第6話 メインストリートに行こう
ミ〜ンミンミンミンミ〜ン
夏本番。大きな白い雲が浮かぶ真っ青な空に、けたたましくセミの鳴き声が響きわたっている。
「み〜んみんみんみんみ〜ん」
「翼ウザい、いちいち真似するなっつーの」
「いやぁ、しかしあれやねぇ、那奈はんに千夏はん、今年の暑は夏いねぇ」
「今年の夏は暑い、でしょ? 日本語変よ?」
「確かにそうとも言うなぁ」
夏休みに入って八月上旬、私達の学校はこの時期だけ高校部校舎の一部がオープンキャンパスとなり、一般の人でも自由に出入りが出来るようになる。
以前に麻美子が侵入に失敗した例の音楽室へも行けるようなので、今日は小夜の家で待ち合わせてみんなで学校へ行く予定だ。
小夜の家は私の家の近所にある。私と翼は小さい頃に何度も小夜の家へ行っているので場所は良く知っているが、千夏は初めてで道に迷うかも知れないので私と翼は千夏を最寄りの駅まで迎えに行った。
「那奈の住んでる街って正にベッドタウンって感じね〜、どちらかっていうとマンションよりも一戸建ての方が多いのねぇ」
「そうだね、まだ歴史が浅い街だからね、多分、これからバンバン建設していくんじゃない?」
「そういえばウチらってまだ千夏の家行った事ないなぁ、学校出資者の家ってのは一体どんな感じやねん?」
「え〜、ただの三十階建て高層マンションの最上階なだけよ〜?」
「……やっぱりセレブリティやなぁ、オイ」
翼が言った通り、千夏の私服はセレブっぽいとても中学生とは思えない程オシャレでセクシーなものだ。
ファッションセンスは勿論、余程自分のボディスタイルに自信がないと着れないだろう。
とてもじゃないが私はこんな服はお金を貰ったってお断りだ。
「でも、そんな千夏でも呆れるわよ、小夜の家には」
広いバス通りから路地を曲がって歩いていくと、イヤでも目に入ってくる永遠に続いていきそうな長い仕切り壁と巨大な玄関門。
「……What……?」
「……どうや? 言うとくけどここは皇居とちゃうで?」
小夜の家は常識的には考えられない程広く立派な豪邸である。
大きな鉄製の門の奥には、何かスポーツ競技でも開催出来そうなくらいに広い庭。
庭の中には観賞用の大きな水場と全季節対応の温水プール。
そしてそこの真ん中に建っている広くて一面ガラス張りの綺麗でお洒落な家。
「……Oh,my God,Unbelievable……」
「……どや、千夏? 何かミサイル基地でもありそうな感じやろ?」
『ピンポーン』
自分よりもワンランク上のセレブ豪邸を見て呆気に取られている千夏を後目に、私は真中邸のインターホンを押した。
「はーい、もしもし? どなた様ですかー?」
「……あのさ小夜、電話かけてる訳じゃないんだからさ……」
「あー! 那奈だ! 今行くねー!」
小夜はそう答えると一方的にインターホンをブツッと切った。
『ピンポーン』
「はい、もしもし……」
「オートロック開けなさい! 中に入れないでしょ!」
「あっ、忘れてた、エヘヘッ!」
ガシャと門の鍵が開いた。毎回毎回開けるのを忘れてインターホンを切ってしまう。マイペースもいいとこだ、全く……。
私達は立派な玄関の門を通って庭を抜けて家の前で小夜が出て来るのを待った。
この場所からでも庭中に取り付けられた何台もの防犯カメラを確認する事が出来る。セキュリティーも万全で正に要塞だ。
「……この家を建てるのに一体いくらかかったのかしら……」
「千夏、知っとるか? こんなバカでかい家にほとんど毎日2人暮らしやで、真中家って」
「えっー! ウソー! たった二人でこの広さ!?」
小夜の父親の真中啓介さんはギタリストとして芸能界にデビューし、その後音楽プロデューサーとして大成功して、毎年長者番付に名前が載る程の大富豪である。
世界中を相手にした仕事の関係で非常に多忙な人で、私の母と同様に一年のほとんどを海外で過ごしており、日本に帰ってくる事が少ない。
その為、この家に住んでいるのは小夜と母親のあづみさんの二人だけなのだ。
啓介さんだけではなく、あづみさんも小夜を産む前は歌手として芸能界で活躍していた『歌姫』で、その二人から生まれた小夜は音楽一家のサラブレッドな訳だ。
「……サラブレッドのハズなんやけどなぁ、何でやろ?」
「……そうよねぇ、リコーダーすらもまともに吹けないし……」
私と翼が小夜の思い出話をしていると、玄関の扉がガチャっと開いて家の中から小夜と麻美子が元気良く飛び出してきた。玄関の奥にはあづみさんの姿もあった。
「みんな、おはよー!」
「おはようございます!」
「あれ、麻美子じゃな〜い? 先に来てたのぉ?」
「うん、昨日、小夜ちゃんの家にお泊まりさせてもらったから……」
今や麻美子は真中家の常連だ。何にも知らなかったのは千夏だけだった様だ。
「最近は私よりも麻美子の方が真中家に立ち入ってる数が多いわよ」
「麻美子ももうすっかり小夜のお気に入りやなぁ」
「エヘッ、だって麻美ちゃんはお友達だもん!」
みんなとしばらく喋っていたら、玄関の奥にいたあづみさんも外に出て来た。
「あら〜、皆さんいらっしゃ〜い」
「あっ、おはようございます、あづみさん」
「………………」
「……那奈です」
「あ〜、那奈ちゃんね〜、おはよ〜、いつも小夜と遊んでくれてありがとうね〜」
「……小夜のオカン、相変わらずなんか抜けとるなぁ……」
小夜の天然も相当だが、このあづみさん空気もハンパではない。あっという間に周りの時間が超スローモーションになる。
「初めまして、三島千夏です、いつも小夜さんと仲良くさせていただいてます」
「あら〜、あなたが千夏ちゃんね〜、初めまして〜、松本さんのところの娘さんよね〜?」
「……いやいやいや、それは千夏やなくてウチの事やから……」
「これからも小夜と仲良くしてあげてね〜、千夏ちゃん」
「……は、はぁ……」
「……話、全然聞いてへんしな……」
もうゴチャゴチャだ。翼と千夏は体中の力抜けたみたいにガックリ肩を落とした。
「じゃあ、行ってくるね、お母さん!」
「は〜い、行ってらっしゃ〜い小夜ちゃ〜ん、夕方にはちゃんと帰ってくるのよ〜」
「……いろいろとご馳走になって、ありがとうございました! お邪魔しました!」
「いいのよ〜麻美ちゃ〜ん、また遊びにいらっしゃ〜い?」
「じゃあ、夕方には小夜を連れて帰ってきますから」
「………………」
「……那奈です」
「那奈ちゃ〜ん、小夜をよろしくね〜」
「……はい……」
あづみさんの雰囲気にはいつも脱力させられる。話を聞いているのかいないのか、アタマの中が全然想像出来ない。この親あってこの子あり、とはこの親子の事を言うのだろう。
「……一ヶ月も会わないと名前すら忘れられちゃうからね……」
「あの調子やと、多分ウチと千夏の区別ついてへんで、絶対」
「……そうみたいね、アタシと翼はアウトね、でも、麻美は覚えてもらったみたいじゃない?」
「……名前覚えてもらうのに三日間かかりました……」
「あっという間に忘れるから気をつけてね、十四年面識ある私すら忘れられたんだから」
この緊張感の無さは遺伝なのだろうか。しかし、妹のいづみさんはしっかり者だから、やはり育った環境によって変わるのかな。
「ねーねーねー、みんな今日はどこ遊びに行くー?」
「学校に行くってさっき話したでしょうが! 全く、言ってるそばから……」
私服で通学路を歩いて行くのは意外と新鮮な気分で、いつもと同じ景色なのに暑い中歩いていてもあまり苦にならない。
途中でコンビニに寄って、みんなとアイスを食べながら歩いていたらあっという間に学校が見えてきた。
「学校が見えたー! 着いた着いたー!」
先に学校に向かって走り出した小夜を追って、私達は学校の校門に着いた。
「へぇ〜、結構人いるじゃ〜ん!」
千夏が言った通り、広い校庭には学生以外にもたくさんの一般客が見学に来ていた。
「毎年人気あるみたいですよ、入学予定の人とか、卒業者の人とか、家族連れで来る人もいるみたいです」
「まぁ入るだけらなタダやしな、暇つぶしにはもってこいやな」
最近は麻美子も小夜だけではなく私達とも結構普通に喋る様になった。翼と小さい同士で歩きながら喋っているが、やはり翼の方が背が低い。
「何かこうやってスンナリ高等部に入れちゃうと、この前の騒動が何だったんだろうと思えちゃうね」
「無茶せんでもこんな簡単に入れてたのになぁ、那奈?」
「……すいません……」
申し訳なさそうに体を縮める麻美子の後ろに回りこんだ小夜が、両肩を掴んで急かす様に麻美子を押して走った。
「麻美ちゃん、やっとピアノ弾けるね! ねーねー、早く行こうよー!」
「……ちょ、ちょっと待ってよ小夜ちゃん! 無理やり押さないでよ〜!」
「小夜、走んないの! また転ぶよ!」
「急がなくてもピアノは逃げないのにねぇ〜?」
「ムチャクチャ暑いのにホンマ元気やなぁアイツは……」
オープンキャンパスに合わせて校舎内では色々なイベントがあり、高等部の先輩達が忙しそうに動き回っている。他の学校で言えば一足早い文化祭みたいなものだろうか。
「でも、これとは別に秋にちゃんとした文化祭があるみたいですね」
「今回のは主に部活動中心の出し物なんやろな」
今の翼と麻美子の話にも出て来たこの学校の部活動は、体育会系や文化系全部含めるとかなりの数と種類があり、まるで大学のサークルのような感じだ。
「私達も進学したら参加する事になるんだろうね」
「うわぁ〜、何か楽しそぅ〜! 早く高校生になりた〜い!」
校舎内に入って廊下を歩いていくと、教室の中に文化系部を中心として活動している出し物やお店、部活動紹介ブースがたくさんあった。
色々と教室を見学しながら歩いて行くと、私達のお目当ての音楽室が前方に見えてきた。
「あっー! 麻美ちゃん、音楽室あったよー!」
「……本当だ、何かドキドキしてきちゃった……」
「さぁ、麻美子! 憧れのグランドピアノとのご対面ね!」
「でもアレやな、千夏、これで入り口カギ閉まっとったら大笑いやな」
「えっ〜?」
「コラ翼! いちいち嫌な事を言うなっつーの!」
駆け足で音楽室に向かった小夜が、入り口の扉を開くかどうか慎重に確かめた。
ガラガラッ!
「あっ、大丈夫だよ! ドア開くよ! さぁ麻美ちゃん、どうぞどうぞ!」
「……ドキドキ、それじゃあ、失礼します……」
音楽室に入ると、まず広さが中等部のものと全然違う事に気がついた。中等部の音楽室の二倍近くあるだろうか。
「……うわぁ……」
「すごーい! おっきなピアノー!」
目的のグランドピアノは音楽室の隅に置いてあった。確かに中等部の電子ピアノとは比べ物にならない立派なもので、発表会やオーケストラなどで見かけるあのピアノだ。
「……うわぁ、やっぱりスゴいなぁ……」
麻美子は周りをグルグル回りながらピアノを見つめていた。その瞳は眼鏡のレンズ越しからでもわかる程キラキラと輝いていた。
「ウチらの他には誰もおらんみたいやなぁ、音楽系の出し物はやってへんのかなぁ?」
「でも扉が開いてるんだから、別に入っちゃっても問題ないんじゃないの?」
「誰もいないんだから、思いっきり好きなだけ弾いちゃったら? 何かあったらアタシのママに助けて貰えばいいじゃない?」
「そーだよ、麻美ちゃん! ピアノガンガン弾いちゃおうよ!」
「……本当に、いいんですか? 何か、怒られたりしないですよね……?」
とりあえず夏休み中なんだから先生達が見張っている事も無いだろう。もし本当に何かあったら千夏のママにお願いすればいいか。
「アタシ達が観客ね! セレブの耳は手強いわよ! ゆっくり聞かせて貰おうっと!」
「よっ、今日の主役! 待ってました! これで演奏グダグダやったら入場料返してもらうで〜!」
「質の悪い観客達だねぇ、全く、麻美子、私達なんか気にしないで好きな曲弾きなよ」
「あたし、麻美ちゃんの演奏、家で聞いた事あるもん! スッゴい上手だよ! みんなビックリするよー!」
「ほぉ、小夜のヤツ何気にハードル上げよったなぁ、こりゃ楽しみだわ、ウヒヒッ」
「はいはいはい、黙りなさいアンタ達! 麻美子が演奏出来ないでしょ!」
オーケストラよりやかましい不協和音のお喋りをやめて、真面目に演奏を聴く為に私達は椅子に座って背筋を伸ばした。
「それじゃ、あの、私が良く弾く曲で、その、みんなも知ってるかも知れない有名な曲を……」
ちょっと緊張で動きが固い麻美は椅子に腰を下ろしピアノの鍵盤の蓋を上げ、深呼吸をしてゆっくりと白い鍵盤に両手を置いた。
(……麻美子、何かスゴい雰囲気かあるな……)
私がそう思った時、麻美子の演奏が始まった。その演奏の腕前は半端なものでは無かった。
広い音楽室に響き渡る綺麗なピアノの音色。うっとりと聴き惚れてしまう優しいメロディー。
私達音楽素人が聴いても麻美子の演奏は常人のレベルを軽く超えたものだった。
(……何よこれ、スゴくない……?)
私を始め、ここにいる全員がピアノの音色に没頭していた。時間の流れを忘れてしまったと言っても言い過ぎでは無かった。
音楽空間の脳内旅行。私達が我に返った頃には麻美の演奏はすでに終わっていた。
「……こ、こんな感じですけど、どうですか……」
「麻美ちゃんスゴーい! スゴく上手だったよー!」
「あー、緊張したー! 上手く弾けて良かった! やっぱりピアノの音、綺麗で素敵ですね! 何か夢見たい……」
私達は呆気にとられてボッーっとしていた。一体何が起こったのか全く理解出来なかった。
「……確かに、どこかで聴いた事のある曲だったけどねぇ?」
「……こんなん、普通に弾けんやろ? しかも楽譜とか無しでやで?」
「……麻美子、アンタ本当にピアノとか他の音楽とか習ってないの?」
小夜を除いた私達三人はこの現実をまともに受け止める事が出来なかった。
何かトリックがあるか、もしくは麻美子が嘘をついているか、とにかく疑う事しか出来なかった。
「……えっ?あっ、はい、音楽教室とかに習いに行った事は一度も無いです……」
「……本当に?」
「……あっ、でもこの前、小夜ちゃんの家でちょっとだけ弾かせて貰って、その時に少し小夜ちゃんのお母さんに教えて貰った事はあります……」
確かに小夜の家にはピアノでは無いがオルガンの様な楽器がリビングに置いてある。小さい頃よくあづみさんがそれで曲を弾いてくれた。
「……ねぇ、ちなみに今のって何て曲なのぉ?」
「……ショパンの曲です、私、大好きな曲で……」
「……名前言われてもサッパリわからん、何や、ショパンて?」
私達が顔が揃えて首を捻っていると、小夜が突然立ち上がってリクエストをした。
「ねーねーねー、麻美ちゃん! この前弾いてくれたやつやってよー! あのスゴいヤツ!」
「……じゃ、じゃあ、もう一曲弾いていいですか? またショパンなんですけど……」
「……名前言われてもわかんないから何でもいいよ、ショパンだかル○ンが知らないけど」
「……そ、それじゃあ、弾かせて貰います……」
再び麻美子は鍵盤に手を置いた。次の瞬間、私達のアタマの中は真っ白になった。
テレビとかで聞いた事のある有名な曲。しかしその曲がハンパなく難しそうな事は聞くだけで想像出来る。
序盤からいきなり始まる早いメロディーに私達は聴覚以外の五感を奪われてしまい、まるで何か幻想を見せられている感じだった。
「……あ、あの、こんな感じですけど……」
「わー! 麻美ちゃんスゴーい! スゴいよー!」
小夜の大きな声に私は現実に引き戻された。気がつくと演奏はすでに終わってしまっていた。
「………………」
私達三人は無言のまま再び顔を見合わせた。何が何だかさっぱりわからない。
「……麻美子、アンタさぁ、一体何者?」
「……えっ? な、何ですか那奈さん?」
「……よくわからんけど、尋常で無いのは確かやわ」
「……つ、翼さん?」
「……何かウソついてない? あるいは隠し事とか」
「……千夏さんまで、そんな……」
麻美子は背中を丸めてうつむいてしまった。本当に気の弱い娘だ。
「別に怒ってる訳じゃないよ、ただね、習ってもないのにここまで弾けるなんて一体どうしたら……」
「……絶対音感だよ」
「……!?」
男性の声がした。音楽室の扉の方を見ると、いつの間にか眼鏡を掛けた男性が一人立っていた。
「……誰?」
「……井上さん?」
井上さん?どうやら麻美子はこの男性の事を知っているみたいだ。
「こんな所まで押しかけてすまないね、お家に電話してみたら、こちらの学校に来ているって聞いてね」
謎の男性が現れて、私達の周りの空気は一瞬固まった。その男性はゆっくりと私達の元に歩み寄ってきた。
「久し振りだね、小夜ちゃん、元気そうだね」
「……ほぇ? 誰?」
「……あれ? 忘れちゃったかな? まぁ、しょうがないかな、最後に会ったのはずいぶん前の話だしね」
……小夜の事も知ってるって、一体誰? 少なくとも私にはこの男性に覚えが無い。
「僕は決して怪しい者ではないよ、あっ、そうそう、自己紹介が遅れてすまない、僕はこういう者だ」
そう言うと男性は上着の内ポケットから一枚の名刺を取り出して私に渡した。
「……サンライズ・ファクトリー、チーフディレクター、井上和彦……」
『サンライズ・ファクトリー』、その名前を聞いて私はピンときた。
「えっ! サンライズ・ファクトリーってあの有名な音楽事務所じゃない!」
「……なるほどなぁ、そういう事かいな」
「えっ、何? どういう事?」
千夏はわからないみたいだが、それはまぁしょうがないだろう。しかし私と翼は昔から良く知ってる名前だ。
「……あの、井上さん、今日は……?」
「……この前会った時の事を『マスター』に話してね、とても君に興味を持ったらしいんだ、是非一度、自分の目と耳で直接確認したくなったらしくてね、多忙なスケジュールの中、わざわざ時間を割いて……」
「……別にわざわざではない」
「あー! この声!」
小夜が聞こえてきた声に反応した時、開いている扉からまた一人男性が教室に入ってきた。
背が高く細身の体に、夏なのに黒尽くめのコートにレザーパンツ、そしてサングラス。久し振りに見る姿だが、私はすぐにそれが誰だかわかった。
「やっぱりそうだー! おとーさんだー!」
「えっ? 小夜のパパって事はつまり……」
私達の前に現れた男性。それは小夜の父親であり、国内のみならず世界の音楽界でも活躍しているサングラス・ファクトリー創始者、真中啓介だった。
「ワーイ! おとーさんだおとーさんだ!!」
小夜は飛び出す様に駆け寄り、そのまま父親にギュッと抱きついた。
「おとーさん、お帰りなさい!」
「……あぁ、ただいま、小夜、元気だったか?」
「ねーねーねー、おとーさん! いつ日本に帰ってきたのー? 電話無かったからわかんなかったよー!」
久し振りの父娘の再会。しかしそれが許される時間は限られてるようだ。
「……すまない、小夜、長くは居られないんだ、すぐにまた戻らなければならない」
「えー!? ヤダヤダヤダ! お家に一緒に帰ろうよー! お母さんも待ってるよー!?」
「……すまない、小夜、お友達と少し話しをさせてくれるか?」
「ヤダヤダヤダヤダー!!」
「……小夜、こっちにおいで」
「……うー」
私は嫌がる小夜を何とか啓介さんから引き離した。小夜から解放された啓介さんはピアノの前にいる麻美子の元へ歩いていった。
「……初めまして、真中啓介です」
「……は、はい! え、遠藤麻美子です……」
麻美子は緊張のせいか案山子の様にピーンと真っ直ぐになって直立していた。
「……話は井上から大体聞いている、しかし、私の予想以上の才能の持ち主の様だ」
「……えっ、そ、そうですか……?」
「……君は絶対音感という言葉を知っているかな?」
「……はい」
「……絶対音感って何かどっかで聞いた事あるなぁ、何やっけ?」
翼が額を指でカリカリかきながら何か思い出そうとしていた。絶対音楽、私も何か聞き覚えがある。
「絶対音感とは、簡単に言えば音を聴くだけでその音の音階がわかる能力の事だよ、誰もか持てる能力ではない、君が楽譜も無しにショパンを弾いてみせたのは、曲を聴いてその能力で音程を覚えたからだろう」
「……で、なければ先程の演奏は説明が出来ない、井上から聞いた通り、君は絶対音感を持っているみたいだな、自覚はあったのか?」
「……あの、その、うっすらとですけど、ありました……」
井上という人も会話に加わって、麻美子の才能の話をしている。私達には全然わからない内容だ。
「……どんな事でその能力に気付いた?」
「……小さい頃からテレビから聴こえる音とか、学校のチャイムやケータイのメロディーとかの音が音階で聴こえる様になって……」
「……ほぅ」
「……最初、私は何か耳の病気なのかなって思ってました、でも、今度は人が喋ってる声まで音階で聴こえてきて、怖くなってあまり人と喋れなくなって……」
麻美子と啓介さんの話を聞いてわかった。なぜ麻美子が引っ込み思案な性格になってしまったのか。そんな話があったなんて全然知らなかった。
「辛い事を聞くようだけど、君の前の、いや、実のお父さんは国内では有名な音楽家だったそうだね」
「……はい、そうです」
井上さんの言葉に私達は驚いた。実の父親? どういう事なんだろう。確か麻美子には今もちゃんと父親がいると聞いていたのだが。
「……父親の仕事の影響で小さい頃から音楽に慣れ親しんでいた訳か、なるほどな、井上、よく調べたな」
「ええ、仕事ですから」
「……でも、お父さん、私が八才の時、病気で死んじゃって……」
音楽室の中の空気が凍りついた。麻美子はとても悲しそうな顔をして辛い過去を話し始めた。
「……お父さん、家にいる時はいつも私と一緒にピアノを弾いてくれました、私が音の聴こえ方が人と違うのも理解してくれてました……」
「お父さんはわかっていたのかも知れないね、君の才能を……」
「……辛い記憶を思い出させてしまってすまない」
「……いえ……」
啓介さんはかけていたサングラスを取ってコートの胸ポケットにしまった。
「……時間が無いので本題に入る、遠藤麻美子、君はこれからも音楽を続けていく気はあるか?」
「……えっ? ど、どういう事ですか?」
「……ピアノでも歌でも何でも良い、もし、音楽を続けていく気があるのなら、是非とも我々に手伝わせて欲しい」
予想もしてない突然の話に、麻美子本人はおろか話を聞いていた私達も目を丸くして驚いた。
「えー? おとーさん達の会社に麻美ちゃんが入るのー?」
「簡単に言えばそういう事だね、我々の事務所と契約をして欲しいって事だよ」
社長の娘のくせに話を全くつかめていない小夜に井上さんは優しく説明してくれた。
「……君は未成年でまだ学生だ、君だけではなくて、君の御両親ともお話をしなければならない事だが、君自身の気持ちが知りたかった、本当に、音楽を愛しているのかどうかを……」
「………………」
麻美子は黙り込んでしまった。あまりに突然の話で困惑しているのだろう。
「……すぐに答えなくて良い、もしすこしでも音楽に興味があるなら、ここにいる井上に話してくれ」
そう言うと啓介さんは音楽室にある時計をチラリと見た。
「マスター、時間ですか?」
「……あぁ、すまない、井上、後を頼む」
「わかりました、後はお任せ下さい」
「えー! おとーさん、もう行っちゃうの!?」
二人の会話の内容を聞いた小夜は啓介さんを引き留める様に抱きついた。
「……小夜、すまない、今度帰ってくる時は必ず連絡する」
「じゃあ途中まで一緒に行くー! おとーさんともっとお喋りしたいもん!!」
「小夜ちゃん、お父さん時間が無いんだ、話してあげてくれないか?」
「ヤダー! ヤダヤダヤダー!!」
井上さんの説得も聞かず、小夜は啓介さんの体に顔を擦り付けた。
「……小夜、お母さんに宜しく伝えてくれ」
啓介さんは小夜の頭を撫でると私と翼の方を振り向いた。
「……那奈、翼、お前達の父親は元気か?」
「はい、御陰様で年甲斐もなく馬鹿ばっかりやってます」
「オトンもすっかり回復したで! もうピンピンしとるわ!」
「……そうか、良かった、二人に宜しく伝えてくれ」
啓介さんはしがみついている小夜を名残惜しそうに引き離して再び頭を撫でた。
「……小夜、必ずまた帰ってくるから、いい子にするんだぞ」
「……うん……」
「……それでは失礼する」
啓介さんは振り向く事なく音楽室を出て行った。相変わらず忙しい人だ。
「……小夜、お父さんと会えただけでもいいじゃない? 元気出しなよ?」
「……うー」
半ベソをかいている小夜を私はギュッと抱きしめた。
「……ここからは僕が説明しよう」
残った井上さんは啓介さんが行っているアーティスト育成のプロジェクトを私達に説明してくれた。
幼い頃から音楽に親しむ事で才能を開花させ、その後、英才教育によりレベルの高いアーティストを誕生させて世界に送り出していく。
すでに何人かの有能なアーティストの卵が育っているらしいが、その人達と比べでも麻美子の才能は勝るとも劣らない物らしい。
「プロジェクト参加にはすでに年齢制限を越えてしまっているが、君の今の才能でも十分に通用するだろう」
「……何が何だか全然わかんないんだけど、つまりこれってスカウトかしら?」
さすがは芸能界にも興味津々の千夏。ミーハー心に火が点いたらしく、井上さんに質問をぶつけ始めた。
「そうだね、簡単に言えばそういう事かな」
「えっ〜! 麻美子スゴいじゃ〜ん! スカウトだよスカウト! プロデビューとかしちゃうかも知れないよ!」
「………………」
「……麻美子?」
興奮しまくる千夏とは対照的に、麻美子の表情は曇っていた。
「……どうやらこの前と気持ちは変わっていないみたいだね……」
「……はい……」
「えっ、何で? 麻美子、イヤなの? 亡くなったお父さんみたいに音楽家になれるかも知れないのに〜?」
興奮で見境無くなった千夏が見事な失言で麻美子の古傷に触れた。これだからセレブってヤツは……。
「……お父さんが死んじゃった後、お母さん別の人と再婚したんです、小さい診療所をしているお医者さんで、すごく優しい人なんですけど……」
父親がいるって言っていたのは母親の再婚相手の事だったようだ。
「……いつも患者さんがいっぱいいて忙しくて、お母さんも看護婦をして手伝ってるけどそれでも人手か足らなくて……」
麻美子はピアノの鍵盤を撫でながら話を続けた。
「……私、お仕事手伝えないから、せめてお母さんに迷惑かけない様にしたくて、ピアノ弾きたいなんてとても言えなくて……」
「………………」
私達は麻美子の事情を聞いていて胸が痛くなった。麻美子なりに親孝行がしたかったのだろう。
「……家で電子ピアノ弾く時も、イヤホンして弾くんです、患者さんに迷惑だし、お母さんも死んだお父さん思い出してしまうかも知れないし、そしたら今のお父さんも嫌な思いをするんじゃないかって……」
しかし親孝行ってそういうものだろうか。何か違う気がする。
「そんな、考え過ぎよ麻美子!」
「オトンとオカンにはちゃんと話ししたんか? 反対されてる訳や無いんやろ?」
「麻美子、アンタ自身はどうしたいの? ピアノ、続けたいの?」
「……それは……」
自分が本当にやりたいのならそれを諦めてしまってはいけない。自分が求める道を進んでいくのが本当の親孝行だと私は思った。
「ピアノ弾くの好きなんでしょ? 音楽好きなんでしょ? だからこの音楽室に来てピアノ弾きたかったんでしょ?」
「………………」
私は必死に麻美子を説得した。しかし、麻美子から返事が返ってくる事は無かった。
「……先程『マスター』が行った通り、返事はいつでも構わない、君の気持ちが固まった時に話をしてくれればいいから」
そう言うと井上さんは上着のポケットから名刺を出してペンで何かを書き始めた。
「僕のスタジオの住所と電話番号を教えておこう、何か聞きたい事があったらここに連絡してくれ、もちろん、遊びに来るだけでも結構だ、君の大好きなグランドピアノもあるしね」
「えっ! じゃあピアノを弾く為だけでも行っていいの!?」
沈み込んでいた空気を吹き飛ばす様に、小夜が話に反応した。
「ん? うん、まぁ構わないよ?」
「やったー! 麻美ちゃんやったね! これからはいつでもピアノ弾けるよ! もう音楽室に忍び込まなくてもいいんだよー!」
「……えっ? さ、小夜ちゃん、私、まだ……」
「ねーねーねー、井上さんだっけ? 別におとーさんの会社に入んなくったって、ピアノ弾きに行くだけでもいいんだよね? 遊びに行くだけでもいいんだよね?」
「……ま、まあね……」
「麻美ちゃん、大丈夫だよ! おとーさんの仕事の話は抜きにして、ピアノだけ弾きに行こうよ!」
「……は、はぁ、いいんですかね……?」
小夜の勢いに麻美子も井上さんもタジタジになっていた。まぁ、井上さんからしたら相手は社長令嬢だから文句は言えないだろうけど。
「つーか小夜、オマエん家ピアノ無かったっけ? オトン持ってへんのかい?」
「えーとね、あるんだけどー、あたしが小さい頃おとーさんのスタジオで遊んでたら、楽器いっぱい壊しちゃって……」
「……それから、関係者以外スタジオ出入り禁止になったのよね、総額一千万円がパァになったそうよ」
「そうでーす! エヘッ」
「……色んな意味で凄い御令嬢だね、僕のスタジオは大丈夫かな……?」
井上さんは私達に名刺を残して教室から出て行った。色々なサプライズが重なって、何か嵐が過ぎ去った後の様だ。
「何か、スゴい事になってきたね」
「小夜のオトンも相変わらずやな」
私と翼が笑いながら喋っていると、千夏が羨ましそうな顔をして問い詰めてきた。
「ねぇねぇ、二人とも真中啓介の知り合いなの?」
「おぅ、まぁな〜」
「お父さんが、ね」
「えっ〜、いいなぁ〜、あっ、しまった! サイン貰えば良かった!あ〜ん、失敗!」
千夏は悔しそうにじたんだを踏んだ。
「ホンマにミーハーやなぁ、千夏は」
「まぁ、どこかでまた会えるかもよ」
音楽室の窓から見える空は真っ赤に暮れていた。私達は学校を出て朝来た道を戻ってそれぞれの家に向かった。
「良かったね麻美ちゃん! これでいつでもピアノが弾けるね!」
「……いいのかなぁ? ピアノ弾くだけで伺っちゃったりして……」
「いいのいいの! もしそれで意地悪な事言ってきたら、あたしがおとーさんを怒ってあげる!」
頼もしい社長令嬢だこと。しかし前科があるので何か心配だ。
「……小夜、向こうのスタジオでも楽器壊さないでよ?」
「エヘヘッ、大丈夫!」
「どうだかねぇ、この前だって学校でチャンバラごっこやってリコーダー壊したじゃない?」
「小夜には絶対音楽センスは無いわ、真中家も可哀想やなぁ?」
「ねぇねぇ、小夜! 今度小夜のパパのサイン貰ってきてよ! もしくは所属してるアーティストのでもいいわよ!」
「じゃあ、麻実ちゃんのサインでいい? 麻実ちゃん、今の内にサインの練習しとこーよ!」
「……だ、だから私はまだ決めてないですから! サインとか絶対無理です〜!」
小夜に追い回されて、麻美子は必死になって逃げ回っていた。
夕暮れに吹くそよ風は、何か綺麗な音を奏でる楽器の音色の様に私達の耳元を通り過ぎていった。