伝説の潰走
「あれが、鬼ノ城か……」
桃太郎は、立ったまま腕組みをして、前方を睨んでいた。
視線の先には、巨石に囲まれた城が峨々と天を突いている。
「で……」
俺もまた、鬼ノ城に目をやったまま言った。
「うむ」
「どうやって行くつもりだ」
俺たちの前には、青々とした海が静かに広がっていた。
「それは、舟だろうな」
桃太郎は、前を向いたまま答えた。
「そのはずだ。で、その舟はどこにある」
「俺が、舟を引きずって歩いているように見えたか」
「いや、見えなかったな」
「なら聞くな」
青空に、潮騒がのどかに囁いていた。
「……いやいや、聞くだろう。当然、用意はあるのだろうな」
「おトメよ」
「女みたいに言うな。俺の名はトメタマだ」
「じゃあ、トメやん」
「狎れるな。トメタマと呼べ」
「いいことを、一つ教えてやろう」
「おう、生まれて初めてお前がいいことを言うのか」
「兵法では、最初からこうと決めてかからぬことだ。それでは、予想にないことが起こったときに対応できなくなる。大切なは、機に臨みて変に応ずるの心構えよ」
「つまり、何も考えていなかったな?」
いつかササモリは、横になってあくびをしていた。
「……どうしよう」
桃太郎は、ぽつりと言った。
「俺は飛べるからどうでもいいがな。泳げ泳げ。行けない距離ではあるまい」
「あらゆる武芸に通じた俺も、水練だけはちょっと……」
「泳げんのか」
「魚でもないのに、泳げるか」
イヌカイは、海に潜って楽しそうに魚を追いかけていた。
しばらくして、桃太郎は口を開いた。
「とりあえず……」
「とりあえず?」
「腹ごしらえをするとしよう。腹が減っては戦は出来ぬというからな」
老婆から強奪した魚を焼いて食べ終えると、俺たちは浜に沿って歩き始めた。
「筏でも組め。すぐそこに森があるぞ」
俺が言うと、
「疲れるしめんどくさいから嫌だ」
筋金入りの穀潰しの片鱗をうかがわせる言葉で、桃太郎は言下に却下した。
歩き続けていると、やがて小さな漁村が見えてきた。
そこにいた女に話を聞くと、舟は男たちが漁に使っていてここにはないが、使われなくなった舟が岩場に打ち捨てられているという。
「使ってもいいのか」
「沈んでもいいならね」
言われた場所に行ってみると、なるほど、確かに朽ちかけた小舟が一艘、磯に乗り上げたまま放置してある。
「浮くのか?」
「知らんのか、木は浮くものだ」
試しに海に浮かべてみると、奇跡のように、浸水はしなかった。
「やはり、天は俺に味方している……いや、これが人徳というものか」
「世界中でお前にだけ縁のない言葉だ」
それでも舟は無事鬼ヶ島へ着いたのだから、きっとこの海は、徳が絶無でも溺れることのない奇跡の海なのだろう。
浜へおりると、桃太郎はイヌカイの首に巻きつけていた包みを開いて、衣装を改め出した。
それまで、刀と幟を差した貧乏百姓といった姿だったのが、陣羽織に袴、日の丸の鉢巻を締めて、いっぱしの武者……の格好をした貧乏百姓のようになった。
「それだけの格好をして凛々しくないのは、もはや才能だな」
「よせよ、照れる」
「褒めてないぞ」
「よし、では行け、トメっち。見事斥候の役目を果たしてくるのだ」
短い言葉の中で、呼び方と命令口調の二つと、他者をイラつかせる天才性を見せつけた男の額を、クチバシでしたたかに突いてから、俺は飛び立った。
上空から見ると、島はそのまま山であり城であるといった感じで、うず高く積まれた城壁をなす巨石が、海の縁までせり出していた。
その小高い山の頂上に、巨大な門を構えた城郭が、島全体を睥睨していた。
その城門から伸びた舌のような小路が、山裾に向かって筋を引いている。道らしい道は、それ一本だけのようだった。
「どうだった」
偵察から戻ると、桃太郎がせきこんで迫ってきた。
「どうもこうも、島これ城で、山頂のあたりは石垣と土塁で囲まれている。どこも岩だらけで草木もなく、身を隠すところもない。天然の要害というやつだな」
「侵入できそうな場所は」
「ない」
「鬼の数はどれほどだ」
「空から姿は見えなかった」
「いいことを教えてやろう」
「おう、今度こそ聞けるのか」
「お前には、失望した」
「そいつはずいぶん遅かったな。俺はお前に出会ったその時から失望していたぞ」
「けっ」
桃太郎は吐き捨てるように言うと、
「まあいい、鬼ごとき何するものぞ。堂々立ち会って退治てくれるわ」
山上に向かって、小路をずいずいとのぼり始めた。
鬼を全く恐れる様子はない……これは、勇気ということなのだろうか?
いや、牛の尻に飛びつく蚤のそれと同じで、血を吸いたい一念があるだけで、次の瞬間には尻尾で引っ叩かれる可能性など微塵も頭にないのだろう。
上から姿は丸見えのはずだが、矢が射掛けられるようなこともなく、あっさり城門まで辿り着いた。
桃太郎は、ためらうことなく巨大な鉄の門扉をガンガンと叩くと、反応を待たずに、
「よし、やれっ」
と、イヌカイに向かって顎をしゃくった。
「ほい来た」
イヌカイは、前に進み出ると、大音声を張り上げた。
「やあやあこれなるは、……日の本一の……桃太郎!」
と、そこまで言って、言葉を切った。
「……」
不思議そうに、首を傾げていく。
「……」
「……続きはどうした」
桃太郎が促すと、
「……いざ、尋常に勝負せよ!」
一気に言い切って、
「どうだ桃さん!?」
目を輝かせて桃太郎を見上げた。
「全然違う」
桃太郎は呆れたように言って、
「頭と尾だけで、胴がないのだ、お前は」
と、イヌカイの横腹を掌で叩いた。
「わうん」
「間の罪業の糾弾が抜けている。いいかもう一度教えるぞ、やあやあこれなるは剣をとっては日の本一、桃から生まれた――」
「どけ」
ごにょごにょ耳打ちしている二匹を邪魔そうに押しのけると、ササモリは、いきなり門扉に向かって石を放った。
大鐘を撞いたような音が耳をつんざき、後にはわんわんという残響のみが尾を引いた。
「さすがに、この鉄の扉は砕けぬか」
ササモリは、渋い顔で言った。
「まあいい。ならば――」
と、今度は、門の周辺の壁に向かって石を投げ始めた。
次々に轟音が弾け、ついに城壁の一部が崩落した。
この猿は、もはや生きた弩だ。
「よしその調子だ、どんどんやれ」
桃太郎が囃し立てていると、ふいに、
ゴリ……
と、巨大な石臼を挽くような音がした。
ササモリの手が、ぴたりと止まった。
〝誰だ……〟
これも石を擦り合わせるような低い声が、天から降ってくるようでもあり、地の底から響いてくるようでもあった。
すると、ごりごりと重い音を立てて、鉄の門扉がゆっくりと開き始めた。
「おお、とうとう観念して出てくる気になったか」
いきり立って剣を構えた桃太郎の視線は、扉の陰から声の主が姿を現すにつれ、徐々に上がっていき、ついにはほとんど真上を向いた。
桃太郎とイヌカイの顎が、同時に落ちた。
その姿を視界の端で見ながら、俺のクチバシもきっと、間の抜けた感じで開いていただろう。
巨大な門を、腰をかがめるように出てきたのは、身の丈一丈四尺(約四・二メートル)はあろうかという大赤鬼だった。
縮れた髪からは牛に似た角が二本にょきりと伸び、裂けるような眼は血走り、口からは鋭い牙がのぞき、腰には虎皮の腰巻きを履き、手にはトゲのついた丸太のような金棒を握っている。
「おい――」
ササモリが桃太郎の頭を小突いたが、桃太郎は棒のように突っ立ったままだ。
「ちっ、使い物にならん」
舌打ちして、自ら石を鬼に投げつけた。
岩をも砕くその礫は、しかし、鬼の体にずぶりとめりこんだのみで、全く効いた様子がない。
「なんと!?」
「身の程を知らぬ虫けらどもめ、その四肢引きちぎって、頭からボリボリ喰ろうてやろうわい!」
天を震わすような怒号とともに、鬼は金棒を地に叩きつけた。
桃太郎とイヌカイは、衝撃で魂を抜かれたように、ぺたりと地面に尻をつけた。
二匹は同時に呆けた顔を見合わせ、一拍の間を置いて、
「うわああああああああああ!」
肺腑の空気を全て吐き出すような絶叫を上げた。
それを合図に、俺たちは一目散に逃げ出した。
気がついた時には、俺は雲の上を飛んでいた。こんな高さまで飛んだことは、生まれて初めてだ。
雲の下に降りて見下ろすと、桃太郎たちはわあわあ言いながら転げるように山を駆け下りているところだった。
鬼の姿はなかったのだが、たぶん奴らにしてみれば、すぐ背後まで鬼が迫っているような気がしていたのだろう。
よく見ると、ササモリはイヌカイの背中にしがみついているだけで、イヌカイはそれに気づいていないようだ。
島の端まで来てもまだ止まらず、舟に飛び乗るや、ざんぶざんぶと櫂を漕ぐ。
逃げも逃げたり、島の対岸まで戻ってようやく、奴らの遁走は止まった。
俺が降り立つと、桃太郎とイヌカイはぜいぜいと荒く肩で息をつき、ササモリは背を丸めて座り込んでいた。
「おっ、驚いたな、桃さん。ち、ちびるかと思ったぞ」
「たわけめ、だ、だらしがないぞイヌカイ。言ってるそばからちびっているではないか」
「そう言うお前も、袴が濡れているぞ。膝を大笑いさせて撒き散らすな」
と指摘した俺の頭を、
「お前もだ」
ポンと叩いたのはササモリだった。
「落ち着け、小便垂れども」
言われてはじめて、俺も糞を垂れていることに気づいた。