第29話 Everybody goes 〜秩序のない現代にドロップキック〜
広い会場に多くの観客。そして白い胴着に身を包んだ勇ましい風格の男女が舞台の上で稽古の成果を見せようと力と技を競っている。
「セイャーーーー!!」
「ヤッーーーー!!」
ついに訪れた私の中学生最大のイベント、空手全日本選手権。私も周りの選手の様に背中に『渡瀬』の刺繍が入っている稽古で着慣れた白い胴着に身を包んで、今か今かと試合の時を待っていた。
「那奈、表情が硬いぜ? もっと力抜けて気軽に行けよ」
私よりも前にこの大会を優勝して、そのまま世界選手権までもを制したお姉が私の世話役として会場についてきてくれた。物凄く頼もしい反面、何か無茶苦茶な事でもやらかさないか不安でもある。
「那奈、おめーの腕なら全日本でも充分通用するんだぜ? 若い力や勢いを武器にしてよ、ガチムチのババアやデカいだけのピザデブを突いて突いて突きまくってスクラップにしちまえよ!」
「そんな簡単に言わないでよお姉、私だって久し振りの実戦の組み手だし、全日本なんて大きな規模の大会なんて初めて参加するんだから……」
随分前にこの大会に参加する事は決まっていた。去年の始め、中学生最後の一年に一つ大きなタイトルに挑戦をしようと道場の師範代から話を持ちかけられた。最初私はちょっと迷ったが、せっかく空手を習っているのだから自分の力がどこまで通用するか知りたくなったし、第一参加しないなんて言ったら隣にいる世界王者が許してくれなかっただろう。
「おっ、あそこの観客席にいるのいづみちゃん達じゃねーか?」
お姉が指差した方向を見ると、いづみさんとあづみさん姉妹、それに翼のお母さんの美香さん、そしていつもの同級生メンバーが観客席に座って私に手を降っていた。
「那奈! 頑張ってね―!」
「全員KOやで! 負けたらウチらが承知せえへんで〜!」
小夜と翼の声が聞こえてきた。私はその声援に応える様に軽く手を振った。よく見ると航と瑠璃、そして薫までいる。
「こりゃ絶対に負けられないぜ、負けたらみんなから入場料返せって言われちまうぞ、那奈!?」
「……嫌なプレッシャーかけないでよお姉、背中の『渡瀬』の名前だけでも充分重圧なのに……」
私が登録したカテゴリーは女子一般クラス。私の年齢ならまだジュニアクラスでも出れるのだが『生温い事言ってんじゃねぇよ、トップでやれや!』というお姉の一言で飛び級のこのクラスで高校生や成人の選手達と戦う事になった。
「あたしが今のおめーと同じ年の時に余裕で優勝出来たんだぜ、妹であるおめーが優勝出来ない訳がねぇ、この優歌様が言うんだから間違いねぇ」
「……あのね、自分を物差しにして話をしないでよ、お姉自体が人類の人知を超えた規格外なんだからさ……」
お姉からの執拗なプレッシャーを誤魔化す様に私は準備運動さながらのストレッチを始めた。何か異様に口の中が乾く。やっぱり少し緊張しているのかな。
試合はトーナメント方式で決勝に辿り着くまでには五回戦闘わなければならない。とりあえず、試合中に大きな怪我だけはしない様に気をつけないと優勝なんて言ってられない。丁寧に手足の先まで伸ばしていると、そろそろ私の試合の出番が近づいてきた。
「よーし、行ける所まで行ってやる!」
私は自分の頬を両手でパチーンと叩いて気合いを入れ直した。とりあえず優勝とかお姉の戦歴とは忘れて、目の前の一戦一戦を悔いなく戦い抜かなければ!
その頃、二階にある観客席では観戦に来てくれたみんなが他の舞台で行われている試合を見て、その凄い迫力に目を釘付けにされていた。
「うわっ、今の蹴り凄い痛そう! 美香、今の見た? よくあんな無茶な事が出来るよね……」
「……そうよね、何か怖くてまともに見てられないわ、何でわざわざあんな怪我しそうな事をするのかしら……?」
いづみさんと美香さんは小さい頃からの幼なじみで今でもとても仲が良い。行動派のいづみさんと慎重派の美香さん、バランスが取れていいコンビだ。
「でも、いづみちゃんも昔はあんな様なケンカを良くしてたじゃな〜い? 男の子をみんなグーでボコボコに殴って〜?」
「ちょ、ちょっとやめてよ姉さん! いくらなんでもあんな空手みたいな事まではやってないってば!」
保護者三人は男子成人選手のガチ組み手を生で見て荒れてた学生時代を思い出す様に興奮していた。その前の席には小夜と麻美子、それと瑠璃を膝に乗せた航が座っていた。
「那奈、勝てるかなー? 怪我とかしないかなー? 大丈夫かなー?」
「……大丈夫だよ小夜ちゃん、那奈さんだったらきっと優勝出来るよ、ねっ、航君?」
「…………心配無用、必勝祈願、家内安全、悪霊退散」
「けんかじょうとう〜」
「……瑠璃ちゃん、そんな言葉どこで……?」
小夜達が座っている席から少し離れた所で、翼と千夏と薫が売店で買ってきたポップコーンを三人で仲良くバリバリ食べていた。どうやらこの三人は若干試合を見る視点が違うみたいだ。
「何で女子選手だけ胴着の下にシャツを着てマスカ? あれじゃおっぱいチラリなんて期待出来ませんデース、ショボーン」
「薫はどこにいってもそればっかりやなぁ? 見えたって女子もみんな大胸筋ガチムチの筋肉の塊やろ? ほれ、男の乳首やったらあっちの試合会場で見放題やで!?」
「うほっ、いい男! ってそんな趣味はありまセーン」
「翼も薫ちゃんも、もうちょっとスポーツをシリアスな目線で観戦しなさい! 選手はみんな毎日汗と血を流して苦しい鍛錬に耐えてるのよ!? ちゃんと応援しなさいよ、このJap monkey!」
「オマエかてジャップやろが! つーか何や、すっかりアスリート気取りやないか? この前までスポーツをナメてたなんちゃって女のクセに、なぁ薫?」
「千夏ちゃんの走り高跳びの競技の時もちゃんとおっぱいチェックするからバッチグーデース!」
「Fuck off!!」
「オーマイガー」
「日本語で喋れや、どアホども」
そのどアホどもが喋っている間に会場では次の試合の準備が始まっていた。先ほどまでとは違う雰囲気に小夜は椅子から立ち上がって下の試合舞台を覗き込んだ。
「あっ、那奈だー! みんな、那奈の試合の順番が来たよー!」
ついにこの時が来た、私の出番だ。みんなの期待を背負い一つ溜め息をついて舞台に上がろうとしたら、突然真横から私に向かって数台のカメラのフラッシュが焚かれた。
「えっ、何これ? お姉、この人達ってどこかの記者?」
「あたしが事前に新聞社や出版社に連絡しておいてやったのさ、『期待の新人、渡瀬優歌の妹、全国デビュー』ってな! 明日の一面が楽しみだな、ウッヒャッヒャッ!」
「……余計な事しないでよ、全く……」
まるで注目選手の様な扱いを受けて私のプレッシャーはさらに高まった。せっかく気合いを入れたのにもう台無し。何かキリキリと胃が痛くなってきた。
初戦の相手は年は高校生くらいの背の小さな選手。参加選手はゴツいおばさんばかりだと思っていたので意外。最近はこんな可愛らしい女子も空手をやる世の中になったみたいだ。
「始めっ!!」
主審の掛け声に合わせて私は構えて冷静に相手の様子を見ながら攻撃を開始した。お互いに体に正拳突きを入れながら間合いを取って蹴りを入れる。
相手は年上だが体は私の方が大きい。相手の攻撃も大して馬力が無いし、これなら楽勝だ。相手が疲れてきたところを見て私は一気にラッシュをかけて会場隅まで攻め立てた。
「そこまでっ!!」
主審の声が上がった。試合時間が終了し、勝負は主審と二人の副審による判定になった。私の帯の色は白。白が二本以上上がれば私の勝ちだ。
「白、白、白! 白三本!」
自分でも確信していたが、結果は私の圧勝だった。緊張でちょっといつもより動きが堅かったけど、とりあえず初戦を突破する事が出来た。
「礼!」
舞台を降りて自分の休憩用の椅子に戻ると、お姉がニコニコしながら私に飲み物を渡してくれた。
「初戦突破おめでとさん、もしここで躓いてたらボコボコにシメてやるところだったがなぁ」
……これ、多分冗談じゃないな。試合中からでも外から私の動きをチェックしているお姉の視線を感じ取る事が出来た。はっきり言って相手選手の圧力よりお姉の圧力の方が怖かった。
「ちょっとぎこちねぇ感じだったが、でもまぁいいか、内容自体は圧倒的だったしな、これで少しは緊張が取れたか?」
「……うん、少しはね、始まった時はちょっと怖かったけど……」
私はお姉がくれたスポーツドリンクを飲んで一息ついた。相手が弱かったとはいえ、やはり正式の大会、本気の勝負。道場で練習組み手をやるのとは全然スケールが違う。
「安心しろ那奈、ちゃんとおめーは強くなってるぜ? このあたしが太鼓判押してやるから自信持ってやれよ!」
会場を見渡すと観客席が次第に人で埋まってきてるのがわかった。すでに観客は千人近くいるだろうか、これが全日本という大会の規模の大きさなのか。
勝者と敗者、希望と絶望、期待と歓声、色んな感情が入り乱れる会場を眺めながら私は小学生の頃を思い出していた。
初めてたくさんの人だかりを見たあの日、私が小学四年生の時に訪れた都会から遠く離れた郊外の大きなサーキット場。私は小夜や翼と一緒に、翔太が出場したポケバイの全日本選手権が行われていた。
大人のライダーが参加するクラスがあったり、小さい子供達で競うクラスがあったりと参加者も多く、会場には出店まであって人の行列が出来て小さい私達はまともに歩く事すら出来ない。まるでどこかの国のお祭りの様に賑わっていた。
そんな多くの観戦者が注目している中で、翔太は私と同じ小学校四年生という幼い年齢ながら自分より年上の子供達相手にジュニアクラスで優勝してみせた。
突然彗星の様に現れた天才児、その正体は世界中に惜しまれながら天国に旅立った風間貴之の実男、しかも師匠はあのバイクレース界の暴君、渡瀬虎太郎。メディアが持ち上げるには充分過ぎる生い立ち。
この一日だけで翔太はバイク界で一躍有名な存在となり、日本の期待の星と呼ばれる様になった。父さんも母さんも、いづみさんも小夜も翼も、翔太の活躍に大喜びだった。でもあの時、私の心境は複雑だった。
レーサーになる事によって切っても切れない事故による怪我の心配、確かにそれもある。しかしそれ以上にこのレースを期に家でも外でもいつも私と一緒だった翔太がどこか遠くに行ってしまう様な気がした。
凄く焦った。このままじゃ置いていかれる。私は何をやってるんだろう、どこに向かっているんだろう。翔太は自分が歩んで行く道を見つけて夢に向かって一歩一歩踏み出しているのに……。
翔太が次々とレースで活躍していく度に、私の不安はどんどん大きくなっていった。負けたくない、置いて行かれたくない、私も何か頑張らなくちゃいけない。
その時、私の目に空手の舞台で圧倒的な強さを誇っていたお姉の姿が写った。いつも私達を守ってくれたその背中は私の憧れだった。そうだ、私もこの人みたいになりたい、強くなりたい。そうすればきっと翔太に追いつく事が出来る。そして、私も父さんや母さんが自慢に思える存在になる事が出来る……。
そうして私は空手を習い始めた。しかしこの世界は思っていた以上に厳しいものだった。日々の鍛錬に拳は血が滲み、足は切り裂け、体中にはアザが出来た。
決して女の子がやる様なスポーツではない。それでも、翔太に負けたくない、お姉みたいに強くなりたい、その気持ちだけで私はこれまで頑張ってきた……。
「……おい那奈、何ボッーっとしてんだ? 頭でも打ったかー?」
「……えっ?」
お姉の声で私は我に帰った。いけないいけない、何か最近昔の事を思い出す事が多いな。あの頃まではいつも一緒で仲が良かったのに……。気がつくと、もう二回戦の試合の時間が近づいてきていた。
「次の相手はおめーよりデカいみたいだが、まぁデカいって言っても横幅だけだがな」
次の相手は重量級の相手だ。お姉の言葉を借りると、つまり太った選手である。
「正面からぶつかるなんてバカなマネすんじゃねーぞ? グルグル回ってあの大根みたいな足をバカバカ蹴りまくって帰りは車椅子で帰してやれ! あっ、でもあのデブじゃケツが入る車椅子がねぇかな? ウッヒャッヒャッ!」
「シッ! お姉、相手に声が聴こえるってば!」
こんなに人がたくさん見ている中でも、翔太もお姉も戦ってきたんだ、勝ち上がってきたんだ。どんな相手だろうと負ける訳にはいかない。私がこの大会に出場を決めた最後の理由は、少しでもその二人に近づきたいと思ったからなんだから。
「じゃあお姉、行ってきます!」
「おぅ、一発ガツンとぶちかましてこいや!」
私が試合をしているその時、観戦に来る予定だった翔太はまだ会場に到着していなかった。今日はバイクチームのミーティングの日と重なってしまい、メンバーである翔太はそちらに参加していた。試合会場に父さんが来ていないのもその為だ。
「じゃあ渡瀬さん、お疲れーっす!」
「虎太郎、翔太、次回は七月の夏合宿だな、忘れるなよ? お疲れさーん!」
ミーティングはいつも休みで社員のいない父さんの会社の会議室を使って行う。打ち合わせが終わって橋本さんや竹田さん達メンバーはその場で各自解散をしていった。
「親父さん、お疲れッス」
「おぅ、ど疲れちゃ〜ん」
椅子に座って競馬中継を見ながらコーヒーを飲んでいる父さんの横で、翔太は上着を羽織ってそそくさと出発をする準備をしていた。
「……ん? 何をそんなに急いでんだ、お前?」
「……あっ、いやちょっと、約束があって……」
「……ふぅん、約束ねぇ……」
時間が気になるみたいで、翔太は何度も時計をチラチラ見ていた。
「お前まさか、女を待たしてる訳じゃねぇだろうな? あぁ、コラ?」
「な、何言ってんスか? 違いますよ! 今日って那奈の空手の大会の日って親父さんも知ってるでしょ? 母さんとかみんな先に行って俺を待ってくれているみたいで……」
「何ぃ!? やっぱり女を待たしてるじゃねぇか!? しかもその相手は俺の可愛い可愛い娘だとぉ!?」
「えっー! 何でそうなるんですか!? 勘弁して下さいよ!?」
理不尽な因縁をつけられうろたえる翔太に、父さんは黙って数枚の千円札を翔太の手に握らせた。
「な、何ですかこれ?」
「普通免許をまだ取って無いのに早まってバイクに乗って警察沙汰になったら困るんでな、どっかでタクシー捕まえて乗ってけや」
「……あ、ありがとうございます、でも、親父さんは会場に行かないんですか……?」
「この虎太郎様に相応しい場所じゃねぇよ、あっちの世界は優歌の専売特許だ、それに俺が行ったら昔の喧嘩心に火がついちまうからな」
そう言うと父さんは再び椅子に座り込んで机に置いてあるスポーツ新聞を広げて再びテレビに目をやった。
「第一、俺は家族や女よりもバイク優先主義なもんでな、お前もそんな予定があるなら大したミーティングでもねぇんだから休めば良かったのによ?」
「……お、俺だって、バイク優先主義ですから!」
「ほぅ、それは本音か? じゃあよ、大事なレースの日に那奈が事故に巻き込まれて瀕死の状態で病院担ぎ込まれたら翔太、お前どうすんだ?」
翔太に究極の選択を浴びせた父さんはくわえたタバコに火を点けてふぅ〜っと一服した。
「……親父さんはどうするんですか……?」
「俺か? さっき答えた通りだ、さぁ、お前はどうする?」
「……俺は、俺は……」
「へっくしゅん!!」
迷って悩んでいた翔太の気を散らす様に、父さんは大きな声でくしゃみをした。挙げ句はティッシュペーパーを数枚取って下品な音を立てて鼻を咬み始めた。緊張に包まれていた空気はあっという間にぶち壊された。
「……親父さん、ちょっと勘弁して下さいよ……」
「……おぉ、スマンスマン、まぁ、あまり考え込むな、お前はまだレーサーである前にヘタレな一男子学生だ、色々と人生勉強を重ねる事だな」
「……ハァ……」
「つーか翔太、お前時間大丈夫なのか?」
「あっ、やべぇ!」
翔太は時計をチラッと見て、急いで部屋のドアを開けた。
「じゃあ、親父さんスイマセン! お金、間違いなく大事に使わせて貰いますから!」
「おぅ、焦らないで気をつけて行けよ、那奈の応援頼んだぞ」
翔太が急いで部屋を出ていくのを見送ると、父さんは自分の机に飾ってある古い写真立てを眺めた。その写真には、バイクスーツに身を包んだ現役時代の父さんと貴之さんが仲良く肩を組んでいる姿があった。
「……全く、親父に似てクソ真面目な男だな、アイツは……」
翔太がこちらに向かっている間、私がいる試合会場の方はすでに昼休憩も過ぎて大会も大詰めになってきた。それに合わせて観客席もお客さんで埋まり、空席はほとんど埋まったいた。
次はついに決勝戦、私は何とかここまで勝ち抜いてこれた。お姉が連れてきた取材スタッフもまさか私がここまで残るとは予想していなかったみたいで、慌てて写真を撮ったり取材ノートを取り始めている。
「だから優勝するって言ってやってたのによ、今さらバタバタしやがってコイツら」
張り詰めた空気に一人だけ余裕のお姉は、椅子に足を広げてデーンと座り込みチビチビとミネラルウォーターを飲んでいた。
「しかしアレだな、これで間違いなくスポーツ欄掲載は確実だぜ、優勝したら一面トップも夢じゃねぇぞ那奈? ウッヒャッヒャッ!」
「………………」
「……どうした、ヤバいのか? 足痛むか?」
私はお姉の言葉に相槌を打つのが精一杯だった。これまでの連戦で手の甲のたこは潰れ、体には相手から受けた拳のアザが出来ていた。特に酷かったのは右足で、すねは真っ赤になって腫れ上がり血が滲んでいた。
全ての試合で突破口として下段蹴りを使い過ぎた報いだった。歩くの立つのも辛い。痛くて膝も曲がらない。椅子に座る事すら出来ない。私は床に足を伸ばして座り込んでいた。
「いいか那奈、あと一戦だ、相手だって無傷でここまで上がって来た訳じゃない、あとは我慢比べだ、精神の勝負だぜ!」
お姉の声は聴こえていたし、言っている内容の意味もわかっている。でも、弱音を吐かしてもらうともう体も心も限界に来ていた。意識も朦朧としている。
『おめーは強い』このお姉の励まし一つを支えに私は勝ち上がってきた。しかし、相手はみんな私よりも年上で、体がしっかり成長した選手ばかり。
まだ成長過程の私の幼い体は、これだけの連戦に耐えられるほど出来上がっていなかったのだろう。やはり、あまりに無謀な挑戦だったのかも……。
「……もう、ここまでなのかな……」
無意識の内に私はつい弱音を漏らしてしまった。その言葉を聞いた瞬間、さっきまで優しい笑顔で私を気遣ってくれていたお姉の顔がみるみるうちに鬼の形相に変わった。
バッチーーーーン!!
情けなくうつむいていた私の頬を、お姉は平手で思いっ切りブッ叩いた。その張り手は威力は今まで闘ってきたどの選手の打撃よりも強く、意識が一瞬飛びそうになった。
「ピヨってんじゃねぇぞ、てめー!!」
「……お、お姉……?」
お姉は胴着の胸ぐらを掴み立てなくなった私を力ずくで持ち上げると、そのまま側にある通路の壁に叩きつけた。今までもお姉には何度か怒られてきたが、こんなに怖いのは初めてだった。
「てめー、ここに何しに来たんだ! 自分の可能性を知りたくてここに来たんじゃねぇのか!? 日頃の努力の成果をみんな見せに来たんじゃねぇのか!?」
……わかっている、わかっているよお姉。でも、もう体が動かない。気持ちがあっても体がちっとも言う事を聞いてくれない……。
「てめー、これで満足なのか!? これが渡瀬那奈の全力か!? その程度の実力でな、あたしみたいに強くなりたいなんて気軽に言ってんじゃねぇよ!!」
「……お姉……」
「あたしも虎太郎ちゃんも、麗奈ママも翔太もみんな苦しんで頂点目指して勝ち残ってきたんだよ! 自分でここまでだって思ったらそこで終わり、自分の心の中の弱い自分との勝負なんだよ!!」
「……!」
……そうだった。私の相手は他の選手じゃない、自分の無力さと弱い心だ。自分に負けたくなくてここに来たんだ、お姉や翔太に負けたくなくてここに来たんだ!
「……お姉、ありがとう、出来るだけやってみる……!」
「よし、それでいい! それでこそ、この優歌様の妹だ! 渡瀬虎太郎と麗奈という絶対にありえない夫婦から産まれた奇跡の娘だ!!」
「……あの、そんな事、別にいいから……」
私は痛む足を引きずりながら何とか歩き出し、決勝の相手が待つ試合の舞台へと向かった。
「いいか那奈、試合の勝ち負けなんて関係ねぇ、自分に勝て! 絶対に自分から試合を投げるなよ!?」
決勝の相手は前回大会の王者だった。ガタイの良い成人の女性でかなりの実力者の様だ。ボロボロになりながら勝ち上がってきた私と比べて、相手は序盤を一本勝ちなどで順調に勝ち上がり、かなり体力を温存しているみたいだ。
「お互い、礼!」
相手には私が足を痛めているのを知られているだろう。しかし、どんなに蹴られても殴られても、私は倒れる訳にはいかない。例え判定で負けたとしても、絶対に倒れない、自分に負けない!
「始め!」
観客席にいる小夜達は、全員椅子から立ち上がり通路の一番前まで移動してフェンスにかじりついて観戦していた。
「ねーねーねー、那奈大丈夫かな? 何か足引きずってるよー!?」
「これはさすがにアカンなぁ、もう満身創痍やないか……」
「やだ、何か惨すぎるわ、アタシ見てられない……」
普段見せない苦悶の表情をする私を見て、小夜、翼、千夏の三人はその痛みを感じ合う様に私の無事を祈ってくれていた。
「あっ、来た来た、翔太到着! お〜い、こっちだこっち!」
「…………翔太、ここ、ここ」
そこにやっと翔太が会場に到着した。航は他の観客の後ろからでも見える様に薫を持ち上げて居場所を知らせてくれた。目印にするには充分な高さ、翔太はすぐにみんなを居場所を見つけて急いで駆け寄ってきた。
「遅いじゃない翔太、何やってたのよ!? 那奈は頑張って決勝まで勝ち上がってきてるのにこのバカ息子は!」
「着いて早速無茶言わないでくれよ母さん! これでも親父さんからお金貰ってタクシーですっ飛んで来たんだよ!?」
「……虎太郎がお金を? あらやだ、珍しい……」
いづみさんの説教を振り切り、翔太は小夜達が占拠している最前列に無理やり割り込んだ。
「小夜、どうなんだ? 那奈の状態は?」
「那奈、足引きずってるよー! スゴい痛そうだよー!」
「……足?」
翔太は会場で試合をしている私を見て、痛めている右足の異常を確認した。
「……マジかよ、ヤバいじゃんか……」
「翔ちゃんどうしよう!? このままじゃ那奈が負けちゃうよー!?」
「……俺達が出来る事は応援してあげる事しかない! みんな、ついてきてくれ! もっと近くで那奈に声が届く様に応援するんだ!!」
その頃、右足を中心に攻められまくっていた私は相手の攻撃を何とか歯を食いしばり耐えていたが、反撃出来る力は少しも残ってなかった。立っているのが精一杯だった。
足が動かない。蹴りはおろか、前に出る事も下がる事も出来ない。何とか拳を出しても、潰れたマメが痛くて思い切り突く事が出来ない。容赦なく叩き込まれてくる相手の打撃に私の心は折れかかっていた。
もう倒れたい、休みたい。ここまで頑張ったけど、もう手段が無い。もう無理、これ以上闘えない、ここが私の限界。みんな、応援に来てくれたのにごめんね。お姉、あんなに励ましてくれたのにごめんなさい。私はやっぱりお姉みたいな強い人間にはなれないんだ……。
「那奈ーーーーーー!!」
意識を失いかけていたその時、観客席から私の名前を叫ぶ大声が聴こえてきた。小さい頃から聞き慣れた、親しみのある暖かい声……。
「……翔太……?」
観客席を見渡す余裕は無かった。でも、私はその声が翔太のものだとはっきりと確信する事が出来た。切れかかっていた意識も戻り、少しずつ周りの声援が聴こえる様になった。
「那奈、諦めるんじゃねぇぞ! 気力だ、勝ちたいと思う気持ちが強い方が勝つんだぞ!」
後ろから聴こえるお姉の励ましの声に、私は再び歯を食いしばって相手に立ち向かった。しかし、さすがに相手は前大会の王者。試合後半になっても攻撃は止まる事は無く、私の体や痛めた足を狙って容赦なく拳や蹴りを入れてくる。
「……ぐぁ……!!」
全身に痛みが走る。意識も再び薄れてきた。でも、でも倒れる訳にはいかない。絶対にお姉と翔太の前で倒れる訳にはいかない!
「那奈、那奈! 頑張れ、頑張れー!!」
翔太の声が聴こえてくる。声を枯らして、精一杯大声で応援してくれている。
「那奈! 頑張ってー! 那奈なら絶対勝てるよー!!」
これは小夜の声だ。そうだった、こんな弱い私でも信じて慕ってくれる人間がいたんだ。
「そうやで那奈! 翔太が駆けつけたからには勇気百倍やろ!? ここで一発、女の気合いを見せたれや!」
関西弁、翼かな。勇気百倍ってアンパ○マンじゃないんだからさ、それに女の気合いって何よ?
「そうよ那奈! ここで那奈と翔太君の愛の力をみんなに見せつけるチャンスよ!」
……千夏? 愛の力? あれ、また変な方向に話が傾き始めてきた。
「『パワー・オブ・ラブ』ですぜお嬢!愛は、愛こそが世界を救う!! さぁ、栗山兄妹も一言どうぞ!?」
「…………相思相愛、恋愛成就、滋養強壮、安産祈願」
「やきにくていしょく〜」
……ちょっとアンタ達、こんなにたくさんの観客がいる場所でまたそんな誤解される様な話を……。
「ここで負けたらこの私が翔太の嫁として認めないからね! 鬼姑になって那奈、アンタをイジメまくってやるからね!」
……いづみさんまで。何か観客席が変な空気でざわざわし始めてるじゃない!? この話、どう収集つければいいのよ!?
「優勝したら翔太から祝福のチューをしてもらえや! アツアツで羨ましいなぁおめー達は!? ウッヒャッヒャッヒャッ!!」
……お姉も、みんなして寄ってたかって本当にいつもいつもいつもいつも!!
「翔太の旦那、今、必死で闘っている愛しのマイダーリンに向かって何か一言どうぞ!」
「……えっ? あ、あの、頑張って欲しいと思います……」
「否定しろ、バカーーーー!!」
ドカッ!!
「……あれっ?」
興奮した私は怒りに任せていつの間にか痛めていた右足で相手の頭部側面に上段廻し蹴りをカウンターで見事にクリーンヒットさせていた。意識のぶっ飛んだ相手の選手は一撃で膝からガクンと崩れ落ち倒れ込んで白目を剥いて失神していた。
「……一本! そこまで!!」
ウオォーーーーーー!!
会場全体から物凄い歓声が上がった。観客は全員立ち上がって私に向かって拍手をしてくれていた。
「……えっ、私が勝ったの?」
意識を取り戻した相手を試合終了の礼を済ませた後、事態を把握出来ないまま舞台を降りるとお姉が嬉しそうに私に抱きついてきた。
「やったな那奈! 見事な大逆転一本勝ちだぜ! さすがおめーはこの優歌様のたった一人の妹だな!!」
「……えっ、何? 何この展開……?」
ボッーとしている私と大興奮しているお姉を取材カメラがバシバシフラッシュを焚いて写真を取りまくっていた。
「おめー達、よく覚えとけよ! この女の名前は渡瀬那奈! この渡瀬優歌様の可愛い妹で、あの渡瀬虎太郎の愛娘だ! この華麗なる一族の前にひれ伏しやがれコラァ!!」
次の日、一面とはいかなかったが私の活躍は新聞のスポーツ記事に載った。しかし肝心の写真には私の姿はお姉に被って一つもまともに写っている物が無かった。
結局、この大会で私が得た物は『渡瀬優歌の妹』という悪名と翔太との変な誤解をさらに世間に広めてしまうだけだった。あーぁ、私は一体何やってんだろう……。