第48話 名もなき詩
航クンと瑠璃ちゃんを二人きりにして車が停まっているお茶屋さんへ向かう帰り道、あたしはうつむいてずっと下を見て歩いた。階段や砂利道で転ばないように注意してたのもあるんだけど、やっぱり瑠璃の事が心配で心配で、とても元気良くなんてしていられなかった。
今すぐにでも二人の元に戻って、瑠璃ちゃんを強く抱き締めたい。航クンの話が聞こえないように耳を塞いであげたい。そんな事を思いながら、ぼーっとして歩いてた。
ドンッ!
「ほげっ!」
すると、あたしの前を歩いていた遠藤先生が突然足を止めて、それに気づかなかったあたしは思いっ切り先生の背中にぶつかっちゃった。
「……先生、ごめんなさい! あたし、ぼーっとしてて……!」
「………………」
でも、先生は謝るあたしの方に見向きもしないで、驚いた顔をしてずっと前を見て立ち尽くしていた。もうすぐそこまで駐車場まで来ていて、お茶屋さんの屋根も見えてきたのにどうしたんだろう?
「……どうしたんですか、和夫さん?」
「……彰宏、あそこにいる老人……」
「げっ! あの爺さん!」
「……江波戸、さん……?」
二人が見ている先を見ると、お茶屋さん前に腰の曲がった白髪のお爺さんが一人杖を突いて立っていました。『江波戸さん』って事は、お墓に来る前に先に寄った古いお家の人の名前と一緒。じゃあ、あそこにいるお爺さんは、まさか……?
「……航クンと、瑠璃ちゃんのお祖父さん……?」
遠藤先生が少し急ぎ足で近寄ると、そのお爺さんは申し訳なさそうに小さくペコリとお辞儀をした。見た目だけなら、あんな怒鳴り声を上げた人とは思えないほど優しい顔をしている普通のお爺さんだった。
「……江波戸さん、どうしてここに……?」
「……いやいや遠藤さん、さっきはすまんかったな? わざわざ遠くから真弓の墓参りの為に足を運んでワシにまで挨拶をしに来てくれたというのに、あんな大人気ない追っ払い方をしてしまってな、一言謝りに来たんじゃ……」
「そんな、お気になさらないで下さい、何の連絡も無く突然押しかけたのは我々なのですから……」
どうやらお祖父さん、あたし達を追ってここのお墓まで歩いて来たみたい。お家からは結構距離があるみたいだから、あたし達がお花を買っていた頃にはすでにこっちに向かってたのかな?
さっきの怖い怒鳴り声とは全然違って、お祖父さんの喋り声は耳を良く澄ませないと聞こえないくらいの小さな声。喉もガラガラにしゃがれていて、喋るだけでも何か大変そうだった。もう、結構お年を召してるみたい……。
「あんたの姿を見たら、昔良くワシの元に孫達の世話を頼みに来た時の事を思い出してな、そしたら、元気だった娘の姿やこの前ここにやってきたあの男の顔まで脳裏に浮かんできてな、ついカッとなってしまったんじゃ……」
「……この前? あの男って、まさか遼司がここに来たんですか!? それはいつの話ですか!? 私も遼司とは今、全く連絡が取れなくなっていまして、どこへ行くとか、何か仕事に就くとか、何でもいいので何かお話は伺っていませんか!?」
航クンと瑠璃ちゃんのお父さん、刑務所を出て二人に会いに来た後ここに来てたんだ! 遠藤先生と麻美ちゃんのお母さん、あたしと麻美ちゃんが遊んでいる時もお父さんと連絡が取れないってずっと心配してたもんね……。
「……悪いがワシにもその後の行き先はわからん、何も言わずにひたすら涙を流して土下座し続けててな、言ってやりたい事は山ほどあったが、あの男の酷いやつれ様を見たら何も言えなくなったわい……」
「……そうですか……」
でもお父さん、また行方不明になっちゃったみたい。今頃、どこにいるのかな? でも良かった、無事だったんだね。もしかしたら、自殺しちゃったんじゃないかってみんな心配してたもん。航クンは『それならそれでいい』なんて冷たい事言ってたけど……。
「特にそこの兄さん、あんたには色々物を投げつけたりしてすまんかったな? 哀れな爺に免じて許してくれ、この通りじゃ……」
「……ま、まぁ、謝ってくれるならもういいですよ、かけられた水も乾いた事だし……」
「彰宏、図に乗るな!」
遠藤先生達とお話している感じでは、見た目通りとても優しそうで良い人に見えるお祖父さん。でも、このお祖父さんも航クンと瑠璃ちゃんの事を助けてくれなかった親戚の一人なんだよね? さっき『二度と二人を連れてくるな!』って怒鳴った人なんだよね……?
「江波戸さん、今この場所には航と瑠璃も一緒に来ています、もうじき二人もここにやってきます、何度もしつこいとは思いますが、真弓さんが眠るこの地で是非あの子達に会っては戴けませんでしょうか? 一目だけでも構いませんから、瑠璃に祖父の存在を教えてあげて下さい……!」
「………………」
「お祖父さん、もう一度俺からもお願いします! このままじゃ航君も瑠璃ちゃんも可哀想です! 是非会ってあげて下さい、この通りです!」
遠藤先生と彰宏お兄さんが頭を下げるのに合わせて、側にいたあたしもお祖父さんに向かって頭を下げた。でも、上目で見たお祖父さんの顔はさっきまでの優しい顔から一転してとても険しい表情に変わってしまっていた。
「……無理じゃ」
「江波戸さん!」
「無理と言ったら無理じゃ! いい加減わかってくれ!」
「お祖父さん、お願い! 航クンと瑠璃ちゃんに会ってあげて! お願いします!」
どうしても諦められないあたしはお祖父さんに駆け寄ってさっきよりももっと深く頭を下げた。だって、もうお互いがこんな近くにまで近寄っているのに、あと少しすれば瑠璃ちゃんもここに来るのに、お祖父さんに会う事が出来ないなんて可哀想だよ……。
「……遠藤さんや、この子はどこの子じゃ?」
「はい、この子は私の娘の友達で……」
「真中小夜って言います! あたし、瑠璃ちゃんのお姉さんになりたいんです! 瑠璃ちゃんが自慢出来るような、強くて立派なお姉さんになりたいんです!」
「……瑠璃の、お姉さん、か……、そうか、そうか……」
お祖父さんは一瞬あたしの顔を見てニコッと笑うと、下げている頭をポンポンと優しく叩いて大きく溜め息を一つついた。
「……ならば、尚更ワシが顔を見せる必要もあるまい……」
「……えっ? 何でですか!?」
「あの子達は十分、周りに愛してくれる人達がたくさんいる、今更ワシが顔を出したところで、あの子達の怒りを買うだけじゃ、ワシら親族があの子達に嫌われておるのは風の噂で聞いておるし、憎まれて当然の事をしてしまったからのう……」
「……そんな……」
「それになお嬢さん、あんたにはわからんと思うが、あんた達にとったらもうあの事故はとっくの大昔の話かもしれんがな、ワシにはまだ昨日の事の様に脳裏に焼き付いているんじゃよ、冷たく真っ白になって変わり果てた真弓の顔がな……」
「でも、でも航クンと瑠璃ちゃんは何にも悪い事してないよ! なのに、どうしてお祖父さんは二人を避けたりするの!? 会ってあげるくらい別に……!」
「お嬢さん、世の中には世間体と言うものがあってな、例え事故によるものだったとしても、人を殺した事に変わりはないんじゃよ、あの子達が人を殺した男の子供達である事に変わりないんじゃ、そんな子供達をかくまったら、親族一同は世間の笑い者になる、ワシらにはどうする事も出来んのじゃ、わかってくれ……」
あたしがどんなにお願いしても、お祖父さんは首を横に振って聞いてくれなかった。さっきまで一緒にお願いしてたはずの遠藤先生と彰宏お兄さんもすっかり諦め顔。誰もあたしの応援をしてくれる人はいなかった。
「遠藤さんや、出来ればもうこれっきりにして貰えんかね? あんたの顔を見るとどうしても昔を思い出して胸が苦しいんじゃよ、女房にも先立たれ、たった一人ジジイが住むには広すぎる家で自らの死を待つ苦しみ、あんたにわかるか? 頼むからもう、そっとしておいてくれ……」
「……そうですか、わかりました、残念ですか仕方ないですね……」
「えっ? 何で先生!? 先生、あんなに航クンと瑠璃ちゃんが親戚の人達と仲良くなって欲しいって言ってたでしょ!? 何で諦めちゃうの!?」
遠藤先生の予想もしなかった言葉に驚いたあたしは、今度は先生に駆け寄って問い詰めた。先生、あんなに二人の為に頑張ってきたじゃん! あたしにも二人の力になってあげてってお願いしたじゃん! なのにどうして……?
「……小夜ちゃん、もう仕方ないんだよ、お祖父さんだって辛い思いをしているんだ、それが世間ってものなんだよ……」
「……小夜ちゃん、和夫さんをあまり責めないであげてよ、やれる事やったんだからさ、許してあげてよ」
「……だって、だってそんなの……?」
……ヒドいよ、そんなのヒドいよ! だって航クンと瑠璃ちゃんのお父さんはお母さんを好きで殺した訳じゃないじゃん! それに、第一そんな事二人には全然関係ないじゃん! それなのに、みんなして人殺しの子供達だなんて言って二人を避けるなんて……。わかんないよ、世間だなんてそんなもの全然わかんないよ! そんなもの、そんなもの……!
「小夜ちゃ〜ん? あまり大人の人を困らせたりしたらダメよ〜? いつか小夜ちゃんもお祖父さんが仰られてる事がわかる時が必ず来るわよ〜?」
「お嬢様、あまり他の人様の問題に深入りするのは僕も宜しくないと思います、ここはどうかお治め下さい」
……ヒドいよ、遠藤先生も彰宏お兄さんも、お母さんも井上さんもお祖父さんもみんなヒドいよ! みんなちゃんと素直になれば仲良く出来るはずなのに、本当の家族なのに、それを世間とか何とか言って、全部大人の言い訳じゃん! みんな嘘じゃん! そんなの、みんなしてそんなの……!
「それでは、ワシはあの子達がここに来る前に失礼させて……」
「……ズルい……」
「……ん、何じゃと?」
「ズルい! お祖父さんズルいよ!!」
「小夜ちゃん!」
「小夜!」
もう、我慢なんて出来なかった。二人の事を考えたら悔しくて、悔しくて悔しくて、涙が止まんない。お祖父さんだって辛いのはわかるよ? でも、でも、二人は一番辛かった時に誰にも助けてもらえなくて、もっと、お祖父さんよりもっと……!
「航クンと瑠璃ちゃんは、お祖父さんよりもっともっと辛い想いをしてきたんだよ!? お祖父さんみたいに大人じゃなくて小さい子供だったのに、誰も助けてくれなくてずっと苦しかったんだよ!? 航クンは二回もお母さんを亡くしちゃう辛い想いをして、瑠璃ちゃんはまだ赤ちゃんで今もお母さんの顔を知らないままで、ずっとずっと寂しかったんだよ!?」
「小夜ちゃん、落ち着いて!」
「小夜、もうやめなさい!」
やめないもん、やめないもん! お母さんに怒られたって絶対やめないもん!! だって、あたしは一番二人の寂しさを知ってるもん!! 世界で一番二人の苦しみを知ってるもん!! みんなが言ってくれないなら、あたしが言わなきゃ誰も二人の事をわかってあげられないもん!! あたしは航クンと瑠璃ちゃんの、一番の味方だもん!!
「寂しくて、いっぱい傷ついて、誰も信じる事が出来なくなって心を閉ざしちゃっても、それでも二人は一生懸命頑張ってきたんだよ!? 航クンは瑠璃ちゃんを傷だらけになって守って、瑠璃ちゃんはそんな優しいおにぃちゃんを心から信じて、いつかお祖父さんやみんなと仲良く暮らせる日を夢見て一生懸命生きてきたんだよ!?」
「………………」
「それなのに、自分達が嫌だからって、周りから笑われたくないからって、みんなで二人を遠ざけるなんてヒドいよ! それを聞いて諦めちゃう先生達もヒドいよ! そんなのみんな大人の勝手だよ! 嘘ばっかだよ! ズルいよ、お祖父さんも他の人達もみんなズルいよー!!」
「小夜! もうやめて!!」
止めに入ったお母さんの胸に飛び込み顔をうずめて、あたしは大声で泣き崩れた。だって、このままじゃあまりに航クンと瑠璃ちゃんが可哀想だったんだもん。血の繋がった人達に嫌われて、家族だと思っていた人達にも見放されそうになって、周りからこんなに愛されないなんて、そんなの寂しすぎるよ……。
「……江波戸さん、娘が無礼を働き誠に申し訳ごさいませんでした、娘には良く言って聞かせますので、どうかご勘弁を……」
「……ワシだって……」
「……江波戸さん?」
「ワシだって、ワシだって辛かったんじゃあ!!」
お祖父さんは突然手に持っていた杖をカランと落とすと、その場に膝を突いて泣き出してしまった。シワシワの顔の両目から、たくさんの大粒の涙を零して……。
「ワシだって、本当はあの子達を助けてやりたかった! 身寄りの無いあの子達を引き取ってやりたかった! 例え世間から批判や冷たい目線を突きつけられても、真弓がこの世に残してくれた可愛い孫達をこの手で抱き締めてやりたかったんじゃ!」
「……お祖父さん……」
「でも、でも、それは叶わんかったんじゃ! 真弓がいなくなってから婆さんが寝たきりになって、ワシにはあの子達を養う余裕なんて無かったんじゃ! 他の親族に金の援助を頼んでも、誰一人一文も出してくれんかった! それどころか、あの子達を引き取れば絶縁するとまで言われたんじゃ!」
「……そんな事実があったんですか……」
無き崩れるお祖父さんの元に寄った遠藤先生が、励ます様に優しく手を伸ばして背中をさすってあげていた。でも、お祖父さんの涙はまだ止まらなかった。
「それに、ワシ自身もあの子達を怖がってしまったんじゃ! あの男の血を受け継ぐ航が次第に父親に似て成長していく姿を見た時、ワシは航に対して憎しみを抱いたりしないだろうか? 真弓が産んだ瑠璃が次第に母親に似て成長していく姿を見た時、いつまでも真弓を失った時の苦しみを思い出してしまうのではないだろうか? どうしてもそう思ってしまうワシが嫌だった、そうなるのが怖かったんじゃあ!!」
あたしがお祖父さんを最初に見て感じた通り、やっぱりこの人は悪い人なんかじゃない。本当はお祖父さんも寂しくて、心細くて、出来れば二人と一緒にいたかったんだ。二人と同じ様に、ずっとずっと苦しんでいたんだ……。
「……遠藤さんや、すまん、すまなかった、一番悪いのはワシなんじゃ、すまない、すまなかった……!」
「……江波戸さん、どうか頭を上げて下さい、この話を聞けば、きっと航と瑠璃もあなたを許して祖父として認めてくれるでしょう、ですから、どうか二人に会って……」
「……か、和夫さん!」
彰宏お兄さんの声に釣られて後ろを振り向くと、そこには瑠璃ちゃんの手を引いた航クンが立っていた。今さっきまでお祖父さんが喋っていた本当のお話、二人はまだ何も知らないはず。航クンの雰囲気が車に乗っていた時みたいに少し怖く感じた。
「……航、瑠璃……!」
杖を下に置いたまま、お祖父さんはよろつく足取りで二人の元に行くとまた地面に膝を下ろして土下座をした。鼻をすすりながらずっと泣きじゃくって、額が地面に擦りつくぐらい頭を下げていた。
「すまん、すまんかった! ワシはお前達を助けてやるどころか、地獄の底に落とすような真似をしてしまった! お前達こんな辛い想いをさせたのはこのワシのせいじゃ! 許してくれ、どうか許してくれ!!」
この時、あたしの頭の中に怖かった思い出が蘇ってきた。二人のお父さんが麻美ちゃんのお家に訪ねてあの日、ひたすら頭を下げて謝るお父さんを見て航クンは我慢出来ずに怒りに任せて暴力を振るってしまった。あの時は悪い予感がしたあたしが麻美ちゃんのお家まで行って、何かわかんない内に二人の間に入って航クンは落ち着ちを取り戻してくれた。
でも、あの時は何て言うかあたしでも良くわからない力が湧いてきて、何とか航クンを止める事が出来た。今のあたしはお祖父さんに二人の気持ちを代弁するのに全部の勇気を使い果たしちゃって、膝が震えてお母さんにしがみつくのが精一杯。
航クンは、お父さんと同じ様に自分達を見放したお祖父さんや親戚の人達を恨んでる。もし、あの時みたいに航クンが怒っちゃったら、今のあたしじゃとても止められないよ。遠藤先生も彰宏お兄さんも同じ事を感じたみたいで、急いでお祖父さんを追いかけて航クンの元へ駆け寄っていった。
「航、手を出すなよ! 私が行くまで江波戸さんに触るな!」
「航君、落ち着いて! 言いたい事があっても早まっちゃダメだよ!」
……やっぱりあたし、何にも出来ない。航クンと瑠璃ちゃんの為に役に立てる事なんて無理なのかな? 今のあたしには、みんなが仲良く一緒になれる事を祈る事しか出来ない。航クンと瑠璃ちゃんと、そしてお祖父さんが仲良く笑っていられる事を……。
「瑠璃ちゃんのお母さん、どうかみんなを見守ってあげて下さい……!」
「……ミャー!」
「あっー! ねこさんだねこさんだ! おにぃちゃん、ねこさんだよ!? ねーこさん!」
あたしが瑠璃ちゃんの声に目を開けると、さっき急にいなくなったあのおデブな猫さんが突然現れて頭を下げているお祖父さんの顔に体をこすりつけていた。あたし達にした時みたいにお尻を上げてしっぽを伸ばして、最後はドテーン地面に倒れてお腹を出して甘えてた。
「……マユミ? お前、みんなを墓まで道案内をしてくれていたのか? そうかそうか、すまんな、お前にまで面倒かけてな……」
お祖父さんがお腹を撫でると、猫さんは気持ち良さそうに体を伸ばしてゴーロゴロ。この猫さん、お祖父さんにも凄く懐いていたんだね。でも、あたしが気になったのはこの猫さんの名前。『マユミ』って確か……。
「ねーねー、おにぃちゃん! このねこさんのおなまえ『マユミ』だって! いっしょ、いっしょ、ルリのおかあさんといっーしょ!」
瑠璃ちゃんに話しかけられたその時、航クンの雰囲気から怖さがスッと消えた。いつもの優しい顔に戻った航クンはその場に跪いてお祖父さんの肩に手をかけると、少し微笑みながらお祖父さんに話しかけた。
「…………もう、これ以上謝らないで下さい」
「……航……?」
「…………俺は、つい最近まで本当にあなた達を憎んでいました、言いたい事、仕返ししたい事もたくさんありました、でも、もういいんです、俺も瑠璃も、もう大丈夫ですから」
「……しかし、しかしワシらはお前達を見殺しに……」
「…………でも、そのお陰で俺達は心から信じる事が出来る人達と出会う事が出来ました、一番大切なもの、大切な人を見つける事が出来ました、だから、俺はもう誰も憎んでいません、俺も瑠璃も、今はとても幸せに暮らせていますから、だからもう、謝らないで下さい」
「……そうか、幸せか、幸せなんだな? 良かった、それは良かった、良かった……」
いつもは無表情の航クンが久し振りに見せてくれた笑顔。とても優しくてみんなが幸せな気持ちになれる笑顔。それを見たお祖父さんは、長年の苦しみから許されたみたいに今度は喜びの大粒の涙をいっぱい流していた。
「ねーねー、おにぃちゃん! このおじいさん、だーれ?」
「…………瑠璃の本当のお祖父さんだよ、会いたかったろう? 初めて会うんだから、ちゃんとご挨拶をして」
「はーい! おじいさん、こんにちは、はじめまして! くりやまルリ、ことしではっさいになります!」
「……そうか、もう八才になったのか、大きくなったな……」
「えーとね、ルリにはわけがあっておとうさんとおかあさんがそばにいません! でもね、でもねー!」
お母さんがいない、と言う言葉に一瞬不安になったあたし達の前で、瑠璃ちゃんは上を向いて大きなお空に向かって指差すと、みんなに聴こえるように、まるで天国のお母さんに呼びかける様に元気良く大きな声で言った。
「ルリのおかあさんはねー、おそらのうえのおほしさまになったんだよー! ルリのこと、ずっとおそらのうえからみていてくれているんだよー! さっき、おにぃちゃんにおしえてもらったんだー! だからルリ、ひとりじゃないんだよー! おにぃちゃんもたよも、みんなそばにいてくれるから、ルリはぜんぜんさみしくなんてないんだよー!」
「……瑠璃、ちゃん……!」
あたしの顔は、涙でもうグシャグシャになっちゃった。瑠璃ちゃん、エラいよ。あたしなんかよりも強い、スゴく立派だよ。航クン、ちゃんと瑠璃ちゃんに説明出来たんだ、良かった……。
「瑠璃、すまなかった! 祖父ちゃんが悪かった! 許してくれ、瑠璃!!」
「……おじいさーん、そんなにギューってされたらくるしいよー? それに、どうしてないてるのー?」
瑠璃ちゃんを抱き締めたまま、お祖父さんは大声を上げて泣いていた。それを見ていたお母さんもあたしをギューってして泣き出しちゃった。彰宏お兄さんの男のクセに涙をポロポロ。でも、遠藤先生も井上さんも目か真っ赤だから、今は泣いちゃってもいいのかな?
でもやっと、家族が仲良く過ごせる時がやって来たんだね! 航クン、やっぱり優しいね、カッコいいよ! 瑠璃ちゃん、ちゃんとご挨拶出来たね、エラいよ! きっと、あの猫さんとお星様になった瑠璃ちゃんのお母さんがみんなを一つにしてくれたんだね、本当にありがとう!
「……どうやら、あの猫は毎日お墓参りに来ていた江波戸さんに懐いてしまって、それであのお茶屋の前に居座る様になってしまったらしい、奥様にも先立たれ寂しかった江波戸さんはその猫に真弓さんの名前を与え、亡くした娘の代わりに可愛がっていたんだろうな……」
「……だから、あまり人に懐かないはずの猫が孫である瑠璃ちゃんに懐いたんですかね、何か切ないなぁ、たった一つの過ちだけでここまで血の繋がった家族や親族の絆を切り裂いてしまうなんて……」
「でも、今日こうして途切れた絆が再び結ばれる事が出来たんだ、もうこの絆が綻ぶ事は無いだろう、後は遼司さえ無事に帰ってきてくれれば……」
お墓の駐車場から出発して走り出した車の中。遠藤先生と彰宏お兄さんがお話している後ろの席で、あたしと瑠璃ちゃんは後ろの窓から最後まで見送ってくれているお祖父さん向かってに手を振っていた。お祖父さんの横にはあの猫の『マユミ』ちゃんも見送りに来てくれた。顔を洗うその仕草は何かあたし達に手を振ってくれている様に見えた。
あたし思うんだ。あの猫さん、名前が一緒だけじゃなくて、もしかしたら本当に瑠璃ちゃんのお母さんの生まれ変わりだったんじゃないかなって。だって、優しいところとか、和ましてくれるところとか、あたしが聞いた瑠璃ちゃんのお母さんのイメージと一緒だもん! 多分、お父さんがお墓参りに来た時も同じ様にお墓まで道案内してくれたはずだよ! 絶対そうだよ!
「……うわー、スゴい混んでる……」
帰り道の高速道路、井上さんの言う通りやっぱり渋滞しちゃった。お天気もご機嫌斜めで土砂降りになっちゃった。今日、バイクのレースがあった翔ちゃんと一緒についていった那奈、大丈夫かなー? 川に流されてたりしてないかなー?(補足:川に流された事があるのはお前だろ?)
「井上さ〜ん、今日一日ご苦労様でした〜、せっかくのお休みの日に付き合わせたりしてごめんなさいね〜?」
「……いえ、僕も心の洗濯が出来て良い休日になりました、最近ずっと仕事漬けで心が廃れてましたから、なぜマスターが今回の件をわざわざ僕に依頼してきたのかわかった様な気がします……」
「井上さん、私達からもお礼を言わせて下さい、本当にありがとうございました」
「いいんですよ遠藤さん、航君と瑠璃ちゃん、またみんなでお墓参りに行こうね! 今度はお父さんも一緒に、親子三人揃ってね!」
「…………はい、そうですね」
車はノロノロ、雨はザーザーと降り続くけど、車の中は井上さんもお母さんも先生も彰宏お兄さんもニコニコ! あたしと瑠璃ちゃんもニッコニコ! さっきまで悩んで落ち込んでたのがウソみたい、やっぱりみんな笑顔が一番だよね!
「航君、一つ聞きたいんだが、君はさっきから誰にも聞こえない様な小さな声で鼻歌を歌っている時があるね? 聞いた事が無い曲だがとても良いメロディーだ、僕も職業柄ついつい気になってしまったんだが、それは一体誰の何て曲だい? 良かったら僕に教えてくれないか?」
「…………赤ん坊の頃、実の母親が歌ってくれた曲です、名前は知りません」
「……名も無き歌か、このまま埋もれてしまうには惜しいメロディーだな、ご夫人の絶対音感にはどう響きましたか?」
「………………」
「……あづみ夫人?」
あっ、そーだっだ! 航クンのお母さんは瑠璃ちゃんのお母さんとは別の人だもんね、あたし、そっちのお母さんにもご挨拶しなきゃね!
「ねーねー、みんな! 今度は航クンのお母さんのお墓参りに行こうよー! 瑠璃ちゃんのお母さんのお墓参りだけじゃ、きっと航クンのお母さん寂しがるもん、そっちのお墓参りも行こうよ! ねー、航クン!」
「………………」
「……航クン、聞いてるー?」
「…………じゃあ、いつか……」
「うん、いつかね! 約束だよ! その時はまたお母さんも一緒に行こうよ、ねー!?」
「………………」
「……お母さん、聞いてるー?」
「……そうね、いつか、いつかね……」
ほぇ? どうしちゃったんだろう? 航クンは窓の外を見て黙り込んじゃったし、お母さんもさっきまでニコニコしてたのに急に静かになっちゃった。あたし、また変な事でも言っちゃったのかなー?
「航クン、さっきの事、まだ怒ってるの? 変な事ばかり言って色々と嫌な思いさせちゃってゴメンね? あたし、これからももっと頑張って瑠璃ちゃんの立派なお姉さんになるから、許して?」
「…………いや、こちらこそ、ありがとう、本当に……」
あれれー? あたし、謝ったはずなのに逆に航クンから感謝されちゃったよー? 何にも褒めて貰えるような事してないのになー、何か変なのー?
「たよ、さっきおおきなこえでないてたのきいちゃったー! たよ、なきむしー!」
「あー! 瑠璃ちゃん、聞いたなー! 泣き虫って言ったなー! そんな事言っちゃう瑠璃ちゃんはくすぐりの刑だよ!」
「やだー! くすぐったいよー! たよおねーちゃんごめんなさーい! キャハハハハ!」
瑠璃ちゃんをくすぐってじゃれ合っていると、何か急にお尻をモジモジ。瑠璃ちゃん、どうしたのかなー?
「……おしっこ……」
「えっ? 瑠璃ちゃん、オシッコ!?」
「……ちょっと待って下さい? 休憩所までまだしばらく時間かかりますよ……?」
瑠璃ちゃんの突然のもよおしに、車の中の大人達はみんな大パニック! 遠藤先生も彰宏お兄さんも、なぜか紙コップを持ってアタフタし始めちゃった。
「雨降ってますけど、誰かが付き添って外で済ませる以外方法無いんじゃないですか? 丁度、車もノロノロ運転だし……」
「お前はどこまで馬鹿なんだ彰宏! 瑠璃はもう八才なんだぞ! 幼稚園児でもあるまいし、そんな真似させたら付き添ってる人間が女子児童わいせつ罪で……!」
「あら先生〜? ちょっと考え過ぎですわ〜? じゃあ、もうしょうがないから、小夜が小さかった時みたいに車の中でオシッコ済ましちゃったらどうかしら〜?」
「それだけはご勘弁下さいご夫人! これは僕の車なんですよ! それだけはキッパリ拒否させて戴きます!」
「ハーイ! 井上さん、あたしもオシッコしたくなっちゃったー!」
「…………すいません、俺も……」
「は、は、ハァ!?」
「うみほたるー! うみほたるまだー?」
「早くトイレ行きたーい! 井上さん、海ほたるまだー?」
「うわぁー! もういい加減にしてくれー!!」
早く、早くトイレに行きたーい! あたし、瑠璃ちゃんが見てる所でおもらしなんて出来ないよー! もしそんな事になったらあたし、お空の上の瑠璃ちゃんのお母さんが認めてくれる様な立派なお姉さんになれなくなっちゃうよー!