第39話 君が好き
「ほら、ちゃんとしっかり混ぜないと固まっちゃうよ!? 味見なんかしてる場合じゃないでしょ小夜!?」
「だって味見しないと美味しいかどうかわかんないもーん! ペロッ、やっぱり甘くて美味しーい!」
「市販のチョコ溶かしただけなんだから当たり前じゃない!? アンタは作りに来たの、食べに来たの!?」
ずいぶん久し振りにやってきた遠藤家の台所。バレンタインデー当日の日曜日、私は小夜や麻美子と一瞬に手作りチョコレートの創作に取りかかっていた。まぁ、手作りって言ったってチョコを溶かして型に流し込むだけの簡単なものだが。
「……でも、まさか那奈さんまで手伝ってくれるなんて思ってませんでした、那奈さんも誰か男の人にチョコをあげるんですか?」
「……いや、あの、それはね……」
「……あっ、那奈さんがチョコあげる人なんて一人しか考えられないのに、何か野暮な事聞いちゃいましたね、ごめんなさい、ウフフ」
「……麻美子、アンタ少しずつ性格悪くなってきてない?」
「えっ、そうですか? そんな事ないと思いますよ、那奈さんが意識し過ぎてるんじゃないですか? ウフフ」
「……このヤロー……」
あのクリスマスの日以来に再会した麻美子は思っていたよりも元気で明るく楽しそうだった。体の調子も良く、お腹の赤ちゃんも順調に育っているらしい。
現在妊娠五ヶ月。一時的の体調不良からは脱出して安定期に入りつつある。見た目でも若干お腹が膨らみ始めて、小柄な体ながらも妊婦さんなんだなっとわかる様になってきた。しかしそれ以上に何か全体的に……。
「……つーか麻美子、アンタちょっとさ……」
「えっ、何ですか?」
「……太った?」
「……あぁ〜! 那奈さんにも言われた〜! この前も彰宏兄ちゃんに言われてショックだったのに〜!」
「……そんな、泣かなくたっていいじゃない? 食欲がある事は良い事なんだからさ……」
「……だって、だってみんなしていっぱい食べないとお腹の子供が大きくなれないって言うから〜、好きで太った訳じゃないのに〜!」
「いいなー、いいなー! 麻美ちゃんご飯いっぱい食べれていいなー! でもこれからお腹の赤ちゃんもどんどん大きくなるから、麻美ちゃんもっとおデブさんになっちゃうねー!?」
「……う、うぅ、うわーん!!」
「小夜! アンタ少しは言葉を選びなさい!」
やれやれ、妊婦さんは精神的にもずいぶんとデリケートの様だ。しかし、あの麻美子が本当にお母さんになるなんて今でも信じられない。ついこの前まで一緒に学校に通っていたというのに。
「……で、学校はどうするつもりなの? 中等部はともかく、もうじき私達も高等部進級だよ?」
「そーだよ麻美ちゃん! 学校に麻美ちゃんがいないと寂しいよー! 赤ちゃん産んだらまたあたし達と一緒に学校行こうよー!?」
手のひらがチョコまみれの小夜に両手を握られた麻美子は一瞬寂しそうな顔をしたが、すぐにニコッと微笑んで小夜と私の顔を見て明るい声で喋りだした。
「……学校、辞めるつもりです、もちろん音楽も……」
「えー、そんなー!? 麻美ちゃんそんなのヤダよー!?」
突然の決意の言葉に小夜が必死に抵抗したが、麻美子はすでに自分の人生の歩む道を決めたみたいで、その決断が揺らぐ事は無かった。
「……確かに高校までは行きなさいってお母さんもお父さんも彰宏兄ちゃんも言ってくれたんですけど、どうしてもこの子を置いて学校に行くなんて考えられなくって、いつもちゃんとそばにいてあげたくて……」
麻美子は下に目を落として自分のお腹を見て両手で包み込む様にゆっくりと手を添えた。その優しい目はすでに母親の瞳をしていた。
「……音楽の事も井上さんとちゃんとお話して、真中啓介さんにも伝えていただきました、決まっていたお仕事もちゃんと丁寧にお断りして……」
「……でもね麻美子、ちょっと不安な話になるけどさ、音楽はともかく学校は中卒だと色々とこれから苦労する事があると思うよ? アンタ本当にそれでいいの?」
私の余計な不安を吹き飛ばす様に麻美子はニコッと満面の笑みを浮かべて自信たっぷりにその問いに答えた。
「大丈夫です、私、一人じゃないから、彰宏兄ちゃんがそばにいてくれますから!」
……なるほど、これが愛の力ってやつか、あんなに誰に対してもオドオドしてた麻美子がこれだけ強い女性になれるんだから効果は相当なものなんだろう。私のつまらない心配など不要だったようだ。
ところで、その肝心の旦那様であの時は見事なダメ男っ振りを発揮して株を下げた彰宏さんだが、改めて麻美子と一緒に力を併せて生きていく事を決意して新たな仕事先を探していたところに意外な所から就職のお声がかかった。
「……彰宏兄ちゃん、仕事先でイジメられてないですよね? この前も体にアザが出来てたんですけど、大丈夫ですよね……?」
「……それは、多分『かわいがり』ってやつじゃないかな、お姉の言葉で言うところの……」
事もあろうに、あのひ弱そうな彰宏さんがお姉が所属している格闘技団体の専属ドクターとして再就職したのだ。もちろん話を持ちかけたのはお姉なのだが、偶然にもその話を聞いた団体の社長さんが遠藤先生とは昔からの知り合いで、麻美子への同情とあまりにヘタレな彰宏さんを心配して雇ってくれたのだ。
そして今は格闘家の怪我とはどんなものなのかを学ぶ為に代表さんやお姉、その他の選手達にリングの上でその身をもって学習させられているらしい。『アイツの為だ』とお姉は笑いながら私に話したが、彰宏さん本人は毎日青アザが絶えないようだ。
「……本当に優歌さんには心から感謝しています、私達の恩人です、赤ちゃんが産まれたら一番最初に優歌さんに見せてあげたくて……」
「……『鬼』の好物は赤子だっていうから、食べられないように気をつけてね……」
お姉が恩人ねぇ。あの人のせいで人生が狂ってしまった被害者は何人かいるらしいが、恩人なんて言ってくれる人を見るのは初めてかもしれない。こんな話はめったに無いだろうしとてもありがたい話だ。
でも、私は麻美子の気持ちをお姉の前で話せる勇気がない。多分お姉はこの話を聞いて喜んでくれるかもしれないけど、同時に辛い思いをさせてしまうかもしれない、お姉の過去を知ってしまった今ではとても私には……。
「……那奈、麻美ちゃん、出来たよー! チョコを全部型に注いだよー、後は冷やして固めるだけだねー!」
そうこうしてたらいつの間にか手作りチョコの行程は完了していた。溶かしたチョコが若干余ったが、無事に予定通りの数の形に隙間なくちっきりと流し込む事が出来た。後は冷蔵庫に入れてしっかりと固まった完成品を待つのみ。
「チョコ、チョコ、チョコーたべたーい!」
「瑠璃ちゃーん、チョコもうすぐ出来るよー! ちゃんと瑠璃ちゃんの分も作ったからねー!」
二階から瑠璃とそれを追って航が降りてきた。調理中に瑠璃がつまみ食いしないように航に食い止めていてもらっていたのだが、隙を見て降りてきてしまった様だ。
「チョコまだー? いまたべたい、いまたべたい、いまたべたーい!」
「じゃあ瑠璃ちゃん、この余ったチョコなら食べてもいいよー!」
「わーい! チョコあまーい、おいしー!」
「…………瑠璃、食べ過ぎだ、鼻血が出るぞ」
「指ですくって舐めるんじゃないの、行儀悪い! ちゃんとスプーンか何かで食べなさい! ちょっと聞いてるの? 小夜、瑠璃!?」
やれやれ、瑠璃ももうすっかり普通の女の子みたいに元気になって、小夜の影響かちょっとずつイタズラ好きになってきたみたいだ。歩く事も喋る事も出来なかった頃を忘れてしまうくらい、今では家の中を小夜と一緒にドタドタ駆けずり回っている。
これならもうじき普通の子供と同じ様に学校に行って勉強や運動が出来る様になるだろう。遠藤先生の言葉を借りるようだが、本当にこの回復振りは奇跡としか言わざるおえない。
「どっしようかなー? あたし一人でチョコ全部食べちゃおうかなー!?」
「たーよ、ズルいー! るりもたべたいー!」
逃げる小夜、追う瑠璃、そして瑠璃が転ばないように後ろを追いかける航。時計の針の様にクルクル家中を追いかけっこをしている三人を眺めながら、麻美子と最近の学校の出来事を話していたらあっという間に三十分が過ぎた。もうそろそろ冷蔵庫から出して型を外してもいいだろう。
「うわー、麻美ちゃんのチョコ可愛ーい! ハートのデザインの中に男の子と女の子がいるよー!」
「……一応、私と彰宏兄ちゃんのつもりなんです、このチョコみたいにとろけちゃうような関係でいられたらいいな、なんて、エヘッ」
「はいはい、どうもご馳走様」
もうすっかり新婚さん気分の様だ。見てるこっちが妬けてしまって恥ずかしくなっちゃう。日頃仕事でお姉達にボロボロにされてる彰宏さん、喜ぶだろうなぁ。
「……ところで、小夜ちゃんはどんな型にしたの?」
「あたしねー、ウサギさんとゾウさんとキリンさん! ちゃんと出来てるかなー?」
「コラコラ! そうやって無理やりバキバキ型を外すんじゃないの! もっと丁寧にやりなさい、って、あーあ……」
叩いたり振ったり型を強引に外すもんだから、まぁ予想通りと言うか見事なヒドい出来映え。ウサギは耳がポッキリ割れてスフィンクスみたいになってるし、ゾウは鼻がなくなって耳の怪物、キリンに至っては首が真っ二つ、何て残酷な風景だろうか。
市販の型を使いチョコを流し込むだけの単純な作業にもかかわらず、毎年この完成度なのだから本当に小夜の芸術才能には恐れ入る。これじゃとても食欲が湧かない。
「……だからあれほど最後まで丁寧にやりなさいって言ったのに……」
「あれー、おかしいなー? でもとりあえず完成! ウサギさんは瑠璃ちゃんに、ゾウさんは航クンにあげるね! あっ、でも航クンは背が高いからキリンさんの方がいいかなー?」
「…………キリンさんが好きです、でもゾウさんはもっと好きです」
「キリンさんおいしー!」
「……ちょっとアンタ達、もう食べちゃうの? つーか、何で違和感なくそんなにパクパク食べられるの?」
……うーむ、作った小夜も相当だが、それを平気な顔して食べてしまう栗山兄妹恐るべし。まぁ、元は市販のチョコだから不味くは無いだろうし、作った本人や貰った人間が嬉しそうにしてるから別にいいのかな?
小夜達は早々に出来たばかりのチョコをその場で仲良く平らげてしまったが、私と麻美子は人にあげる為に作ったのだから食べてしまう訳にはいかない。出来たチョコをに箱に入れて本に書いてあったラッピングを真似して丁寧に包んだ。
「……さっきは隠れて見えなかったんですけど、那奈さんはどんな型のチョコにしたんですか?」
「……内緒……」
「えっ〜、内緒だなんてちょっと意外です〜、那奈さんも女の子みたいな可愛いところがあるんですね! ウフフ」
「もう、うるさいなぁ! 千夏みたいなツッコミしないでよ!」
ついに麻美子にもニヤニヤしながら冷やかされる様になっちゃったか。この話を聞かれたら学校で翼や千夏に散々イジくり回されるんだろうなぁ。でも仕方ない、自分でこの煮え切らない気持ちに終止符を打つって決めたんだ。もう迷わない、度胸だけなら他の女子に負けない自信があるもの!
「……那奈さん、一緒にこれを持っていって下さい!」
夕方になって家に帰ろうとした私達を呼び止め、麻美子が玄関まで見送りに来てくれた。その手には彰宏さんにあげるチョコとは違う、別のラッピングがされた箱があった。
「……これ、優歌さんに渡して下さい! 女の子同士でチョコを渡すなんておかしな話ですけど、どうしてもこの前のお礼がしたくて一緒に作ったんです!」
「お姉に? うんわかった、渡しておくね」
きっと麻美子はもっとちゃんとしたお礼がしたかったんだろうが、今のこの体じゃ出来る事は制限されるだろうし、お姉もあまりかしこまったお礼をされると『うぜぇ』と嫌がるだろう。甘い物辛い物何でも問わず食べ物が好きな人だからこれくらいのプレゼントが一番良いのかもしれない。
「那奈の作ったチョコ見てみたいよー! 食べないでどこかに飾ってくれたら見に行くのにー!」
「飾ったってアンタが来たら食べちゃうんでしょ? これは小夜の分じゃないからダーメ!」
「うー、那奈のイジワルー!」
帰りの電車の中でも小夜が指をくわえてチョコの入った箱をジッーと見つめている。隙を見せたら食べられてしまいそうで怖い。駅から帰り道、小夜の頭を押さえてチョコを奪われない様に家路を歩いた。
他人にあげる物なのにそれを必死になって守る自分、こんな事初めてかもしれない。自分の無意識にした行動にちょっと不思議で気恥ずかしい気持ちになった。
でも、それもそうだよね。このチョコには今の私の精一杯の想いが詰まっているんだから、小夜に食べられてたまるか!
「……帰ってきちゃったなぁ……」
小夜と別れて家の玄関の前に着いた私は緊張のピークに達していた。この時間ならもう翔太はいつものバイクの練習から帰ってきているはず。
どんな顔してチョコを渡せばいいんだろう。どんな言葉でこの気持ちを伝えたらいいんだろう。そんな事より、翔太はちゃんと私の気持ちを受け取ってくれるのかな。これからも私と翔太は今までみたいに仲良く出来るのかな……。
色んな期待と不安が私の心の中を巡り廻って、押しつぶされちゃうくらいに怖くなった。でも、もう逃げたくない。誤魔化したくない。これ以上自分自身に嘘をつき続けるなんて出来ない。震える両足を手でパンパンと叩いて気合いを入れて、私は玄関のドアを開いた。
でも次の瞬間、私の気合いは見事に空回りした。いつも見慣れた男性用のスニーカーが玄関の靴置き場に無い。外に出て車庫を覗いてみてもバイクやヘルメットなど用品も持ち出されたままだった。
「……あれ、まだ帰ってない……?」
確か今日の練習は父さんと一緒に近場の駐車場を借りてターン中心の予定だったはず。いつもなら暗くなる前には練習を終えて帰ってくるはずなのに、私が家に到着した時はすでに夕方五時半を回っている。何かあったのだろうか。
「……あぁ那奈か、お帰り……」
「……お姉? 何、どうしたの……?」
おかしい、明らかにおかしい。一人で留守番していたら寂しくていきなり飛びついてちょっかいを出すお姉が暗い部屋の中でテーブルの椅子に腰掛けてうつむいていた。凄い嫌な胸騒ぎがする。まさか、まさか……?
「……ねぇ、お姉? 何かあったの? まさか父さんや翔太に何か……!?」
「……翔太が、事故った……」
「……えっ!?」
「……さっき、虎太郎ちゃんから電話があったんだ、すぐに病院に担ぎ込まれたらしいんだけどな……」
私の頭の中に貴之さんの事故の映像がフラッシュバックした。狭い場所で練習してただけなんだからそんな大きな怪我じゃないはず。でも、でも、もし転倒した時に打ち所が悪かったりしたら……。
「……病院って……、やだ、そんな大きな事故じゃないんでしょ!? 車道を走ってた訳じゃないんだから、命に関わる様な話じゃないんでしょ!?」
「……那奈、落ち着け! 辛いかもしれねーけど、ちゃんとあたしの顔を見て話を聞きな!」
何それ、辛いって、何よそれ!? 翔太に何があったの!? ……まさか、死んだ……? そんな、そんなの嘘だ!
「……嘘でしょ、嘘だよねお姉!? 冗談でしょ!? だって父さんだって一緒だったんでしょ!? いつも安全第一で練習してたじゃない、なのにそんなの嘘でしょ!?」
「那奈、頼むから落ち着け! これは現実なんだよ! どうしようもねーんだよ! アイツがバイクの世界に生きる事を選んだ時から、あたし達だって覚悟していた事だろう!?」
「だって翔太は貴之さんの叶えられなかった夢を引き継いで今まで走ってきたんだよ!? 貴之さんがいづみさんや私達に残してくれたたった一つの忘れ形見なんだよ!? それに、まだプロデビューだってしてないし、まだ私と同じ中学生なんだよ!? まだまだこれからいっぱい色んな事をして、色んな人達と出会って、色んな場所に行って、……まだ、まだ何もしていないじゃん!!」
「……もう止めろ那奈! あたしだって辛いんだ……!」
……お姉の反応に私は茫然としてその場に座り込んだ。手に持っていたチョコの箱も下に落としてしまい、ラッピングで付けた星形の飾りが床に飛び散った。
一番、一番私が恐れていた事。あの時、翔太やいづみさんと目の前で見た貴之さんの事故。翔太がバイクに乗りたいと言い出した時、私が最初に頭に浮かんだあの惨劇。
あの二の舞になってほしくない。練習でもレースでも無事で帰ってきてほしい。私が、父さんより、母さんより、お姉よりいづみさんよりも心配して気遣ってきた翔太のバイクでの事故。ついにそれが今日、起こってしまった。
「……だから、ずっと無茶はしないでって言ってきたのに……」
一年間の夏、サーキットで翔太が大きなバイクに乗った時からこんな事になりはしないかとずっと不安だった。それから、翔太が父さん達と郊外に練習に行った時も、私は家でずっと無事を祈ってきた。
なのに私は、その気持ちを翔太に対して恥ずかしくて素直に表現する事が出来なかった。本当は無事に帰ってきてくれて嬉しいのに、いつも意地を張って冷たくあしらったり嫌みばかり言ってしまった。
もし、あの夏の日に翔太に素直な気持ちを伝えて改めて無理をしないように頼んでいれば、この事故は防げたかもしれない。いや、その後でももっと早く翔太に自分の気持ちを言えたら、『翔太が一番大切なんだ』って言えたら、少しは翔太も加減して練習してくれたかも知れないのに。こんな事になるんだったら、もっと早く……。
「……何で言えなかったんだろう、ちゃんと『好き』って伝えれば良かった、翔太、翔太……」
涙が止まらない。苦しさと、悔しさと、寂しさが入り混じって私の心を突き刺してくる。世界で一番大切な人をなくしてから今更気付くなんて、何て私はバカな人間なんだろう。せめてもう一度だけ翔太に会いたかった……。
「……ブッ」
……ブッ? 跪いて涙をこぼす私の頭の上から何か空気が漏れる様な音が聴こえてきた。その音にふと上を見ると、さっきまで真面目な表情を演じていた地上最低の女が笑い顔を隠しながら嬉しそうに肩を上下に揺らしていた。
「……ヒ、ヒ、ブッヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッ!! 何を簡単に騙されてんだよおめーはよぉ!? たかだか狭い駐車場での練習で転んだぐらいで致命傷になる訳ねぇだろ!? アホがおめーは!?」
「……えっ?」
「ほんっとおめーは翔太の話になると食いつきが良いよなぁ!? こんな下らねぇ嘘に引っかかってピーピー泣いちまってよぉ! 可愛いじゃねぇか那奈ちゃ〜ん! アヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッ!!」
……やーらーれーたー!! こんな下らない幼稚な小芝居を、翔太にチョコを手渡す事で頭が真っ白なっていて見抜く事が出来なかった。言われて見ればそりゃ確かにそうだ。サーキット場ならともかく、時速十キロ程度しか出ない狭い駐車場で転んだって怪我などたかが知れてる。
「まさかおめーが今持ってるその箱の中身は、涙が出ちゃうほど愛しくて大好きな翔太キュンへのチョコレートかよ!? 何だかんだいっておめーら、やっぱりラブラブなんじゃねぇか!? お姉様は妬けちまうぜバカヤロー! ブッヒャッヒャッヒャッヒャッ!!」
「……最っ低……」
「そうかそうか! だっだらよぉ那奈、泣くほど翔太が好きなら今から病院まで行ってチョコでも処女でも渡しちまえ! どっかに空いてる病室があったら鍵閉めてしっぽりしまちえよ!? この優歌様の妹名乗るんだったら、それ位の女気を翔太や虎太郎ちゃんに見せつけてやりな! あー、腹痛ぇ」
「バカ! お姉のバカ! バカバカバカー!!」
麻美子から預けられていたお姉宛てのチョコを思いっ切り嘘つき女に投げつけて、私は翔太が治療を受けている病院へと走った。もちろん、私が作ったチョコが入っているプレゼントの箱を握りしめて。
まんまと騙されたのは凄く悔しいけど、お姉のお陰で緊張が解けたと言うか、胸に支えていた最後のわだかまりが取れた気がした。
もう後悔なんかしたくない。家族の事とか、仲間の事とかなんてもう関係ない。父さん、母さん、いづみさんから怒られても、お姉や翼や千夏に冷やかされても構わない。
翔太は私にとってかけがえのない大切な人。世界で一番大好きな人。もしかしたらフラれちゃうかもしれないけど、絶対にこの気持ちを翔太に伝えたい……!
「……おぅ、那奈じゃねぇか、何だ? そんなに息切らして、何かあったのか?」
病院に到着すると、喫煙所のソファーに足を組んでタバコを吸って座っている父さんがいた。私はその父さん緊張感の無い顔を見て、翔太の怪我が大したものではないと感じ取る事が出来た。
「おぅ、何だその箱? おぉ、そうか! そういや今日はバレンタインデーだったな! わざわざ急いで俺の為にチョコを届けに来てくれたって訳だな? 何て父親思いの娘なんだお前は! パパはそんなお前が大好きだぞぉ!!」
「……あっ、ごめん、父さんの分、作るの忘れてた……」
「な、ナンダッテー!?」
そうだった、父さんの分をすっかり忘れてしまっていた。今まで一度も父さんにもチョコをあげた事がなかったから、今回くらい一緒に作ってあげれば良かったかなぁ……。
「かっ〜! おめぇも優歌も親孝行って言葉を知らんのか、この罰当たり者がぁ! アッタマきた、もう帰る! キャバクラ行ってバイトのお姉ちゃん達にチョコ催促するからいいんだもん! 翔太の面倒はおめぇが責任もって見やがれ、プンプクプンのっプーン!」
まるで子供の様な捨て台詞を吐き、頬を膨らませて足をバタバタ鳴らし歩きながら父さんは病院から出ていった。ふざけた態度をとっていたけど、きっと父さんは私が持っているチョコの贈り主が誰だかわかっていて、あえて空気を読んでこの場から立ち去ってくれたのかもしれない。
結局、父さんもお姉も私と翔太の事を思って影ながら応援してくれていたのかな。なかなか素直になれなかった私達を見守っていてくれていたのかな。父さん、ありがとう。市販のチョコで良かったら明日プレゼントするよ。お姉、ありがとう。でも今回の嘘は絶対に許さないけど。
「……じゃあ風間さん、お大事に」
「いきなり押しかけて診察してもらってすいませんでした、どうもありがとうございます……」
診察室の扉が開き、中から翔太が出てきた。右手の肘に包帯を巻き、右足もビッコを引いて思ったよりも痛々しい姿だった。でも、命に別状は無さそうでホッとした。無事な翔太の姿を見て、私の胸はキュンとして息が止まりそうになった。今すぐにでも翔太に気持ちを伝えたかった。なのに、なのに私は……。
「……あれ、那奈? どうしてここに……?」
「バカッ!!」
……やってしまった、見事な逆噴射。チョコや優しい言葉を贈る前に、思い切り翔太の顔をひっぱたいてしまった。あれだけ心配してたのに、当の本人が私の顔を見て何事も無かった様にボケッといているのに腹が立って我慢出来なくしまった。
「……痛ぇ! 何だよいきなり、何でぶっ叩かれなきゃいけないんだよ!?」
「……バカッ! 下らない事やって怪我して、恥ずかしいと思わないのアンタは!?」
……違うよ、違う。私の言いたい事はこんな言葉じゃない。もっと伝えたい大切な気持ちがあるのに、口が、体が、言う事を聞いてくれない……。
「下らないって何だよ!? バイクの練習して怪我すんのがそんなに下らない事かよ!? 俺にとってバイクは父さんが俺に残してくれた唯一の形見なんだよ! それを下らない事って、いくら那奈でもそんな言われ方俺は絶対許さないぞ!?」
「下らないじゃない!! ただ同じコースをグルグル回るだけのお遊びに馬鹿みたいに夢中になって、挙げ句の果てには命まで放り投げて! 翔太も父さんも貴之さんもバカよ! バカバカバカッ!!」」
「……那奈! お前……!!」
「無事に帰ってくれる事を祈って待っている女達がどれだけ苦しい思いをしてるか知ってるの!? 母さんやいづみさんがどれだけ心配してるか知ってるの!? 何にも知らないで走る事ばかりに夢中になって、全然私達の気持ちをわかってくれてないじゃん!!」
「……な、那奈……?」
翔太が驚いた顔をしている。私の気迫に負けた? いや違う、そうじゃない。私の顔をじっと見つめて、切なく表情をして目を潤ませている。
「……あれ……?」
私の手に、一粒の滴が落ちた。泣いてた。いつの間にか私の目から大量の涙が流れていた。ずっと、ずっと今まで胸に秘めていた気持ちや言葉、想いや願いや祈りが、一斉に涙として噴き出してきた。
「……小夜だって、翼だって千夏だって、航だって薫だって麻美子だって、みんな翔太の事を心配してるんだよ? 大きな怪我をしないように、いつまでも一緒にいられますようにって……」
ずっと支えていた心の扉が涙ともに溶けていった。私はありったけの想いを伝えた。震える体で、震える心で、そして、ちっとも私らしくない情けない小さな震える声に精一杯の気持ちを込めて……。
「……ううん、みんななんかより、何倍も、何十倍も、ずっと昔から、私は翔太の事を心配してきたんだよ、ずっとずっと、祈ってきたんだよ……」
「……那奈……」
「……だって、だって私、翔太の事が好きだもん、誰よりも一番、翔太の事が好きだもん、これからもずっと、翔太と一緒にいたいよ、翔太と離れたくないよ、だから、だから……」
最後は声がかすれてしまった。長年積もりに積もった言葉は、振り絞って喉から声にして出すにはとても大きなものだったみたいだ。
「……那奈、ごめんね、心配かけて本当にごめん……」
涙で翔太の顔をはっきり見る事が出来なかったけど、多分翔太も半ベソをかいていたと思う。だって少し、鼻声だったし。
「……俺、絶対に父さんみたいに死んだりしない、必ず那奈のところに帰ってくるよ、約束する……」
ボロボロに泣いて服の袖て涙を拭っていた私の両手を、翔太は力強く握ってくれた。小さい頃からずっと私の側にいてくれた暖かい温もり、私達はやっと、あの頃の二人に戻れた様な気がした。
「……俺も那奈の事、ずっと好きだったんだ、でも怖くて言い出せなくて、ごめん、本当にごめん……」
「……うん、私も凄く怖かった、今までごめんね……」
私も翔太も鼻声で声がかすれて言葉が聞き取り辛かったけど、そんな事は気にならなかった。だってお互いに何を伝えたかったか、繋いだ手からちゃんと伝わってきたし、真っ赤に目を腫らした顔同士を見て笑いあった時に全てを分かり合えた気がしたから。
「……じゃあ改めて、那奈、俺と付き合ってくれ!」
「……どうしようっかな……」
「……何だよそれ……」
それからしばらく、私と翔太は待合室のソファーに並んで座ってずっと手を繋いでいた。こんなに長く、強く手を繋いだのはいつ以来だろう。やっぱり私にとって翔太はとても大切で、一番の存在だったんだ。それを今日、心から実感する事が出来た。告白して本当に良かった……。
「……あっ、そうだ、これ……」
夢中になりすぎて握りしめてしまっていたバレンタインのチョコの箱。ちょっとしわくちゃになったけど、人生初めてのバレンタインチョコを翔太の膝の上に置いた。
「……えっ、何これ?」
「……弁償、チョコ作ってみた……」
「……マジ? マジで? 俺に!?」
「……そうだよ、ほ、欲しかったんでしょ?」
「ちょちょちょちょ、ちょっと待って!? これってつまりこれってこれってつまりあのつまりあれあれあれあれって、えっー!?」
「何をそんなに慌ててんのよ!? 恥ずかしいしみっともないでしょ!? もう!」
「うわぁー、マジだ、マジだこれ、すげぇー、何かすげぇー」
……目を血走らせて箱を両手で持ってクルクル回して見つめてる。たかがチョコ一つごときで何をこんなに興奮してんだか。こんな調子じゃ何か先が思いやられるなぁ、全く……。
「……あ、あのさ、今ここで開けていい?」
「スケベ」
「えっ、何で?」
「……ご自由にどうぞ!」
「じゃ、じゃあ早速!」
「ちょ、ちょっと! そんな雑にラッピング外さないでよ!?」
せっかく綺麗に仕上げたラッピングなのに慌てまくって解けずに最後はビリビリ破り始めちゃったこのバカ。あーあ、何かスッゴいガッカリ。さっきまでのドキドキ感は何だったんだろう? 本当にムードぶち壊しなんだから……。
「……うわぁー、結構本格派じゃん、ありがとう……」
驚いている翔太の顔を見て『やった!』と思った。そりゃそうだよ、なんてったって私が自分でわざわざ型を作って完成させた自信作だもん。でもそのチョコが私の永遠の恋のライバルになるだろうバイクの型になっているのはちょっと皮肉だけどね。
「……でも、何でボクシンググローブ?」
「えっ、そんな!? 何で何でー!?」
……慌てていたのは翔太じゃなく私の方だった。事もあろうに私はさっきのお姉の冗談に動揺して麻美子のチョコの箱と間違えて持ってきてしまったのだ。ラッピングの柄も外見も全く違うのにそれに全然気づかないなんて、これは明日から早々に翼や千夏の話のネタにされてしまいそうだ。
「おぉ、お帰りお二人さん、さっきのチョコ美味かったぜ、あの眼鏡娘に礼を言っといてくれよなっ?」
……肝心のバイク型のチョコ? 聞かなくたってわかるでしょ、とっくにあの女怪獣のお腹の中ですよ。やっぱり、慣れない事はするべきじゃなかったなぁ、ハァ……。