第35話 It's wonderful world
十二月二十四日、クリスマスイブ。二学期も終業式を迎え世間も年の瀬に向かって慌ただしくなってきた。
年に一度のビッグイベントとその後にやってくる新年に皆、期待と希望を抱いて煌びやかな街並みを歩いている中で、学校から家に帰る私達の顔に笑顔は無かった。
小夜の家で行われた演奏会、あの日から麻美子は一日も学校に登校して来ない。それどころか、最近は自分の部屋に引き籠もり、家族の呼びかけはおろか私達や航、小夜の呼びかけにも全く返事をしてくれなくなってしまったのだ。
歌手デビューの日が近づきレッスンや打ち合わせなどの予定もこなさなければならないのに、井上さんや事務所関係者にも会おうともしない。
あの日以降に一体何があったのか、今、麻美子が何を考えているのか、私達にはサッパリわからなかった。夢だった音楽の仕事も決まって順風満帆だと思っていたのに……。
「ほなら、また来年な」
「みんな、元気出そうね! Good bye!」
「良いお年を〜」
駅前で解散する全員の表情は暗く沈んでいた。いつもなら明るくバカな話をしている翼、千夏、薫の三人も口数が少ない。
「……航クン、麻美ちゃんに何かあったら教えてね? あたし、電話の前で待ってるから……」
「…………うん、わかった」
もちろん、麻美子と一番仲の良い小夜はこの事態に一番ショックを受けていた。遠藤医院まで行って瑠璃の部屋で遊んでいても、隣りの部屋から麻美子が出てくる事は無かった。
今までの出来事には無かった経験の無い重苦しい雰囲気。何が起こったのか、何か出来る事はないのか、私達は未熟な経験と知識を頼りに必死で模索していた。
「……そうか、今日も学校来なかったのか……」
家に帰った私から話を聞いたお姉は、テーブルの椅子の背もたれに寄りかかり天井を見て一つ溜め息をついた。
「……お姉、あの日の帰り道に麻美子の事を心配してたよね、あれは何だったの?」
「……ん? あぁ、ちょっとな……」
普段は何も隠さず明け透けに喋るお姉が、この話題になると避ける様に私から目をそらす。何か思い当たりでもあるのか。
「……ねぇお姉、何か麻美子に対して心当たりがあるなら私に話してよ、もしかしたらそれで何か麻美子の為に出来る事があるかもしれないから……」
「……ふぅ……」
何か物凄く話辛そうにお姉は手で自分の顔を塞いだ。今まで見た事が無いお姉の反応に、私は少し嫌な胸騒ぎがした。
「……いや、あのな、ちょっとあたしの昔の記憶とダブる事があってな……」
「……昔の記憶……?」
「……まぁ、ちょっとな……」
それだけ言うと、お姉の口は再び硬く閉ざしてしまった。あまり触れられたくない話なのだろうか。
「……まさか優歌さん、麻美ちゃんをイジメたりカツアゲしたりしてないッスよね……?」
「してる訳ねぇだろ! 空気読みやがれこのスケベ童貞野郎が!!」
「痛えっっっ!!」
翔太の失礼極まりない心配に珍しくお姉がキレた。いつもなら軽く頭を叩いたりヘッドロックをかけたりするのに、今回は容赦なく翔太のお尻に廻し蹴りを喰らわせた。
「てめーは黙ってさっさと飯の下拵えしてりゃいいんだよ! くだらねぇ横槍突っ込んでんとタマ蹴り潰すぞ!!」
「……そんなマジでキレなくても、痛ぇ……」
「……これだから男ってヤツはよ、クソったれ……」
麻美子の引き籠もりとお姉の過去、一体どんな共通点があるのだろう。私には全くわからなかった。
もう少し詳しく話を聞かせて貰おうとお姉に詰め寄ろうと思った時、家の中に電話の呼び出し音がなった。翔太を蹴っ飛ばした勢いのまま立ち上がっていたお姉は乱暴気味に受話器を取った。
「あ? もしもし? 誰だお前?」
「……そんなおっかない返事しないでよ、お姉……」
相手の声を少し聞いたお姉は、持っていた受話器をスッと私に突き出した。
「小夜だ、小夜、おめー相手しろよ、面倒臭い」
「えっ、小夜? 何だろう……?」
受話器を取ると確かにその話し声は小夜だとすぐにわかった。しかし、何か様子がおかしい。
「……あっ、那奈? あのね、いづみ叔母さん、いる?」
「いづみさん? いや、まだ仕事から帰ってきていないけど……」
「……あっ、そうなんだ……」
小夜の声に元気が無い。麻美子が学校を休み始めた時から元気は無かったが、それとは違う沈み様だった。
「いづみさんに用があるって事は、あづみさんからの伝言か何かなの? もし後でも良かったら伝えておくけど?」
「……うん、あのね、お母さんに麻美ちゃんがまだ学校に来ないってお話したらね……」
そういえばあの日、あづみさんの様子も何かおかしかった。いつものホワッとした気の抜けた雰囲気ではなく、少し焦っていた感じだった。あづみさんは何か知っているのだろうか。
「……お母さんね、泣いてるの……」
「……あづみさんが、泣いてる……?」
私の胸騒ぎがさらに勢いを増した。おかしい、何か予想もつかない何かが起こっている。私の会話の内容を聞いていたお姉も、異常を感づいて眉をひそめていた。
「那奈、あづみさんの所に行くよ、翔太、留守番頼んだぜ」
家に翔太を残し、私とお姉は小夜の家へと向かった。お姉は私より前をついていくのがキツいぐらいの早足で歩いていた。色々わからない事が多すぎて、私の頭の中は混乱していた。
「あたしが話を聞くから、那奈は向こうで小夜の相手をしてろよ、いいな」
家に到着したお姉はリビングのソファーで顔を押さえて泣いているあづみさんの隣りに座り、心配している小夜と私を別の部屋へと追いやった。一体、あづみさんに何があったのだろうか。
「……麻美子の話をしたら泣き出した、ってどうして? 小夜、アンタ何を話したのよ?」
「……普通に、またお休みしちゃってた、ってお話しただけだよ? そしたら、私のせいかもしれない、って泣き出しちゃったの、ずっと前から麻美ちゃんのお話するとお母さん何か苦しそうで……」
「……私の、せい……?」
そういえば、麻美子はちょっと前までこの家に良く泊まりがけであづみさんからレッスンを受けていると聞いた。その時に何かあったのだろうか。
「……麻美子は良く泊まりに来てあづみさんと音楽のレッスンしていたんでしょ? その時に何かあった事とか小夜は知らないの?」
「……あのね、その……」
小夜は私から目をそらして困った様にうつむいた。そして、うつむいたまま私に本当の事を話し始めた。
「……麻美ちゃん、お泊まりになんて夏休みから来てないよ……」
「……えっ?」
「……でもね、お母さんがそういう事にしてあげなさいって言ったの、大切なお友達ならそうしてあげなさいって……」
もう訳がわからなかった。今回の話の真実が一体何なのか私の頭では予測出来ない。もっと詳しい話を小夜から聞き出そうとした時、リビングの方から怒号が聞こえてきた。
「何でそんな真似したんだよ、あづみさん!!」
お姉の声だ。あづみさんから何か話を聞いたのか、その怒り声は広い家全体に響き渡る程の大声だった。
「アイツはまだ中学生なんだぞ! 義務教育受けてるガキなんだぞ! あたし達大人が責任持って面倒見てやらねぇでどうすんだよ!!」
その切迫感漂う雰囲気に私と小夜は急いでリビングへと向かった。そこには、立ち上がって息を荒らすお姉と、声を上げて床に泣き崩れるあづみさんの姿があった。
「何よ、お姉! 何があったの!?」
「お母さん! どうしたの、どうして泣いてるの!?」
「……ごめんなさい、ごめんね小夜ちゃん、ごめんね麻美ちゃん……」
小夜はうずくまる母親に駆け寄り肩を抱いて一緒に泣き出してしまった。お姉はその姿を見て溜め息をついて天を仰いだ。
「……お姉……?」
「……嘘だったんだ……」
「……えっ……?」
「全部嘘だったんだよ、あづみさんがあの眼鏡娘にレッスンつけていたのも、この家に泊まっていたって話も……」
……嘘? じゃあ小夜がさっき言った通り麻美子はここには夏休み以来泊まりには来ていない、それどころか遊びにも来ていないって事なのか。
「……そういう事にして欲しいって頼まれたんだとよ、あのクソガキに……」
母親や父親、そして私達に話を合わせる為にあづみさんに協力して貰える様に麻美子が頼んだらしい。小夜の家に遊びに行く、この用件なら誰からも勘ぐりを入れられる事が無く外出する事が出来る。
どうしても理由を作りたくて必死に助けを求めてきた麻美子を見て、過去に自分も若い頃に親から自由を与えて貰えなかったあづみさんは同情して、悪い事だと思いつつ力を貸してしまったらしい。
「……でも何の為に? あの真面目な麻美子が家族や私達に嘘までついてしたかった事って何なの?」
「……ごめんなさい、私も詳しくは聞けなかったの、麻美ちゃん、凄く困った顔をしていたから……」
これ以上、あづみさんから聞ける情報は無さそうだ。しかし、その真実がわかっても私の頭は混乱していた。何で麻美子がそんな事を……。
「……那奈、あの眼鏡娘……」
お姉が私に何かを尋ねようとした時、私の携帯電話が着信音を上げた。この時、私の胸騒ぎは最高潮を迎えていた。
「……千夏?」
電話を取ると、私が返事をする前に千夏が焦った声で喋り出した。その千夏の喋り声は私が初めて聴く狼狽振りだった。
「那奈、那奈? 大変、大変、大変よ! どうしよう、どうしよう!?」
「ちょっと千夏、落ち着いて! どうしたのよ、何かあったの!?」
私が落ち着かせようとしても千夏の話している事は良く聞き取れなかった。わかったのは今、千夏が翼と一緒に繁華街に遊びに行っていた事。それともう一つ、聞いた自分の耳を疑りたくなる様な信じられない話。
「……飛び降り自殺しようとしている女の子がビルの上にいて、それが、それが良く見たら麻美子なの!!」
「……嘘でしょ!?」
バカな、そんなバカな! 何で、何でなの!? パニックになって頭の中が真っ白になってしまった私から異変に気づいたお姉が携帯を奪い取り、その場所の詳しい位置と状況を聞き出していた。
「那奈、すぐ行くぞ! もたもたしてたら手遅れになっちまう!!」
「麻美ちゃんどうしたの!? あたしも一緒に行く!」
「勝手にしろ! もたもたしてたら二人とも置いてくからな!!」
家から出て、近くの大通りでタクシーを捕まえて三人で乗り込んだ。突然の出来事に私と小夜は冷静さを失いお互いを励ます様に手を握りあった。
「……那奈、アイツの事で聞きたい事があるんだけど……」
助手席に座ったお姉が背中越しに聞いてきた。車のサイドミラーに写るお姉の顔はさすがに不安そうな顔をしていた。
「……アイツに何か音楽以外で気になっている事は無いか? 何でもいいからよ」
「……えっ、気になっている事って?」
「だから何でもいいって言ってんだろ!? 家族でも学校でも金でも男でも何でもいいから話せ!!」
「……そんな事言われたって……」
その時、私の頭の中に一つの麻美子に関するキーワードが浮かんだ。いや、一つじゃない、一人だ。
「……男?」
でもまさか、あれはただの麻美子の一方的な憧れであって、いわば血の繋がりの無い兄妹みたいなもの。あの二人がそんな関係になる訳が無い。
「男か? 男がいるんだな!? おい那奈!?」
だって麻美子はまだ中学生だし、相手は一流病院の医者の卵。ましてや立派な成人で年も離れているのだからそれくらいの分別はしっかりとつけている筈だ。
「おい那奈! その男はどんな奴なんだ!? あの眼鏡娘とはどれだけの仲なんだ!?」
でも、麻美子に一番関係がある人なんてあの人以外に浮かばない。麻美子に自殺を決意させる程の影響力のある人なんてあの人しか……。
「おい那奈、答えろ! そいつは一体誰なんだ!?」
「……神崎、彰宏さん……」
でも違う、そんな訳が無い。これは私の考え過ぎだ。第一、あの二人が男女交際をしている証拠なんて無いし、だからといってなぜ麻美子が塞ぎ込んでしまわなければならないのか。
麻美子が彰宏さんに対して好意を寄せているのは端から見てたって良くわかってた。もし彰宏さんが麻美子を女性として見てくれたなら、それは麻美子にとって幸せな事なんじゃないのか。
「……那奈、あのね……」
考え込んでいた私の手を強く握りしめながら、小夜が涙目で小さい声で話しかけてきた。
「……彰宏先生、病院辞めちゃったんだって、麻美ちゃんから聞いたの……」
「……えっ、何で、何でよ!?」
「……わかんない、麻美ちゃん、誰にも言わないでって泣いてたの、凄く不安そうだった……」
全然わからない事ばかり。しかし、現実は私の知らない所で確実に動き始めている。その行き着く先が幸せへの道なのか、地獄への道なのか、私にはとても予測がつかなかった。
「……頼む、早まるな、間に合ってくれ……」
サイドミラー越しにお姉がイライラと指の爪を噛んでいるのが見えた。何か過去の自分の出来事を悔やんでいるかの様に……。