第44話 血の管
「……いちいち頭など下げんでも良い、周りが何事かと不安がるではないか」
「……失礼しました、お義父さん……」
予想もしていなかった突然の財界の大物の登場に、過去の悪夢を知るレース関係者はおろか、周りをうろついていたスポーツ紙記者や野次馬達も皆静まり返った。灰色のスーツに身を包むその老人は頭を深々と下げている新悟さんの肩を叩くと頭を上げさせ、サーキット場全体を懐かしむ様に一瞥した。
「……サーキット場に足を運んだのは何十年振りか、何もかもが皆懐かしい……」
その老人の名は奥井幹ノ介氏、新悟さんの奥様である奥井和美さんの父親、そして、私にとって系図上では大叔父にあたる人。しかし、私以外の一般人から見ればこの人は雲の上の存在。その真の姿は日本の経済界に身を置く人間ならば誰もが知る日経連現会長。金融、鉄鋼、生産、販売、そして世界の経済の流れをも牛耳る巨大財閥、奥井グループの二代目首領なのだ。
「……お義父さんにわざわざこんな所まで足を運ばせて申し訳ありませんでした、長い道中、さぞかしお疲れかと……」
「……何、会合で近くのホテルまで来ていたのだから大した事ではない、たまにはこんな気晴らしもいいものだ、それに、お前との約束を破る訳にはいかんからな」
「……ありがとうございます、久々のサーキット場の感覚、いかがですか?」
「……この鼓膜を切り裂く様な酷い雑音、鼻を突くガソリンとオイルの刺激臭、相変わらず、私には全く理解し難い世界だな……」
日本のバイクレース界、いや世界中の、と言って良いだろう。この幹ノ介氏とはとても深い因縁がある。まだ私達が生まれる前の話、父さんが現役ライダーとして活躍してした時代に、幹ノ介氏は財閥の莫大な資金を武器に世界中の二輪車企業の部品生産工場や傘下企業に対し悪質な敵対買収行為を仕掛けたのだ。
あまりに唐突で身勝手としか思えない強引なその買収劇は、日本国内はおろか世界のロードレース界に参戦するワークスチームやスポンサー企業の経営に大きな悪影響を与え、最終的にはMFJ(全日本モータースポーツ協会)やFIM(国際モーターサイクリズム連盟)までもを巻き込み国際スポーツ仲裁機構を動かす大問題へと進展し、世界中で開催されている二輪車モータースポーツの各大会全ての運営すらも危ぶまれる最悪の状態に陥りかけた。
詳細は後で話すとして、この買収劇は父さんや貴之さんら当時のトップライダーやレース関係者、ロードレースをこよなく愛する世界中のファンや奥井のやり方に反発した他の大企業の力により未遂に防ぐ事が出来たのだが、もう二十年近く経った現在でもその時のトラウマから幹ノ介氏や奥井財閥を嫌うレース関係者は多く、その危機を乗り越えてきた体験者にとっては決して忘れる事が出来ない憎き人物でもある。
「……あのクソジジイ、ここに何しに来やがった! また俺達の邪魔でもしようっていうのか!?」
特に橋本さんは父さんと共にその混乱の中を戦い抜いてきた生き証人。こちらに杖を突きながら近づいてくる幹ノ介氏を睨みつけるその眼差しはギラギラと殺気すら漂っている。なんせ橋本さんは一番間近で、世界中を巻き込む壮絶な父さんと幹ノ介氏との『血の争い』をその目で見てきたのだから……。
「……ん? 新悟、あやつの姿が見当たらんがどうした? 今日はチームの代表として、このサーキット場に来ているはずじゃないのか?」
「……自分の確認ミスでした、残念ながら、今日兄さんはここではなく別の用件で他の場所に行ってしまったらしく……」
「……私が来たのは取り越し苦労だった訳か、とんだ肩透かしだな」
「……申し訳ありません、忙しいところを寄り道して頂いたのに……」
その騒動の後、幹ノ介氏は世界から反感を買う様な無謀な買収劇を行った理由を、自身の財閥グループの強化と世界進出、並びにそれによる日本経済の向上と発展だと説明したが、これはただの表向きの辻褄合わせの言い訳にしか過ぎない、と橋本さんを始めバイク関係者は口を揃える。
幹ノ介氏本人は決して認めてはいないのでこちらの言い分も関係者の間とマスコミや世間で噂される程度の憶測でしか過ぎない話なのだが、その本当の目的は幹ノ介氏が幼少時代から抱いていた自らの積年の恨みを果たす復讐の為に、当時世界王者として君臨し輝いていた父さん、渡瀬虎太郎を社会的に抹殺しようとした、と言われている。なぜ幹ノ介氏が父さんを失脚させようとしたのか、もちろんそれには理由となる裏付けがある訳で……。
「……おや、君は確か……、那奈、だったか? 私と最後に会ったのはまだ小さい、小学生の頃か、すっかりと大きくなって、懐かしいものだな……」
「……あの、お久し振り、です、叔父さん……」
こちらに気付いた幹ノ介氏はすぐに私が虎太郎の娘だと思い出したらしく、顎をさすりながら昔の面影を確かめるように私の姿をマジマジと眺めていた。先程の言葉通り、私と幹ノ介氏は初対面ではない。もう十年近くも前の話になるけど、貴之さんのお葬式の会場で一度父さんや母さんと一緒に対面した事がある。
あの時も黒塗りの高級車で側近を連れて来場した幹ノ介氏は、参列していた関係者や詰めかけてきたファン達には歓迎されずに罵倒の言葉や物を投げつけられていた。
その後、献花台に花を添えると父さんや母さんと一言交わしただけでそそくさとその場から立ち去っていった。涙一つも流さずに、まるで流れ作業の様に事を済ませた冷徹な雰囲気、そして、自分の多忙を優先するみたいに表情一つ変えずに立ち去っていくその姿。
それを見たせいなのか、それともこの体を流れる血が拒むのか、私は幼い頃からこの人の姿をテレビや新聞で見る度にあまり良い気分がしない。それは、高校生になった今でも変わってはいない。こうやって、画面越しではなく直接顔を合わせても。なぜ? 私とこの人には同じ血が流れているはずなのに……。
「……あやつは、虎太郎は元気にしとるか?」
「……はい、お陰様で、ゴキブリみたいに生命力があります」
「……フッ、ゴキブリか、わからなくもないな、さすがもあやつも娘には害虫扱いか」
冗談を言うつもりはなかったが、自然と出た言葉に幹ノ介氏は外部の人間にはめったに見せない微笑みを見せた。そのお陰か私達と幹ノ介氏との間にあったピリピリした緊張感は少し和らぎ、横目で様子を探っていた新悟さんは静かに一つ溜め息をついていた。
「実は、この前仕事中に偶然君の母さんと出くわしてな、少し話をしたんだがあやつの話になると途端に機嫌が悪くなってとっととどこかに行ってしまいよってなぁ、相変わらず不思議な夫婦だな、あいつらは……」
「………………」
何だか、不思議な気分になった。あの騒動で幹ノ介氏と父さん、母さんはお互いを憎み合うほど対立していたと色々な人達から聞いているのに、今は昔を懐かしむように少し顔に笑みを浮かべながら喋っている幹ノ介氏がそこにいる。
確かに、父さんも母さんも当時の話を私の前でする事はほとんど無い。そして、幹ノ介氏を批判するような言葉も聞いた事が無い。もうお互いにとっては過去の話だという事なのだろうか。
でも、橋本さんを始めまだ奥井グループや幹ノ介氏を毛嫌う人間がいるのも事実で、あの騒動で被害を受けた人達がいたのも事実。一体、何が本当の真実で誰の言っている事が正しいのか、私はそれがずっと気になっていた。
「……ところで、君は何か聞きたげな表情をしているな? 何事か気になる事でもあるのではないか?」
「……えっ? あの、それは……」
いとも簡単に見抜かれてしまった。さすがは世界の頂点に立つ偉人の直感か、あるいはそれほど考えている事が顔に出るタイプなのだろうか、幹ノ介氏の気まぐれの様な私への質問に場の空気を読んでいた新悟さんの雰囲気はピーンと張り詰め、私の背後にいるバイク人間達の殺気が更に増した気がした。
「……君が、一体何を気にとめているのかは大体予想はつく、私と、君の両親との過去の出来事が知りたいのだろう?」
「……それは、あの……」
「オイ、那奈! そのジジイと話をするな! どうせお前の事を上手く丸め込んでてめぇの都合の良い様に嘯くに違いねぇんだ! 相手にするな!」
「お、お義父さん! ここで立ち話もなんですから、とりあえず那奈も一緒にもっと落ち着いた場所でお話するのはいかがですが? その方が那奈にとっても……」
「まあまあ、お互いに落ち着きなさい、私はまだ未成年の子供に対して難しい話をするつもりはないし、ましてや嘘偽りを話すつもりもない、この後の予定も特にはないし、焦る事もなかろう」
周辺がザワザワとざわめき出した。それもそうだろう、天下の財閥王が対立し続けた相手の娘に対して過去の大事件の真実を公然の前で語ろうとしている。当時と関係の無い野次馬やマスコミにしても、スクープになるかもしれない興味をそそられる貴重な展開だ。
「さあ、遠慮無く何でも聞きなさい、私の立場や肩書きなど気にする必要はない、君は私の姪っ子なのだし、第一、君には真実を知る権利がある」
「……いや、あの……」
「単刀直入には聞きづらいか、ならば君がどれだけ私の事を知っているのか、親から聞いた、あるいは他の人間から聞いた事でも良い、私に教えてはくれないか?」
「……はい……」
私の体の中を流れる二つの血の祖先、奥井家と渡瀬家、この二つの家系の間には避けて通る事の出来ない、深く悲しい遺恨がある。それは幹ノ介氏や父さん、母さん達が生まれる前の時代まで遡る話になる。
幹ノ介氏の父親、初代奥井財閥当主である奥井武蔵氏は若い頃に第二次世界大戦中に徴兵され、フィリピン沖諸島で日本軍の作戦に参加していた。
しかし、敵の襲撃を受けて負傷した武蔵氏は命からがら援軍に助けられて終戦を待たずして日本へと帰国した。その時に同じ軍隊に所属していた心を通わせた戦友の形見を持って。
その戦友の名は、渡瀬義明。
同い年ながらも先に前線の兵士として活躍し階級も上だった義明氏は武蔵氏にとっては良い上官であり兄貴分、そして最高の親友だったそうだ。
敵の襲撃の際、負傷した武蔵氏を背負い援軍の待つ陣地まで退却した義明氏は負傷帰国する武蔵氏に形見の手紙と一枚の女性が写っている写真を手渡し、再び戦場へと戻っていった。
『もし、自分が帰ってこなかったら、代わりにこの人を守ってあげてくれ』
そして終戦、武蔵氏はひたすら義明氏の帰りを待った。しかし、義明氏が日本に帰ってきた形跡は無く、その後の義明氏の消息を知る人間は誰もいなかった。
武蔵氏は恩人である友との約束を守る為、銃で撃たれた足を引きずりながら焼け野原と化した日本中の街や村を訪ね、写真の女性を探し回った。
そして、ついにその女性を見つけた。
女性の名は百合子。幼き頃から義明氏と許嫁の関係にあり、彼女もまた義明氏の無事を願って帰りを待ち続けていた。白い肌にうっすらと首筋に血の管が写るとても美しい娘だったという。
その美しさの前に一瞬で恋に落ちた武蔵氏は義明氏との約束の話と戦中での話を百合子に伝え、彼女を支える力になる為に戦後の復興と共に一から経済学を学び会社を設立、たった一代で日本を代表する巨大財閥を作り上げたのだ。
巨万の富と名声を手に入れた武蔵氏は堂々と百合子を妻として迎え、後に二人の間には一人の男子を儲けた。その子供こそが今私の目の前にいる奥井財閥二代目、幹ノ介氏である。
何不自由ない豊かな生活、そして跡取りにも恵まれた奥井家の安泰は末永く続くものだと誰もが思っていた。しかし、その奥井家に突然現れた人物によってその幸せは一瞬にして砕かれてしまう。
戦死したと思われていた義明氏が、命からがら生きて日本に戻ってきていたのだ。
身寄りを無くし突然奥井家を訪れた恩人を武蔵氏は喜んで迎え入れた。そして、共に日本の更なる経済発展と世界の頂点を目指そうとグループ内の反対の声を押し切り義明氏を財閥の重要ポストに任命した。
しかし、その一つ決断により、奥井家の幸福に暗雲が立ち込める事になる。
それから十数年後、経営上の思考の違いから武蔵氏と義明氏は対立し、いつしかお互いグループ内に派閥が出来上がるほどの深い因縁へと発展していった。奥井グループの強かった団結力は次第に綻びが見え始め、あわや分裂の危機にまで悪化した。
この混乱を避ける為、創立者であり最大権力者であった武蔵氏はわざと事業を失敗させて、義明氏を責任を押し付けグループ内から追い出す裏工作を取った。これにより義明氏は奥井家から追い出される形となり、奥井財閥の内紛は一先ず沈静化した。
これが全ての遺恨の始まりだった。歯車の狂った運命の悪戯は、一気に混沌へと加速していく。
武蔵氏による義明氏追放の事実を知って百合子は、胸にしまい込んでいた義明氏への想いを抑える事が出来なくなり、富と名声とまだ中学生だった幹ノ介氏を捨て義明氏の後を追い奥井家を出て行ってしまったのだ。奥井家からの追跡から逃れた二つの間には、一人の男の子が産まれたという。
「……その男の子の名前は、虎太郎……」
「その通りだ、つまり、私と君の父親、虎太郎は同じ母親から産まれた父親違いの兄弟と言う訳になる」
父親であり創立者である武蔵氏が戦後の絶望の縁から命を削って愛する人の為に作り上げた幸福と、まだ物心もついていない幼い自分を捨てた女とそれを奪った男の息子。幹ノ介氏が父さんを憎む動機はそれだけで充分だっただろう。
あろう事かその息子が世界の二輪車レース界で大活躍して、日本だけでなく世界でも賞賛されるライダーへと成り上がり自分の目線の中に入ってきたのだから良い気分がする訳がない。
「……そこで叔父さん、あなたは父さんを失脚させる為にあの騒動を起こしたと……」
「……ふむ、私と虎太郎の生い立ちまでの話は君の話した通りだ、しかし、最後のその見解は事実と反しておる」
私の話を遮る様に、途中で幹ノ介氏が言葉を差しキッパリと否定した。長い話になると察したのか、幹ノ介氏は連れ添いの人間が持ち合わせていた携帯用の椅子に座り、鋭い眼差しで私の顔をジッと見つめている。
「……最後のその部分は、大凡周りのバイク連中から吹き込まれた話だろう、しかし、それは真実とは程遠い偏見にしか過ぎん……」
その瞳は年齢のせいか若干白く濁っているが、財界の長に長年君臨しているだけあってとても鋭く、冷たいものだった。まるで心の中を全て見通されてしまいそうな恐怖感に近い迫力に、私の緊張はすでに限界を超えて足が少し震えだしてしまっていた。
「このまま誤解を引きずられて訳にはいくまい、私達の血を引き、これからの将来を担う君の為にも、本当の真実を話しておくべきだろうな」
幹ノ介氏は一つ溜め息をつくと、私の目を見つめたまま言葉を続けた。
「……これまで何度も言ってきたが、私は虎太郎や渡瀬家に対して憎しみや嫉妬などといった邪念は一度たりとも抱いた事など無い、嘘や偽りは断じて無い、これは本心からだ」
「……本当ですか? 本当に、一度も無かったんですか……?」
「当たり前だろう? 仮にも、あやつは私と半分は血を分けた兄弟、大切な弟を陥れようとする兄がどこにおる? そんな馬鹿げた話は全てマスコミや野次馬が面白がって勝手に持ち上げた噂話、ただのゴシップだ」
やはり、幹ノ介氏から帰ってきた言葉は予想していたものだった。あの騒動に対し長年幹ノ介氏が言い続けてきたいつもの弁解。私は決して幹ノ介氏を信じていない訳ではない、でも、その弁解では全く納得しない人達がたくさんいるのも事実で……。
「ちょっと待て! 何偉そうに嘘八百語ってんだクソジジイ! 全てはてめぇの勝手な私念だけで引き起こした騒動だろうが!?」
「ちょっと、もうやめて下さいよ橋本さん! 偉そうにって、相手は本当にお偉いさんじゃないッスか! それに、橋本さんだってもう年齢的にはもういいジジイっスよ? ジジイがジジイに対してジジイって……」
「何だとぉ竹田! 俺はまだまだバリバリ現役だぞぉ! 離せ、あのジジイは一発殴ってやらないと気が済まねぇ!!」
私が幹ノ介氏に説き伏せられてしまわないか心配した橋本さんが間に割り込んできた。今にも幹ノ介氏に掴みかかってしまいそうな雰囲気。竹田さん始めチームクルーはみんな橋本さんを囲んで必死に押さえ込んでいる。
「那奈が子供だからってそんなふざけた話が通用するとでも思ってんのか!? てめぇの都合の良いように丸め込んでんじゃねぇぞコラァ!!」
「お義父さん! お言葉ですが自分はこの話は今ここですべきではないと思います! この続きはまた那奈ちゃんが成人になり物事の判断がつくようになった時にでも、虎太郎兄さんや麗奈さん達と一緒に……」
「……待って下さい!」
私は大声を上げて暴れる橋本さんや止めに入った新悟さんを制した。今まで、怖くて父さんや母さんに聞く事が出来なかった禁断の領域。私にこの先生きていくにおいても決して避ける事が出来ない過去の出来事。その真実を一番良く知る人物が今、私の目の前にいる。
私は知らなければいけない、本当の真実を、奥井を憎む者や外野が騒ぐ一方的な話だけではなく、私達が生まれる前に起きた出来事を、その当事者の口から。
「……叔父さん、教えて下さい、あの時何があったのか、何であんな事をしたのか……」
「……うむ、どうやら君は周りの愚かな大人達と違い、話の分別が出来る立派な子の様だな、そのあたりの性格は良く母親に似ておる……」
母さんを引き合いに出した幹ノ介氏は黒服の執事からコップを一杯受け取り口を潤すと、一度空を見上げて溜め息をつくと重苦しそうに口を開き語り出した。
「……なぜ、私があの時突然この二輪車産業に介入をしたのか、企業の買収を始めたのか、それはただ一つ、ビジネスだからだ」
「……ビジネス?」
「そう、ビジネスだ、一つの企業、グループを治める経営者にとって一番大切な才能は時代の流れを読む事、当時日本は君の父親達の活躍により熱烈なバイクブーム、その波に乗った二輪車産業の景気の上げ潮は我々奥井グループにとっても魅力的な商業市場だった、そもそもあの頃、我々は世界の経済界への戦略の為に自動車産業への介入を考えていたところでね」
確かに奥井財閥の力は現在日本や世界の商業や工業、ありとあらゆる経済の頂点に立ち、その影響はマスコミや政界にも及ぶと言われている。もちろんそれは自動車や鉄道、航空機など重工においても同様で、多数の鉄鋼や自動車を扱う企業の大株主でもある。
父さんが現役だった時は世界でも一大バイクブームが起こり、市場の景気はとても良かったらしい。そんな魅力的な市場を放っておくのは勿体無い、手間のかかる新規参入より企業買収を仕掛けてこの市場に参入して、財閥の力を更に強大なものにしたいと言う幹ノ介氏の言い分は経営者として当然の事だろう。それは私にだってわかる。でも……。
「……どうしてもわからない事があります、普通企業買収を行うとしても、お互いの企業がしっかりと話し合いを重ねて契約を結ぶのはどの世界だって常識のはずではないんですか? それなのに、あの時奥井グループが行った買収劇は乗っ取りの様な非道なやり方で、それによって多くの失業者や経済の混乱を起こしたと聞いています、それに、周りにいるみんなと同じバイクの世界に携わる人達も多大な損害がかかったって……」
「……ほぅ、そこまで自分で調べ上げているのか、最近の高校生は若い頃から様々な雑学を調べる事が出来て羨ましい限りだな、私が若い頃はインターネットはおろか、世界の情報やまともな教材すらも手に入らなかったものだ……」
「話をそらさないで下さい、私の質問に……!」
「まぁまぁ、落ち着きなさい、せっかく今まで冷静な対応が出来ていたのに、この程度の事でいちいち声を荒げている様だと賢明な大人にはなれんぞ? そのあたりの性格は父親譲りの様だな」
「………………」
「まぁ、まだ学生の立場ながら私とこうして会話のやり取りが出来るのは立派なものだ、それだけの心構えを身に付けているのならば、君には部外の人間にはまだ話していないもう一つの理由を教えてやろう」
私を軽く窘めた幹ノ介氏はあの騒動に隠されたもう一つの真実を語り始めた。それは渡瀬家と奥井家の遺恨が生み出したもう一つの因縁。私をこの世に産んだ母親、旧姓、滝澤麗奈の出生にも関わる話……。
「……あの時奥井の力がな、以前の父やあの男の時の様に分裂をしかけたのだよ、私が初代の後を継ぎ、精魂かけて再び繋ぎ止めた鉄の鎖の様な強靭な奥井の力が、君の母親の存在でな……」
義明氏と百合子が出ていった後の奥井家の悲劇はこれで終わらなかった。愛する女性を奪われた武蔵氏はその寂しさを紛らわすように富代という新たな妻に取り、二人の間には一人の女の子が生まれた。
その子は伊織と名付けられた。傷心していた武蔵氏は娘の誕生に喜び、その娘を溺愛するあまりにグループの経営を部下達に放り投げ育児に没頭し出してしまった。
新妻である富江も余りある財を無駄に食い荒らす消費家で、伊織を武蔵氏に押し付けては外て贅沢三昧の日々を過ごし、一人残された幹ノ介氏には誰も見向きもしなくなってしまったそうだ。
それでも、幹ノ介氏は奥井の衰退を止める為に学問に励み、一流大学を筆頭で卒業した後、武蔵氏に代わり影の経営者として荒れだしていた財閥内の復旧に取り組んだ。
しかし、更なる悲劇が奥井家と幹ノ介氏に襲いかかる。
武蔵氏の愛情や資産を存分に受けて育ったはずの伊織は、その異常なまでの父親の束縛に嫌気を差して、まだ高校生の身分ながら家を飛び出し同級生で恋人だった滝澤一義と言う男性の元へと去ってしまったのだ。
再び愛する女性を別の男に奪われた武蔵氏は激昂し娘を取り戻そうとしたが、すでに伊織は一義の子供を腹に宿しており、その子供を出産する際に感染症を引き起こしわずか十八歳の若さで亡くなってしまったのだ。
最愛の娘の死に絶望した武蔵氏は精神衰弱を起こし廃人状態になってしまい、伊織の死から数年後、後を追う様に息をひきとった。日本の経済界を支えた名高い偉人の最期にしては寂しく哀れなものだったそうだ。
奥井の家を幹ノ介氏に継がせる事が気に入らなかった先代の妻、富江は伊織の残した娘を跡継ぎに迎え入れようと企んだが、『この子は奥井家と関わらせないで欲しい』という伊織の遺言を守りたい滝澤一義と幹ノ介氏の猛反発を受けた。
その確執は次第に奥井グループ内で幹ノ介氏派、富代派という二つの派閥に別れ始め、再び分裂の危機が訪れた。その争いは結局富代の死去まで続き、最期まで富江は自分の孫娘の事を諦めなかったという。しかし、最後まで滝澤一義は奥井家に子供の親権を譲る事はなかった。
そして、滝澤一義に育てられたその娘は父親の仕事であり趣味でもあった自動二輪車の修理や改造の虜になり、暇さえあればエンジンをを組み立てたり改造したりするバイク少女へと成長していった。
それから数年後、一義が突然の病魔に倒れてしまった後、その父親が代表を務めていたバイクチームの跡を継ぎ、ただの一般参加の小さなチームを世界のレースの大舞台で活躍するにまで育て上げ、数々のモンスターマシンを開発、製作し所属ライダーであった渡瀬虎太郎や風間貴之を世界のスーパースターへとのし上げたのだ。
その娘の名は、滝澤麗奈。後に渡瀬虎太郎と結婚して渡瀬姪になった私の母さんである。
「この市場への参入を会議していた時に、君の母親の存在がグループ内で話題になってしまってね、すっかり消滅したと思っていた義母の亡霊が再び私の前に現れたのだよ……」
奥井グループ独自の戦略で参入を進めていた幹ノ介氏派と、すでにこの世界で成功をしていた母さんのチームと提携を結び参入する事を訴える麗奈派の対立により三度グループ内に亀裂が入る事を恐れた幹ノ介氏は、明確な方針を決めなければならなくなってしまった。
「そこで私は、半ば強引な戦略を立ててあの買収劇を行わなくてはならなくなったという訳だ……」
本来なら一つの家系図で済んだはずの奥井家の血脈、それがたった一人の『渡瀬義明』という男の存在で複雑に絡み合い、たくさんの因縁と確執を生み出してしまった。
しかも、その乱れを正す為に動いた幹ノ介氏に立ちはだかったのは、諸悪の根源である渡瀬義明の血を受け継ぐ父さんと、それによって別れてしまった『もう一つの奥井』の血を受け継ぐ母さんだった。
「その複雑な事情を聞きつけたマスコミが、勝手な憶測をでっち上げて騒ぎ立てた訳だ、那奈、君が聞いてきた話はほとんどが偽りの真実、奴らの茶番だ」
「………………」
「もちろん、君が言うようにこの騒動により無関係の人々を巻き込んでしまったのは私も重々承知している、申し訳ないとは思っている、しかしだな、ビジネスとは常に戦場、弱肉強食の非情な世界なのだよ、やらなければこちらが食われる、一人の経営者として私にも守らなければならない人々をたくさん抱えておるのだ、それだけはわかって貰いたい……」
私だってバカじゃない。
父さんや母さん、小夜のお父さんの啓介さんや千夏のお母さんの千春さんの仕事を見ていれば幹ノ介氏の言っている事は理解出来る。出来るけど、本当にそんな無茶なやり方をしなければならなかったの? 本当にこの人は父さんと母さんに対して何の恨みは無かったの? だったら何で、もっとみんなが笑い合えるような手段を取れなかったの? 私の頭の中は混乱していた。
「何が、申し訳なかった、だ! そんな都合のいい話をでっち上げてんのはてめぇの方だろうが! あの時、一体どれだけの人間が苦しんだと思ってんだ! どれだけの人間の人生狂わせて、挙げ句には自殺者まで出たんだぞ!」
明かされていなかったもう一つの真実の詳細を聞いても橋本さん達の怒りは収まらなかった。あの時、たくさんのレース関係者がその身を追われ、多くの将来有望な日本人ライダー達が夢への道を閉ざされたと聞いた事がある。必死に幹ノ介氏に食いかかろうとする橋本さんの目にはうっすら悔し涙が浮かんでいた。
「私は、当時を知らない若者達に本当の事実を伝え、間違った認識を正し誤解を解きたかっただけだよ、あれは資本主義における経営学の一つの方法であってな……」
「馬鹿言ってんじゃねぇ、何が経営学だ! 那奈、こんな奴の話なんて信じるなよ! コイツは自分の復讐と私腹を満たす為に虎太郎や麗奈や俺達を陥れようとした金の亡者だ!」
「そこまで私が渡瀬の血に恨みを持っていると言うならば、虎太郎と同じ渡瀬の血が流れる新悟を自分の娘の婿として迎え入れた件はどう説明出来る?、私はここにいる新悟に、この奥井の名を譲るつもりなのだぞ?」
幹ノ介氏の言葉に、新悟さんは唇を噛み締めて黙ってうつむいていた。その表情はみんなに申し訳なさそうに暗く沈んでいた。
『アイツは、俺に対抗する為に送り込まれてきたようなものだからな、全く、アイツが一番辛い立場だろうよ』
昔、父さんが新悟さんの事を話していたを思い出した。父さんも新悟さんもお互いの存在なんて知らなかった。幹ノ介氏が買収し出資しているワークスチームに新悟さんを連れてくるまでは。
当時、幹ノ介氏が新悟さんの父親が義明氏だと知っていたかどうかは定かではない。しかし、二人が初めて会った時、新悟さんは父さんの事を憎んでいたという。自分が辛い幼少期を過ごす事になったのは父さんのせいだなのだと。
誰かその様な話を新悟さんに吹き込んだのかはわからない。しかし、その裏では幹ノ介氏を始めとする奥井家の影があったのは事実だろう。渡瀬虎太郎と滝澤麗奈を陥れようとした何か強力な存在があったとしか思えないのが実際のところで……。
「……お義父さん、もう止めましょう、ここでこれ以上あの時の話をしても、余計な混乱を引き起こすだけです……」
「……そうだな、少し私もお喋りが過ぎた様だな」
橋本さんが上げる怒鳴り声を聞いた野次馬達が次々と周りに集まり始めた。新悟さんの言う通り、これ以上ここで話を続けると余計な騒動が起こりかねない。
「……那奈、もう止めようよ、橋本さんだけじゃなくて他のクルーの人達も何かイライラしてるし……」
「……うん、わかってる、ごめんね翔太、橋本さんに蹴られたりしなかった?」
橋本さんを止める為にメチャクチャにされていた翔太が私を気遣ってそばに来てくれた。その姿を確認した新悟さんは幹ノ介氏が椅子から立ち上がるのに肩を貸すと、出来るだけ早くこの場から立ち去ろうと背の曲がった老人の背中に手を添えた。
「……叔父さん、色々と教えて頂いてありがとうございました、お時間取らせてすみません……」
私なりに、幹ノ介氏に対して誠意を伝えるつもりだった。礼儀を弁えたお礼を言おうとしただけだった。でも、これが余計な一言になってしまった。そのまま静かに引き上げるべきだったんだ。私の言葉に未だ疑いを持っていると思ったのか、立ち去ろうとした幹ノ介氏はこちらに振り返りさらに念を押すように私に話しかけてきた。
「……最後にもう一度言わせて貰うが、君にわかっておいて欲しかったのはあの出来事が一個人のつまらん妬みや復讐などではなく、ただのビジネスの一部だったという事だけだ、これが全ての真実……」
ガンッ!!
「……!」
何か金属の様な物が幹ノ介氏に向かって投げつけられてきた。幸い、本人に当たる事はなかったが、突然のハプニングに黒服のボディーガード達は幹ノ介氏の周りを囲い辺りは騒然となった。誰かこんな事をしたのかは定かではないけど、その光景を見た奥井を嫌う人達は導火線に火がついた様に一斉に幹ノ介氏に対して罵倒し始めた。
「さっさと帰れ、この馬鹿野郎!」
「二度と俺達の前にその面を見せるな!」
「ここはお前みたいな守銭奴が来る場所じゃねーんだよ! とっとと消えやがれ!」
溜まりに溜まった怒りが爆発したバイク関係者達が私達の周りに集まり幹ノ介氏にブーイングの嵐を浴びせた。それに触発されて、橋本さんも酷い言葉を幹ノ介氏にぶつける。
「てめぇは災いを連れてくる疫病神だ! 人の面を被った悪魔なんだよ! これ以上那奈を惑わさせるような事をするんなら、てめぇのキンタマ蹴り潰してやるから覚悟しやがれ!」
「……黙らっしゃい!!」
ついに堪忍袋の尾が切れた幹ノ介氏の鬼神の様な剣幕に、辺り周辺の空気が一瞬で凍りついた。それまで冷静だったその表情は真っ赤に染まり、杖を持つ手は怒りのあまり震え出していた。
「……黙って聞いておれば好き勝手な事ばかり口にしよって! 貴様ら底辺のバイク野郎共は身分も弁えずに人を侮辱する言葉しか喋る事が出来んのか!? 恥を知れ恥を!!」
「何だと、このクソジジイ!!」
「お義父さん! もう止めて下さい! 子供達も見ているんです、帰りましょう!」
新悟さんの説得も耳に入らない。怒りに支配された幹ノ介氏は迫り寄ってくる野次馬達に対しさらに言葉を続けた。
「貴様ら連中はどいつもこいつも物事の損得もわからん馬鹿ばかり、あの時も貴様らがつまらん抵抗さえしなければ私の全ての経済戦略は成功を収め、この市場も更なる発展が見込めたはずだったのだ! その努力を虎太郎や麗奈や貴様らは寄ってたかって無駄にしよって! 信頼だの友情だのと戯言を並べて、私を最後の最後に裏切ったあの男の様に地獄に堕ちるがいい!!」
「……!」
私の横で、ギュッと厚手の布が軋む音が聞こえた。翔太だ。翔太がライダーグローブを握り締め、拳を震わせていた。この顔は今まで私が見た事の無い、鬼神の様な怖い表情をしていた。
「……今、何て言った……?」
「……何? 何だ貴様は? 子供の分際で、貴様も私に楯突くつもりか!?」
「今、何て言ったんだー!!!?」
「翔太!!」
ボディーガードの制止を潜り抜けた翔太はそのままの勢いで幹ノ介氏を突き倒すと、胸ぐらを掴み上げて睨みつけた。突然の暴動に周りの野次馬達は呆気に取られ、ざわついていた雰囲気は一気に静まり返った。
「……地獄に堕ちただって!? 人として正しい事をした人間が、何で地獄に堕ちなきゃいけないんだ!? 大切な仲間を守ろうとした人間が、何でそんな言われ様されなきゃいけないんだ!?」
幹ノ介氏が最後に例えに出した人物、それは翔太にとって永遠の憧れの存在であり一番大切な思い出がある忘れる事の出来ない人。あの時、幹ノ介氏から世界チャンピオンになれる機会と代わりにチーム買収の協力を囁かれながらも、その誘惑を打ち絶ち親友である父さんや母さん達チームの仲間、そしてレースを愛するファン達を守る為に奥井の暗躍を世界中に告発した勇者。たくさんのファンに愛され、惜しまれつつ風となったあの伝説のライダー……。
「例え財界のトップだろうと、総理大臣や大統領だろうと、父さんを侮辱するヤツは誰か相手でも絶対に許さない! 相手が親父さんだって許さない! 絶対に、絶対に許さない!!」
「……まさかお前、風間の、息子……?」
「何やってんのよ翔太!? 暴力はダメ! ダメだってば!?」
「翔太君、今すぐお義父さんから手を離すんだ! でないと、君は警察に連行されてしまうかもしれないんだぞ!?」
私と新悟さんが何とか引き離そうとするが、翔太はその手を緩めようとはしてくれない。驚いて言葉を失う幹ノ介氏を睨みつけたまま、怒りが収まりそうな気配はなかった。
「手を離しなさい! 君はこのお方が誰がわかってこの様な暴力を働くのか!?」
「いいぞ翔太、やっちまえ! お前ら、あの黒服連中から翔太を守るんだ!!」
翔太を引き離そうとするボディーガードと、橋本さんにハッパをかけられたクルー達の間で大乱闘が勃発してしまった。穏やかに進行するはずだった全日本ロードレース開幕戦は一転して修羅場と化し、チームの臨時代表を任せられた私にはとても手に負えない騒動になってしまった。
『……父さん、母さん、私は一体どうしたらいいの……?』
怒り狂ったみんなを止められるのは、きっと昔の騒動を良く知っていて、父さん達と共にあの時代を生き抜いてきた人間にしか出来ないだろう。私の様な子供ではなく、父さんや母さん同じくらいのカリスマを持った人にしか……。
ブバン! ブバンブバン!! ブババババババアアンン!!!!
突然、鼓膜が破れそうな程の爆音が辺り周辺にこだました。それと同時に真っ黒い排気ガスがこちらに舞い上がってきて、私を始め怒っていた翔太や他のバイク野郎達もさすがに噎せ返り、一斉にその煙の先に目をやった。
「随分と盛り上がっているみたいだな、でも、少しオイタが過ぎるんじゃないのか?」
『……誰? まさか父さん……?』
いや、違う。スタイリッシュなレザーのジャケットとパンツに身を包み、長身の長い足で翔太のバイクにまたがるその姿、父さんとはまるで別人。
「……天下の奥井グループの当主ともあるお方が、こんな田舎のサーキット場で子供と喧嘩など、マスコミのいいネタにされてしますよ、日経連会長殿?」
その人は、父さんや貴之さんと一緒に日本のバイクレース界を引っ張ってきた先駆者の一人。そして今も、世界中のライダーやファンから『走る伝説』として崇められる現役世界ロードレーサー。父さんと並ぶ、もう一人の絶対的カリスマ。
「……三島か、これはまた懐かしい顔が現れたものだ……」
暴君・渡瀬虎太郎最大のライバルでありあの千春さんの夫、そしてあの千夏の父親、三島勇次朗。この人の登場でまた一つ私達の知らない過去の真実が明かされる事となる。