第55話 HANABI
空一面を黒く澱んだ雲が真っ暗な荒れた海の中へ、ウチらを乗せた波子さんの漁船は熱海に向かって石廊崎の港を出発した。傘をさしても意味の無いぐらい強い豪雨の中、ウチらを心配してくれとる歩美さんや港の漁師さん達は停泊場から船の姿が見えなくなるまで大声を出して見送ってくれた。
「絶対に無事に熱海に行くんだんだぞー! 着いたら無線で連絡しろよー!!」
「翼ちゃーん! 岬ちゃーん! みんなー! 今度は新ちゃんと一緒にここに遊びに来てねー!? 約束よー!? 波子ー! 絶対に無事に翼ちゃん達を送り届けて帰ってくるのよー!? 絶対よ、約束だからねー!!」
港の人達、みんなええ人ばかりやったなぁ。あの人達の助けがなかったらウチが今大事に抱えてるオトンの宝物のユニフォームを見つける事は出来んかったもんな。ホンマに、みんなおおきに!
そして歩美さん、ホンマに優しくて、暖かくて、強い女の人やったなぁ。オトンがホンマのお姉さんみたいに慕ってる理由が良くわかったわ。ウチにとっても歩美さんはもう一人のオカンの様な存在、ホンマにおおきに!
今度ここに来る時は元気になったオトンを連れて来るさかいに。絶対、絶対にまた来るからな! その時は、今度はウチがみんなの手助けをして恩返しするんや! ホンマにみんな、ええ思い出をいっぱいいっぱいありがとな〜!
「……っても、全部無事に家まで帰れたらの話やけどなぁ〜!?」
オカンの事故スレスレの危険なドライビングテクニックに耐えてきたんやから荒海ぐらい楽勝やろ? なんて軽い気持ちに船に乗り込んだらこれがもうメチャクチャや! 船ごと波に揺すられて立っている事はおろか、まともに前を向いている事すら全然出来へん! 運転室の端っこにみんなで丸まって手すりにしがみついていても、横の出入り口からジャンジャン海の水が入り込んでくる! 遊園地の絶叫マシンの百倍以上怖いわー!!
「アカ〜ン! もう船酔いとか言ってるレベルとちゃうで!? 油断したらあっちゅう間に海に投げ出されてまうがな!? さすがのウチでもこれは無理や〜!!」
「アッハハハ、もう笑うしかないや! これは死ねる、確実に死ねる! 神様、今までの自分のしたエッチな悪戯を全て懺悔します! だからどうかこの桐原薫をお助け下さいませ〜!?」
「いやぁ〜! イヤだよイヤだよ、私、こんな所でこの若さで死にたくなんてないよぉ〜!! やっぱり船なんて乗らずにおとなしく向こうで待ってれば良かった〜!! お父さ〜ん、お母さ〜ん!!」
「お前ら、ギャーギャー騒いでないでしっかり壁にしがみついてろー! 絶対に立ち上がったりするなよー、さもないと海へ降り落とされちまうからなー!?」
ウチらが恐怖のあまり床にしゃがみ込んで震え上がってんのに、波子さんはこのヒドい揺れを膝の動きで上手く吸収しながら寄れる事無く立って舵を握っていた。ハンパないバランス感覚と強い足腰や。この人がもしサッカーとか他のスポーツ選手になったらさぞかし名選手になれるやろうな、メンタル面もメチャクチャ強いし。ウチ、波子さんの運動神経がスゴく羨ましいわ〜!
「うわーい! おねータン、この船ママが運転する車よりもっと面白いよー!? グーラグラ、グーラグラ、ジェットコースターみたーい! キャハハハハー!」
……メンタル面だけ言うたら岬の根性も大したもんや。まだ小さいガキやからあまり恐怖を知らないからかもしれんけど、ウチらが真っ青な顔してんのにコイツ一人だけキャッキャッと喜んどる。もしかしたらコイツ、将来ウチよりもスゴいとんでもない大物になるかもしれんなぁ? こんな切羽詰まった状況を楽しめるなんて、ポジティブ思考もええとこやでホンマに……。
「武雄ー! レーダーの方はどうだー!?」
「あぁ、大丈夫だー! ちゃんと目的地に向かって進んでるぞー! 波子、その調子だー!!」
波子さんと武雄って言う兄ちゃんとのコンビネーションは息ぴったりで、こんなに大波に揺さぶられとる中でも冷静に舵取りをこなしていた。ウチより少し年上の若い二人なのに、その作業の確かさと早さはまるでベテランの漁師さんみたいや。やっぱり海で育った人間ってスゴいわ、カッコええな〜!
「……うわっ!!」
……な〜んてウチが二人の姿に見とれていた次の瞬間、今までのものとは遥かに違う強い波が船の側面から思いっ切り襲いかかってきた。その勢いで船は一瞬真横に近いぐらいまで傾きあわや転覆寸前になった。
「ぎゃあぁ〜! 船が沈む〜!!」
「……翼! 俺に掴まれ!」
「……薫! 離さんといて、ウチを離さんといてぇ!!」
「……転覆なんかしてたまるかぁー! あたしはみんなと約束したんだー! チビ子達を無事に届ける、絶対にお母さんの元に帰る、って約束したんだー!!」
波子さんが傾く方向とは逆に体重を載せて舵を思いっ切り体の方に引っ張ると、奇跡的に船は再び真っ直ぐ立ち上がり転覆を免れる事が出来た。しかし元に戻った時の揺れの衝撃は物凄く、ウチらは運転室の逆の壁までまとめて吹っ飛ばされてしもうた!
「……ぐへっ!!」
「……がっ!!」
その時、何かが金属の様な物に激突する鈍い音が室内に響き渡った。何や、誰かがぶつかったんか!? みんな無事かいな!?
「……か、薫、綾、岬、みんな大丈夫か〜……?」
「……薫ちゃん、翼の下敷きになっても何とか生きてま〜す……」
「……うえ〜ん、怖かったよ〜、本当に死ぬかと思った〜……」
「お船面白ーい! みータン、大きくなったら漁師さんになってみたーい!!」
……どうやらウチらはみんな無事みたいやな。せやったら、さっきの鈍い金属音は一体何や? 何か機材でも宙に飛んだんかなぁ……?
「……波子! 大丈夫か、しっかりせい!!」
武雄さんの絶叫に振り向いてみると、運転室の端で波子さんが頭を押さえてうずくまっていた。良く見ると、手で押さえとる箇所からは血が出て指の間を伝い床に落ちていた。さっきの音は波子さんが室内の機材に頭をぶつけた音やったんや!
「……波子さん、頭から血が、血が出とる!」
「……大丈夫、大丈夫だー、これくらい、あたしからしたら大した事じゃない……」
「駄目だ波子ー! 俺に舵を任せてお前は少し休めー! まずは何か布でも頭に巻いてその出血を止めるんだー!!」
「……大丈夫だって言ったら大丈夫だー! 武雄は早く船に何か損傷がないか見に行ってくれー、舵はあたしが責任持って最後まで取るー!!」
「………わ、わかった! でも、無理は絶対にするなよー!? この船に乗っているのは俺と波子だけじゃないんだからなー!?」
波子さんに促され、武雄さんは命綱をつけて運転室から外に出て先程の衝撃による船の損傷具合を確認しに行った。波子さんは出血がヒドくならない様に頭に手拭いを頭に巻いて再び立ち上がったが、その足元はフラフラとぐらつき、意識も朦朧としているみたいやった。
「……あたしは、あたしは父ちゃんみたいな強くて立派な漁師になるんだ、そしていつか、父ちゃんのいる遥かかなたの世界の海に行くんだ……!」
その時、凄まじい怒号と共に真っ黒な空に一筋の雷光が走った。雷に照らされて周りが見えた瞬間、ウチはこの船の進路が狂って陸の岩壁に向かって真っ直ぐ突き進んでいるのがハッキリと確認出来た。
「……波子さん、アカン! このまま行ったら壁に激突してしまうで!? 早よ、早よ舵を切ってや!!」
「……あたしは、あたしは負けねー、こんな荒海に、海の魔物なんかに負けてたまるかぁ……!」
「……波子さん? まさか、前が見えてへんのか!? 波子さん! しっかりしてや、波子さん!!」
……ヤバい! これはマジでアカン! 波子さん、すっかり方向感覚を失って船が岩壁向かって突き進んでる事に全然気づいてへん! もう意識もほとんど無いかもしれへん! このままやとウチら、船ごと岩壁に激突して海に沈没してしまうがな!?
「お願いや波子さん、しっかりしてや! 壁が目の前まで迫ってんねん、目を覚ましてや波子さん!!」
「……父ちゃん、今行くぞ、あたし、今から父ちゃんの海へ……!」
「波子さーん!!」
「いやぁー!!」
……ダメや、もうぶつかる。オトンごめんな。どうやらウチ、オトンとの約束守れそうにないわ。父親より早く死ぬなんて、ヒドい親不孝もんやなぁ。ホンマにごめん……。生まれて初めて死を覚悟したその時、雨でびしょ濡れになった武雄さんが慌てて運転室に駆け込んできた。
「……何しとんじゃ波子ー!!」
ふらつく波子さんを強引に舵から引き離して片手で抱きかかえると、武雄さんは船のエンジンを切って舵を思いっ切り端まで目一杯切った。それによって船の前進は止まり、何とか方向転換して激突を免れた。窓から外を見ると岩壁との距離は一メートルも無いギリギリやった。あわやあの世行きスレスレの体験に、ウチもあわやこの歳で失禁してしまう寸前やった。
「……ホンマに死ぬかと思ったわ、ふぅ……」
「……どうしよう、私、ちょっとお漏らししちゃったかも……」
「ワオ、綾ピーったらご失禁ですかぁ? い〜けないんだ、イケメンだ、フゥー!」
「……薫、顔に全然余裕が無いで……?」
何度か手こずりながらも再びエンジンをかけた武雄さんは、グッタリとうなだれる波子さんを太い腕で支えながら代わりに舵を握り鋭い目つきで前方の荒波を睨みつけた。波子さん、完全に意識が無いみたいや、大丈夫やろか!?
「……あ、あの、波子さんは……?」
「大丈夫だ、気を失ってるだけでちゃんと呼吸はしてる! 海の魔物が源さんの時みたいに波子を死の海の中に引きずり込もうとしたんだろうが、そんな事はこの俺が絶対にさせねー! 波子を源さんの二の舞にはしねーぞ、波子は俺が守るんだー! かかってこい魔物! 今度はこの俺が相手だー!!」
波子さんを守る武雄さんの後ろ姿はメチャクチャカッコよくて、正に屈強な海の男の姿やった。きっと、波子さんのオトンもこんな強くて立派な漁師さんだったんやろな。この波子さんが心から尊敬する人で、あの歩美さんが愛した人やもん、間違いないわ!
「……翼、見てみ! 外、少し波が穏やかになってきたぜ!」
「……ホンマや! あの嵐、もうここを通り過ぎでくれたみたいやな!? 勝ったんや、波子さんと武雄さんの気迫が海の魔物に勝ったんや!!」
それから後はもう船が転覆するような大きな波が襲ってくる事はなかった。船は順調に進路を進んで行き、次第に前方に熱海の町並みのネオンが見えてきた。気絶していた波子さんもうっすらながらも意識を取り戻し、何とか船は熱海の港に到着した。ウチら、何とか命拾いする事が出来たんや! ホンマに死ぬかと思った〜!!
「……武雄! 良く無事に港まで来れたなぁ! 石廊崎から連絡は受けてるぞ、今すぐ急いで船を桟橋にくくりつけてやるからな!」
「……おっちゃん、それより波子が! 早く応急手当てをしてやってくれー! あと、この子達を体を休ませる事が出来る暖かい場所に案内してやってくれー!」
「よし来た! お嬢ちゃん達、おっちゃんの後についてこい! 今すぐ暖かい飲み物を用意してやるぞ!!」
さっきよりだいぶ雨風は弱まってきたけど、まだ空には真っ黒な雲が漂い遠くでは雷がピカピカ光っとった。ウチらは駆け足でおっちゃんの後を追って港の待合室の様な暖かい部屋に駆け込み、合羽を脱いでフカフカのソファーに体を投げ出して一息ついた。こんな命懸けの大冒険、滅多に経験出来るもんやないでマジで……。
「……あー、ホンマにエラい目にあったわ、このフカフカソファーの座り心地、何か生きてるって実感するわぁ……」
「……俺は改めて生きてるって事の尊さを痛感させて貰ったよ、あんなに余裕の無い状況まで追い詰められると、冗談なんか言ってる場合じゃなくなるもんなんだなぁ……」
「ほぉ〜、さすがのアホの薫もこれには懲りたみたいやなぁ?」
「でも、船が転覆しかかった時の翼の『離さんといて』は薫ちゃんマジで萌え萌えしちまったぜ! 翼、俺はいつでも君を絶対に離さないぜダーリン!?」
「……ア、アホッ! あれはついとっさに言ってしもうただけでなぁ!? って、今ここで近づいてくるなやこのスケベ! ウチから離れろ、抱きついてくるなや変態〜!!」
「……もうやだ、もう絶対にやだ、こんな思いは二度としたくない! そもそもは翼が無理矢理私達をここまで連れてきたからこんな目にあったんだよ!? 何かあったらどう責任取るつもりだったのよ!? バカッ!」
「何やとぉ!? 綾までオマエ、ここまで来てまだそんな減らず口を叩くんか!? オマエが溺れ死んどる頃にはウチもとっくに海の藻屑や、どないして責任取れっちゅうねんどアホ!!」
「……そ、それは、天国でも私達いつも一緒に仲良く手を繋いで、それでこうしてイチャイチャしてぇ……」
「うわぁ〜! キモいキモいキモいキモい! オマエも抱きつくな! その乙女チックなキラキラ目線でウチを見るな〜! オマエ、ホンマおかしいぞ!? 明らかにウチに対して変な感情が芽生えとるやないかボケッ!!」
「みータン、度重なるたくさんのピンチにハリウッド映画のヒロインになったみたーい! キャメロン・ディアスもナタリー・ポートマンもみータンの前では三流女優だもんねー!」
「岬も少しは懲りんかい、オマエらまとめてアホばかりじゃ、ボケボケボケッ!!」
揺れたりしない安定した地面の上に戻って、やっとウチにもツッコミを入れる余裕が出てきたわ。やっぱり人間は地面の上にいるのが一番やなぁ? そんなウチらを見て、ウチらの側で頭を包帯で巻かれてソファーに横になっとる波子さんがクスクスと笑っとった。
「……しかしすまんなー、あたしのせいでみんなには怖い思いをさせてしまったなー、あれだけ啖呵切ってこの有り様、あたしは情けない限りだー……」
「そないな事ないで? 波子さんがおらんかったら、ウチらは無事にここまで来れんかったんやから、ホンマに波子さんには感謝しても感謝しきれへんぐらい感謝しとるで!?」
「……そっかー、ありがとうな、チビ子……」
見た感じ大丈夫そうやけど、頭を打ったんで念の為波子さんは病院で診察を受ける事になった。今、武雄さんが波子さんの搬送とウチらを熱海駅まで送り届ける為に港に停まっとる車の準備をしてくれているところや。しかし、あの武雄さんの波子さんを守ろうとする態度、何か普通とちゃうな? 何かさっきからウチは二人の関係が気になって気になってしゃあないねん。
「……なぁ、波子さん? 失礼な事聞くようやけど、波子さんと武雄さんてもしかして……?」
「……エヘ、エヘヘ……」
「うわっ、メチャメチャ笑顔やん! やっぱり二人は恋人同士なん?」
「そうだー、あたしの男だぁ、格好良いだろぉ? 海の男って感じだろぉ? あたしはあの逞しいところが堪らなく大好きなんだぁー」
「ウヘヘ、もう完全にベタ惚れやん!? なぁなぁ、どこまで行ってん? もちろん、もうキスなんて済ませたんやろ? エッチな事はしたん!? 結婚はいつ!? 子供は何人欲しいねん!?」
「やめろー、やめてくれー!? そんな恥ずかしい事聞かれたら、あたし答えに詰まって照れてしまうだろー!? 子供が大人をからかう様な真似するなー!?」
ウハハッ、波子さんたら両手で真っ赤になった顔を隠してデレデレやん! こんな強気な女性でも、やっぱり恋の話では完全に女の子になってしまうんやなぁ? 波子さん、メッチャ可愛いやん!
「……ねぇ翼、私達が盛り上がってる中、一人だけテンションどん底の人がいるんだけど……?」
「……うへぇ〜、やっぱり男が惚れ惚れする素敵なナイスボディのおっぱいちゃんには、すでにそれを我が物にして自由に満喫している男が先にいるんもんなんだなぁ……?」
「……あのな薫、波子さんは大人の女性やで? そんくらい当たり前やろが……?」
「そうさ、いつもそうさ! 尻の青い未成年の俺達はその魅惑のお宝にはいつも手が届かずにお預けで、見てるだけで指をくわえてなければいけない運命なんだよなぁ〜!? あぁ、早く俺も一人前の男になって女体の神秘の秘密を心ゆくまで堪能したいよ〜!!」
「……薫君のお相手するのって大変そうだよね、翼が可哀想、ご愁傷様です……」
「そない恐ろしい事を言うなや綾!? イヤや、ウチあんな男にこの体を好き勝手されんの絶対イヤや!! 誰か、この変態からウチの操を守って〜!?」
そうこうしてる内に車の手配も済んで、ウチらは波子さんと一緒に武雄さんが運転する軽のワゴン車に乗り込み雨の中を駅に向かって走り出した。後部座席でキッツキツの中を我慢して乗っているウチらとは対照的に、前に座っとる波子さんと武雄さんはすっかり仲良くラブラブモードや。薫やないけど、早くウチも大人になって広い席でラブラブしたいわ〜!
「……ついにチビ子達ともお別れだなー、何か寂しくなるなー……」
駅に到着したウチらを、波子さんは怪我をしとるのにわざわざ雨の中を車から降りてウチを抱き締めてくれた。ウチも寂しいよぉ。この三日間、ウチに新しい家族が出来たみたいでホンマに楽しかったからなぁ。出来る事なら、もっと波子さんや歩美さん達と一緒にいたかったなぁ……。
「……チビ子、この先何があっても負けたら駄目だぞー? いっぱいいっぱい、お前の父ちゃんとの楽しい時間を過ごしていくんだぞー?」
「……うん、波子さん、ホンマにおおきにな? 波子さんはウチにとってホンマのお姉さんみたいやったわ……」
「あたしも妹達が出来たみたいで楽しかったぞー? またいつか、みんなで石廊崎に来いよー? その時は……」
「……ふごっ!?」
次の瞬間、波子さんは側にいた薫を捕まえてウチと引っ付けてまとめて抱き締めてくれた。ウチも薫も波子さんの豊満な胸に顔がうずくまって窒息寸前。でも、港で抱き締められた時の酒臭さはもう無くなっていた。
「その時は、チビ子と茶髪の可愛い赤ん坊も一緒にあたしの前に連れてこいよー!? このあたしが責任持ってその子を立派な漁師に育ててやるからなー!?」
「……な、波子さん、そない赤ん坊やなんて、気が早過ぎ……!」
「ウヘヘェ〜、やっぱり波子さんのおっぱいは柔らかくて最高だなぁ〜? 女性のおっぱいは男の憧れ、男の夢とロマンが詰まった最高の宝物、俺はやっぱりデッカいおっぱいの女性の方がいいなぁ〜!?」
「……何やと薫っ、ゴラァ!!」
「うわ〜ん! まな板ペッタンコの貧乳怪人が襲いかかってキター! 綾ピー、みータン、このイケメン薫ちゃんに救いの手をどうかヘルプミー!?」
ウチらが列車に乗り込んでからも、波子さんと武雄さんは駅の外からこちらに向かって手を振り続けてくれていた。あの二人もどうか幸せになれます様に、ウチは空に願いを込めて二人に目一杯手を振ってお別れを告げた。
「波子姉ちゃん、武雄さん、ホンマにおおきにー! 歩美さんにも宜しく伝えてやー! 必ず、必ずまたここに来るからなぁー!!」
武雄さんが調べてくれた情報通り、東海道線は列車ダイヤが乱れてノロノロ運転ながらも何とか運行してくれていた。船の進行に手間取った事もあって、時刻はもう午後の十時を回っとる。石廊崎の港を出た時は七時やったから、ウチら三時間も船に乗っていた訳や。色々あったから何かあっという間だったけどなぁ。
「……でもさ、十時って事は約束の時間まであと二時間でしょ? このノロノロ運転でちゃんと間に合うかなぁ……?」
向かい合う四人掛けの座席に座ったウチの対面で、綾が疲れ切った表情をして話しかけてきた。いかにも眠たそうな顔しとる。岬に至ってはさっきまでのはしゃぎっ振りが嘘みたいにウチの隣でもたれかかって爆睡しとる。
「大丈夫やろ? 遅くても間違いなく先には進んどるし、最寄り駅に着いたらみんなの有り金集めてタクシー拾えば十二時までには病院に到着出来るで!」
「……そうかなぁ……?」
「とっくに面会時間は過ぎてしもうたけど、病院の守衛さんに事情を説明すれば多分中に入らせてくれるやろ? ウチと岬を病院で下ろしたら綾達はそのままタクシー乗って家に帰ってもええからな? さすがにそこまで付き合わせる訳にはいかんし……」
「……すぴー……」
「……最後まで話聞けや! 人が思いやりをかけてやってんのに、話の途中で寝るとは失礼過ぎるやろオマエ!?」
ダメや、綾も完全に爆睡モード突入や。でも、それもしゃーないか。あんな荒海の中を命懸けの航海して、その前は一生懸命ウチのお宝探しを手伝ってくれたんやもんな。お疲れさん綾、ゆっくり休めや。
「……痛っ、イタタタタ……」
声のした隣の席に目をやると、やっと落ち着ける場所に来れたからか薫が左足の靴と靴下を脱いで義足の付け根の怪我を様子を確認していた。靴下は血と雨の水で全体が赤く滲み、その下から現れたアルミ製の義足にも血のシミの跡が広がっていた。
「……薫、足大丈夫か?」
「……ん? うん、ちょっと関節の金具の部分が磨耗で削れてバランスが狂って、飛び出た金具で付け根の部分をひっかいちゃったみたいだ、最近メンテナンスを怠っていたせいかな? でも、大した傷じゃないし、義足本体もこれくらいの故障ならすぐに修理出来るよ、明日はもう一つの予備の義足をつければ問題ないしね?」
「……薫、あのな、ウチ……」
「おおっと、もう謝るのは無しだぜ? これは俺が自分で望んで負った名誉の傷、ちっとも翼のせいなんかじゃないんだからね?」
「……薫……」
「でも、これで少しは俺の翼に対する気持ちが本物だって信じて貰えると嬉しいな、この程度の怪我じゃまだまだ新作さんの足元にも及ばないけど……」
「……でも、薫はあの、どっちかって言ったら波子さんみたいな豊満な女性の方が好きなんやろ? だったら、ウチなんてこんなやから全然ダメやもん……」
「ううん、そんな事ない、そんな事ないよ! 俺はその、どっちかって言ったらさ、その……」
「……その……?」
「……エヘヘ、やっぱりナイスボディの方が良いかなぁ? 男として生まれてきたなら一度はやっぱり、ゆっさゆっさのおっぱいをこの両手でギューッと、その……」
「……もう、寝る!」
「ウソぴょん、ウソぴょ〜ん! つばピーの小振りでペッタンコなおっぱいもとってもセクスィー! やっぱりご飯もおっぱいも腹八分目が一番だよね、欲張ったりしたらノンノン! 翼のそのお子様ランチみたいなボディラインは薫ちゃんのラブリーな大好物だせぃ!?」
「フォローにも何にもなってへんがな! もう知らん! 勝手にどこぞの女の牛みたいな巨乳の谷間に顔うずめてニヤニヤしながら窒息死でもしてろやどアホ!!」
「ぎゃあ〜! 愛しのつばピーに嫌われてしまった〜! 嫌われ〜、カイワレ〜、大根二重婚、セイッ! ねぇ、これダメ? つまんない? 誠にすいまメ〜ン、セイッ! ねぇ翼、こっち見てってば、ねぇ? ララララ〜、ララララ〜、オバマ氏割り箸〜、セイッ!」
もう知らん、今回はもう絶対に許さへんもん! いっつもそうや、薫のヤツ、ウチがちょっとときめいてええ顔したら最後はふざけてガッカリさせよるし! もうコイツなんかに一切期待なんてせえへん! 多分隣で変なステップ踏んで踊りながらウチが振り向くのを待っとるんやろうけど、絶対に振り向いてなんてやらへんもん! 絶対に振り向いてなんて……!
「ルッキング〜、ドッキング〜、エドはるみ上ハラミ、セイッ!」
「……ブッ、ブブブッ!」
「アハハ、翼が笑った! 今の良いでしょ? ララララ〜、ララララ〜、ヒラリーハラヒレホロ〜、セイッ!」
「やめろやオマエ! 全然意味がわからんがな!? だからそのキモいステップやめろや、そのマヌケ面でこっち見んな!? いちいち顔を近づけてこんでもええねん!? キモい、キモいわ!」
「サルコジ〜、ガス工事〜、胡錦濤かりんとう、セイッ!」
「ブッハハハッ! もうやめろや〜! 腹筋が破壊される〜! アッハッハッハッハッハ〜!!」
薫とアホな会話を重ねていたら、あっという間に電車は平塚の駅まで到着していた。時刻はもう少しで十一時、あと一時間もあれば十分間に合うわな。やったでウチ、オトンとの約束を守る事が出来そうや! ウチの完全勝利や!!
「……ご乗車のお客様に申し上げます、只今平塚駅より先の信号が大雨によるトラブルで故障し、通行が出来ない状況になっております、その為、この列車は折り返し下り方面の熱海行きに変更致しますので、上り方面に行かれるお客様はこの平塚駅で下車して戴き信号の復旧と後続列車の到着をお待ち下さい……」
「……えっ?」
「なお、信号の復旧までの時間は現在未定となっております、お急ぎのお客様には大変ご迷惑をおかけ致しまして申し訳ごさいません、繰り返しお客様に申し上げます……」
「えぇっ〜!!」
……そんな、ここまで来てそれは無いわ〜! もう目的地まで目と鼻の先、あと三つ駅を通過すれば到着やないか〜! 何でこんな時に信号なんか故障すんねん、仮に信号が故障しとったって線路が無事なら電車は普通に通れるやろぉ!? 何で通行止めなんかにすんねん、せやからウチは〇R線はいまいち好きになれへんねん!!
「オイ、綾、岬、起きろや!」
「……う〜ん、何、どうしたの? もう駅に到着した?」
「さっさと目を覚ませや綾! オマエと薫に最後に頼みたい事があんねん!!」
もうこうなったら、最後の手段に出るしかないわ! この雨で運行機関なんかどこも信用出来ん、こんな非常事態に信じられるのは自分、己の力だけや!
「薫、綾! 何とか岬を家まで送って届けてやってや!? ウチの最後のワガママや、お願い!!」
「……ちょっと待ってよ? 翼、アンタは一体どうするつもりなの!?」
「……ウチはここから自分の足で走って病院まで行く!」
そうや、もうそれしか方法は残されてないんや! ウチのこの九十分フルでサッカーピッチを走り回る事が出来る短くも鍛え上げたこの両足、これしかウチが信頼出来る物はもう他に無いんや!!
「馬鹿言うなよ翼! 外はまだ激しい雨が降り続いているんだぞ! しかもこんな夜遅くに一人でなんて、絶対にダメだよ、危なすぎる!!」
「だって、今の薫の足じゃウチと同じくらいの速さで走る事が出来ないやろ!? 絶対無理やろ!?」
「……そ、それは……」
「ええねん、ウチ一人で大丈夫や! これはウチとオトンとの約束なんや! これ以上薫や綾を巻き込むのはイヤや! ごめんな、ウチ勝手な事ばかり言うてごめんな!? 岬の事だけ頼むわ、ホンマにごめん!!」
「翼! ちょっと待ってよ翼!!」
「薫、綾! また明日学校で会おうな! お詫びにジュースか何か奢ってやるやさかいに、ほなら頼んだで〜!?」
ウチはそれだけ言うて列車の中の二人に手を振ると、階段を駆け上って改札口を抜けて雨の街の中を全速力で走り出した。ちょっと走っただけであっという間にずぶ濡れになってしもうたけど、弱音なんて言ってられへん! 必ず、必ず今日中にこのユニフォームをオトンの元に届けるんや!!
「……翼ったら傘もレインコートも持っていかないで、相変わらず無鉄砲過ぎだよ……」
「……クソッ!」
「……薫君……?」
「……俺の足が、俺の足が普通の人みたいにまともに走れる事が出来たら、……チクショウ!!」
……それから何十分間走り続けたやろか? 大きな川を超えて、荒れている海を横目で見ながら海岸線を通って、やっといつも見慣れた街並みに着いた頃にはウチの両足はもう痺れて限界寸前やった。でも、止まったらアカン。諦めたらアカン。諦めたらそこで終わりや、最後の最後まで可能性がある限り走り続けるんや! それがオトンがウチに教えてくれた大切な事、オトンとウチが交わした一番の約束なんや! 最後のホイッスルが鳴るまで、絶対にウチは諦めへん……!!
「……痛っ!!」
病院まであと五百メートルぐらいまで来たこんな所で、ウチの右足が悲鳴を上げてふくらはぎがつってしもうた。長時間の全力疾走と冷たい雨にされされていた事による痙攣。何でや、何でこんな大詰めまで来てウチは……!
「……オトン……!」
さっきまで降り続いていた雨はすっかり上がって、空を覆っていた黒い雲にも所々隙間が出来て星空が見え始めた。でも、ウチの瞳から降る雨は止まらん。悔しいわ。ここまで来て、オトンとの約束を守れへんなんて、ウチ情けなさ過ぎるわ……。
走りたくても、足が言う事聞いてくれへん。歩く事も、立ち上がる事すらも出来へん。もう、残されてる時間も無いやろうな。ここまで来た事をオトンは誉めてくれるかもしれへんけど、ウチが約束を守れへんかったのは事実や。やっぱり無謀やったんかなぁ。一人で勝手にその気になってみんなを巻き込んで、やっぱりウチ一人の力なんて、この程度のもんやったんやなぁ……。
「……オトン、ごめんな、ごめんなさい、オトン……!」
「……翼ー!!」
その時、雨上がりの夜空にウチの聞き覚えのある叫び声が後ろから聞こえてきた。ウチがうずくまったままその声のした方向を見ると、遠くから木の枝の様な物を突きながらビッコを引いた人影がこちらに走ってくるのが見えた。
「……薫? 薫なんか!? どうして、どうしてここに!?」
息を切らせてここまで走ってきた薫は力尽きたみたいににウチの隣に並ぶ様に倒れ込んだ。せっかく止まっていた左足の怪我の出血は再びヒドくなっていて、かなり無理をして走ってきた事が容易に想像出来た。
「……何で? 何で薫がここにおんねん!? 電車は……?」
「バカッ! あの後、三十分もしないで信号は復旧して後続の電車が到着したんだよ! おとなしく待っていれば一番近くの駅まで来る事が出来たのに、見切り発車なんかして飛び出して行ったりするから!!」
「……えっ、ホンマに……?」
「いくら何でも今回の翼の行動はあまりに無茶が過ぎるよ! 俺達があの後、どれだけ翼の事を心配したと思ってんだ! このバカッ!!」
「……ごめん、ごめんなさい……」
……初めて薫に怒られてしもうた。こんな怖い薫を見るの初めてやったから、ついついウチも素直に『ごめんなさい』なんて謝ってしもうて何か変な感じや。でも、確かにウチが悪いよなぁ、ホンマにごめん……。
「……そうや薫、岬は? 綾は一緒と違うんか?」
「綾ちゃんには俺の有り金を全部渡して岬ちゃんと一緒にタクシーで帰らせたよ、岬ちゃんを一人にする訳にはいかないからね、後の事は綾ちゃんが責任持ってやってくれているはずだよ!」
「……そっか、おおきにな、薫一人でウチの後を追ってきてくれたんか? 何か色々手間取らせてごめんな、しかもまた足を痛めさせる様な事までさせて……」
「だから謝んなって!! 翼も足が限界でここにうずくまっていたんだろう!? 人の事なんか心配してないで早く病院に着く事を考えろよ、新作さんとの約束を何が何でも守るんだろう!?」
「……う、うん、そうやけど、でも、でも……」
……ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……
「……!」
その時、ウチがつけてる腕時計から突然アラーム音が鳴り出した。ウチが駅から出発する時に十二時五分前に鳴るようにセットしたアラームや! もう時間が無い、間に合わへん!
「……薫、もうウチ、ダメや、時間が無い、間に合わへん……」
「……何言ってんだよ!? 翼がここで諦めちゃったら俺達の努力や、歩美さんや波子さん達の優しさもみんな水の泡になっちまうんだぞ!? 立てって、立ち上がれよ翼! まだ試合終了じゃないぞ、走れ翼!!」
「……だって、もう無理やもん、もう……」
バリバリバリバリッ!!
「うわっ!?」
すっかり雨も止んで改善に向かっていたと思っとった空から、最後の断末魔みたいに大きな音を立てて一筋の雷がウチらの近くに落ちたのを感じた。その瞬間、周りのマンションやビルの照明は一斉に消えて、辺りは暗闇に包まれてしもうた。
「……て、停電!?」
「……ここでこれかよ!? ふざけんな! 神様はどこまで俺達にこんな仕打ちを……!」
……もうええ、もう無理や。ウチのしようとしてる事はお空の神様までもが良くは思ってくれへんのや。これが結果なんや、ウチの負け、どんなに頑張っても負ける時は負けるんや。どんなに頑張っても……。
「……あっ! そうだ!!」
「……今度は何? もうええねん薫、ウチはもう……」
「……翼、諦めるのはまだ早いよ! 今日中に新作さんにこのユニフォームを見せるだけならまだ出来る可能性がある!!」
「……えっ!?」
薫が見上げる先を見ると、周りの停電した建物とは対照的に夜空の花火の様に煌々とライトに照らされている大きな看板がビルの上にあった。何でやろ、電気は一面ストップしてんのに、何であの看板だけ……?
「翼、あと一踏ん張りだ! 急いであのビルの屋上まで登るぞ!!」
その頃、病院の病室にはウチの安否を心配して寝ずに起きていたオトンと、仕事で地方から帰ってきたばかりのオカンが窓から外を眺めていた。雷で病院内も一瞬停電したみたいやけど、すぐに緊急電力に切り替わって事なきを得たみたいや。
「……本当に、翼はここに向かって来ているのかしら? 岬も一緒なのかしら? 私、心配でじっとしていられない……」
「……歩美姉ちゃんの話やと、無事に熱海に着いてみんなで電車に乗り込んだらしいで? 翼かてもう子供やないんや、いくら約束でも出来ん事出来ない事の区別くらいはちゃんと出来るはずや……」
「……でも、あの子はいつも新作クンとの約束は全部守ろうとして頑張っちゃうじゃない? 今回もまた無茶な事をしないで真っ直ぐ家に帰ってくれているといいけど……」
「……せやな、俺も簡単に翼とあんな約束を交わしてしまったのは軽率やったって反省してるわ、アイツの性格を一番わかっとるのはこの俺なのにな……」
「……新作クン……」
「……ホンマに今回は自分の不甲斐なさを痛感したわ、翼が俺に心配かけまいと無理して空元気装ってくれてんのに、俺はそないな事ちっとも考えずに弱音ばかり吐いて、ただでさえ小さい体で辛いのを耐えてるアイツをさらに苦しめてしもうた……」
「……翼がこんなに頑張っているんだもの、新作クンも頑張って前向きに生きていかなきゃね……?」
「……ホンマや、翼のお陰で、俺はまた生きる希望を見つける事が出来たんや、翼には、ホンマに感謝しても感謝しきれへんなぁ……」
「……新作クン、もう十二時よ、日が変わるわ……」
「……そうか、残念やけど、しゃあないな……」
「……神様、約束は守れなかったけど、一生懸命頑張った翼をどうか無事に私達の元へ……」
「……翼、ようやった、上出来や、帰ってこい、無事に俺達の元に帰ってこい……!」
……ピッー……
「……あれ? 新作クン、何か聞こえてこない?」
……ピッ、ピッ、ピッー……
「……外からやないか?」
「今、窓開けるね!?」
……ピィィィィッー……!
「……この音……!?」
ピッ、ピッ、ピィィィィッー!
「……ホイッスル、ホイッスルの音や! どこや、どこから聞こえてくるんや!?」
「……新作クン、あそこ! あの看板の下、誰かいる!」
「……翼や、翼や! 俺があげた翼のホイッスルや! 翼が帰ってきたんや!!」
「新作クン、翼に返事をしてあげて!? 何か、何かあそこまで聞こえる物か見える物を……!
「俺もアイツとお揃いのホイッスルを持ってるで! 待ってろや翼、今、俺もホイッスルを……!」
ピィィィィッーーーー!!
「翼、絶対に諦めるなよ! そのままホイッスルを吹き続けるんだ!!」
ビルの屋上に登ったウチは薫に肩車して貰いながら岬から取り上げたホイッスルを力強く吹いて、薫が持っていた木の枝にユニフォームをくくりつけて目一杯病院に向かってそれを振り回した。周りは停電で電気が点いている場所はここだけ、遠目からでも絶対に目立つはずや! お願い、気づいて! ウチはここにおるで、オトーン!!
「翼、もう一回だ! もう一回ホイッスルを……!」
……ピッ、ピッ、ピィィィィッー!!
「……!」
「……今のは、まさか……!?」
「……ウチのホイッスルやない、オトンや、オトンのホイッスルや!!」
良く目を凝らすと、病院の一室の窓からこちらに大きく手を振る人影を見る事が出来た! オトンや、オトンがウチらの姿に気づいてくれたんや!! やった、やったぁ! オトンがウチらの姿に応えてくれたぁ!!
「薫、今何時や!?」
「……今、ちょうど十二時ジャスト! やったよ翼! ちゃんと時間通り新作さんとの約束を守る事が出来たよ!!」
「……ホンマに? ホンマにか!? やった、やったで薫! やったやったぁ〜!!」
「痛っ! おい翼! 俺、足痛いんだから無茶な事すんなよ!? 聞いてんのか翼、って、うわぁ〜!!」
嬉しさのあまり薫の肩から飛び降りたウチはその勢いのまま薫に抱きついて押し倒してもうた! だってホンマに嬉しかったんやもん、これもみんな薫のお陰や! ご褒美にいっぱいほっぺにキスして顔をスリスリしてあげるで!? 薫、ホンマにおおきにやでぇ!!
「……あらあら、あの二人ったらあんな所でイチャイチャしちゃって、仲がいいのねぇ? 新作クンもうかうかしてると翼を薫クンに取られちゃう日が来ちゃうかもね……?」
「………………」
「……新作クン、泣いてるの……?」
「……ホンマに、生きてきてホンマに良かった、鈴子母ちゃん、俺は世界一の幸せ者や、俺の娘、翼はいつも俺を驚かせてくれる最高のファンタジスタやで……!」
でも、一つだけ腑に落ちへん事があるんや。周りの建物は全部停電で真っ暗になっとるのに、何でこの看板の照明だけはこないピカピカと光っとんねんやろ?
「……この手の照明看板のタイプは風力や太陽光の発電機があらかじめ備え付けられていて、昼間蓄えた電力で停電に関係なく夜中もずっと灯りが点くようになっているんだよ? 空気も汚さないし、電気代もかからない省エネエコロジーな仕組みになっているのさ!」
「へぇ〜、知らんかったわ、薫は見かけに寄らず意外と博学なんやなぁ?」
「そりゃあもちろん! 今、世界は温暖化とエコロジーの時代だからね? いずれ近い将来、俺も人々の代表として時代を牽引していくのにこれくらいの常識くらいは……」
「……人々の代表……?」
「……い、いやいや! 何でもない何でもない、独り言だよ! それよりさ、俺って今回すっげぇ活躍したじゃん? どうかな翼? そろそろ本気で俺の事を彼氏として認めてくれないかなぁ?」
「……えっ、そんな、どないしよ……?」
「俺、表向きの言葉や態度はふざけていても、心の奥底ではちゃんと翼の事を想ってる、大切にするよ、世界中で一番幸せにするから! マジでお願い! この通り!」
「……そのセリフで土下座はやめてぇなぁ、困るわぁ……」
「いやいや、これが俺の本気の誠意! 『本気』と書いて『マジ』! マジで俺は本当に翼の事が大好きなんだよ! お願いだよ、付き合ってくれ〜!?」
……もう、さすがにウチもはっきりせんとアカンかなぁ? こないにウチの事を想ってくれる人、もしかしたらもう二度と現れんかもしれんもんなぁ? ちょっとスケベで変態っぽくて困るけど、ホンマは優しくて勇気があるし、それに、やっぱり見た目だけやったら外人の血が混ざっとるせいか他の女達も焼き餅妬きそうなグッドルッキングボーイやしなぁ!?
「……ええよっ! ウチも女や、責任持って薫の事を、ウチの彼氏として認定のお墨付きのハンコを押してやるでっ!」
「……マジ? マジで!? やった、やったー! ついにこの桐原薫の元にも人生の春の芽生えがキター!! 薫ちゃんの土筆の子も恥ずかしげに顔を出しますぅ〜♪」
「……でも、これからもウチの彼氏といられるには条件が一つだけあるで!」
「……へっ? 条件?」
「……薫の頭の中に澱みまくっとるキスやおっぱいなどスケベな行為は、薫が立派な一人前に成長してオトンよりもカッコええ男になれるまではお預けや! ウチにとって薫はまだまだ二番手、一番はやっぱりオトンやからな!? それまではこれまで同様、スケベな真似したら容赦なく顔面蹴り飛ばすから覚悟せぇや!?」
「……ふえぇ〜、目指す頂点は遥かかなたの険しい頂かぁ、翼の胸の標高は低いのに……、俺が新作さん越えを果たせる時は、一体いつの事になるのやら……?」
「そないガッカリするなや! 諦めたらそこで終わりや、せいぜい頑張ってウチの為にええ男になってや?」
「……早く一人前になりた〜い……(泣)」
「大好きやで、薫! オトンの次に、なっ!?」
「……嬉しくねぇ、嬉しいんだけど何か嬉しくねぇ! 最後の一言すっげぇいらねぇ〜!! 見てろぉ、俺も早く立派な男になって、翼と一緒に合体ラブラブ昇天飛行してこの夜空にデッカい花火を打ち上げたるでぇ〜!?」
「いちいち言葉にエロい表現を挟むな! しかもオマエの関西弁はキモいんじゃ、このボケッ!!」
「痛ぁぁぁぁぁい!! 顔面キックはノーサンキューでアテンションプリーズ!?」
夜が開けて、雨のせいで風邪気味でフラフラになったウチと薫は学校の授業中でも机に突っ伏して完全に爆睡モードに陥ってしもうた。『いつも風邪気味でいてくれれば静かでいいのにね』なんてイヤミをチクリと刺してきた那奈のしたり顔がホンマにカチンと来たわ。後で覚えとけや那奈、近い内にオマエの家宛てに身に覚えの無い大量の無修正エロ本が伊豆から届くでぇ? 覚悟しぃや、ウッヒッヒッ……。
しかし、今日はとてもええ天気なぁ。病院のオトンも、家で執筆活動中のオカンも、小学校で同級生の男子達をくだに巻いてる岬も元気いっぱいや。それもそうやな、なんてったってオトンの病室のベッドの上には、みんなの想いがたくさん詰まった真っ白なあのユニフォームがウチらを見守ってくれているんやからなっ!
この回より、『Be ambitious!!』の連載は少しのお休みを戴かせて貰います。
毎回読んで戴いている読者様には申し訳ありませんが、作品の質を下げたくないのでしばらくの間お時間を下さいませ。
宜しくお願い致します。
ミラージュ