第45話 タイムマシーンに乗って
「……三島、勇次朗……」
黒服のボディガード達に支えられ立ち上がった幹ノ介氏の前に歩み寄ってきた背の高い一人の男性。自分のトレードカラーである真っ赤なキャップを被り、その端からは少し長めの茶色く染めた後ろ髪がはみ出し風になびいている。
そして、赤いレザーのバイクジャケットを羽織り下は長い足をさらに魅せるフィット系の黒いレザーパンツにアメリカンな深めの皮のブーツ。面倒臭がってジャージ姿でどこでも出掛けてしまう父さんとは全く正反対の、いかにもちょいワル親父スタイルのその佇まい。
バイク界のみならず、スポーツや芸能に詳しい人間なら知らない人はいないであろう国民的ライダーで、渡瀬虎太郎や風間貴之と共に一時代を築き世界中のファンを狂喜の渦に巻き込んだ。今現在も現役を続ける生きるカリスマ、それがこの人、三島勇次朗さんなのだ。
「世界経済、地球号の主舵を握るお方が、こんな平民のお遊び会場に何かご用ですか? すでにブームも去って落ち目のこの世界に、あなたの様な偉人の興味の琴線に触れるものは何もありませんよ?」
世界を認めさせた天才ライダー奥井新悟、世界をその手に収める財閥の長である奥井幹ノ介、そして世界の頂点を制した伝説の王者である三島勇次朗。次から次へとサーキット場に現れる大物の登場に周辺はお祭り騒ぎになってしまい、続々とマスコミ関係者が集まり出してカメラのフラッシュをバシバシ焚きまくった。中にはテレビカメラを取り出して取材中継を始めようとしだしてる人達もいた。
「……このツーショットとこの光景、同じだ、私が図書館で調べた昔の新聞記事に載っていた写真と一緒……」
順調に予定が進行していた全日本ロードレース開幕戦は突然、十数年に世間を騒がせた例の買収問題を彷彿とさせる修羅場と化し、私はまるでタイムマシーンで過去の当時にタイムリープした様な錯覚すら覚えた。目に見える光景がセピア色に感じてくる。
「……奥井会長、先程あなたに対して無礼な罵声や暴行があった事は自分が代表して謝罪をさせて頂きます、しかし、それに対する先程のあなたの言動は少し失言に近いものではなかったでしょうか? すでに他界した人物を蔑む様な発言を、ましてやその人物の家族や友人の前で……」
「……うむ……」
「それに、例え当時あなたに個人的な考えであの騒動を起こした訳ではなかったとしても、実際あの時のあなたの選択した行動で人生の全てを失った人間がいるのは事実です、今のあなたの言葉を聞いたら、病室で床に臥せる父はとても残念がるでしょう」
「……また、その話か……」
奥井の強引な買収劇で最も大きなダメージを追ったのは、当時勇次朗さんが所属していたバイクチームだった。幹ノ介氏はこの世界に参入する際にオリジナルの新規参入チームを作る為、そのチームにエンジンや部品、データ提供をしていた企業や工場の株を買い占め、丸々略奪していったのだ。
あまりに無茶苦茶なそのやり方に勇次朗さんや他の所属ライダー、チーム関係者達は抵抗し、買収された企業の関係者達も反発した。彼らは団結して奥井に立ち向かったが、莫大な財力の前に反旗を翻した人間達は全員企業や工場から解雇され、バイクチームそのものも経営が続けられなくなり消滅し、勇次朗さんは一時的にレースに参加出来なくなってしまったのだ。
この絶望的な結末に、チームアドバイザーとして共に戦ってきた勇次朗さんの父親・慎一郎氏は心労が溜まり病に倒れ、今も病院で介護を受けながら寝たきりの生活が続いているという。奥井グループの横暴で被害を受けたのは父さんや母さんだけではなかったのだ。
「……もういい加減忘れて貰えないだろうか? あの時、我々のグループ内は混乱していて私の許可無しに動いていた強硬派がいてな、私の耳にこの話が入ってきた時には、すでにこのプロジェクトは始まっていてしまっていたのだよ……」
「……つまり、あの勝手極まりないビジネスゲームは部下が許可無く行った事であり、自分には全く関係が無かったとでも? そもそもグループ内にそんな強硬派が現れてしまったのは、あなたの経営方針から生み出されたものではありませんか? あなたの思考、言動、圧力がそのプロジェクトを押し進めさせたのではないのですか?」
「……そうではない、よいか、三島? 経営というものはだな……」
「……お義父さん、三島さん! もう止めましょう! これ以上は大会の進行の差し支えになってしまいます! 今日のところは自分に免じて、どうかお互いに引いて下さい!」
二人の対話を断ち切る様に間に新悟さんが割って入ると、それを合図にボディガード達が幹ノ介氏の周りを守るように取り囲み、カメラの向ける取材陣を遠くに押しのけだした。
「……会長、飛行機のお時間に遅れます、ここは御義子息の仰られる通りに……」
「……うむ、そうか、もうそんな時間か」
はっきりとした真相がわからないまま、その場から逃げる様に立ち去ろうとする幹ノ介氏に対して、少し落ち着きだしていた周りの野次馬達の怒りは再び炎上した。周りから汚い野次が飛び交い、押し寄せるマスコミ取材陣に紛れ込んで幹ノ介氏を追いかける人間もいて、周辺は満員電車みたいに人混みでごった返した。
「……あぁそうそう、三島、君に会ったら一つ伝えておきたい事があってね」
「……何でしょう?」
「いやぁ、君の奥様の話なんだかね、この前我が財閥のパーティーに出席して頂いたんだが、相変わらず綺麗な女性だね、しかし、昔からだが少し経営のやり方が強引で荒っぽいのが気になる、上げ潮に乗って勢いづくのも良いが、世の中そんな甘くは無いものだ、経済界に身を置く先輩として、私から忠告をさせて頂くよ」
「……どうぞご心配なく、彼女は見た目からは想像つかない程のタフで頭の回転が早い人間です、奈落の底に堕ちた自分に再びチャンスを与え、世界の頂点まで駆け上がらせた訳ですからね、渡瀬麗奈並みに恐ろしい女性ですよ」
「……麗奈並みねぇ、それは随分と手強そうだな……」
幹ノ介氏は去り際に勇次朗さんとニ、三会話を交わすと、近くにいた私と翔太の顔を見た。さっきの興奮が収まってないのか、翔太の息はまだ少し荒かった。
「……那奈、せっかくの再会がこんな揉め事になって済まなかったな、まだ知りたい事があるなら、遠慮なく私の元に訪れるが良い、私にとって君は可愛い姪なのだからな、あと、虎太郎と麗奈に宜しく伝えてくれ」
「……はい……」
「……それと、そこの少年、風間の息子だったな?」
「……えっ、俺……?」
「皆が言うように、あれは確かに私の失言だった、私としたことがついカッとなってしまってな、しかし、君もこの年寄りに対して暴力を振るった、だからこれはおあいこという事で流すとしよう」
「………………」
「熱くなるのも良いが、もう少し冷静な判断が出来んと偉大な父親の領域に辿り着くのは困難だぞ? 君の将来の更なる活躍を期待しておるよ」
「……ありがとう、ございます……」
「……では、私はこれで失礼させて戴くよ、ごきげんよう」
曲がった猫背をこちらに向けて、多くの黒服に周りを取り囲まれながら幹ノ介氏はサーキット場を後にした。宿敵を捕り逃した橋本さんを始めとするバイク関係者達はブツブツと捨て文句を言いながらも次第に落ち着きを取り戻し、それぞれのピットの持ち場に去っていった。あれだけ人がいたのに私の周りはスッカラカン、嘘みたい、まるで台風一過だ。
「……翔太?」
「……は、えっ? な、何?」
「何? じゃないわよ! アンタあんな事して何やってんの!? 下手すればレースどころの話じゃなくなってたんだよ!?」
「……いや、あの、だってさ……」
「怒る気持ちもわからなくないけど、相手が誰だかわかってたんでしょ!? アンタまで橋本さん達みたいになってどうすんのよ!?」
「……ご、ごめん……」
穏やかな雰囲気に戻ったピット内で散々翔太を説教していると、それを遠くから見ていた勇次朗さんがこちらに近づいてきた。そういえば、勇次朗さんに会うのも何年振りだろう。確か勇次朗さんとも貴之さんのお葬式以来会ってなかった気がする。
「渡瀬の娘さんと風間の息子か、見ないうちに随分と大きくなったもんだ、千春と娘から良く話を聞かせて貰っているよ」
「お久し振りです、三島さん」
「あの、三島さん、おはようございます!」
「……フフッ、昔良く見た風景だな、聞き分けのない所属ライダーを大声で怒鳴り散らす女性代表、このチームはそれがしっかりと伝統として受け継がれているようだな」
……勇次朗さんにまで母さんと比べられてしまった。やっぱり、蛙の子は蛙なのかなぁ? 私もいつかあの人みたいに裏で『悪魔』とか言われてしまうのだろうか……。
「しかし風間、随分と派手に噛みついたな、若さゆえの過ちとはいえ、一つ間違えれば警察沙汰だぞ? 騒ぎを聞いて駆けつけてきて正解だったな」
「……はい、すいません、本当にすいませんでした……」
「それとも、その無鉄砲振りはあの男から学んだものか? やめておけ、ヤツを見本にして良いのはライティングの技術とレースの勝負勘だけで十分だ、あんないい加減な人間の生き様なんぞ真似するもんじゃない」
例え大物ルーキーである翔太でも、勇次朗さんは父さんや新悟さんと同じくらい頭の上がらない偉大な大先輩。私に説教されていた時は謝りながらも何か納得いかないみたいな膨れっ面をしてたのに、相手が勇次朗さんになった途端に深々と頭をペコペコ。その情けない姿を見て、私とまだ近くにいた新悟さんは顔を見合わせて呆れ顔をした。
「三島さん、お久し振りです、二年前の最終戦以来ですかね……」
「新悟か、久し振りだな、足の怪我の具合はどうだ?」
「……えぇ、まぁ、何とか普通に歩けるぐらいには……」
「……そうか、じゃあ、まだ復帰には時間がかかりそうだな……」
三島勇次朗に奥井新悟。世界ロードレース最高クラスを制したたった二人の日本バイクレース界の国宝の貴重なツーショットに、さっきまで幹ノ介氏を追いかけていた取材陣は再び周りを囲んでここぞとばかりにバシバシとカメラのシャッター音を立てた。
他のチームの若いライダーや観客達も集まりだし憧れのスーパースターの姿に見とれ、先程の殺気立ったざわめきとは違う雰囲気の声が上がっていた。中には色紙を取り出しサインを求める人もいた。
「……せっかく久し振りに会えたのにすみません、俺はお義父さんの後を追わなければならないので、これで失礼させて貰います……」
「そうか、婿養子を演じるのも楽ではないようだな、またどこかでゆっくりと話をしよう、いや、出来ればどこかの大会で対戦相手として競い合いたいものだ、最近俺がハマっているラリーやジェットスキーも楽しいぞ?」
「………………」
「……新悟、どうした?」
「……いえ、何でもないです、そうですね、いつかどこかで、また……」
勇次朗さんの誘いの言葉に、新悟さんが一瞬寂しそうな表情を見せたのが気になった。世界の第一線を離れ、自由にモータースポーツを楽しんでいる勇次朗さんに対して、新悟さんは何やら神妙に深く考え込んでいる様に見えた。
「那奈ちゃん、兄さんに宜しくね、翔太君、君の今日のレースを最後まで見れないのは残念だけど、影ながら応援しているよ」
「あ、ありがとうございます! 俺、絶対に期待に答える走りをしてみせますから!」
「ちょっと翔太、声デカすぎ!」
新悟さんは一言ずつ私達に挨拶をすると、会場の裏にある関係者通路の中に消えていった。その後ろ姿は以前世界で活躍していた若い頃に比べると一回り小さくなり、少し寂しげな雰囲気だった。こちらに歩いてきた時は気づかなかったが、怪我のせいか歩く足取りは若干ぎこちなく見えた。
「……もう、あの頃には戻れないんだな、時代は常に移り変わっていく……」
そんな新悟さんの姿を見て、勇次朗さんは空を見上げて一つ溜め息をついた。二人が活躍していた時代を共に走っていたライダーは世界でもほとんどの選手が現役を引退していまい、四十歳を過ぎた今でもプロとして世界を走る勇次朗さんにとって、もしかしたら新悟さんは一緒に時間を共有した最後の戦友なのかもしれない。
「おい那奈聞いたか? 新悟さん、俺の事を応援してくれてんだってさ!? あの元世界チャンピオンがだぜ!? やっぱり俺って期待されてるんだなぁ、何かすげぇ自信がついたぜー!!」
「……空気読め」
「……ヘッ? 何で?」
場の雰囲気がわからないお子ちゃまは放っておく事にして、何で勇次朗さんは今日こんな地方のサーキット場まで足を運んだんだろう? 奥井親子に遭遇したのは偶然だと思うけど、何かしら理由があってここに来たはずだ。
「三島さん、今日はここに観戦しに来たんですか?」
「あぁ、勿論そうだよ」
「ま、ま、まさか、三島さんまで俺の走りに注目してるんスか!? やっべぇ、すげぇ緊張してきたー!!」
「……翔太、五分黙れ」
「……ふごっ!」
私は翔太が手に握っていたグローブを取り上げると、ベラベラとやかましいその口に押し込みしばらくの間黙られた。全く、一度興奮しだすと行動パターンが小夜と一緒!
「注目はしているよ、何と言っても風間翔太はいずれ最大のライバルになるだろうからね」
「……ライバルって、本気で言ってるんですか? まさか三島さん、全日本戦に復帰……?」
「ふがっ! ふごっふごっふがっ!!(ほら! やっぱり俺の事を注目してるんだよ!!)」
「黙れって言ってんでしょ翔太!? 今度騒いだらその口縫いつけるよ!?
「ふごー(そんなー)」
私と翔太のやり取りを見て、呆れた様に笑った勇次朗さんは無言で首を振って問い掛けを否定した。
「バカ言わないでくれ、俺じゃない、来年イギリスから日本に帰ってくる息子の為だ」
「ふがっ! 千秋! アイツ日本に帰って来るんですか!?」
ふざけていた翔太の表情が一変した。『千秋』と言う名前に私は一瞬女性の姿を想像してしまったが、そういえば二年前くらいに他のみんなも連れて翔太のテスト走行を見に行った時に千夏が弟の話をしていたのを思い出した。
そうそう、そうだ。三島千秋、私達の一つ下で、小学生の頃に翔太とポケバイの全日本戦でチャンピオン争いをしていたあの男の子だ。いつも翔太に負けて涙を流していたっけ。あの子のお姉さんがあの千夏だなんて、世界は思っている以上に狭いものだ。
「今は向こうの学校に通わせながらユースの大会に参加させて腕を磨かせ、そのまま世界戦でプロデビューさせるつもりだったんだが、日本の文化にも直に触れさせたいという妻の教育方針もあってな、高校進学に合わせて日本に帰国させる事になったんだ」
「……そうですか……」
「それに日本を主戦に選んだのは千秋本人の意向でもあるんだ、風間翔太、いずれお前と千秋は世界を舞台に争うライバル関係になるだろうが、どうしてもその前に以前のリベンジを果たしたくて待ちきれないらしくてな、来年からの全日本戦参戦を決めたんだ」
「………………」
「俺は千秋がいずれ自分を超えるライダーになれると確信している、その為の最大の障害が自分と同じ時代を生き、常に雌雄を競ってきた最高の好敵手の息子だとしたらさすがに俺も燃えない訳にはいかない、風間、是非とも素晴らしいデビュー戦を飾ってくれる事を期待しているぞ」
そのライバルの能力と進化を見極める為に、勇次朗さんは翔太の走りと現在の全日本のレベルの下調べをしに来たという事か。これはかなり翔太にとってプレッシャーになりそう……。
「……望むところです……」
「何?」
「千秋だろうが他の全日本ライダーだろうが、例え相手が三島さんだろうが、俺は負けるつもりはありません」
さっきまでのヘラヘラした態度と全然違う翔太の佇まい、相手が日本史上最高のライダーでも一歩も引かない強い気迫だった。
「……そのビックマウスも師匠譲りか? あまり大口を叩くと後々自分に返ってくるから真似も程々に……」
「……威勢だけじゃありません! これは俺と父さんとの約束なんです! 世界チャンピオンになるって、父さんが届かなかった栄光のトロフィーを空高く掲げるって約束したんです! その約束を果たす為に、俺はどんな相手だろうと絶対に負けませんから!!」
幹ノ介氏に掴みかかった時みたいな無謀な感情とは違う、自信に満ち溢れた凛々しい表情。対面する勇次朗さんだけではなく、側で話を立ち聞きしていた人達まで翔太の気迫に圧倒されていた。
「……それだけの見栄が切れるのならば、俺もここまで来た甲斐があったもんだ、その言葉、しっかりと千秋に伝えておくぞ」
そうだよね、何だかんだ言ったって、バイクの大きさは違くとも翔太も全日本のチャンピオンなんだ、あの風間貴之さんの血を継いだサラブレッドなんだ、あの渡瀬虎太郎が育て上げた日本の期待の星なんだ! 一歩も引く事なんてない! 翔太、カッコイイよ!!
『……また、ノロケちゃった……』
……話題を変えよう。大切な息子さんの為にわざわざカリスマライダーが視察に来たんだから、きっと家族総出でここに来てるに違いない。と言うことは、千夏もこのサーキット場のどこかにいるのかな?
「ところで三島さん、千春さんと千夏はどこにいるんですか? もちろん一緒に来てるんですよね?」
「そりゃそうだろう? こんな地方まで三島さん程のカリスマが一人寂しくトコトコくる訳ないじゃん? きっと二人とも観客席のどこかに……」
「………………」
「……あれ?」
家族の話をした途端、勇次朗さんの顔色が曇りだしてうなだれてしまった。『頼むからそこには触れてくれるな』と言いたげな困ったその表情、前に千夏が私達に話していた通り、どうやら勇次朗さんはこの二人の話をされるのが苦手の様だ。
「……まさか三島さん、ここまで一人で来たんですか……?」
「……千春さんと千夏ちゃん、一緒に来てくれなかったんですか……?」
「……なぁ、教えてくれ、お前達は千夏から何か俺の話を聞いているのか?」
「えぇ、まぁ、ざっとですけど、パパは家で居場所が無いとか、ママがいないと何にも出来ないとか、休みの日にどこにも遊びに連れて行ってくれないとか、あと……」
「……そんな、あんまりだろぉ、俺だって、俺だって一生懸命家族サービスしようと頑張ってんのによぉ……」
あれれ? さっき幹ノ介氏に立ち向かったあの威勢はどこへやら。よほどこの話がショックだったのか、勇次朗さんはその場にしゃがみ込んでいじけだしてしまった。しかし、勇次朗さんが三島家でこんな情けない立場に追い込まれてしまっているのにはちゃんとした理由がある。
奥井グループとの確執により、所属していたチームが消滅して夢も希望も失い途方に暮れていた勇次朗さんに救いの手を差し伸べてくれたのは、何を隠そう今の奥様であるあの千春さんなのだ。
当時ファッションデザイナーとして頭角を現し、世界でも注目されるようになった千春さんは偶然出会った勇次朗さんの腐れっ振りを見て母性本能を擽られたらしく、仕事で知り合った有名デザイナーやブランド企業に融資を依頼して新たなワークスチームを作り上げ、再び勇次朗さんに世界の舞台での活躍の機会を与えたのだ。
つまり、その千春さんの内助の功が無ければ勇次朗さんは日本人初のトップクラスでの世界チャンピオンにはなれなかった訳で、カリスマと呼ばれ伝説として語られる現在の勇次朗さんも存在していなかった訳だ。
その為三島家は典型的なカカア天下となり、勇次朗さんは家でも外でも千春さんには頭が上がらない。そんな夫婦の間に生まれた娘はカッコいい母親と情けない父親の背中を見てスクスクと態度のデカい小生意気な女に成長し、いつしかパパを見下すようになってしまったのだ。父親の威厳なんてあったもんじゃない、絵に描いた様なマスオさん状態にされてしまっているのだ。
「……今日だって『みんなで一緒に行かないか?』って誘ってみたんだぞ? そしたらアイツら、『今日は友達のブランドが大手百貨店で開店イベントを行うから手伝いで忙しいの』とか、『バイクなんてつまんな〜い、ましてやパパとお出掛けなんて絶対に有り得な〜い!』なんてほざきやがって……」
「……あ、あの、三島さん?」
「昔は千春もあんなに優しかったのに、最近は仕事、仕事ってちっとも構ってくれないし、千夏も小さい頃は『パパ、パパ!』って毎日たくさん懐いてくれていたのに! いつからアイツらはこんなに俺に対して冷たくなったんだ!? 唯一の理解者だと思ってた千秋だってそうだ! 親心で遙々こんな田舎まで全日本戦の視察にやってきてやったと言うのに、礼の一つも言いやしない! 俺はアイツのマネージャーか!? バシリか!? 一体俺がお前達に何か悪い事でもしたって言うのかぁ!?」
……あーあ、ついには地面の穴から湧き出てくるアリンコを足でグリグリ潰し始めてしまった。大先輩として尊敬している翔太ですら呆れてしまう程の哀れなその姿、私は何か余計な事を言ってしまったみたいだ。悪気は無かったんだけど、どうやら勇次朗さんの一番触れてはいけないところに容赦なく土足で踏み込んでしまったらしい……。
「おいおい那奈、虎太郎や麗奈みたいに勇次朗の事をいじめんなよ? コイツは貴之以上にメンタルが弱くて、すぐにいじけてヘコんじまうんだからよ」
打ちひしがれる勇次朗さんに更なる追い討ちをかける様に、すっかり機嫌が直った橋本さんがニヤニヤしながら会話に入ってきた。何か勇次朗さんの他の弱みを握っているみたいで、話がしたくてウズウズしてるみたいだ。
「は、橋本!? 渡瀬の金魚のフンめ、貴様、何の用だ!? 子供達の前で余計な戯言を喋ったら承知しないぞ!?」
「戯言とは失礼しちまうな、俺は真実を知りたがっている若者達に本当の事を話してあげるだけだぜ? お前はいつも虎太郎に虎太郎に小馬鹿にされては激怒してピットの中まで追いかけてきて、それを麗奈に見つかってスパイ容疑をかけられて、二人揃って正座して麗奈から説教されていたよなぁ!?」
「……き、貴様……!」
「しかもよぉ、今でこそこんなお洒落な格好してるけどよ、昔のコイツのセンスの無さったらまぁヒドいもんだったぜ? ヘルメット被ったらグチャグチャになっちまうっつーのに頭にベタベタ整髪料付けまくって、カッコイイと勘違いして首に赤いバンダナとか巻いてたんだぜ? もうダッセぇのなんの、今日のこの服だってどうせカミさんが仕立ててくれたもんだろ?」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!! それ以上余計な事をベラベラ喋るなぁ!!」
うわぁ、これはさすがに私も引いた。世界でもVIP扱いされる程のカリスマの看板がガラガラと崩れ落ちていく音が聞こえてくる。当時を良く知る関係者から語られる衝撃の新事実。私や翔太だけではなく、周りにいる他のライダーや取材陣、観客席から覗き込んでいたファン達の視線が一瞬にして冷たくなった。
「……三島さんって、昔はかなりズレてたんですね……」
「違う! 風間、渡瀬の娘、これは誤解だ! これはきっと橋本の裏で暗躍している渡瀬の陰謀だ! 渡瀬那奈よ、お前の父親はな、罪のない人間を陥れては悪魔の様な笑みを浮かべるとんでもない悪党なんだぞ! いつも俺はあの男の非道に巻き込まれては、迷惑な言われ無きレッテルを貼られて……」
「しかもコイツよ、今のカミさんに出逢うまでバリバリの童貞だったんだぜ? すでに三十間近だったってのに、手取り足取りリードされて筆卸しして貰ったんだよなぁ?」
「ぐわぁぁぁぁぁ!! 黙れ黙れ黙れぇぇぇぇぇ!!!!」
橋本さんの度重なる暴露に、ついに勇次朗さんはキレてしまった。ピット内に転がっていたタイヤやホイールを投げつけ、辺り一面はバイクの部品で散らかりまくってしまった。その見た目からはとても想像の出来ない暴挙っぷりに驚いた取材陣や野次馬はみんな一斉にその場から逃げ出し、取り残されたのは私と翔太の二人だけ。
「女房の尻に敷かれるのがそんな悪い事なのか!? 俺だってこれでも頑張って父親やってんだぞ!? それなのにお前ら寄って集ってバカにしやがって、チクショウ……」
「……三島さん、ちょっと落ち着きませんか? 千夏だって本当は三島さんの事を素敵なお父さんだって思っているはずですから……」
「そうですよ、三島さん! どんな事情があろうとも、三島勇次朗は父さんや親父さんと並ぶ偉大な日本人ライダーですよ! 俺は心から尊敬してますから!」
「……ウッ、ウゥッ……」
高校生である私達になだめられるのも何だけど、ようやく勇次朗さんは普段の落ち着きを取り戻して潤んでいた瞳をお洒落なハンカチで拭き取った。
しかし、意外にキレやすい人なんだなぁ。一見クールに見えるけど、はっきり言うとちょっと子供っぽい。こういう危なっかしいところに千春さんも惹かれたのかなぁ?
「……醜い姿を晒してしまった様だな、すまなかった……」
「……いえ、大丈夫です、私達こういうの何故か慣れてますから……」
「……あの男が今日ここにいないのがせめての救いか、アイツにこんな姿を見られていたら、一生の恥として語り継がれてしまうところだった……」
さっきまでの話のやり取りやこの言葉からもわかる通り、勇次朗さんと私の父である渡瀬虎太郎は三十年近い歴史を持つ犬猿の仲である。突然この世界に現れ嵐の様に日本国内や世界のロードレース界を席巻した父さんの存在は、子供の頃から真面目に努力を重ねてのし上がってきた勇次朗さんからしたら常に目の上のたんこぶだった。
小さい頃から両親に厳しく礼儀作法や人脈の大切さを教え込まれてきた勇次朗さんにとって、礼儀も常識も弁えない暴虐無尽な行動を起こす父さんは全く理解の出来ない正反対の人間だった。
そのいちいち癪に触る男があろう事か自分よりも先にさっさと中排気量クラスの頂点を極め、長年その王座に居座り必死に追いすがる自分を最後まで蹴落としては小馬鹿にして大喜びする、正に怨敵。奥井家との因縁の話とはまた一味違う、お互いのファン同士すらも対抗意識を持ってしまうほどの最大のライバル関係なのだ。
「……あの男には何度となく煮え湯を飲まされてきた事か、本気で裁判に訴えてやろうと思った時もあった……」
「……何か、色々とすみませんでした……」
「いや、娘の君が謝る事ではないよ、子は親を選べないし、むしろあんな父親を持つ君の方が不憫でならない……」
とは言いながらも、お互い憎悪の末に殺意か芽生えたりとか、夜中に神社で藁人形に釘を打つとかそんなドロドロした因縁って程ではないんだけどね。わかりやすく簡単に説明すると、父さんがルパ〇で勇次朗さんが銭〇警部みたいな感じかな? 何だかんだ言いあってもそんなに仲が悪いって訳じゃないみたい。実際、妻同士は学生時代からの大親友だしね。
「……あっ、そうだ!」
突然、翔太が大声を上げてピットの中に走っていった。何かを思い出したみたいで、自分が背負って持ってきたリュックの中に手を入れて何やらガサゴソと探りだした。
「あのこれ、親父さんがもし三島さんに出会う事があったら渡せって……」
翔太の手に握られているのは一枚の安っぽい封筒。どうやら中には便箋が入っているみたいで、少し形が膨らんでいる。
「……これ、本当に父さんから?」」
「……何だと? 一体何の真似だ?」
父さんからの封書と聞いて、勇次朗さんは疑いの眼差しで恐る恐るその封筒を受け取った。あの人がこんな物を送りつけるなんてかなり珍しい事だ。しかもそれが勇次朗さん宛てなんて、これは絶対に何かある。スゴくイヤな予感がする……。
「……今年に入ってまだちゃんとした挨拶が出来ていなかったから、現地に行けない代わりにこれを渡してくれって言ってましたけど……」
「……あい、さつ? だと? あの男がか? 信じられん……」
何かトラップが入ってないか厳重に確認した勇次朗さんは、封筒の中から数枚の便箋を取り出し目を通した。一体何が書かれているんだろう……?
「『新年の御挨拶』とは……、驚いた、あの男め、この歳になってやっと人様に対して礼儀を通すようになったんだな、あんな男でもちゃんとやれば出来るんじゃないか、良い心掛けだ、正直見直したぞ、うむ、関心関心……」
父さんの意外な行動に嬉しそうに笑っている勇次朗さんだけど……。毎日顔を合わせている娘からしたら、いやいやまさか、それはない。四十過ぎても悪ガキパワー全開のあの人が、この歳になったって礼儀なんて慎む訳がない。きっとその便箋の続きには、絶対に勇次朗さんを激怒させる内容が綴られているに違いない……。
「……!!」
ほーら、言わんこっちゃない。便箋に目を通している勇次朗さんの顔はみるみるうちに変色し、帽子やジャケットの色と同じくらい真っ赤っか。便箋を持つその両手は怒りてブルブルと震え出し、その脳天は活火山の様に噴火寸前……。
『……噴火寸前?』
そういえば、私はこんな反応を起こす人間を前にも見た記憶がある。確かそれはこの前の高校の入学式で、いや、それより前の県スポーツ大会の体育館でも、いやいや、もっと前のみんなで電車に乗って不良に絡まれたあの時も……。
「……わぁたぁせぇぇぇぇぇ!!!!」
便箋をビリビリに破いた勇次朗さんは再び導火線に火が点き、被っていた帽子を地面に叩きつけて頭からモクモクと火山灰を吹き出しながら周辺を見回していた。どうやら誰かを探している様子……。
「渡瀬!! 貴様、本当はここにいるんだろう!? 俺がここで怒り狂っている姿を見て、どこかで笑い転げているに違いない!! どこだ、姿を見せろ渡瀬!!」
「……い、いや、ですから親父さんは今、沖縄に……」
「そんな話、信じられるか!! 俺には見えるぞ、ヤツが腹を抱えてのた打ち回っている姿が!! 出てこい渡瀬、今日こそ貴様の息の根止めてやる!!」
勇次朗さんが破り捨てた便箋を一片ずつ拾い集め、何とか文章が読めるように組み立ててみると、やはりその内容は私の予想通りのヒドいものだった。
新年の御挨拶
Dearフサフサ三島ハゲ次朗ちゃん。
今年の正月は晴天で、チミのでこっパチの様な見事な初日の出を拝む事が出来たんだぜ。
正月早々から爆笑してしまったよ。
さぞかしチミの生え際も森林伐採が進んで温暖化がハゲしくなっている事だろう。
世界は今やエコの時代、チミも抜けた毛髪を寄せ集めて、将来を見据えてMy地毛100%のスペシャルヅラをオーダーメイドするのはいかがかな?
これからも日本のロードレース界の発展の為に、お互いハゲしくハゲましあって心も頭もヘルメットもピカピカに磨いていきましょう。
あっ、チミにはもうヘルメットなんて不要だったね、立派な天然カーボンヘッドがおでこにあるんだからね。
チミにはこれからもピカピカに輝くスーパースターで居続けくれる事を願うよ。
眩しすぎて裸眼で見たら目が潰れちまうぜ、カッコイイぜ、ハゲ次朗!
愛しの虎太郎ちゃんより
「……三島さん、更に生え際がアブナくなってる、帽子被ってればいいのに……」
それともう一つ、私が何故激怒しまくっている勇次朗さんに対して冷静な対応が出来ている理由が何となくわかった。この人目もはばからないヒドい醜態、あの女と全く一緒だ。千夏のあの大噴火は、どうやらこの父親から受け継いだものなのだろう。
「出てこい虎太郎!! 渡瀬虎太郎ぉ!!!!」
「……あーあ……」
この怒髪衝天に空も共鳴し、晴天だった天気は突然崩れだし大雨がザーザー降ってきた。サーキット場のコース一帯はバケツをひっくり返した様に水浸しになって、風も吹き荒れレースの開催は不可能になってしまった。
「……大会中止って、そりゃねーよ! 待ちに待った俺の全日本デビュー戦だったのにぃ!!」
暴風に撒き散らされる破れた便箋と貴重な髪の毛。幹ノ介氏の登場に勇次朗さんの大噴火、とんでもない嵐に巻き込まれた私の代表代理の仕事は意外な結果で幕を閉じた。もうこんなの懲り懲り! どんなに頼まれてもこんな役目二度と引き受けないんだから!!