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第31話 風 〜The wind knows how I feel〜



「はーい、各自解散!」


「お疲れさんでしたー!」



夏休み中盤、俺はバイクの夏合宿で国際レースも開催される程日本有数の大きなサーキット場に来ていた。休む時間も惜しんで三日三晩ひたすら走り込んで、ついに最終日も日が暮れ始めて合宿終了の時間がやって来た。



「翔太、思う存分走ったか? まだ走り足らねぇんならお前一人でもう一泊してきていいんだぜ?」


「……勘弁して下さいよ親父さん、もう体もケツもあちこち痛くて限界ですって……」



那奈達が夏休みを遊んで満喫している時に、俺はこの夏合宿に自分から志願して参加した。親父さんからこのサーキット場で合宿をすると聞いて、いてもたってもいられなかったんだ。

俺はこのサーキット場にとても大切な思い出がある。俺がバイクレーサーになると決意した思い出の場所。でも、残念ながらそれは楽しい思い出ではない。


今から十二年前、あの日もこんな晴天だった。ロードレース世界選手権開幕戦、それは日本のこのサーキット場で行われた。



「……翔太! ちょっと、どこ行っちゃったのよ翔太!」


「いつもわたしといづみさんにめいわくばっかりかけて! まったくもう!」



四月のぽかぽか陽気の中、俺は母さんや那奈の制止を振り切り観客席の柵を抜け、警備員に見つからない様にライダーやクルーが待機するピットルームに潜り込んだ。

その目的はもちろん、今シーズン優勝最有力候補と噂されている俺の父親、風間貴之に会いたかったからだ。



「しかしお前も随分暇そうだな虎太郎、相変わらず家でお気楽専業主夫やってるのか?」


「バカ言ってんじゃねぇよ橋本ちゃん、お気楽なんてレベルじゃねぇよ、優歌や那奈が汚した部屋とか掃除しなきゃいけねぇし、家族全員のパンツ洗わなきゃいけねぇし、もう最悪だぜ?」


「世界最凶の暴君と言われた男が今やパンツ洗いかよ、亭主関白とはどこへやら、世の中も色々と変わっていくもんだな……」


「家族には俺が病人だって事を忘れられてるみてぇだな、橋本ちゃんも少しは家事やって汗かけよ、そんな腹してたら将来糖尿病になっちまうぜ?」



ピット裏に忍び込んで覗いてみると、親父さんが仲良くクルーの人達の喋っていた。以前にチームのライダーをやっていた人は辞めた後も自由にピットに出入り出来たりするのかなぁ? 羨ましいなぁ……。



「……何やってんの、アンタここで……?」


「……えっ?」



いとも簡単に見つかってしまった。上手く隠れていたつもりだったのに。俺は服の襟首を掴まれてピットルームの中へと連れていかれた。



「おやチーフ、そのガキは何だい? もしかして二人目の子供でも産んだのかい?」


「……橋本、殺されたいの? 私の子じゃないわよ、貴之といづみのところのガキよ」


「おいおい、こりゃ翔太じゃねぇか、何でてめぇがここにいるんだよコラ」



俺を捕まえたのは当時このチームの代表兼監督を勤めていた麗奈さんだった。麗奈さんは俺を親父さん達の前にストンと落とすと、パンパンと両手を叩いた。



「……おじさん、おばさん、ごめんなさい、どうしてもおとうさんにあいたくて……」



俺の言い分を聞いた麗奈さんは呆れた様に溜め息をついた。俺は子供心ながら当時から麗奈さんの事を『怖い人』と認識していた。



「こんな子供が簡単に入り込んで来れるって、このサーキット場の警備はどうなっているのよ!? こんな場所で開幕戦やらせるなんて世界の笑い者になるわよ!」


「翔太、てめぇ一人かよ? 那奈といづみは一緒じゃなかったのかコラ」


「……うん、ぼくひとりだけです……」



親父さんと麗奈さんに挟まれて、俺は怖くなって座り込んで小さく丸くなった。やっぱり怒られるのかなぁ?



「翔太! おいおい、一体どこから入って来たんだお前!?」


「あっ、おとうさん! おとうさーん!」



フリー走行から帰ってきたバイクスーツ姿の父さんがヘルメットを脱いで俺に歩み寄ってきた。俺は親父さんや麗奈さん達から逃げ出す様に父さんに駆け寄り、助けを求めて足元にしがみついた。



「ダメだぞ翔太、ここは入ってきちゃいけない場所だし、バイクが走り回って危ないんだぞ?」


「……だって、おとうさんにあいたかったんだもん……」



最初は怒っていた父さんも、必死に抱きついてくる俺の姿を見てニコッと笑い、俺の小さい体を肩に担ぎ上げてくれた。



「ちょっと困るわよ貴之、子供だろうと何だろうとここは完全に部外者立ち入り禁止なんだから、下手にオフィシャルに見つかったらペナルティ喰らうわよ!? すぐに観客席に戻しなさい!」


「そんな怒んないでくれよチーフ、翔太だって困らせようとして入ってきた訳じゃないし、こんなに小さいチームスパイがいる訳が無いだろ?」


「そういう問題じゃないの、これはケジメ! 各関係者それぞれのケジメの問題なのよ! だからアンタはいつまでたってもレーサーとして甘いって言われるのよ!」



麗奈は厳しい剣幕で俺と父さんを叱りつけた。俺が麗奈さんに話しかけられると今でも恐縮してしまうのは、こんな幼児体験があったせいでもある。



「いいじゃねぇかよ、たかがガキの一人や二人、別にバイクがぶっ壊れる訳じゃねぇんだからよ、なぁ貴之?」


「何十台もマシンを壊しまくってきた貴様が言うな! そもそも、このチームの統括が乱れ始めた諸悪の根源は全て貴様がここに入ってきてから……!」


「おいおい、ここは軍隊か? 自衛隊か? 何でもかんでも規則規則って縛りつけやがって、ヒドい独裁主義だなオイ? ここは自由の国、黄金の国ジパングだぜ? 独裁やりたきゃ隣の国でも行ってこいや、このヒス女」


「……拾ってやった恩も忘れて、挙げ句に養われてる分際で何て無礼な発言が出来るのか、この野良犬めが! 謝罪しろ、腹を切れ、今すぐ私の前に跪け!!」



親父さんが会話に仲介してきた事で、いつの間にか麗奈さんの怒りの矛先は俺達親子から外れて親父さんへと向いた。それを見て父さんは今がチャンスとばかりに俺を担いだまま、各チーム管制室のあるピットコースの前の中庭に逃げて行った。



「コラ貴之! 何を勝手な事してんのよ! すぐに翔太を戻しなさい! ちょっと聞いてるの貴之!?」



麗奈さんの注意を無視して、父さんは無線機やコンピューターが並んでいる管制室の椅子に俺を座らせてくれた。まだ子供だった俺は見慣れない機材に興味津々で色んなスイッチやモニターに触りまくった。



「ほら翔太、頭にこのヘッドホン付けてみろ」


「えーと、これでいい?」


「あーあー、こちらお父さんこちらお父さん、翔太聞こえますか?」


「あー、きこえた! きこえたきこえたよ!」


「ウソだよ翔太! 電源なんて入ってないよ! お父さんの声が普通に翔太に聞こえているだけだよ!」


「あー、だましたー! ずるいよおとうさん!」


「あはは、翔太、ごめんごめん」



親父さんの現役引退、昨年王者でライバルの三島勇次朗さんのチームの準備不足、そして史上最強と発表されたニューマシンの完成と初の年間チャンピオンの可能性が一気に高まった大事なシーズンの開幕戦直前だというのに、父さんは俺を担いでレース場の色々な場所に連れて行ってくれた。

見通しのいい場所から見えるコーナーを爆音を立てて走っていくマシン、慌ただしくピット内を走り回るピットクルー、タイヤ交換やエンジン修理の細かい作業……。

どれも俺からしたら全て初めて見る物ばかりで、まるで夢の様な一時だった。今でも目を瞑ればその光景が浮かんでくる。


そして、あちこちと連れていってくれた最後に、父さんは俺に自分が今シーズンに乗る新しいバイクを見せてくれた。



「わー、すごーい! かっこいいー!」


「どうだ翔太、格好いいだろう? これが今年お父さんが乗るバイクだぞ、那奈のお母さんが一生懸命作ってくれた出来たばかりの新しいバイクなんだぞ!」


「おとうさん、このバイクならことしはかてるの? チャンピオンになれるの?」


「あぁ、なれる、なってみせるとも! 那奈のお父さんでも出来なかった最高のクラスのチャンピオンになってみせるぞ!」


「じゃあ、ぼくもおおきくなったらバイクにのる! ぼくもおとうさんみたいなライダーになるんだ!」


「……そうか、そうだな、翔太、お前なら絶対になれる、その為にもまずはお父さんがチャンピオンにならなくちゃならないな」


「じゃあ、やくそく! ゆびきりげんまん!」


「よーし、約束だ!男と男の約束だぞ! 破ったら針千本飲ますぞ!」



俺と父さんが指切りをしていると、不満そうに腕を組んでふてくされた麗奈さんが近づいてきた。麗奈さんの姿に怖くなった俺は父さんの肩に顔をくっつけてとりあえず隠れたつもりになった。



「……貴之、頼むからもういい加減にしてよ、これじゃ他のクルー達の示しにならないし、虎太郎が引退してこのチームにもやっと平和が訪れたんだから……」


「……そうだな、悪い、今すぐいづみに連絡して翔太を迎えに来て貰うから」


「アンタまで虎太郎化されたら私の身が持たないって、やっと二年かけてワークスチームとしてまとまり始めてきたんだから、これ以上かき乱さないでよ……」


「……苦労が絶えないな、麗奈……」


「名前で呼ぶな! 『チーフ』と呼びなさい!」


「……了解、チーフさん……」



父さんは広報を通して母さんを呼び、俺を担いだまま迎えが来るのを待った。その間、父さんは横にいる親父さんと談笑していた。



「しかし興味心豊富なガキだなぁ貴之、この歳で勝手にピットルームに忍び込むなんてこの俺様でもやった事ねぇぜ?」


「俺に似たのかな? 俺も何かに夢中になると周りが見えなくなって見境が無くなっちゃうからなぁ……」


「女に対してもそうだなぁ、このガキも大きくなったらてめぇみたいな相当なむっつりスケベになっちまうんだろうなぁ、オイ?」


「そりゃねーよ虎太郎! 俺はお前が思ってる程スケベな男じゃねーよ!」


「ほぉ? じゃあキャスターに寝っ転がってバイクいじってる振りして千春とミカミカのパンツ覗いたのはどいつだっけなぁ? 間違った振りして麗奈といづみが着替えてる更衣室に入り込んだのはどいつだっけなぁ? 真中家でいづみと勘違いして姉ちゃんの乳揉んだのはどこのどいつだっけなぁ? 全く、お前の家系は忍び込ませたら天下一だなぁ、忍者の末裔かオイ!?」


「覗いてねーし、わざとじゃねーよ! 本当に間違えたんだよ! 揉んでもねーって! もうその話は勘弁してくれよ、翔太に対して威厳が無くなるよ……」



その時、コース内を一台のバイクが爆音を立てて走って行った。父さんと親父さんは話を止めて、その音を楽しむ様にコースを眺めて耳を澄ませていた。



「……本当はまだ走り足りなかったんじゃないのか、虎太郎……?」


「……仕方がねぇさ、まだ死ぬ訳にはいかねぇからな、娘も作っちまった事だし」


「……那奈の事か、おっ、そうだ翔太、お前良く那奈とママゴトとかしてるらしいけど、大きくなったら那奈と結婚するっていうのはどうだ?」


「えー、よくわかんなーい」


「そんなマネしてみろよ? てめぇが那奈に相応しい男になれるまで、この虎太郎様がビッシビシ鍛えてやるからな!?」


「わーん! こわいよー、おとうさーん!」


「おいおい、怖がってちゃダメだぞ? そんな事じゃ立派なチャンピオンライダーになれないぞ、翔太!」



怖がって再び顔を隠す俺を見て、父さんと親父さんは楽しそうに笑っていた。



「……しかし、本当に翔太と那奈が一緒になってくれたら俺は嬉しいな、最高の親友の娘と自分の息子が結婚するなんて、ちょっとした夢だよ……」


「……何が『夢』だよ、くっだらねぇな、そんな事言ってねぇで今年こそ一番の長年の夢を叶えてくれよ、晩年ベテランチャンピオン最有力候補さんよ!」


「あぁ、今年こそ必ず栄冠を掴んでみせる! お前や勇次朗みたいに俺の名前をモータースポーツ史に残してみせる! 最後のチャンスをものにしてみせるさ!」


「ついでにあの口うるせぇ独裁ヒス女も黙らしちまえ! うるせぇのはベッドの上だけで充分だってな!? ウッヒャッヒャッヒャッヒャッ!!」



周りに聴こえる様な大きな声で喋った親父さんはピットルームに向かってお尻を叩いて逃げていった。その後、そのピットルームから誰かが親父さんに向かってスパナやレンチやホイールやバイクから外したエンジンを投げつけていたのを覚えている。



「……しっかし無茶苦茶な夫婦だな、いいか翔太、本当に那奈を嫁に貰うんだったらちゃんと覚悟をしておけよ……」


「……?」



しばらくすると、観客席の通路から母さんがやって来た。母さんの表情は明らかに怒っていて、俺は叱られる覚悟をした。



「……翔太! アンタ勝手にどこに行ってたのよ! 私がどれだけ心配してアンタを探してたのかわかってんの!?」


「……ごめんなさい、おかあさん……」


「ごめんなさいで済むなら警察いらないの! いつもアンタはそうやって迷惑かけて……!」



怒りが収まらない母さんを、父さんは俺を守る様に笑顔で母さんをなだめてくれた。



「いづみ、許してやってくれよ、翔太も困らせようとしてやった訳じゃないんだ、ただ、俺に会いたかっただけなんだからさ……」


「貴之がいつもそんな風に翔太をかばって、優しすぎるから言う事を聞かなくなるのよ! これじゃ私が一生懸命しつけたって何の意味も無いじゃない!?」


「そうだな、確かにいづみの言う通りだな、ハハハ……」


「……父親なんだからもうちょっとしっかりしてよ、ハァ……」



父さんは呆れている母さんに俺を渡して、大きな手で頭を優しく撫でてくれた。



「じゃあな翔太、ちゃんとおとなしく観客席で見てるんだぞ?」


「うん! おとうさん、ゆうしょうしてね! やくそくだよー!」



俺と父さんはもう一度指切りをした。その時の父さんの顔はとても優しい笑顔だった。



「じゃあ、頑張ってよ貴之! ちゃんと見守っているからね!」


「あぁ、行ってくるよ! 必ず優勝してみせるからな!」



笑顔で決意表明をした父さんは俺達に背中を向けてピットへと歩いて行った。俺と母さんはいつものレース前の様にその姿が見えなくなるまで見送っていた。

すると、父さんはなぜか途中で立ち止まった。立ち止まったまましばらくの間全く動かない。その姿を見て俺と母さんは首を傾げていると、突然父さんはこちらに振り向いて走ってきた。



「……翔太!」


「……えっ!?」



父さんは母さんから俺を取り上げると、力強く俺を抱き締めた。突然の行動に俺は驚いて何か何なのかわからなかった。後ろにいた母さんも驚いた表情をしていた。



「……どうしたの、おとうさん……?」


「……翔太、立派な強い男になれ、俺よりも、虎太郎よりも、強い男になるんだぞ……」



あまりにも強い力で抱き締められたので、俺は一瞬息が出来なくなった。子供だった俺はこの時父さんが言っていた言葉の意味が良くわかっていなかった。



「……お、おとうさん、いたいよ……」


「……あっ、ごめん、ごめんな……」



父さんは俺を持ち上げて母さんに手渡すと、今度は俺と母さんをまとめてギュッと抱き締めた。



「……いづみ、翔太を頼む……」


「……わ、わかってるわよそんなの、どうしたの貴之? 何かあったの?」


「……いや、何でもない、何でもないんだ……」



さっきまで怒って笑って元気だった母さんが泣き出しそうな表情をしていた。この時の言葉にならない不安な感情は今の俺の記憶に残っている。



「……貴之、待ってるからね、ちゃんと私と翔太の元に帰ってきてね!?」


「………………」


「……おとうさん、どこにもいかないよね? またあとであえるよね?」



父さんはしばらく目を瞑って黙り込んだ後、いつもの優しい笑顔を俺達に見せてくれた。



「……あぁ、もちろんだとも! いづみ、必ず戻ってくるよ! 翔太、後でまた会おうな! それじゃあ風間貴之、行ってきます!」


「……うん! 行ってらっしゃい、貴之!」


「おとうさん、いってらっしゃーい、がんばってー!」



すでにピットに向かって歩き出していた父さんは、俺の声に振り向く事なく左手をゆっくりと水平に上げて親指を立てて返事をしてくれた。その姿はとても格好良くて、俺は心から父さんに憧れた。そして決意した。いつかは父さんみたいな格好良くて優しくて強いライダーになりたいって……。



「ゆうしょうだよおとうさん、やくそくだからねー!!」



……それが、俺が見た父さんの最期の元気な姿だった。俺が次に会った時は、父さんはあちらこちら傷だらけで頭から血を流して冷たくなっていた。一言も喋らず白いベッドに横たわって……。



「……ここが、そうか……」



父さんが風になったコース終盤のS字コーナー。十二年の時を経て、俺は今そのコーナーに立っている。俺を名残惜しく抱き締めたあの時、もしかしたら父さんはこの後に自分に降りかかる悲劇を察していたのかもしれない。



「……まさかこんな所で逝っちまうとは思っても見なかったぜ、あの一周までは恐ろしい程に順調だったんだけどなぁ……」



俺の隣でしゃがみ込んでいる親父さんがボソッと呟いた。確かにあの日、父さんの速さは尋常ではなかった。

回周を重ねる事にベストラップを更新し、必死で追い上げる三島さんや各ライバルを全く寄せ付けなかった。

その走りにピットクルーもマシンを設計した麗奈さんも、満足そうにピット内にあるテレビカメラを見つめていた。


しかし、残り五周になった時、父さんが乗っていたマシンに変化が起こった。アクセルスロットルが戻らず、コントロールが利かなくなったのだ。

その為エンジンやブレーキに過度な負担がかかり、異常なスピードでコーナーをクリアしなくてはならなくなってしまった。このままではマシンはおろか、父さんの体までバラバラになってしまう。

ピットの下した判断はマシンストップだった。異常に気づき、不安を覚えた麗奈さんは無線で何度も父さんにリタイアする様に指示した。親父さんも空いているバイクに乗って乱入してレースを止めようと準備していた。

しかしそれでも、父さんはレースを諦めなかった。親父さんが引退した後を継いだエースの座、ファンやマスコミが騒ぎ立てる応援や批評の声、父さんには色々なプレッシャーがあったのかもしれない。

もしかしたら、一番のプレッシャーは俺との勝利の約束だったのかもしれない。俺との約束を守る為に、無茶を省みず全力で走り抜けようとしたのかもしれない。

でも、父さんはゴールチェッカーを受ける事が出来ずに俺と母さんと那奈の目の前でこのコーナーのタイヤバリアーにバイクごと突っ込んでしまった……。


テレビや新聞は父さんの死を大きな記事にして世間に伝えた。その訃報は海を越え、海外のロードレースファンに衝撃を与えた。

この事故以来、ここのサーキット場にはたくさんの父さんのファンの人達が花を携えて訪れ、涙を流していた。俺はそれを見て、どれだけ父さんがみんなから愛された人間だったか改めて教わった気がした。



「……親父さん、俺、父さんみたいなライダーになれますかね……?」


「……知らねぇよ、そんなもん」



親父さんは俺の問い掛けを適当に受け流すと、コーナーに手向けてあった花瓶の花に自分が飲んでいたミネラルウォーターをドボドボ注いだ。



「てめぇがいいライダーになれるかどうか、それは全部お前次第だ、俺はただ、てめぇの手伝いをしてやってるだけだからなぁ……」



気がつくと空は完全に日が暮れて、サーキット場辺り一面は夕焼けで真っ赤に染まっていた。俺と親父さんの影が伸びていくのを見て、昔、父さんと手を繋いで夕焼けの中を公園から家まで一緒に帰った事を思い出した。



「……俺からてめぇに言ってやれるのはただ一つ、死んだら全て終わりって事だけだ、死んじまったら世界チャンプもプロライダーもクソもねぇ……」



俺の右手の小指にはまだあの時の感覚が残っている。父さんと交わした、男と男の約束……。



「翔太、お前は間違いなく成長してる、だからそう焦るな、貴之が本当に夢見ていた願いはてめぇが幸せになる事なんだからな……」


「……はい……」



父さんは決して約束を破った訳じゃない。だって父さんはずっと俺にとってのチャンピオンなのだから。どんなに速くなっても強くなっても辿り着けない場所にいるんだから。

だから、俺も必ず約束を守る。必ず、精一杯生きて、幸せになっていつかは世界チャンピオンになってみせる。



「……いい風が吹いてる、懐かしい風だな……」


「……これは、父さんの、風……?」



父さん、見ててくれ。俺を見守っていてくれ。父さんが辿り着けなかった頂点を、俺は必ずこの目で見届けてみせるから……。

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