第36話 優しい歌
平日の繁華街の裏通り、そこは人の山で大混雑していた。一般の目撃者から通報を受けたパトカーと救急車、全員の目線が一軒の雑居ビルの屋上を見上げていた。
「翼、千夏!」
「那奈、小夜! こっちよこっち!」
「あそこやあそこ! あの屋上の縁から出てる人影見てみ!」
現場についた私達は翼と千夏が指差す屋上を見て絶句した。確かに誰か人が鉄柵の外に出てこちらに身を乗り出している。遠くからでもわかる丸い眼鏡と三つ編みの髪、人違いであってくれと祈った私の願いは跡形も無く打ち砕かれた。
「……麻美子!」
「麻美ちゃん!!」
周囲は警察によって侵入禁止のロープが張られ、ビルの下では衝撃吸収の為のバルーンを膨らます準備がされていた。周りの空気は凍りつき、役に立たない野次馬達は大声で勝手な事をほざいている。
「何でやねん、何で麻美子があんな所におんねん! もう訳わからんちゅーねん!」
「ねぇ那奈、どうしよう!? アタシ達どうすればいいの!? このままじゃ麻美子が……!」
翼も千夏もパニックになっていた。ビルの高さは約八階建て、これが高さではなく水平な道の距離ならすぐに走って捕まえられるのに。
「……那奈、どうしよう、麻美ちゃんが……」
「………………」
私は動く事が出来なかった。小夜に手を引っ張られても、何も喋れない、何も出来ない、何も考えられない。今までに経験もした事も無い緊迫した状況に、無力な自分を露わにさらけ出してしまっていた。
「どけよ馬鹿野郎! あたし達はあの娘の関係者なんだ! 道を開けろ!!」
「何だ君は!? このビル内は現在立ち入り禁止で……!」
「……しゃらくせぇ!!」
ビルの階段の前でお姉が警官が持っていた警棒を奪い取り、辺りを塞いでいた警官達を蹴散らしていた。その騒ぎに動けなくなっていた私は我に帰った。
「那奈、ついて来い! おめーの友達なんだろう? きっちり責任持って面倒見ろや!!」
「……は、はい!!」
お姉にけしかけられた私は、警官達が怯んでいる隙を見てお姉と一緒に古びて汚い階段を駆け上がった。お姉は登っている途中にいた警官や救助隊を次々と蹴散らし、最上階までの道を開いていった。
「翼、千夏ちゃん! みんなを連れてきたよ!」
下では私達よりも一歩先に現場に来ていた薫が後から駆けつけてきた航や遠藤先生、美代子さんを導いてやってきた。その中には、汚く無精髭を生やしていた彰宏さんの姿もあった。
「麻美子!!」
「……部屋からいなくなったと思ったら、こんな所に……!」
娘の姿を見た美代子さんはその場に座り込んで震え上がり、遠藤先生は悔やむ様に拳を握りしめた。そして、唖然とする彰宏さんの前に立ち、グッと唇を噛みしめた。
「……お前、自分が何をしたかわかっているのか……!?」
「……すみませんでした……」
麻美子の異常に気づいた遠藤先生は、家に閉じこもっていた彰宏さんを呼び出しすでに事の詳細を白状させていた。
自分の生き方と世間の価値観に困惑した彰宏さんはまとまっていた縁談を自ら断ち切り辞職してしまった。夢と将来に絶望した彰宏さんは我を見失い、街で酒を飲んで潰れていた。そこに、偶然麻美子が通りかかったのだ。
彰宏さんは落ちぶれた自分を昔と変わらず優しく接してくれた麻美子に心の安らぎを覚え、良くない事だとわかりながらもその優しさに甘えてしまった。
一度犯してしまった過ちに罪悪感を覚えつつも、全てを受け入れてくれる麻美子が恋しくなってしまい、そのままズルズルと今まで関係を引きずってしまったのだ。
「そんなもん自分の勝手な言い訳じゃないか! アンタ、俺達よりも長く生きてきて何を学んできたんだよ!!」
詳しい話を電話で聞いた翔太も家を空けてここに飛んで来ていた。このやりきれない事情を聞いて、同じ男として許せなかったらしく彰宏さんの胸ぐらを掴んで突っかかっていった。
「翔太、今はそんな事してる場合じゃないだろ!? 麻美ちゃんの命が最優先だよ!」
「薫の言う通りや!そんな人間のカスみたいんは放ってけ! ウチらで何か出来る事を考えるんや!」
すると、遠藤先生はさっき私達が上がっていった階段の方へと歩き出した。しかしそこにはお姉が蹴散らした警官達が再び道を塞いでいた。
「……私はあの子の父親です、あの子を救いたい、どうかここを通して下さい」
「……今度は何だ? さっきはムチャクチャな女が突破していくし、これ以上事態を混乱されるなら公務執行妨害で……」
「あの子は私の大切な娘なんです! 必ず説得します! その後逮捕でもなんでも罰は受けます!だから、ここを通してくれ!!」
「……あ、あぁ……」
遠藤先生の必死の叫びに警官達は道を空けてくれた。と言うより、その緊迫した雰囲気に開けざるを得なかった。
「彰宏、一緒に来い! お前に機会を与えてやる、男としての責任を取れ!!」
「……はい、わかりました……」
二人が上がってこようとしていた時、私達は何とか警官の制止を振り切り屋上の扉の前に辿り着いた。扉は開いていて、その先には鉄柵の向こう側に立って髪を風になびかせている麻美子がいた。
「……麻美子!」
「……那奈、さん……?」
間違いない、振り向いたその少女は麻美子だった。心のどこかで、信じたくないと思っていたのに……。
「アンタ、こんな所で何やってんのよ!? 一体、何する気なのよ!?」
「………………」
麻美子から返事は無かった。ただ、悲しそうな目をして私を見つめていた。わかってる、何をする気なのか聞かなくたってわかってる。
でも何で、どうして、何があったの、何がアンタをそこまで苦しめてるの? 聞きたい事はいっぱいあった。私達で聞ける話なら何でも聞いてあげたい。
でも、言葉が出ない。まるで呼吸が出来なくなった様に何も言えない。体も動かない。今すぐにでもそばに駆け寄ってこっちに引き寄せたいのに、金縛りにあった様に手も足も体の全てが全く動いてくれない。
「……那奈さん、ここまで来てくれてありがとう……」
麻美子は何も出来ない私に無理して笑顔を見せた。なぜかその姿を見て私の目から涙がこぼれた。
麻美子は黙って私に背を向け、ビルの端へと足を進めた。その足はすでに靴を脱いでいて靴下の状態だった。
「……麻美子、ダメだよ……」
私の目の前で、友達が一人最悪の結末を迎えようとしている。なのに私は彼女を助けられない、手を差し伸べる事が出来ない、力になってあげる事が出来ない。
麻美子と初めてあった一年生の夏の日、私はみんなで守ってあげるって約束したのに、ずっと友達だよって約束したのに……。
「……おい、ちょっと待てよ」
お姉の言葉に麻美子の足が止まった。固まって震え上がる私とは対称的に、お姉はさっき奪った警棒を肩に抱えてズカズカと階段から屋上の外へと歩いていった。
「……!?」
「……心配すんな、無理やり引っ張ったり押したり殴ったりしねぇから落ち着けよ」
身構える麻美子を諭すと、お姉は警棒を下に置き屋上の真ん中にあぐらをかいて座り込んだ。
「……おめーよ、死ぬ前にあたし達に何か伝えなきゃいけねえ事がまだ残ってんじゃねぇのか?」
「………………」
下を向き黙り込む麻美子の見ながら、お姉は上着ねジャンパーに入っているタバコを取り出しライターで火を点けた。
「……言いたくねぇならあたしが当ててやるよ、おめーさぁ、腹の中にガキがいるだろ?」
「……!!」
麻美子の表現が驚きに変わった。嘘でしょ、麻美子が妊娠してるなんて嘘でしょ!?
「この前の吐き気は『つわり』だろ? 間違いないだろ、どうだ?」
お姉の指摘に麻美子は静かに頷いた。何かを観念した様に、麻美子は肩を落としてお姉を顔を見ていた。
「……何でわかった、誰にも話して無いんだろ? おめーみたいなビビりが産婦人科に行った訳じゃねぇよな?」
「……薬局で検査機を買いました、それで自分で……」
「……なるほどなぁ、まぁそれも勇気がいる行動だな、褒めてやるよ」
……そんなまさか、私は衝撃の真実にその場に崩れ落ちた。じゃあ相手は、そのお腹の赤ちゃんの父親はやっぱり……。
「……相手の男がどんなヤツが知らねぇけどよ、てめーの独りよがりで赤ん坊まで道連れってのはあんまりだろ? ちゃんと男とは話し合ったのかよ、あん?」
「………………」
麻美子は再びうつむき口を閉ざした。そして、眼鏡の奥の大きな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……望まれて、ないんです……」
「……何だって?」
「……私もこの子も、彰宏兄ちゃんに望まれてないんです……!」
私は麻美子のこの言葉をすぐに理解する事は出来なかった。しかし,それを聞いたお姉はくわえていたタバコを引きちぎり悔しそうに地面に投げつけた。
「……堕ろせ、って言われた訳か……」
「……彰宏兄ちゃん、新しいお仕事も決まってなくて、とても私と子供の面倒なんて見れない、って……」
……酷い、そんなの酷すぎる。麻美子は純粋に彰宏さんの事を慕っていたのに、そんな心無い仕打ち……。
「……くっだらねぇ、それで選んだ道が自殺かよ? そんなくだらねぇ男を捨てて自分の力でガキを育てるって気はねぇのかよ? あるいは親でもあたし達にでも頼って助けて貰うとかよ?」
……お姉の言う通りだよ、私達は決して麻美子を見捨てたりはしない。一人の人間に見捨てられたくらいで死を選ぶなんてそんなのおかしい!
「……勝手に子供作って、勝手に産んで、それで皆さんに迷惑かけるなんて、私には出来ません……」
「……勝手っておめーなぁ、だからよ、死ぬ以外にも色々と方法があるだろ? もうちょっと賢いやり方がよ……」
「……それだけじゃない、それだけじゃないんです! 私、自分の勝手な行動で沢山の人に迷惑をかけてしまった……」
麻美子は少し興奮して喋り始めた。強い風が吹くたびに麻美子の小さな体は揺らぎ、下の野次馬から悲鳴の様な叫び声が上がって私の心配を煽った。
「……私、こんな事になって今さら歌手デビューなんて出来ません! 産んでも堕ろしても事務所に迷惑をかけてしまう、お世話になった井上さんや私を認めてくれたプロデューサー、そして、私にチャンスを与えてくれた小夜ちゃんのお父さん、真中啓介さん……」
麻美子の顔は涙でグシャグシャになっていた。千夏のママ、千春さんから貰った服も、鉄柵を越える時に引っかけたのかスカートの端が破れていた。
「……それどころか、彰宏兄ちゃんに会う為にあづみさんにまで迷惑かけて、こうしてまたここで那奈さんやお姉さんに迷惑かけて……」
胸が痛かった。麻美子の苦しみがこちらにまで伝わってくるみたいだった。きっと部屋の中て一人きりでずっと悩んで、考え込んで、心を痛めてきたのだろう。
小さい心と小さい体で、沢山の人の期待や重圧や愛情や責任を背負ってボロボロになるまで苦しんできたのだろう……。
「……だから私、死にます、これ以上皆さんに迷惑かけない様に、お腹の子と一緒に死にます……」
ついに麻美子の口から『死ぬ』という言葉が出てきてしまった。扉に掴まり動けない私を余所に、お姉は黙って麻美子の話を聞いていた。
「……事務所だのデビューだの家族だの、おめーみたいなガキがいちいち考える話じゃねーっつんだよ、武士が切腹すんのと訳が違うだろ?」
お姉は麻美子の言い分を呆れた様に冷静に受け流すと、再び上着のポケットからタバコを取り出して火を点けようとしていた。しかし、風が強くてライターの火が点かない。それくらいこの屋上では強い風が吹き荒れていた。
「それにな、死なれたら逆に迷惑って事もあんだよ、おめーが自殺したら事務所もガンガン取材が押し込んでくるだろうしよ、目の前でおめーが脳ミソぶちまけるのを見て親や相手の男やあたし達はどうすりゃいいんだよ、あん?」
「………………」
「人が生きていく以上、何かしら誰かに迷惑かけて生きていくもんなんだよ、おめーのその迷惑一回を死で償わなけりゃいけねぇんだったらよ、あたしがこれまで人にかけてきた迷惑は一体何回死ねば許されるんだよ、あん?」
……そうだよ、過ちは人間誰にだってある。死ぬ事によって当事者はその罪から解放されるかもしれないけど、残される人間達の傷は決して消える事はない。死んで罪を償うなんて一番やってはいけない事……。
「とりあえず頭冷やしてもう一度考え直せよ、歌やら妊娠やらで頭パニックになってるかもしれねぇけど、おめーには心配してくれる家族や友達がいるんだからよ……」
お姉の説得を聞いても麻美子は鉄柵からこちらには戻って来なかった。まだ膨らんでいないお腹をさすり、か細い声で泣きながら私達に訴えた。
「……でも、この子はどうすればいいんですか? この子を殺して私だけ生きていくなんて出来ません……」
麻美子の不安、それは自分の命ではなくお腹にいる新たな命。もしここで自分が捕まったらこの命はもしかしたら中絶されてしまうかもしれない。すでに麻美子の心境は愛する子供を守る母親の愛情そのものだった。
「だったら産めばいいじゃねーか? もしおめーに反対するヤツはおめーの男だろうと家族だろうとあたしがコテンパンにノシてやるから心配すんなよ? ……つーか、点かねぇなこのライター……」
「この子が大きくなって生まれてくるのを望まれていなかったって知ったら? 父親が愛してくれていないって知ったら? 産んだ母親が自分の勝手な行動で多くの人に迷惑をかけた人間だって知ったら?」
「……あのなぁおめー、そんな先の話よぉ、……つーかライター……」
……いけない、麻美子は完全にパニック冗談になってる! 現在その心にのしかかっている心配が増幅して、すでにこれから先の未来の不安までも巻き込んで心の暗闇の中に閉じこもってしまったんだ……!
「……私、この子を幸せにしてあげられる自信がありません、自分が自分自身やこの世界に絶望しているのに、そんな無責任な事……!」
「あー! もう面倒臭ぇ!!」
お姉は突然立ち上がり点かないライターを床に叩きつけると何のためらいもなく鉄柵を越えて麻美子の腕を掴んだ。
「……掴んだ、掴んだぞ!」
「よし、そのまま離すな! 保護するぞ!」
その姿を見た警官達は私を押しのけて屋上の広場に出てこようとした。その時、お姉はこちらに振り向き鬼の様な形相で警官達を睨みつけた。
「出てくんじゃねぇよクソ野郎!!」
その気迫に、警官達の足が一斉に止まった。その中には驚いて腰を抜かすヘタレ警官もいた。
「……離して下さい! 潔く死なせて……!」
「……そうはいかねぇんだよ、このクソガキが」
「あなたに何がわかるですか!? もう『私達』に構わないで……!」
「いつまでガキじみた事言ってんだよ、てめーはよ!!」
お姉の怒りの怒号は麻美子にも向かった。それまで興奮していた麻美子もさすがにお姉の声の前に怯んでしまった。
「……おめーよ、そうやって腹に子供を授かっただけでも幸せだって思えねぇのかよ?」
「……えっ……」
取り乱す麻美子の腕をがっちり掴んだまま、お姉はついに私も知らなかった衝撃の過去の話を語り始めた。
「……一緒なんだよ、おめーもあたしもよ、同じ過ちを犯しちまったんだよ……」
「……!」
同じ過ち? 何の事だろう、私は完全に混乱していた。茫然としている私には目もくれず、お姉はそのまま語り続けた。
「……あたしもな、昔に下手こいてガキを孕んじまった事があってな、しかもおめーて違って相手が多くて特定出来ねぇでよ……」
……お姉が、妊娠……。お姉が学生の時に羽目を外し遊びまくっていたのは聞いている。しかし、まさか妊娠までしていたなんて考えもしていなかった。
「……養子の分際でそんな話を親には言えなくてよ、黙って一人で金集めて病院行って堕ろしたんだわ、そん時はこれで清々したって思ってたんだけど後々になって胸が苦しくなってよ、罰が当たるんじゃねぇかな? ってな……」
お姉はわかっていたんだ、あの日の麻美子の異変を。自分が経験したからこそ、あれだけ心配していたんだ。私は何も気づかなかった……。
「そしたらよ、ちゃんと天罰が下ったんだ、金が安いからって選んだ病院がヒドいヤボでよ、中で炎症起こして死にかけちまってな……」
お姉が病院に担ぎ込まれて緊急手術をしたのは私もうっすらと記憶にある。でもあの時は父さんから盲腸の手術だと聞かされていた。
「……何とか死なずに済んだけどな、医者から『もうあなたは子供を産む事が出来ませんよ』って言われちまってよ……」
「……!!」
そんな、そんな事って……。あまりに衝撃的な事実に私も麻美子も声を失った。
「……苦しんだよ、すげぇ苦しんだ、子供を産んでやれなかった罪悪感と、女として失格の烙印押された絶望感でおめーみたいに死にたくなったよ、自分は生きている価値が無いってな」
聞いているだけでも胸が締めつけられる様なこんなに苦しい過去を、お姉は涙も流さずに話していた。泣くどころか、麻美子を励ます様に顔を笑みを浮かべて。
「でもな、こんな迷惑の限りを尽くしたダメ人間でも慕ってくれるヤツらがいるんだよ、お姉、お姉ってな……」
……私の、事? 私達の存在がお姉を救ったの……?
「コイツら置いて死んでらんねぇなって思ってよ、今も苦しいけど生きてんだ、無責任に死んだら迷惑だろ? それはおめーだって一緒なんだぜ」
「………………」
「おめーを産んで一生懸命育てた母親はどうすんだ? おめーを実の娘と思って支えてくれてる父親はどうすんだ? おめーみたいな嘘つき女をバカみたいに信じている小夜はどうすりゃいいんだよ、余程こっちの方が迷惑だと思わねぇか?」
麻美子の瞳からまた大粒の涙が流れ落ちた。お姉は一つ溜め息をついてニコリと笑った。
「麻美子!!」
一段落ついたと思った瞬間、階段の下から遠藤先生と彰宏さんが駆け上がってきた。その二人の姿を見て、落ち着きを取り戻していた麻美子は再び暴れ出した。
「……やっぱり、離して下さい! こんな姿、みんなに見せられない……!」
「チッ、余計な顔出しやがって、これだから男はよ……」
そんな状況もお構いなく、遠藤先生は必死に麻美子を説得し始めた。
「麻美子! お前は私と美代子で守ってやる! 子供が産みたいのなら彰宏を説得して私達も一緒に育てる! 音楽事務所に迷惑がかかるなら私が変わりに謝ってやる! だから頼む、生きてくれ! 私達と一緒に生きてくれ!」
遠藤先生の気持ちもわかるけど、今はそんな言葉はかえって麻美子をいたずらに動揺させるだけだった。
「……あなたになんて、関係ない……」
「……麻美子?」
「……あなたは私のお父さんじゃない! 私の本当のお父さんじゃないもの!」
血の繋がりの無い親子の会話を、彰宏さんは黙り込んで聞いていた。あなたのせいで苦しんでるんだよ? 麻美子に何か優しい言葉でもかけてあげてよ……。
「……私、この子とお父さんの所へ逝きます、私とこの子とお父さんと三人で向こうで……」
「……向こう? 向こうってどこだよ?」
予想外の展開でもお姉は慌てなかった。麻美子の手を掴んで離さずにジッと目を見つめていた。
「……それは、お父さんが旅立った世界に、天国かどこかはわからないけど……」
「……いねぇよ、もうそんな所になんていねぇよ」
「……何でそんな事がわかるんですか!? じゃあ、お父さんは一体どこにいるんですか!? 無責任な事言って、あなたは答えられるんですかぁ!?」
麻美子の絶叫に対して、お姉は今までの怒っていた怖い表情を緩ませ、とても優しい女性らしい笑顔で麻美子のお腹を指差した。
「……あぁ、わかるさ、そこだよそこ、おめーのすぐ近くにいるじゃねぇかよ……」
「……えっ……?」
麻美子のお腹の中、つまり今生まれてこようと頑張って心臓を鼓動させている小さな命。小さな麻美子の体に宿った大切な命。
「……あたしは輪廻転生とか信じないタイプだけどよ、その子が父親の生まれ変わりって思ってやれないか? 弱くて泣き虫のおめーを守る為に、空から降りてきたって思ってやれないか?」
「……!」
その言葉に麻美子は暴れるのをやめて、ゆっくりと自分のお腹を抱き包み込む様に両手を添えた。
「……なぁ眼鏡娘、自分の人生はともかくその子の為に生きてやれよ、日本中の人間が聴けるはずだったおめーの優しい歌を子守歌として聴かせてやれよ、家族を信じろよ、友達を信じろよ、愛してやれよ? それでも、どうしても生きていくのが苦しかったらその子供と一緒にどこでも行きゃいいさ、そん時はこんなあたしでも良かったら付き合ってやるからよ……」
「……あ、あぁ、うわぁぁぁぁん!!」
麻美子は泣き崩れ、お姉の足にしがみついた。どうやらお姉の説得に応じて考え直してくれた様だ。
「コラァ、眼鏡親父! か弱い娘をしっかり受けとめてやれや! 医者なんだからちゃんと良い産婦人科に連れて行ってやれよ!?」
鉄柵の中に戻ったお姉は泣きじゃくる麻美子を遠藤先生に預けてニヤッと笑い、さっき床に投げつけたライターを拾ってタバコに火を点けた。あんなに強く吹いていた風は止んで、空は綺麗な茜色に染まっていた。
「お父さん、ごめんなさい、ごめんなさい!」
「いいんだ、もういいんだ麻美子!」
美しい親子の愛を見届けたお姉は、無言ですれ違いざまに彰宏さんの顔面を思い切り拳で殴りつけた。女の感ですぐにこの問題を起こした張本人が誰なのか読み取ったのだろう。
「……ぐはっ!!」
「……この優歌様の鉄拳制裁、ありがたく受け取れクソ野郎……」
そして、屋上の入り口でへたり込んでいる私の手を取り、お姉はいつもの自信たっぷりなしたり笑顔でこちらを見下ろしていた。やっぱりこの人はスゴい人だ。私も体中を縛られていた緊張が解けて立ち上がり、やっと笑顔になる事が出来た。
「……この世界もまだ捨てたもんじゃねぇって事だな! なぁ那奈、おめーもそう思うだろ?」
「……お姉……」
が、しかし、私達姉妹の感動の再会の時間は階段の下から駆け上がってきた警官によってあっという間に終わってしまった。
「渡瀬優歌、公務執行妨害で現行犯逮捕する!」
「うっそーん!?」
その後、お姉はとりあえず留置場一泊だけで帰ってこれたが、荒れていた学生時代に面倒を見て貰っていた刑事さんに取り調べされてこっぴどく説教されたらしい。朝、家に帰ってきた時にはローラーにかけられた干物の様にペラペラに干上がっていた。さすがのお姉でも苦手な人物がいたんだねぇ……。
この日から数日後、麻美子は家族や彰宏さんとしっかり話し合いをして子供を産む事を決意したそうだ。彰宏さんも責任を取って、早く新しい仕事を見つけて二人を養っていく事を約束してくれたらしい。
事務所の方にもあづみさんを通して啓介さんや井上さんにちゃんと説明するとの事。先々の不安はあるけれど、とりあえず最悪の事態だけは免れる事が出来た様だ。
でも、私達の心の中には何か寂しいやら悲しいやら、とても複雑な気持ちが残った。今年のサンタクロースは新しい命と共に難しい宿題を私達にプレゼントして去っていったのだ。