に……」
「……えっ?」
「……あっ、いや、あの……」
「……本当の、何?」
「……だ、だから、翔太だって、私と本当の家族になるかもしれない訳だし……」
「……そりゃ卑怯だよ那奈、参ったなぁ……」
……カッーとなりすぎて、またついつい本音が出てしまった。さっきまでの口論も忘れ、私も翔太もすっかり真っ赤になって俯きモード突入。私のバカ。一日一回はおろのけないと気が済まないのかなぁ?
……はい、そうです。みっともないけど認めちゃいます。翔太と一緒にモジモジとしてる時間が、実は最近とっても好きだったりします。チラリと横目で翔太を見ると、頭を掻いたりして必死に照れ隠ししてる姿がちょっと嬉しくて……。
「……いつか、いつかの話だよ? 私と翔太が、その、家族になるって時は、翔太には勇気出して貰って父さんと母さんにちゃんと挨拶してくれないといけない訳だし……」
「……う、うん、まぁ、そうだけどさ……」
「……私がどんなに強いって言っても、やっぱり私は女だし、男の人には守って貰いたいって思ってるし……」
「……うん、わかってる、俺もそうであるべきだって思ってる……」
「……本当に? 私、本当に翔太の事、信じていいの……?」
「……うん、そうだ、そうだよな? 俺だって男だ、よしっ、決めたよ! 俺が先に中に入る! 那奈は後をついてきてよ、俺を信じてくれ!」
「……翔太……!」
「……でも何か、何だかなぁ? 何か最近それを餌に上手い事言いくるめられてような気が……、もしかして、尻に轢かれてるってこういう事を言うのかな?」
「何が? 何か不満?」
「……いや、何でもないです、タダの独り言です、はい……」
……何か、ちょっといい感じ。嬉しくて切なくて、ドキドキする幸せの一時。でも、ちょっと怖くもある。少しずつ翔太の体がこちらに座ったまま擦り寄ってくるのがわかる。手が触れて、肩が触れて、気づけば真横からは翔太の息遣いが聞こえた。
「……じゃあさ那奈、俺、頑張るから、その前に俺に少し勇気をくれよ……」
「……えっ、何よ急に? どうしたの、翔太……?」
「……いいから那奈、こっち向いて、俺を信じて……」
……うわっ、嘘うそウソ! 嘘でしょ!? 翔太は絶対に今、私にキスしようと考えてる! どうしよう、いきなりそんなの困るよ! 突然の事で体が動かない。手と膝で顔を隠して首を横に振る事しか出来ない。きっと今、顔を上げて横を向いたら、私はもう自分の気持ちを制御出来なくなっちゃう……!
「……俺、絶対に那奈の事を守るから、だから……」
「……ダメだよ翔太、父さんと母さん、家にいるんだし……」
「……お願いだよ那奈、顔を見せてよ……」
「……じゃあ、ちょっとだけ、ちょっとだけ、だよ……?」
押し潰されそうな感情を堪えて顔を上げて横を向くと、もう目と鼻の先に翔太の顔があった。顔がどんどん近づいてくる。あと五センチ、四センチ、三センチ……。あぁ、もう近づき過ぎて何も見えない。自然に瞼が閉じていく。私と翔太の距離、あと一センチ……。
「なぁーにおめーら昼間っからシッポリしてんだよ? いやらしいなぁ?」
「……う、うわああああぁぁぁぁ!!!!」
「ウッヒャッヒャッヒャッヒャー!! おめーら愛しの優歌お姉様のお帰りさ! お楽しみのところをお邪魔して悪りぃね悪りぃね、ウッヒャッヒャー!!」
しまった、油断した! 止めどなく甘く淡い時間を粉々に打ち砕くように、恐るべき三匹目の悪魔が憎たらしいほどのしたり顔で私と翔太の目前に顔を肉迫させていた。すっかり忘れてた、家の中で待つ鬼はおろか、まさか反対側から追い立ててくる蛇がいた事を!
「オイおめーら、今、自分達の家の玄関の真ん前で何をやらかそうとしてたんだ? トローンとウットリ目ん玉瞑っちまってよ? オイ那奈、おめー今、翔太と何しようとしてたかあたしに言ってみろよ?」
「……あ、あの、お姉、これは、その……」
「グヒヒッ、おめー顔真っ赤だぞー? なぁ翔太、おめーは男だから女を守ってやるって言ってたよな? 那奈がモジモジして困っちまってるぜ、おめーが代わりに答えてやれよ、今、何しようとしてたんだ?」
「……いや、優歌さん、それだけは勘弁して下さい……」
「ハァ? 何だとコラ? この優歌様がそう易々と勘弁してやるとでも思ってんのか? おめーだってちゃんとチ〇コついてんだろ? だったら気合い入れて正々堂々言ってみろってんだよ、何しようとしてたんだ、あぁん!?」
「……、しようと……」
「あん? 聞こえねーな!? チビチビ言ってねーでしっかりデカい声で言えやゴラァ!」
「……キス、しようとしました……」
「……バカッ! 翔太のバカー!!」
「ウッヒャッヒャッヒャッヒャー! キスか!? おめーらここでキッスしようとしてたのか!? 誰がどこで見てるかわからねー野外で口吸い行為かよ!? とんでもねぇスケベだなおめーらは!? お姉様はビックリ仰天で腹が捩れちまうぜ、ヒャッヒャッヒャッヒャッヒャー!!」
「……お姉! 近所の人にまで聞こえるでしょ!? 恥ずかしいからもうやめてよ!!」
「いやいや、お邪魔仕って申し訳なく候、ささっご両人、拙者にはお気遣いなくどうぞ思う存分お好きなだけブチュブチュして戴きたく候、ついでに翔太はアッチも早漏? なんちゃって、ウッヒャッヒャー!!」
「お姉!!」
私の懇願など聞く耳持たず。半径三十メートルまで響き渡るほどの大音量で爆笑するお姉の暴挙は止まる事を知らない。散々笑い飛ばして一息つくと、今度は馴れ馴れしく私達の首に両手を回して強引にヘッドロックをかけてくる。
「……ところでよ、何でおめーらは家に入らないでこんな所にいるんだよ? ちゃんと虎太郎ちゃんと麗奈ママには帰ってきた事を報告しているんだろうな?」
「……いや、まだだけど……」
「……親父さんと麗奈さん揃い踏みって、ちょっとあまりに怖すぎて……」
「あぁん!? 怖ぇだと!? おめーらナメた事ぬかしてんじゃねーぞゴラァ!! 何事も無く無事に学校から帰宅した事をイの一番に親に報告すんのが子の勤めだろうが!? この親不孝者どもめ、ちょっと来い!!」
あれほど二人で開けるのを拒んでいた異世界への扉を、お姉は何の躊躇も無く全開にして力ずくで私達をその中に連れ込もうとし始めた。こうなってしまってはもはやどんな抵抗も無駄というもの。私と翔太の命運、ここにて潰える。
「どうせブチュブチュすんならよ、是非とも愛する両親の目の前で舌も絡めた濃厚なフレンチキスでもかましてやれよ!? 虎太郎ちゃんと麗奈ママはきっと、おめーらの立派に成長した姿に涙流して喜ぶぜー!?」
「その涙はきっと喜びの涙じゃないって! 第一、そんな事したら絶対に私達二人ともまとめて殺されるってば!!」
「旦那様ー! 奥様ー! 可愛い可愛いお嬢様と婿殿のお帰りどすえー! どうか目一杯の愛情でお出迎えなさって下さいましー!?」
「さっきから何なのその喋り方は? 一体何時代の人間?」
「うっせーな、グズグズ言ってねーでさっさと家の中に入りやがれこのクソバカ腰抜け野郎どもオラオラ」
玄関から廊下、そしてリビングへ。お姉に首根っこを掴まれたまま抵抗虚しく私達二人はまるでボロ布同然に引きずられて床の上に投げ飛ばされた。顔を上げて周りを見渡すと、そこにはテーブルに向かい合って椅子に座りテレビを眺めるあの二人の姿が。
「……あわわわわ、やべーよ那奈、マジで親父さん麗奈さん揃い踏みじゃん……!」
「……や、やだ、ちょっと翔太、しがみついてこないでよ! 何で私の後ろに隠れてんの、ちょっと!」
このツーショットは私がこの世に生まれた時にその手に抱かれこの目で初めて見た懐かしく微笑ましい光景のはず。しかし、今の私にはその二人の姿は寺院の門に左右対で並ぶ仁王像の様にしか見えない。実の両親だというのに、いつから私の脳裏にはそんなイメージがついてしまったのだろうか。
「じゃあ、あたしはこれで部屋に戻るから、後はよろしくなご両人! 久し振りに親子水入らずで有意義な時間を過ごしてくれよな!」
「ちょ、ちょっとお姉!? 私達だけここに置いて行かないでよ! 待ってよお姉!?」
「おっーと、そうだそうだ忘れるところだっだわ、これこれ、御注文の品だ、二人に渡してやってくれ」
「……何これ、あたりめにビーフジャーキー……?」
「んじゃ、そこんとこよろしくぅ!」
「お姉ー!?」
お姉は言う事だけ言い済ますと乾き物二袋を私達に投げ渡し、リビングの扉をバタンと閉めてさっさと一人だけ二階の自分の部屋へと避難してしまった。何て薄情な人間だろうか。私達はまんまとここにいる地球上最凶の野獣二匹の生贄にされてしまった訳だ。
正に絶体絶命。これだけ周りで大騒ぎしているというのに、当の二人は背を向けテレビの画面を見たままちっともこちらに振り向いてはくれない。しかし、こちらに気づいていない訳が無い。その意味あり気な謎の沈黙が更に私達の恐怖心を引き立てる。
「……あ、あの、父さん、母さん、ただいま……」
「おぅ、お帰り」
「お帰りなさい」
「……親父さんも麗奈さんも、お帰りなさい……」
「おぅ、ただいま」
「ただいま」
二人、未だこちらに振り向かず完全に背を向けたままで言葉少ない最低限の返事のみ。怖い、怖すぎる。十五年間生きてきた私にとっても全くの未知の領域。いつもの父さんなら私に対してセクハラ並みのしつこい粘着絡みをしたり、翔太に対して言われ無き因縁をつけてからかったりするはず。
そして、いつもの母さんなら私の姿を見ればこちらの近況を知るする為に即座に話しかけてきてくれていたはず。なのにこの静寂。おかしい、これは何かある。怒っているのだろうか、それとも何か企んでいるのだろうか、それ以上にこの二人がこんなに近距離にいてケンカもせずになぜ黙っているのか、私には全然予測が出来ない!
「……お、親父さん、沖縄どうでした……?」
「おぅ、とりあえず当初の目的は達成出来たな、遥々日本の最南端まで飛んでいった価値はあったぜ、帰りしにちぃとばかり面倒臭ぇ事に巻き込まれちまったがな、もうヤンバルクイナには懲り懲りだぜ」
「……ヤンバルクイナ?」
「何でもねぇ、こっちのこった」
(注・詳しくは別編小説、『晴天を誉めるなら夕暮れを待て』より)
「……母さんは、いつ日本に帰ってきてたの……?」
「二日前よ、昨日は私の開発チームの出資者のお食事会にお呼ばれ、一昨日は美香と百人近くの馬鹿相手に軽く説教してやった後、千春と一緒に朝まで騒いでストレス発散させて貰ったわ、たまには羽目を外すのも良いものね、二人にはちょっと迷惑かけちゃったけど」
「……千春と美香って、千夏と翼のお母さんの事? つーか、百人相手に説教って何? 一体何をしてたの……?」
「何でもないわ、こっちの話よ」
(注・詳しくは別編『ツァラトゥストラはかく語りき』より)
こちらの問いには普段通りに答えて下さっているように見える尊敬なるお父様お母様ご夫妻。しかし、その目線はまだ下らないゴシップ記事を取り上げるワイドショーが流れるテレビに向いたまま。私達の探りの質問にも全く動じる気配無し。
「……あの、父さんこれ、お姉から……」
「おぅ、サンキュウベリマッチ、んっ? イカにジャーキー? くっだらねぇ、猫の餌かよ? こんなもんしかなかったのか? シケたつまみだなぁクソッたれ」
「安っぽい乾き物ばかりね、最近のコンビニはカマンベールチーズや鶏の唐揚げぐらい普通に売ってるんじゃないの? 優歌に任せたのが間違いね、あの子も随分とセンスの無い事、まるでオッサンのチョイスだわ」
「……じゃあ母さん、乾き物だけじゃなんだから、私と翔太で冷蔵庫の残り物で何か一品ぐらい作ろうか……?」
「いや、いいわ、お気遣いなく」
「……じゃあ父さん、何か欲しい物があったら今から私達で買い物に行くけど……?」
「いや、それを待つのも面倒臭ぇ、これで十分だ」
「……あぁ、そう、そうですか……」
「何だ? 料理だの買い物だの色々難癖つけて、何やら二人ともここから逃げ出したいみてぇだな? 違うか?」
「……い、いやいや、そんな事無いそんな事無い! 久々に家族みんな揃って私、スゴく嬉しいよ! 翔太もそう思うよね、ねっ!?」
「……も、ももも、もちろんッス! 後は母さんも帰ってくれば勢揃いッスね! 今日は楽しい夕飯になりそうだなー!?」
「そうね、いづみともに色々と話がしたいわ、確かに楽しみね」
「……ハァ、しんどい……」
「……母さん、早く帰ってきてくれないかなぁ……」
……あーもう嫌だ、耐えられない! 私が何を言ってもこの状況と無言のプレッシャーは何一つ変化の兆しが無い。もう限界、頭がおかしくなりそう! このプレッシャーは私達二人に対してのもの? それとも、父さんと母さんがお互いを警戒して発しているもの? どっちなの!?
「……那奈、死ぬ時は一緒だよな……?」
「冗談でもやめてよそんな事! 何でもうすでに半ベソ状態になってんのよ、このバカ翔太……!」
でも、どちらにしろそれが恐ろしい事には変わりない。もしこの二人にまとめて集中攻撃されてしまったら、その相手は跡形の無く心身を粉砕されて植物状態になる事間違いなし。つまり、その攻撃対象になっていると思しき私達にはきっと明日と言う未来は訪れないだろう。
しかし、これがもし父さんと母さんがお互いを牽制し合って発生している緊張感なのであれば、これは以前世界を震撼させたあの米ソ冷戦を上回る大戦危機、もしくは原子力融合における臨界点ギリギリの緊迫状態。つまり、大爆発すれば至近距離にいる私達にきっと明日と言う未来は訪れないだろう。どちらにせよ、私達が助かる可能性は限りなくゼロに近い!
「……チッ、しっかしとことんつまんねぇワイドショーだな、さすがに飽きてきたぜ、ふぅ……」
この張り詰めた空気の中で先に動いたのは父さんだった。テレビ番組の内容に一言ケチをつけると、手に持っていた缶ビールを一気に飲み干してゴミ箱に投げ捨て、椅子の背もたれに寄りかかって大きく背伸びをすると首を左右にグルグルと回した。準備運動完了のサイン、ついに来る!! 餌食は誰!? 私!? 翔太!? それともまさか、悪夢の渡瀬家夫婦大戦勃発!? 神様、どうか私だけでも助けて下さい……!
「……翔太、話がある、ちょっと面貸せ」
「……うへぇ!? お、おおお、俺っスかぁ!?」
「こっちに来い、俺の正面に立てよ」
「……う、うぅ、はい、今行きますぅ……」
……祈りが通じた。神様、どうもありがとう。どうやら私は救われたみたい。それもそうだ、私はこの二人に叱られるような覚えは何一つ無いのだから。今思えば何を怯えていたのだろうか。生贄に選ばれた翔太には悪いけど、私はこの時改めて自分の命の有り難みを心から実感した。
「……あ゛のぉ、お話しとば何でじょうがぁ?」
あちゃー、何と哀れな光景だろう。まだ何も会話が始まっていないというのに、父さんの目の前に直立する翔太の鼻からは恐怖のあまり鼻水が垂れていた。笑っちゃいけないんだけど、私はその姿がまともにツボに入ってしまった。人は極度の緊張感に晒され続けると感情がおかしくなると言うのは本当の話みたいだ。
「……で、どうだった?」
「……へぇっ? どうだったって、あの、何がっスか?」
「何が? じゃねぇよ、どうだったんだって聞いてんだよ」
「……? あ、あのー、いまいち言ってる意味が良くわからないんですけど……?」
「……おめぇ、俺をおちょくってんのか?」
「……へぇっ? 何でぇ!?」
「俺とおめぇの間でどうだったって聞かれたら何の話かすぐにわかんだろうがぁ!? 俺とおめぇを繋いでるもんは何だ!? 俺とおめぇの共通点は何だ!? ほら、答えてみろやゴラァ!!」
「ヒ、ヒィィィィ!! いきなり全開で怒らないで下さーい! 怖いよぉー!!」
「オイ! ビビってねぇで答えろって言ってんだよ!! 殴られてぇのかこのクズ野郎!!」
「バ、バ、バ、バイクですぅ! ロードレースですぅ! 昨日の全日本戦ですぅー!!」
「チッ、ちゃんとわかってんじゃねぇかよ、だったらスッとぼけてねぇでさっさとどうだったのかこの俺様に報告しやがれ!! ピヨッてんじゃねぇぞゴラァ!!」
……翔太、号泣。やっぱり、お父様のこの長き沈黙に隠されていたのはお怒りの感情だったのですね。いやはや、怖いです、恐ろしいです。テーブルの脚をガンガンと蹴り飛ばすそのお姿、まるでヤ〇ザです。こんなお方がお父様だなんて私、一生の恥でございます。あーあ、何かもうこっちまで涙が出てきそう……。
「改めて聞くぞ、どうだった?」
「……予選は晴れてたんですけど、本戦開始前に豪雨になって来週へ延期に……」
「んな事ぁとっくに知ってんだよバカ野郎!! そんなもん昨日の内に橋本ちゃんから電話で連絡来てんだよ!! 俺が聞いてんのは選手権の予定じゃなくて、雨が降る前に行われた予選の結果だ!! おめぇ自身の初の全日本クラス公式戦の手応えはどうだったんだって聞いてんだよ!!」
「……だったら、最初からそう聞いてくれれば……」
「あぁん!? 翔太の分際で生意気にもこの俺様に対して何か文句でもあんのかゴラァ!!」
「ありませんありませんありませんからそんなに怒らないで下さい蹴らないで下さいガンつけないで下さい酒臭い息吹きかけないで下さいごめんなさい本当にごめんなさい」
柄の悪い男に絡まれる気弱な男子学生の図。この光景がもし外の市街地で繰り広げられていたら、間違いなく近隣住民から警察に通報されてしまうだろう。いや、まかり間違うとこの室内でのやり取りの声がもし外部に漏れていたりしたら、それでも十分に通報対象になりかねないかもしれない。
ご近所の皆さーん、これは決して恐喝事件などではありませーん。渡瀬家恒例の家族内コミュニケーションの一つでーす。怒鳴っている当人に悪気や殺意はありませーん。だからお願い、どうか警察や機動隊は呼ばないで下さーい!
「……これよ、何だかわかるか? 正式記録とは別に俺が竹田に頼んで計測して貰っておいたおめぇの予選前に行われたテスト走行のラップタイムだ、ひでぇ出来だな、爆笑もんだぜ、笑いすぎて屁も出ねぇや」
「えっー! そんなのいつ計測してたんですかー!? 嘘だぁ、えっー!?」
父さんがズボンのポケットから取り出した一枚の用紙を手渡された翔太は、焦りに近い驚きの表情でそれに目を落としていた。私もあのサーキット場に同行していたはずなのに、とても橋本さんや竹田さんがそんな作業までしている感じには見えなかった。いつもふざけている様に見えて、やはりあの二人もこの業界のプロだったという事か。
「一体何なんだこのハチャメチャなタイムは? 一周目のシケインで凡ミスかまして2分5秒台なんてヘボやらかしたと思いきや、二周目は立て直してくるどころか前周のミスにビビって全コーナーでブレーキングミスって2分9秒台、三週目でやっと2分ギリギリ切ってきたかと思いきや四周目でまた同じシケインでしくじって2分3秒、さすがにマズいと焦ったかテスト最終周で1分55秒でファストレスト出したは良いが、予選本番の一発勝負で今度はヘアピンであわや転倒寸前になって結局記録タイムが1分58秒54、参加全台数二十四台中で第八位、こんな走りで入賞圏内に入れた事自体が奇跡に近いぜ」
「……はい、マシンはすこぶる調子が良かったので、何とかストレートではタイムを稼ぐ事が出来て……」
「マシンが調子良いだぁ!? 生意気ぶっこいてんじゃねぇよ、そんなもん当ったり前だバカ野郎!! 調子の悪い時なんかあるか!! あのなぁ、言わせて貰うが俺達は何も遊びでバイクやってんじゃねぇんだ、手抜きなんか一切しねぇ、うちのチームクルー達の仕事はいつだって完璧なんだよ!! 橋本ちゃんだって毎度休日返上して一人走り回って大会エントリーの手続きや機材搬入用の車両の準備をして、竹田だって最後まで壊れずに回り続けてくれますようにって天に祈りながら夜遅くまでエンジン組み立て直してみんな必死で頑張ってんだよ!! 他の連中だって必死だ、俺だって必死だよ!! みんなおめぇが少しでもリラックスして本来の力を発揮出来るように、おめぇが本戦で一つでも上のリザルトが残せるように、みんな汗まみれオイルまみれになって命懸けてんだよ!! おめぇ如きにマシンがうんたらかんたらなんぞ言われる筋合いなんかこれっぽっちも無ぇんだよこのクソったれがぁ!!」
「……ひぃっ! す、すいませんでした!」
「それにな、このテスト走行のラップタイムに目を通すだけで十分、今回のこのだらしねぇ予選タイムの原因はマシンじゃなくて乗り手のおめぇ自身の気の緩みだって事は解りきってんだよ!! 初コースで本番一発勝負ならともかく、おめぇはこれまでの合宿練習や模擬レースで何回このコースを走ってきてんだこのボケェ!! しかも同じシケインで二回も同じブレーキミス、ヘアピンでアクセルワークミスって転倒寸前だと!? それでもおめぇは全日本のポケバイとミニバイクを通算五連覇した無敵のチャンピオンか!? こんな出来でこれまでおめぇに敗れてきた他の選手達に顔向け出来ると思ってんのか、このタコ野郎が!!」
「……でも、これまで乗ってたミニバイクに比べたら、やっぱり250ccのスピードだとブレーキポイントがいまいち掴めないし、それにエンジンレスポンスも強烈で上手くアクセルワークもコントロール出来なくて……」
「ネチネチグダグダと言い訳がましいんじゃゴラァ!! そんな事にならねぇように俺はずっと前からおめぇに250ccを経験させてやってただろうが!? これじゃ何の意味も無ぇ、これまでの練習は一体何だったんだ、あぁん!?」
「……すいません……」
「……おめぇの実力、こんなもんじゃねぇハズだぞ、俺にはわかる、どうせ腑抜けでスケベなおめぇの事だ、ピットにいる那奈や観客の女どもに少しでもカッコ良いところを見せようとして、軽い気持ちでナメて挑んだんだろ!?」
「……うっ、いや、あの……」
「図星だな、このキ〇タマ野郎!! でなきゃあんなショボいコーナーでブレーキミスなんかするか!! こんな事だろうと試しに俺の代理で那奈を行かせてみりゃ早速ボロ出しやがって、まともに走りゃちゃんと初戦から優勝争い出来るだけのマシンを用意してやって、これまで六年もの間この俺様が専属で徹底的に鍛え抜いてきてやったってのによ、おめぇの本番の弱さとヘタレっ振りは本当に親父そのまんまだな!? こんなバカみてぇな話じゃあまりにみっともなくて、貴之のヤツが成仏出来ねぇで化けて出てきちまうぞ!?」
「……すいません、本当、すいませんでした……」
「謝んなら俺だけじゃなくてクルー全員に謝れ!! いいか、こんな不甲斐ねぇ結果でも橋本ちゃん達はな、『デビュー戦だから仕方ねぇよ、色々あったから俺達も悪いんだ』って笑って済ませてくれたんだぞ!? 優しい連中じゃねぇか、おめぇは随分と救われてるんだぜ?」
「……有り難い限りッス、本当、皆さんには感謝します……」
「しかーし! 俺様は違うぞ、甘くねぇ!! もしあの時、俺が現地にいたらおめぇをコテンパンに叩き潰してやってたところだ!!」
「親父さん、お願いですからもう許して下さーい!!」
「許してたまるかこのクソッたれがぁ!! よくもまぁ三島勇次朗や他の関係者が見てる前でこの世界最強天下無敵唯我独尊の渡瀬虎太郎様の顔に泥を塗りたくってくれたなぁ!? これだからおめぇはうんたらかんたら……!!」
以下、長文の為割愛にて候。ついでに翔太はアッチ……、いや、何でもないです。父さんの説教はこの後一時間ほど途切れる事無く延々と続いた。その間に父さんは冷蔵庫にあった缶ビール五百ミリリットルを三本、灰皿山盛りタバコ一箱を軽々と空け、お姉が買ってきたあたりめとビーフジャーキーを一本残らず全て胃袋に収納した。
説教の最中、翔太は何度となく横目でチラチラと私にアイコンタクトで助けを求めてきていたが、とてもじゃないが間に入ってあげられるような状態ではなかった。翔太の顔は涙やら鼻水やらでもうグシャグシャ。仲間を見殺しにするのはこうも愉快、いやいや、心苦しい事なのか。どうやら私はかなりSっ気の強い人間なのかもしれない。親の遺伝だろうか。
「……ふーん、最速タイムと最低タイムに14秒ものラグ、一位のトップタイムとは6秒差の八位ね……」
父さんが怒り狂っている間、母さんは黙ったまま表情一つ変えずに例のラップタイムとやらが載っている用紙に目を通して何やら考え事をしていた。口調こそ父さんとはかなり温度差はあるものの、この結果に不満そうなのはその雰囲気からして明らかだった。
「……ねぇ、現地はいつから雨が降り出したの? 詳しいコースコンディションはわかる?」
「……橋本ちゃんの話だと、予選時は雲の切れ間からお天道さんが顔を出すくらい良い天気だったらしいぜ、もちろん、コンディションは頭にクソが付くぐらいのカラッカラのドライだ」
おっと、父さんと母さん、ここでやっと初めてのコミュニケーション。テーブルを挟んで二人揃ってラップタイム用紙を覗き込む姿はかなり貴重な光景。やっぱり、二人の共通点であるバイクの話だと普通に会話出来るんだね、ちょっとホッとしました。
……なーんて言ってるのも束の間、父さんの噴き上げるマグマの様な大激怒で変な汗が出てくるほど体感気温が高くなっていた部屋の空気は途端に一変し、今度は吐いた息が白くなるぐらいに冷たく凍りつくような寒気が辺りを覆い尽くし始めた。
「……ハァ、これじゃちっとも話にならないわね、翔太」
「……うぇっ、今度は麗奈さんから説教ッスか……」
「あなた、私と交わしたあの契約、まだ覚えてるわよね?」
「……け、けいやく?」
「速くて強いライダーになりたい、父さんがなれなかった世界チャンピオンになりたい、って私達に指導志願したのはあなたよ? いくら小学生の頃の話だったとはいえ、まさか忘れたとは言わせないわよ?」
「……あ、あぁ、高校卒業後のプロ転向、ワークスチーム移籍の話ですか、契約って言うから何かと思った……」
幼き頃の翔太が父さん母さんに告げた将来の夢、それは二輪車モータースポーツの頂点であるロードレース世界選手権こと『Moto GP』で、今から十年前の日本国内で行われたシーズン開幕戦のレース中で事故により命を落とした翔太の父親、風間貴之さんが叶えられなかった夢でもあったエンジン排気量別の最高クラスでの世界チャンピオンに輝く事。
当時、自らが設計したマシンのエンジントラブルにより事故を引き起こしてしまったと罪の意識に苛まれ一度は開発者のの道を絶とうとした母さんは、その翔太の決意の言葉を聞き再び新たなレース用のマシン制作に取り組む事となった。
全ては翔太の夢を叶える為に、夢半ばで散った貴之さんの無念を晴らす為に、愛する人を突然奪われ失意の底に堕ちた大切な友人であるいづみさんの為に、そして、過失を犯してしまった過去の自分と決着をつける為に、母さんは再び立ち上がったのだ。
だがしかし、レースの舞台とは様々な人の思惑や企業の大金が動く特別な世界。その華やかな舞台に立つにはいくら関係者とはいえど簡単にはいかない。有名ライダーの息子だからというコネが通用する訳でもない。だから母さんは翔太にある条件、世界の頂点を目指すプロライダーになる為の厳しいノルマを与えつけた。
「全日本ロードレース選手権に三年間参戦して、一年目は様子見でシリーズ上位三位以内、そして、二年目三年目は無条件でシリーズ完全連覇、それが私とあなたとの間で交わされたうちのワークスチームへの移籍の条件、忘れる訳がないと思うけど改めて確認よ、ちゃんと覚えてるわよね?」
「……はい、しっかりと心に刻んであります……」
「うん、ならいいわ、今回の予選結果を聞いてたら、もうそんな事すっかり忘れて諦めちゃったのかって少し心配になってね」
「……いや、そんな、そんな事無いです、これからきっちり挽回してみせます、はい……」
「本当に? 頼むわよ、覚悟なさい、あなたも私ももう後戻りは出来ないわ、やっと私の新ワークスチーム構造計画が親会社の経営陣に認めて貰えてね、三年間の準備期間、あなたとの二年のプロ契約で総額六億円の予算をこちらに回してくれるそうよ」
「……ろぉ、ろろろ、六億ぅ!?」
「六億円って……、母さんそれって、翔太一人の為だけに!?」
「しかも二年間連続で好成績なら契約更新はもちろん、年俸も格段にアップしてくれるらしいわよ? 渡瀬虎太郎、風間貴之、三島勇次朗の三強、そして奥井新悟の四人が活躍したあの日本ロードレース界黄金期以来、マシン製造の技術は最高レベルながらなかなかそれを乗りこなし世界で活躍する国産ライダーが現れなかった二輪車製造メーカーにとって風間翔太は業界待望の超新星、他のチームなんかに横取りされる訳にはいかないって事よ」
「……嘘でしょ? 本当に!? ねぇ翔太、これスゴいよ! これってスゴい事だよ、ねぇ!?」
「……ろ、六、六億、待望の、超新星……」
「この大不況の御時世で六億円だなんて大金、そうそう出てくる話なんかじゃないわ、でも、あなたにはそれだけの莫大な投資利益と経済効果が見込める可能性があるって高評価して貰えたのよ、さすがは無敵の高校生ライダー、随分と注目されてるのね? もちろん、これは私の懸命な交渉もあってのものだけど、どう翔太、吉報でしょ? 少しは良い活性剤になったかしら?」
「……は、はひゃひゃひゃひゃ、ろ、六億、六億、無敵の超新星……」
……これにはさすがに私も驚いた。六億円の価値? これが? 根性無しでスケベでヘタレ全開のこの男が? 信じられない大金と仰天の高評価に舞い上がって呆然としているこのおバカさんが? へぇー、やっぱりバイクとか自動車のレースの世界は動く金額が一般の常識とは桁違い。こりゃ舞い上がちゃうのも仕方のない話か。
そういえば、テレビで良く見るあのF1のマシンも一台作るのに開発費と生産費だけで軽く一億円超えるとか言う話を、私も新聞かニュースか何かでうっすら聞いた覚えがある。じゃあ、レース仕様のバイクだと一台いくらなんだろう? F1マシンの半分くらい? いや、部品の数や大きさから言って三分の一かな? 例えそれでも凄い金額には間違いない。
だとしたら、母さんが普段仕事で扱ってるバイク部品とか、エンジン一台は一体おいくら? 父さんが現役時代に壊しまくったマシンの合計損害額は? 何かもう気が遠くなる金額になりそうな予感がする。つーかそれより、もし翔太がプロになったら契約金や年俸はどれくらい貰えるのかな? プロ野球選手と同じくらい? もしかして私、玉の輿に乗れちゃう……?
「た、だ、し」
しかし、そんな甘い夢すら見せてくれないのが『氷の女王』の別名を持つ我が母・渡瀬麗奈。将来有望な見通し明るい話にフワフワと浮き足立つ私達を、巨大な氷柱を針代わりに突き刺し凍てつく大地に貼り付けるような冷徹で非情な痛烈の一撃を振りかざしてきた。
「あくまでこの計画は翔太、あなたが私との契約条件を満たしてこその話よ? つまり、あなたがこのまま不甲斐ない成績でこの全日本戦一年目のシーズンを終わらせる事になれば、この夢のような御伽噺話は全て泡と消える事になるのよ」
「げぇっ! まっ、マジっスか!?」
「えっー!? 母さん、そんなのあんまりだよー!?」
別にちょっとぐらい条件に満たなくたって、そこまで話がまとまってるならサクッと契約しちゃえばいいのに! 相変わらず母さんは自分で定めた規律に厳しすぎだよ! そんな結果じゃメーカー会社側が許してくれないのかな? やっぱりダメ? あぁ、六億円が飛んでゆく。玉の輿への道のりはまだまだ遠いなぁ……。
「もしそんな事になったら、これほどの高額な予算を無駄にして会社に大損害を与えた私達チームスタッフは確実にその責任を追求されて、間違いなく全員が職を失い人生の路頭に迷う事になるわね? それどころかこれがきっかけでワークスチームはもちろん親会社のメーカー企業そのものが経営破綻して倒産に追い込まれるかもしれないし、そうなれば昨今の世界経済の金融不安にもさらに拍車がかかる事にもなりかねないわよ? 西暦1929年以来八十年振りの世界大恐慌の再来ね、食糧難問題もある事だし、下手したら第三次世界大戦が起こっちゃうかもしれないわよ?」
「………………」
「人類の未来と私達の運命はあなたの志一つにかかっているわよ翔太、次からは是非とも良い結果が聞ける事を期待しているわ」
「……エヘ、エヘ、エヘヘヘヘ……」
「母さーん、翔太が完全に壊れちゃったよー?」
……正にこれこそが渡瀬夫妻驚愕の破壊力、双璧並び立つこの光景こそが世界の要人すらも恐れおののく地獄の黙示録。この地に降り立ち二つの存在はこの世の全てを黒く焼き尽くす恐怖の大王と、あらゆる存在全てを否定しこの世を浄化する裁きの鬼神。私達無力な人間はその絶大な力の前に塵と消えゆく運命なのでしょうか……。
……って、何この大袈裟な解説のくだりは? おいコラ筆者、アンタは一体私に何を言わせようとしてんの?
「……でも、良く考えてみると滑稽な話よね、まさかこの目の前にいる暴虐無尽の権化みたいな最低男から、よく『チームクルーの必死の努力』なんて言葉が出てきたもんだわ、せめて現役時代に少しでもそんな他人を敬う気遣いをしてくれれば、私も苦労せずに済んだはずだったんだけどね」
「……チッ……」
……あぁ、なるほど、そういう事か。父さんがなぜあれほど翔太のレース結果に激怒していたのか理由がわかった。父さんにとって翔太はいわば直弟子、先生と生徒の関係。その翔太がレースで不甲斐ない結果を残すという事は、それは師匠である父さんの指導力に原因があると言われても仕方がない。
つまり、もし翔太が母さんとの契約条件をクリア出来なかったとしたら、これは父さんが母さんに対して敗北を期す事と同じ。常にお互いを意識して小さな事柄でも争い合う二人の関係からすれば、これは父さんにとって最大の屈辱。この現状が面白く無いのは当然の事だろう。
「やっぱり翔太には今の内からこちらに呼び寄せて、有能なコーチスタッフの元で海外の舞台を経験させた方がライダーとして大成するんじゃないかしら? 下手クソでいい加減な指導でせっかくの才能を潰されて、こちらの仕事にまで悪影響を齎されたらたまったもんじゃないわ、こんな外道と地獄に道連れにされるなんてまっぴら御免だものね」
「……黙っておけばベラベラベラベラ好き勝手言いやがって、下手クソだぁ? いい加減だぁ? 挙げ句には外道だぁ? 偉そうにしやがって、てめぇは何様のつもりだゴラァ!?」
「この計画の一番偉い最高責任者様ですが何か? この現状を打開する最良の方法を述べたまでだけど、何か問題でも?」
あー、マズい。絶対的有利なこの状況に気を良くしたのか、母さんの鋭い氷の矛先はついに接触してはならない最大の宿敵へと向けられてしまった。核ミサイルの目標到達点をセットし、後は赤いボタンを押すだけの二大国家。恐怖の臨界点突破、世界壊滅までのカウントダウンが開始された。
人類は歴史に残る重大な決断を迫られる時、その答えはいつも二つに絞られる。イエスかノーか。白か黒か。全てを自分の思い通りに塗り潰さないと気が済まない父さんが黒ならば、人の都合や理念や人格すらも容赦なく無視して消し去ってしまう母さんは白。
白と黒、光と影、右と左、北と南、そして生と死。決して交わる事の無い対立する二つの対局がぶつかり合う時、時空の法則は乱れこの世は終末を迎える事だろう。神よ、我々人類は滅びるしかないのでしょうか。この世界は終わりを迎えるしか道は残されていないのでしょうか……。
……って、だから何なのよこの訳わかんないぶっ飛びトンデモ解説は!? こんなしょうもない事を言わせる暇あったら、私達を早く避難させてよバカ筆者! もう無理、ここにいたら絶対巻き沿いになる! こうなっちゃったら逃げるが勝ち!!
「……父さん、母さん、もういいかな? 翔太も十二分にどっぷり反省してるし、来週の本戦で巻き返せばいい訳だし、ねっ?」
「俺からはもう特に言う事は何も無ぇ、しかし翔太! 次からは俺が現場に復帰するからな、またナメた走りしたらタダじゃ済まさねぇぞ!!」
「ちなみに、来週は私も現地へ視察に行かせて貰う予定よ、よろしくね」
「……チッ、視察視察視察っていちいちうっぜぇな、橋本ちゃんも竹田も誰も歓迎してねぇから来んなっつぅんだよ、空気読みやがれこの陰険ニガ虫女が……」
「……何ですって? 今、何か言った?」
……はいはいはいはい、もう後はお二人で仲良く夫婦水入らずの時間をお過ごし下さいませ! あーあ、翔太ったら二人に精神を粉々に破壊されて鼻水もよだれも全開で完全に白目剥いちゃってる。ちゃんと元に戻るかなぁ、どうしよう?
「あっ、そうだわ那奈、ちょっと待ちなさい」
「……えっ、私?」
茫然自失の翔太の手を引いて地獄のリビングから脱出しようと扉のノブに手をかけた瞬間、またも女王様からのお呼びの声。今後の餌食は私!? もうやめて! 私達のヒットポイントはとっくにゼロよ!? 渡瀬家の悪夢の宴はまだまだ続く! いや、出来る事なら続かないで欲しい、次回が怖いよー!!