第22話 Another mind
「……今日、完全警戒態勢なんです、遠藤家……」
学校に登校していきなりこの話。最近、麻美子の周辺がやたらと慌ただしい。一体今度は何が起きたというのか。
「……航君のお父さんが今日、仮出所の予定で……」
航の父親、栗山遼司さん。突発的な事故だったとはいえ、瑠璃の実の母親を殺めてしまい刑務所に服役していた。それはエラい事だ。
「……そりゃ警戒態勢にもなるわよね……」
「……だから今日、航はここにいないのか……」
無遅刻無欠席、いつも私と翔太の後ろにいる背の高い坊主頭が今日はいない。何か背景にポッカリ穴が空いてしまった様な、慣れ親しんでた建物が潰されてしまった感覚だ。
「しかしやで麻美子、何でそんなビッグイベントを今までウチらに黙っとんたんや?」
「そうよ、水臭いわね〜、そんなに隠さなきゃいけない理由でもあるのぉ?」
「……航君の前ではお父さんの話をするのは無理だから、みんなにも話すチャンスが無くて……」
翼と千夏の問い掛けに麻美子は申し訳なさそうに答えた。本来なら刑務所の外で久し振りの親子の対面、うまくいけばまた家族一緒に生活していけるし、父親の社会復帰だって夢ではない話なのだが。
「……でも航君は、航君はお父さんの事を……」
「……嫌っているよね、間違いなく……」
声が詰まってきて話し辛そうな麻美子をサポートする様に、続きを薫が語り出した。そうだった、薫も過去の航の事を知っていたんだっけ。
「……昔さ、俺が施設であった航はいつも父親を憎んでいたよ、新しい家族と幸せを掴もうとしていた母親を殺して、自分や瑠璃ちゃんの人生を滅茶苦茶にした最低の人間だ、ってね」
しかし、あの時の航の父親・遼司さんは精神衰弱と共にアルコール依存症を引き起こしていたらしい。航がその事を理解してくれていればいいのだか、麻美子や薫の話を聞く感じではそれも難しそうだ。
「………………」
「……どうしたのよ小夜、黙り込んじゃって?」
「……瑠璃ちゃん、大丈夫かな……」
そういえば瑠璃は父親の事を覚えているのだろうか。精神的な障害を起こした原因は母親が刺された現場を見てしまったからではないかって遠藤先生は言っていたけど。
「……今回は瑠璃ちゃんには対面させないってお父さんが言ってました、せっかく順調に元気になってきたのだから下手に刺激を与えない方が良いって……」
確かにその方が良いだろう。父親の顔を覚えているがどうかはわからないけど、何か記憶の隅に残っているトラウマを呼び戻してしまうとまた心を閉ざしてしまうかもしれない。
「……瑠璃ちゃん……」
小夜は胸に手を当てて心配そうにうつむいた。すぐにでもそばに飛んで行ってあげたい、小夜の心の叫び声が私達には聴こえていた。
でも、今回の件は私達が勝手に踏み入ってしまってはいけない様な気がする。これはあくまでも一つの家族内の問題であって、家族同士が分かり合えない限り解決はしないと思う。
兄妹二人しかいないならともかく、そばにはちゃんと遠藤先生や美代子さんがついている訳だし、今日の予定を聞いて麻美子が想いを寄せている彰宏さんも家に駆けつけてくれているらしい。
この話は私達の様な子供が余計な横槍を入れるべきではない。黙って見守るしかないのだ。
「……小夜、大丈夫だから、心配しないで」
「……うん……」
私は出来るだけ小夜の心から不安を取り除こうと励まし続けたが、学校にいる間、終始小夜の笑顔が現れることは無かった。
私達が学校で授業を受けているその頃、航と遠藤先生は仮出所してきた遼司さんを刑務所まで車で迎えに行っていた。
「……やっと仮出所だな、お疲れさん、遼司……」
「……和夫、色々と迷惑をかけてしまったな、すまない……」
償いの心労でボロボロに痩せこけ髪の毛も髭も白髪混じりになった自分の父親を、航は何か『物』を見るような冷たい目線で見つめていた。
「………………」
「……航、すまなかったな……」
「…………先生、早く帰りましょう」
父親から話しかけられた航は何も返事をする事なく車に乗り込んでしまった。その姿を見た遼司さんは黙り込んでその場立ち尽くし、遠藤先生は一つ深い溜め息をついた。
「……遼司、さぁ乗ってくれ、大した事はしてあげられないが俺のカミさんが料理を作って家で待ってくれているんだ」
「……すまない、和夫……」
車に乗り込んでからも、航は遼司さんの顔を一切見る事もなくずっと黙り込んで窓から外を見ていた。遠藤先生と遼司さんが喋っていても、会話に入ってくる事は無かった。
私達は学校の授業も全て終わり、下校路を歩いていた。しかし、何か気分が上がらずに大して会話も盛り上がらないまま駅に到着してしまった。
「……じゃあ私、心配なんで急いで帰ります……」
麻美子は駅の時計を見て急いで改札口への階段を上っていった。いつもならみんな笑顔で別れるこの場所、私達は心の奥に何かもどかしい感情を抱いていた。
「……待って、待って麻美ちゃん!」
突然、小夜が帰ろうとする麻美子を止めた。その声に麻美子の後ろから階段を上り始めていた翼と千夏と薫も足を止めた。
「……えっ、どうしたの小夜ちゃん?」
「……あたし、やっぱり麻美ちゃんの家に行く! 一緒に連れて行って!」
やはり小夜が気持ちを抑えきれずに暴走気味になってしまっている。その気持ちがわからない訳ではないが、さすがに今日ばかりはそれを許す訳にはいかない。
「小夜、何を言い出してるのよ!?」
「だって、だって! 瑠璃ちゃんと航クン、二人とも心配だもん!」
「小夜、いい加減にしなさい! アンタが行ったって役に立てる事なんてないの! むしろ邪魔になるのよ!?」
私が声を荒げて説得していると、次第に小夜の瞳は潤んできてしまった。その姿を見て、私も胸が苦しくなってきた。
「……でも航クン、お父さんの事を憎んでるって言ってたから……」
「……小夜、それはね、家族間の問題であって私達の様な他人が口を出せる事じゃないのよ……?」
「でも、何かイヤな予感がするの! このまま二人を放っておいちゃいけないって気が……」
「……小夜……」
私だって苦しい。何か出来る事があるなら力になってあげたい。でもどうすれば良いのだろう、一体何が出来るのだろう。私は言葉に詰まり、これ以上小夜を説得する事が出来なくなってしまった。
私だけではない。階段を下りてそばまで駆け寄っていた麻美子も、横で話を聞いていた翼も千夏も薫も、何も言い出せずに黙り込んでいた。きっとみんな、私と同じ心境だったのだろう。
「……よし、じゃあ行こう、小夜!」
「……本当に!? 翔ちゃん、一緒に行ってくれるの!?」
沈黙を切り裂いたのは翔太だった。何かを決意した様に気合いを入れて、力強く小夜の肩をポンと叩いた。
「ちょっと翔太、アンタ、何を考えてるのよ?」
「……父親を憎むなんてそんな辛い話ないだろ、もし本当に航がそんな事を思っているなら俺は放っておけないよ……」
『父親』と言うキーワードが翔太の心を動かした。幼い頃に貴之さんを事故で亡くした翔太からすれば、父親を憎むなんて事は聞くに堪えない話だったのかもしれない。
「……そうだね、困ったり苦しい時は助け合うって約束したしね……」
翔太に触発されて薫も動き出した。これが女には良くわからない男同士の友情ってヤツなのか。
「……オトンを憎むなんてウチからしてもありえへんな、そんな親不孝な真似するんやったらウチも見て見ぬ振り出来へんわ」
「アタシのパパの事はそんなに好きじゃないけど憎むのはいけないと思うし〜、やっぱりat homeが一番よね、小夜!」
「……小夜ちゃん、今回は瑠璃ちゃんには父親と会わせないみたいだから、もし良かったら瑠璃ちゃんの相手をしてあげてよ! きっとお父さんもお母さんも喜んでくれるよ!」
「……みんな……」
……やれやれ、みんなお人好しと言うか、身の程知らずと言うか、私達が行って出来る事なんて何も無いとは思うけど……。
「……全くもう、しょうがないわね、でも邪魔にならない様に何事も無かったら挨拶だけしてとっとと引き返すからね、いいわね、小夜!?」
「……うん、わかった! みんな、ありがと!」
私達が全員で駅から電車に乗り込んだ時、すでに遠藤先生が運転する車は診療所に到着していた。
「お帰りなさい、和夫さん」
「あぁただいま、遼司、紹介するよ、妻の美代子だ」
「栗山さん、長い間お疲れ様でした、お帰りなさい」
「……色々とお世話になりました、航と瑠璃の面倒を見て頂いているみたいで……」
遼司さんは必要以上に深々と頭を下げた。元々はとても腰の低い優しい人だったそうだ。しかし、遼司さんと美代子さんが初対面の挨拶をしている時も、航は一切父親を見ないでただ黙り込んでいた。
「……お帰り航君、また今日一日お邪魔させて貰うけど宜しくね」
「…………どうも」
航は遠藤家に来ていた彰宏さんの挨拶も適当に受け流すと、外にいる父親達の存在を無視して一人だけ先に家に入り二階の自分の部屋へと上がっていってしまった。
「……おい航、ちょっと待て!」
航を止めようと遠藤先生が声をかけたが、航はこの声に振り向く事は無かった。
「……いい、いいんだ和夫、航の好きにさせてやってくれ……」
「……しかしだな、遼司……」
「……俺は、子供達の大切な物を奪って傷付けてしまった、許して貰える事ではないんだ……」
うなだれる遼司さんを見て、遠藤先生は再び深い溜め息を一つついた。しかし、気持ちを切り替えて一緒に出迎えてをしてくれた彰宏さんの元へと歩み寄った。
「……彰宏、非番の日にすまないな、悪いが、航を二階から下に降りてくる様に呼んできてくれないか?」
「……はい、わかりました、瑠璃ちゃんはどうしますか?」
「今日は瑠璃には会わせないつもりだ、そのまま二階にいて相手をしてやってくれ」
その間も、遼司さんはうつむいたまま立ち尽くしていた。その表情からは過去への後悔と懺悔の念が滲み出ていた。
「……外も何ですから良かったら中にどうぞ、大したおもてなしも出来ないかも知れませんが……」
「……すみません……」
見かねた美代子さんが声をかけて家の中に案内した。しかし、遼司さんの返事の声はすでにうわずっていて、唇を噛んで悔しさと苦しみの涙を必死に堪えていた。
「……おにぃ、ちゃん……?」
その頃、二階に上がった航は自分達の部屋の扉を締め切って、ベッドの上で瑠璃を膝の上に乗せ背中からギュッと抱きしめていた。まるで、何かから瑠璃を守る様に。
「……どうしたの、おにぃちゃん……?」
『おにぃちゃん』、会話が出来る様になってきた瑠璃に、一生懸命小夜が教えてあげた二番目の言葉だ。
「…………大丈夫だよ、何でもない」
「……だれか、きたの……?」
「………気にしなくていい、瑠璃の知らない人だよ」
航は瑠璃を心配させまいと自分の気持ちを押し殺して出来るだけの笑顔を見せた。すると、トントンと部屋の扉を叩く音が二人の耳に聞こえてきた。
「……航君、中に入っていいかな……?」
航を呼びに彰宏さんが部屋の扉を開けて部屋に入って来た。その瞬間、航の顔は瑠璃に見せた笑顔は消えて再び冷たい目つきに戻ってしまった。
「……和夫さんが、嫌かもしれないけど下に来なさいって言ってるから、瑠璃ちゃんを部屋に残して一階に降りてきてよ……」
「………………」
「……瑠璃ちゃんは俺が責任持って相手をするから……」
「…………わかりました」
航は瑠璃の頭を優しく撫でるとベッドを降りて部屋の扉へと向かった。普段とは違う家の空気に瑠璃は心配そうに兄の背中を見つめていた。
「…………いいか瑠璃、絶対にこの部屋から出たら駄目だぞ、彰宏さんと遊んでなさい」
「……う、ん……」
瑠璃は小夜とお揃いのあの白いウサギのぬいぐるみをギュッと抱きしめていた。まるで、自分の不安を小夜に伝えようとしているかの様に……。
その頃、最寄り駅に到着した私達は急いで遠藤医院に向かっていた。瑠璃の不安を感じ取ったかの様に、気持ちを抑えきれない小夜が突然走り出したのだ。
「……小夜、落ち着きなさい! そんなに走ったらまた転ぶよ!」
「……みんな、早く急いで、お願い! 何かイヤな予感がするの、すごくイヤな予感が……!」
体育の授業では見た事がない様な小夜の全力疾走。その姿を見て、私も何か嫌な胸騒ぎを感じていた。
出所祝いとばかりに美代子さんが用意したちゃぶ台に置き切れない程の沢山のご馳走。しかし、誰もそれに手をつけようとしなかった。とても、そんな雰囲気では無かった。
「……遼司、食べろよ、久し振りだろこんな食事は?」
「こんなものしか用意出来なくてごめんなさいね、お口に合えばいいんですけど……」
遠藤先生も美代子さんも、一言言って再び黙り込んだ。ちゃぶ台を挟んだ近くて遠い距離、遼司さんと航の間には物凄く重く冷たい空気が漂っていた。
「………………」
その空気に耐えられず、美代子さんが何とか空気を変えようとして話題を持ち出した。
「……あの、栗山さん、航君には学校に凄く仲のいい友達がいるんですよ、遠くのサーキット場に連れて行って貰ったり、この前は泊まりがけでキャンプ場に行って遊んで来たんですって、ねぇ、航君?」
「…………はい」
私達の話でやっと出来た沈黙の突破口に遠藤先生も続いた。
「……俺も会った事があるけど、とても良い友達だよ、航や瑠璃の為に夜遅くまで探し回ってくれたり、学校帰りでも家まで遊びに来てくれたりな……」
「……そうか、良かった、航には良い友達が出来たんだな……」
少し遼司さんの緊張が緩んだ。この話題ならいける、そう思ったのだろう。遼司さんは意を決して航に話しかけた。
「……航、学校は楽しいか? 勉強は楽しいか……?」
しかし、次の航の返事は溶けかかっていた家族のわだかまりを再び凍りつかせてしまった。
「…………あなたに話す事なんて無い」
「……航!」
「航君、そんな事を言っちゃ駄目よ、お父さんはずっとあなた達の事を心配して頑張ってきたのよ?」
遠藤先生と美代子さんは何とか航の心を開こうと諭したが、航は再び黙り込み遼司さんの顔から目をそらした。
「……ハァ……」
この拭いきれない倦怠した『嫌悪感』と言う深い霧の前に、遠藤先生は困った様に溜め息をついてお茶を一口飲んだ。そして、話題を切り替えて遼司さんに話しかけた。
「……遼司、航と瑠璃のこれからについてなんだがな……」
「……あぁ……」
「まだしばらくの間は俺の方で預かっておくぞ、お前がしっかり社会復帰をして立ち直った時、ここに二人を迎えに来てくれれば……」
「…………断ります」
遠藤先生と遼司さんの会話を遮る様に航は冷たい結論を突きつけた。気持ちが少しずつ緩んできていた遼司さんは、航の答えを聞いてまたも唇を噛みしめてうつむいた。
「航、もう許してやれよ、お前だってあれは事故だったってわかっているだろう?」
「航君、あなたのお父さんが罪を償って帰って来たのよ? 家族なんだからちゃんと迎えてあげて頂戴?」
「…………いません」
「何? 今、何て言った?」
「…………俺達に父親なんていません」
航の言葉に遠藤先生はついに憤慨し、立ち上がって航の元に詰め寄った。
「航、いい加減にしろ! お前達も今まで苦しい思いをしてきただろうけど、その分遼司だって同じ位の苦しみを一人で耐えてきたんだぞ! それをそんな……!」
「……和夫、もう止めてくれ……」
「……何を言い出してるんだ遼司! お前がそんな事で……!」
「……いいんだ、もう、いいんだ……」
立ち上がり大声をあげる遠藤先生を抑えて、遼司さんは航の前に正座をして頭を畳につけて土下座をした。
「……航、すまない、すまなかった……」
遼司さんは泣いていた。床にこすりつけている額の下の目からは大粒の涙が流れ落ちて畳の上にシミが出来ていた。
「……俺は、報いの無い人生に嫌気がさして酒に溺れて何の罪も無いお前達を傷付け、挙げ句の果てにはお前達の大切な優しい母親までもこの手で奪ってしまった、お前達の人生を滅茶苦茶にしてしまった!」
「………………」
航は黙って微動だにせず謝り続ける父親を見ていた。その親子の姿はそばにいる遠藤先生や美代子さんの心にグサリと刺さる辛い光景だった。
「……謝って済む事ではないのはわかっている、この先一生、俺の全てを掛けてお前達に償い続ける! この通りだ、すまなかった!」
遼司さんはさらに畳に頭をこすりつけて航に謝罪した。しかし、それでも航の凍りついた心が開く事は無かった。
「………もういいです、何もいりませんから俺達の前から消えて下さい、二度と現れないで下さい」
「航! お前、父親に向かって何て事を……!」
「……航君、どんな事があってもあなたの前にいる人はお父さんなのよ? たった一人のお父さんなのよ?」
周りの言葉はこの親子にはもう届かなかった。深く、大きく亀裂が入ってしまった家族の愛情はもう戻らない。
「…………あなたの顔を見ると辛い記憶が戻って来るんです、俺達を本当に想ってくれているならもう俺達兄妹に関わらないで下さい、二度と嫌な事を思い出させないで下さい」
「……そうか、そうだよな、わかったよ航、すまない……」
遼司さんはゆっくりと頭を上げた。その顔は涙でグシャグシャになり、哀れな絶望的を漂わせていた。
「……和夫さん、一体何が……?」
「……お前は出てこなくていい……」
尋常でない一階の雰囲気に、心配になった彰宏さんが下に降りてきてしまった。しかも、二階の扉を開けっ放しにして。
「……航、ただ一つだけ、一つだけ教えてくれ、瑠璃は、瑠璃は元気なのか?」
「……!」
遼司さんの口から出た瑠璃の名前を聞いて、航の顔は凶変した。何か殺意に近い空気が部屋中を包んでいった。
「言葉はどれくらい喋れる様になったんだ? 一人でどれくらい歩ける様になったんだ? 頼む航、それだけ教えてくれ!」
「…………お前に教える事なんて一つも無い」
「航、何て言葉使いだ! 父親に対してお前などと……!」
「父親なんていらない!!」
航は肩を掴んだ遠藤先生の手を振り払い、その勢いでちゃぶ台を左手で思いっきり叩いた。その叩いた反動で上に並べられていた料理のお皿が何枚か床に落ちてしまった。
「誰のせいで瑠璃があんな事になったと思ってるんだ! 本当だったら今頃、周りの同じ位の子供達と元気に小学校に通って、友達を作って、いっぱい勉強して……!」
「……航……」
航の気迫に、誰も止めに入れる人はいなかった。何年も苦しみ耐えてきた息子の怒りに、遼司さんはただ黙って聞いている事しか出来なかった。
「瑠璃は今でも学校にも行けないで、毎月病院に行って訳のわからない器具をつけられて辛い検査を受けているんだ! 言葉も喋れないで、行きたい所にも自由に行けないで、ずっと寂しい思いをしてきたんだ! 自分の母親の顔すらも覚えてないんだぞ! 何で瑠璃だけ、何で俺達だけこんな辛い思いをしてこなきゃならないんだ!?」
「……すまない、航、本当にすまない……」
航の積年積もり続けた苦しみの叫びを聞いた遼司さんは、ボロボロと泣き崩れて何度も何度も航に対して頭を下げた。
「……航君……」
彰宏さんはやりきれない気持ちを吐き捨てる様に言葉を漏らしたその時、後ろで何かカタカタと物音が聴こえてきた。
その音が聴こえた方を振り向くと、そこには階段を四つん這いになりながらした下まで降りてきてしまった瑠璃がいた。
「……おにぃ、ちゃん?……」
「……瑠璃ちゃん! まさか、降りて来ちゃったのか!?」
「……彰宏! だから上にいて瑠璃を見ていろとあれほど……!」
遠藤先生と彰宏さんはすぐに瑠璃を止めようとしたが、もうその時にはすでに瑠璃は下まで降りてきてしまい、そのまま四つん這いになりながら航の元へと近づいていった。そして、その姿は遼司さんの目にも写った。
「……瑠璃、瑠璃なのか!?」
「瑠璃に、触るなぁぁぁ!!」
航は瑠璃に近寄ろうとした遼司さんを思い切り突き飛ばし、そのまま台所へと向かっていった。
押し飛ばされた遼司さんはちゃぶ台の上に倒れ込み、料理が乗っていたお皿は全てひっくり返ってしまった。
「航、何をする気だ!?」
航が台所から帰ってくると、その手には包丁が握られていた。そして、瑠璃を背中に庇い近付かせない様に遼司さんに刃先を向けて突きつけた。
「……航、瑠璃……」
「…………絶対に、お前を瑠璃には近寄らせない」
この最悪の状況に美代子さんは震え上がり、遠藤先生と彰宏さんは何とか航に思い止まらせようと必死に説得した。
「航! 馬鹿な真似はやめろ!」
「……航君、その包丁を離すんだ、航君!」
しかし、逆上した航の耳には二人の声は全く届かなかった。
「…………お前が、お前さえいなければ……」
「……航……」
すると、遼司さんは包丁を向けているを航の前に静かに座り込んだ。
「……航、俺を、俺を殺してくれ…」
「……!」
突然の遼司さんの行動に航は一瞬驚いた。驚愕した遠藤先生は遼司さんの両肩を掴んで体を揺さぶって一喝した。
「遼司! お前、何を言い出しているんだ!!」
「……俺はもう取り返しのつかない事をしてしまった、どんなに謝ってもどんなに頑張っても償い切れない、それならば、もし航達が俺を殺したいほど憎んでいるならば、俺はそれを拒む事は出来ない……」
「そんな事をさせてどうするんだ!? お前は自分の息子にまでも過ちを犯させるつもりなのか!?」
遼司さんは両肩にかかっている遠藤先生の手を静かに離すと、再び航の前に正座をして座った。
「……航、俺を、殺せ……」
「やめろ航! 殺しちゃいかん!」
「航君、ダメよ! 包丁を離しなさい!」
自分の前で涙を流しながら懇願する父親を見て、航は覚悟を決めた。遠藤先生の声も美代子さんの声ももう航には届かなかった。
航は瑠璃の見ている前で立ち上がって包丁を両手に持ち、遼司さんの頭の上に刃を突き立てた。
「……おにぃ、ちゃん……?」」
「…………これ以上瑠璃を傷つけさせない、その為なら……!」
「……航、瑠璃……!」」
「やめてくれ、航!!」
「きゃあー!!」
航は父親に向かって憎しみの刃を振り下ろした。誰もか惨事を覚悟したその時、玄関の戸が開いて家の中に飛び込んできた一人の少女が二人の間に立ち塞がった。
「ダメーーーーーー!!」
「……!」
航の手が止まった。航と遼司さんの二人の間に、手を大きく広げた小夜が立っていた。家に駆け込んだ小夜が航を止めたのだ。
「ダメだよ! 人殺しなんてしたら絶対にダメだよ!!」
「…………人、殺し……」
「そんな事する航クンを見たって瑠璃ちゃんは絶対に喜ばないよ! だって瑠璃ちゃんが大好きなおにぃちゃんは、困った人を助けてくれる優しいおにぃちゃんだもん! 大きくて、強くて、優しいおにぃちゃんだもん!!」
「………………」
大きな瞳から大粒の涙を流しながら、小夜は航の目を力強く見つめていた。その純粋で陰りの無い気迫に航はおろか、周りにいる人達も声を失った。
「たーよ、たーよ、たーよ」
小夜の姿を見た瑠璃はハイハイ歩きをしながら近づき足元にしがみついて立ち上がった。
「たーよ、たーよ」
「………………」
その姿を見て航は我に帰り、振り上げていた包丁を静かに下に降ろした。
「……航君、包丁をこっちに渡して、いいね……?」
彰宏さんに促された航は静かに手に持っていた包丁を渡した。もう抵抗をする素振りは一切せず、ただその場に立ち尽くした。
「小夜!!」
「小夜!航!」
一足遅れて私達が診療所に到着すると、航は私達を突き飛ばして突然外へと走り出していってしまった。
「航は俺と薫で追いかけるから、那奈達は小夜を頼む!」
「わかった! 翔太、航をお願い!」
私が玄関から居間に駆け入ると、小夜は畳にペタッと座り込んで茫然としていた。
「たーよ、たーよ」
そのそばでは、瑠璃が心配そうに小夜の顔をペタペタ手で触っていた。
「小夜、小夜!」
「小夜ちゃん、しっかりして小夜ちゃん!」
私と麻美子の呼びかけに気づいた小夜は、今になって恐怖が襲ってきたのか私の胸に飛び込んできた。
「うわーん!! 怖かったよー!!」
「……全く、アンタは本当にいつもいつも……」
私は大声を出して泣き出した小夜のいつもの様に数発ペチペチとひっぱたいた。怪我が無かったから良かったものを……。
その私達の姿を見て、瑠璃が不思議そうに小夜の顔を覗き込んでいた。やはりあの悪い予感は瑠璃が教えてくれたのだろうか。
「…たーよ?」
「……大丈夫だよ、小夜は痛くて泣いてる訳じゃないよ……」
私達の横では、落ち着きを取り戻した遠藤先生達がお互いの無事を確かめあっていた。
「遼司、怪我は無いか!? みんなは!?」
「お母さん、彰宏兄ちゃん、大丈夫だった? 怪我とかしてないよね!?」
「……麻美子帰ってきてたのね、お母さん、腰が抜けちゃって……」
「……俺、台所に包丁をしまってきます……」
部屋中に散らかった料理と食器と折れてしまったちゃぶ台。ここでどれだけの修羅場があったか見るだけで充分に推測出来た。
遼司さんは座り込んだまま、泣いている小夜の頭をいいこいいこして撫でている瑠璃の姿を涙を流して見つめていた。
「ところで、航はどこへ行ったんだ?」
「翔太君と薫ちゃんが追いかけて行ったみたいですけど……」
「……どこまで行ったんやろな、アイツら……?」
遠藤先生に尋ねられた翼と千夏は心配そうに玄関から外を見ていた。もう外は日が暮れかけて赤く染まっていた。
最悪の結末を止められたとはいえ、結局私達は一つの家族の問題に足を突っ込んだしまった。
それが良かった事なのか、悪かった事なのか、この時私にはまだわからなかった。どうしようもない不安が心の中に渦巻いていた。
「みんな、航君が見つかったそうです!」
散らかった居間を掃除して完全に日が暮れて外が暗くなった頃、航を探しに行っていた翔太達から連絡があった。麻美子に呼ばれて玄関から外を見ると、翔太と薫が航を連れて帰ってきた。
「翔太!」
「那奈、小夜は?」
「うん大丈夫、中で瑠璃と遊んでるよ」
「そうか、良かった」
結局、航は春にみんなでお花見をしたあの『桜の公園』にいた。翔太と薫が見つけた時には航も落ち着きを取り戻していたらしい。
憎しみのあまりにしてしまった自分の行動への恐怖心と、それを止めてくれた小夜や周りの人達への罪悪感から耐えられなくなってその場を逃げ出してしまったそうだ。
こちらに歩いてくる航の表情はいつものポーカーフェイスに戻っていた。もうさっきみたいに暴れ出す様な事は無いだろう。
しかし、三人が無事に帰ってきたのはいいが何か様子がおかしい。って言うか、見て明らかにおかしい。
「……なぁ、追っかけて行った薫が何で航におぶられて帰っきてんねん?」
「……まだこの前に壊れた義足の修理が終わってなくて、緊急用のスペアつけてたらそれがまた壊れたの!」
薫の右足の義足を見てみると、今度はストッパーどころか足首の部分が完全にもげていた。何も知らない人が見たらビックリするだろうなぁ。
壊れてしまったのはしょうがないにしても、探しに行った人間がその行方不明者に担がれて帰ってくるとは何てヘタレな捜索救助隊だろうか。
「ヤダ〜、薫ちゃんったらダッサ〜イ!」
「……航、もういいから降ろしてくれよ、翼にも千夏ちゃんにもバカにされるし、メチャクチャ恥ずかしい……」
「…………了解」
合図に合わせて航はいきなりサッと手を離したので、薫はお尻から勢い良くドスンと落ちた。最後の最後にしょうもないオチをわざわざつけてくれる。
「痛ぇ!!」
「……何をしに来たんやオマエは……?」
すると、外の声を聞いて家の中からみんなが出てきた。小夜も瑠璃の手を引いて航の前に立った。
「……航君、お帰り」
「……お帰りなさい、航君」
「…………迷惑かけて、すみませんでした」
優しく迎えてくれた美代子さんと彰宏さんに対して、航は深々と頭を下げた。もう、自分がやってしまった事を反省出来るほど落ち着いたみたいだ。
「……おにぃ、ちゃん……?」
「そうだよ瑠璃ちゃん、おにぃちゃんが帰ってきたよ!」
小夜にも笑顔が戻っていた。二人は並んで航に笑いかけて呼吸を合わせた。
「せーの、おにぃちゃん、おかえりなさい!」
いつも通り、何事も無かった様に小夜と瑠璃は声を揃えて航を笑顔で迎え入れた。その姿を見て航の表情にもやっと笑みがこぼれた。
「…………ただいま、ありがとう」
「エヘヘッ、航クン、お帰りなさーい!」
「おにぃちゃん、おかえりなさーい!」
小夜と瑠璃は顔を見合わせてニコッと笑った。それを見た私達も一安心して全員笑顔になった。
この笑顔を見た時、私の心の中の不安は消え去った。今回は不安が先走り動かなかった私より、二人を助けたいという強い想いを持って駆けつけた小夜の判断が正しかった。
いや、この兄妹に対してはそれが一番の正解なのかもしれない。裏も表も無い、真っ直ぐな想いこそが二人を救う事が出来るのだろう。私はどうやらこの件だけは小夜に一本取られた様だ。
「……ところで那奈、航のお父さんは?」
「……あれ、先生もいなくね?」
「……翔太達が帰って来る前に、二人て車に乗ってどこかに行っちゃったよ……」
その頃、暗くなった国道を走っていく車の中で、遼司さんは顔を抑えて涙を流していた。ダッシュボードに頭をつけて、愛する子供達の事を想いながら。
「……遼司、航は心底からお前を憎んでいる訳じゃない、お前が誕生日にくれてやったギター、アイツはまだ大事に持っているんだ」
「………………」
嗚咽する遼司さんにハンカチを渡した遠藤先生は、車を運転しながら話を続けた。
「……一人で一生懸命練習してな、瑠璃に聴かせてやってるんだよ、お前が学生時代に歌っていた、お前が航に教えた歌をな……」
「……航……」
「……今は無理かも知れないが、いつかあの子達もお前の事をわかってくれる時が来る、それまでにお前はしっかりと立ち直って二人を迎えに来い、それまでは命をかけて俺があの子達を守るから……」
「……すまない、和夫……」
車は秋の夜空の下を走り抜け、暗闇へと消えていった。その後、この日は夜から明け方まで雨が降り続いた。
秋の雨空の様な何か物悲しい一日、私達はこの世には簡単には解決しない複雑で様々な事情がある事を改めて痛感させられた。