第一話・花の運命者
その日は、いつもと変わらない夕方だった。
「今日の晩御飯なにがいい?」
「カレーがいい!」
「あれは金曜日にやるの」
一見して姉と弟だとわかる、よく似た顔立ちの少女と男の子が、駅前の商店街を手をつないで歩いている。
姉、十六夜鏡子は、高校のブレザー姿だ。穏やかな美貌や艶やかな長髪など、極めて女性らしい容姿だが、ぴんと芯の通った姿勢の良さがまず印象に残るような少女だ。
一緒に歩く弟、十六夜 泉人は、中学校の詰襟姿だ。だが、とても中学生とは見えないほど、表情にも立ち居振る舞いにも幼さが残っている。
高校に電車通学をしている鏡子と、地元の公立中学校に通っている泉人は、いつも駅で待ち合わせて一緒に帰るのだった。
「あら、鏡子ちゃん、今日もかわいいからサービスしちゃおうかね」
顔見知りの八百屋のおばちゃんに声をかけられると、鏡子はきらりと目を光らせ、やおら弟を抱き上げるとおばちゃんにつきつけた。
「じゃあ、この子のかわいさならどれくらいサービスしてくれますか?」
ぬいぐるみのように差し出されながら、泉人はきょとんとしている。
よく考えると、小柄とはいえ中学男子をひょいと差し出せる鏡子の腕力は恐るべきものかもしれないが、弟が幼い容姿なので妙に違和感がない。
「そうだねー……」
おばちゃんは、泉人の頭をなでなでした後、ほっぺたをむにーっと左右に引っ張る。
「あうう」
じわ、と涙目になったところで手を放し、おばちゃんはとても癒された様子で微笑を浮かべ、ポケットからカラフルな包装の何かを取り出した。
「よし、せんちゃんにはこのおやつをあげちゃおう」
「うわあ! イカロスのソーセージだ!」
ぱあっと泉人は顔を輝かせた。いわゆるキャラクターソーセージというもので、包装に描かれているのは今子供に大人気の特撮ヒーロー、天剣のイカロスの姿である。
泉人は嬉しそうにそれを受け取ると、思い出したように神妙な顔になり、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます」
「まあ、いい子だねえ」
よしよし、とおばちゃんが泉人の頭をなでる。その様子は、まるで孫を前にしたおばあちゃんだ。鏡子も微笑してお礼を言った。
このおばちゃんに限らず、なじみの商店街の面々は、この姉弟に親のように接しているのだった。五年前、鏡子たちが両親を亡くしたその日から。
「もう最近は、この子をなでるのだけが楽しみでねえ」
「じゃあ、うちの道場に入りませんか? 今ならこの子と一緒に修行できますよ」
鏡子が言うと、おばちゃんは笑顔で首を振った。
「もうおばちゃんも歳だからね。おもしろ武術はちょっと」
「おもしろ武術って……」
鏡子が複雑な表情で唸ると、おばちゃんはからからと笑った。
ちなみに泉人は夢中でソーセージをはむはむと食べている。
そんな、いつもと同じ夕暮に――
『運命の時は、訪れたり――!』
その声は、唐突に響き渡ったのだった。
それを聞いた時、姉弟の表情がさっと変わった。
さっと青ざめてよろめく鏡子と――表情を消し、信じがたいほど冷徹な眼差しになる泉人。
おばちゃんだけが変わらず、二人の変化に驚く。
「ど、どうしたんだい?」
「あの時と……同じ言葉……」
鏡子はありありと恐怖の表情を浮かべ、なぜか声のした方向ではなく、泉人の顔を見つめていた。
『我は花の運命者!』
「え……?」
だが、続く言葉を聞いて、鏡子は呪縛から解かれたかのように目を丸くした。
鏡子が予想した言葉とは全く違っていたからだ。
「この声がどうかしたのかい?」
おばちゃんは道に歩き出し、声のする方向――すなわち空を見上げ、茫然となった。
空中に、信じられないほど美しい薔薇の花が咲いていた。
茎も葉もなく、ただ真っ赤な花だけが、町を見渡すほどの高さに浮いている。
ちょっとした飛行船並の大きさだが、それが作り物ではなく本当に花であるのだと、なぜか見るだけでわかるのだ。
そして、急にその花が回転するや、花弁の隙間から赤い塊のような何かが一斉に放出されたのである。
「なんだい、あれは」
不思議そうに見上げているおばちゃんを、鏡子は血相を変えてひっつかんだ。その瞬間、赤い塊が恐るべき勢いで街に降り注いだ。
わずかに一瞬だけ許された回避の時間に、鏡子はおばちゃんの体を抱えたまま店の屋根の下へ転がり込んだ。
「……っく!」
鏡子が苦痛の声を上げた。屋根の下に入りきれなかった彼女の右足のふくらはぎに、赤い塊が一つ直撃したのだ。
おばちゃんは目を回して気絶したものの、赤い塊に触れられてはいない。それを確認し、鏡子は自分の足に刺さったものを確認した。
「花の、つぼみ……?」
薔薇の花のつぼみ、なのだろう。まるで自分の体から自然に生えてきた体の一部であるかのように、手で引っ張っても全く取れる気配がない。
痛みはほとんどないが、不意に、鏡子はすさまじい脱力感に襲われた。
「う、うああ……」
体を起こしていられず、その場にあおむけに横たわる。失血感に似た猛烈な寒気に襲われ、鏡子は体を抱いて震えた。
何かを、このつぼみに吸われている。血ではないようだが、それと同じくらい命に関わる、生気とよぶべき何かを。
そして、薔薇のつぼみは鮮やかに花開くと、鏡子の足からふわりと飛び立った。花が去った後には、特に痕も残っていない。
「終わった……の?」
うめきながら身を起こし、左右を見回す。
商店街のあちこちに人が倒れていた。完全に意識を失っているその人々の体からも、次々と花が舞い上がっていく。
つぼみを一つつけられただけの鏡子とは異なり、ほとんどの人は複数のつぼみに直撃され、生気を多く吸われたようだった。
「今のうちにみんなを避難させないと……」
鏡子は薔薇の行方に目をやり、そして心底ぞっとした。
まるで、空を埋め尽くすかのように、数えきれないほどの真っ赤な薔薇の花が空に舞い上がっていたのである。
一体、どれだけの数の人が被害にあったというのか。
「まずいね、あれ」
まったく唐突に、泉人が鏡子の隣に並んだ。何の感情もない冷徹な眼差しで空を見上げる。
無数の薔薇は、最初に空中に咲いた薔薇に集まっていく。すると、もともと巨大な花がさらに大きくなっていくではないか。
「また来るよ。三回目から死人が出る」
「なんで……わかるの」
冷徹な瞳で当然のことのように話す泉人にこそ、むしろ鏡子は恐怖の視線を向けた。
(この子が、こんな目をするのは……)
『我は死の運命者!』と叫んだ、五年前のあの日以来だ。
「わかるんだ。あれはたぶん、ぼくと同じ。同じだけど違う」
泉人の目が鋭く細まる。口調もまるで変わっていた。顔立ちだけが幼いままだが。
「だから、ぼくなら戦える」
「戦うって……」
鏡子は左右を見回し、ただ困惑した。
「あの力を使うのは駄目よ……」
「そうしないとみんな死ぬよ。千人くらい死ぬ」
「死ぬって……」
武術の道場に生まれた鏡子だが、平和な町で生まれ育った現代の人間である。
町中の人間が死ぬなんて言う事態をどう受け止めればいいかなど、わかるわけがないのだ。
理屈としては、助けるべきだということはわかる。みんな親代わりの大切な人たちなのだ。
では、弟のためなら、見捨てることはできるだろうか? それは自分にとって、弟を守ることとどちらが重いのだろうか?
答えなど出るわけがない。
何よりも問題なのは、鏡子にはあの花をどうにかする手段が一切思いつかないということだった。
「おもしろ武術なんて言われながら、今日まで流派を繋いできたのはきっと今このときのためなんだよ」
泉人は、巨大な花を見上げた。
ちょうどまさにその瞬間、再び薔薇の花から無数のつぼみが射出された。もう迷っている時間はない。
「ぼくは、ぼくの運命に……従うよ」
すたすたと歩きだす弟の小さな背中。
(今、追わなければ……永遠に手の届かないところに行ってしまう!)
そう理解した瞬間、鏡子は脱力感に浸食された全身を引きずるようにして起き上がった。
「駄目って、お姉ちゃんが言ったら……」
一歩を、踏み出した。迷ったままでは決して踏み出せない、決定的な一歩を。
その瞬間、鏡子の体の奥から名状しがたい力が沸き上がった。
全身の脱力感が消し飛び、鏡子は生まれて初めて出すほどの速度で弟の背中に飛びついた。
「ぜったいにダメなんだからーっ!」
「えー!?」
何の感情も浮かべていなかった弟の瞳が真ん丸に見開かれる。
その小さな体を抱きしめてごろごろ転がった瞬間、鏡子の背中から足にかけて無数のつぼみが突き刺さった。
「うぐっ!」
「お、お姉ちゃん!」
抱きしめられたまま泉人が目を丸くする。弟の体に一個のつぼみも刺さっていないのを見て、鏡子は渾身の笑みを浮かべた。
「私が何とかする」
「なんとかって!」
「あなたを戦わせない! みんなも守る! あなたの大好きな、ヒーローみたいに!」
鏡子はひたすらに叫んだ。叫ぶごとに、弟を抱きしめるごとに、胸に渦巻く何かが勢いを増していった。
「この、私が!」
全身に刺さったつぼみが、勢いよく花開いていく。恐るべき勢いで生気を吸われるが、それ以上の勢いで、全身から力が沸き上がる!
鏡子は弟を抱きしめながら立ち上がり、全身の奥底から自然と飛び出してきた言葉を叫んだ。
「運命の時は、訪れたり!」
全身のつぼみが満開になるや、鏡子から離れることができずにぶるぶると震え、すべての花が内側からはじけ飛んだ。
無数の花弁が舞い散る中を、悠然と立ち上がった鏡子に、泉人はきらきらした視線を向けた。
「うん、わかった」
にっこりと微笑む。あの冷徹な眼差しは、もうその表情には残っていない。
「お姉ちゃんを信じるよ」
その言葉が、眼差しが、想いが、鏡子の中の名もなき力に形を与えた。
(弟の大好きなヒーローになる……)
毎週日曜日の朝は、弟は大好きなヒーロー番組を観る。鏡子も、一緒にそれを観ている。
テレビに夢中の弟に頬ずりするのに夢中になってしまうため、割とうろ覚えではあるが……
「堕ちよ天剣!」
ばっと高く手を掲げると、キラーンと空の彼方が光った。隕石が一直線に鏡子へと飛来し、空中で溶け崩れて赤熱する大剣へと変化する。
鏡子はまったく恐れずに、掲げた手で飛来した大剣を掴み止めた。天剣『白夜』の炎は、悪しき者しか焼かない設定であるからだ。
猛烈な炎熱で周囲を飛び交う花弁の破片が一斉に炎上し、全身が炎に包まれる中、鏡子は剣を肩に担いで、会心の笑みを浮かべた。
「変身!」
炎が全身にまとわりつき、鎧武者を思わせる真紅のプロテクターへと変貌した。
そう、それこそが、弟が今一番大好きなヒーロー、天剣のイカロスの姿である!
「うわぁ……」
すっかり憧れのまなざしで見上げてくる弟の頭を鏡子はなでる。
「晩ごはんはカレーにしてあげる」
やさしく告げて、空を見上げた。
ちょうど、先ほどのつぼみの放出で新たに咲いたらしき無数の花が、空に浮かぶ巨大な薔薇へと飛んでいくところだった。
その薔薇に最も近いビルまで、ちょうど階段のように複数の建物が並んでいるのを見て取って、いたずらげな微笑を浮かべる。
「イカロスのジャンプ力なら……跳べるよね」
鏡子は大剣を担ぎながら風のごとく疾走し、力任せに地を蹴った。
「う……っわぁ!?」
一瞬で地面が遠くなり、今まで感じたこともないような高さに放り出される。
頭のどこかが、これは10メートルくらいとんだなと冷静に囁く中、鏡子は必死で態勢を立て直し、最初に狙った建物の屋上へと見事に着地する。
(こわい! たのしい!)
あ、私って絶叫マシンとか好きな性格だったんだ……などという意識すら置き去りにして、次の跳躍へと移る。
鏡子は次々と大ジャンプを繰り出して建物を跳び渡り、ついにはこの町で一番高いビルの屋上へと着地した。
目がくらむほどの高さから、なおも高く空中にある薔薇を見上げる。
この高さまで来て初めて、薔薇の花弁の一枚に人間が腰かけているのが見えた。
見たところ鏡子と同年代の少女である。落ちたら絶対に助からない場所なのに、何の不安もない様子で花弁にもたれかかっている。
鏡子は宣戦布告のつもりで、天剣の切っ先を突き付けた。
「花の運命者よ! 花など所詮、我が炎の糧であると知るがいい!」
これはイカロスの決め台詞である。敵の特徴に応じて台詞は変わるのだが、悪役っぽいと思うのは鏡子だけだろうか?
返答は期待していなかったが……少女が身を起こし、憎悪に満ちた眼差しで鏡子を睨みつけた。
『また……奪っていくの』
到底声など聞こえない距離なのに、頭の中に響くようにはっきりとその言葉が聞こえた。相手の表情もはっきりと感じ取れる。
憎悪の視線に呼応するように、空中に浮かんでいた無数の小さな薔薇の花が、滞空して鏡子の周囲を旋回し始めた。
『私には、病気の恋人がいたの。彼が最期に送ってくれたのは一輪の薔薇の花……この花を自分だと思って大事にしてほしいと言って、彼は死んでしまった』
その切々とした響きには、嘘の気配などまったくない。
『私は精一杯、花を世話したわ。でも花はいつか枯れるもの……私は二度も彼を失う苦しみを味わうくらいなら、死のうと思った。そんなとき、運命が訪れたの』
それは弁解ではないし、同情を求めるわけでもない。
『周りの人間から養分を奪えば、この花は永遠に咲いていられる。それだけが今の私の生きる意味よ』
それは宣告であり、名乗りだった。自分が何者で、何のために戦うのか。
だから、鏡子もまた宣告した。
「今夜はカレーにするの。弟がカレー大好きだから」
『……は?』
「その花を斬らないと買い物もできない」
『私の、この花への想いよりも、今夜のカレーが大事ですって!?』
花の運命者は頭を抱えた。激怒するかと思ったが、次に顔を上げた時には、その口元には笑みが浮かんでいた。
『そうね。運命者はそういうものよね!』
「どうやらそうみたいね」
鏡子は、そして花の運命者は、同時に理解した。
お互いに、妥協するなどということが決してできない、譲れないものを持っていること。
それが相容れない場合は、戦うしかないということを。
そしてお互いに、宣戦布告の最後の叫びをあげた。
『我は花の運命者!』
「我は弟萌えの運命者!」
『いざ!』
「勝負!」
瞬間、滞空する無数の薔薇から鋭いトゲの生えた茎が突き出した。いわゆる切花の状態であるが、凶悪な姿だ。
茎を前にして、目にもとまらぬ勢いで鏡子へと飛んでくる。
棒立ちの鏡子の右腕に突き刺さった……と、見えたが、薔薇は右腕の籠手ごと後ろに飛び去った。
まるで右腕ごともぎ取っていったようだが、実際には薔薇が突き刺さるより一瞬早く鏡子は籠手から腕を引き抜き、空っぽにしていたのである。
そして、空中で薔薇の茎が刺さった籠手が溶けるように液状化し、それを吸い上げた薔薇の花がより大きくなるのを見て、鏡子は軽くうなずいた。
「ふうん。刺さるとそうなるんだ」
もしも多数の茎に刺されれば、全身を覆う装甲を全てはぎとられたうえ、命を吸い尽くされて死ぬことになるだろう。
だがその程度、あの決定的な一歩を踏み出した時から、とっくに覚悟は決まっているのだ。
立て続けに数本の薔薇が飛来してくるのを見て、鏡子は天剣を振りかざした。
「たあっ!」
掛け声とともに振り下ろした太刀筋は驚くほど鋭い。
目にもとまらぬ速さの薔薇を数本、たったの一撃で真っ向から切り裂き、炎上させる。
同時に、鏡子は右手を剣から離して後ろに振った。背後から飛来していた薔薇を見もせずに握りつぶして燃やし、炎から新たな籠手を作って右手に装着する。
ごく自然に振るわれながら、明らかに確固たる技術に裏打ちされた動きを見て、花の運命者は驚きの叫びをあげた。
『その技もヒーローの能力か!?』
「これは自前」
休む間もなく、次は無数の薔薇がカーテンのように広がり、鏡子に前方から迫る。
(確か、炎から武具を作り出すのがイカロスの能力……ならっ!)
鏡子は、先に燃やした薔薇の炎の中から、一振りの燃える刀を引き抜いた。
天剣を地面に突き刺し、水平に構えた刀の切っ先に左手を添えて前に向けた。
それは変則的な刺突の型であり、印象はむしろ弓術の構えに近い。
「十六夜流、射刀の型――晦!」
鏡子が踏み込みながら右手を突き出す。その自然な動作からは想像もできない勢いで、炎の刀が一直線に撃ち出された。
無駄な力を一切使わず、全身の運動量を剣に乗せて解き放つ射刀術。力任せとは別次元の威力は、確かな『武術』が生み出したものだ。
炎の刀が薔薇の幕に突き刺さり、一部を焼き尽くしてごく小さな穴を作る。
鏡子は跳躍して身を丸め、猫のようにしなやかに、その小さな隙間を潜り抜けた。空中で一回転して軽やかに着地する。
だが、息つく暇もなく、さらなる薔薇の幕が飛来する。鏡子がかわした薔薇の幕も、即座に反転して背後から襲い掛かった。
完全に包囲されながら、鏡子はくるくると両手で薔薇を回した――先の交錯の瞬間、両手に一本ずつ掴み取っていたのだ。
「十六夜流、二刀の型――」
鏡子の両手で薔薇の花が燃え上がり、二振りの炎の剣と化した。
「満月!」
踊るように振り向きながら、両手の炎の剣を前後に薙ぎ払う。満月というより太陽のごとく迸る火炎が、前後の薔薇を尽く焼き払った。炎は渦巻きながら天剣に吸収されていく。
立て続けに武器を変え、時には投げて戦う――これが、十六夜鏡子の家に伝わる武術の流派、すなわち十六夜流であった。
その本質は自由自在。敵を困惑させ、常に死角から必殺を狙うことを主眼とする、異端の武術である。
現代においてはおもしろ武術呼ばわりされてかろうじて生き残ってきたこの流派を、鏡子は昔から嫌っていた。
だが、ヒーローの能力にこの流派を加えることで、強力な戦う力となるのだ。鏡子は、初めて自分の運命に感謝した。
『単純な力押しは通じないようね……』
花の運命者が悔しげにうめく。
未だ、数えきれないほどの薔薇が鏡子の周囲を取り巻いているが、それらを殺到させても倒せそうに見えないほど、今の鏡子には隙が無い。
だが同時に、花の運命者にはまだ余裕があるはずだ。
ビルの屋上という限られたスペースで戦う鏡子に対し、花の運命者は遥か上空から一方的な攻撃を加えることができるのだから。
ならば、次の手は……
『圧倒的な力押しに変えるまで!』
空中に浮かぶ薔薇から、無数のつぼみが発射された。
周囲の町の人々から生気を奪い、さらに無数の薔薇を生み出して、戦力を補充しようというのである。
(これが三回目……)
三回目から死人が出るという弟の言葉を、鏡子は忘れていない。
(本当に、ヒーローの力があるのなら!)
鏡子は天剣を振り上げ、力の限り上空へと投げ上げた。記憶の中から、ヒーローの叫びをかろうじて掘り起こす。
「天剣『白夜』よ! 今こそ地上に太陽をもたらし、民に癒しと活力を、悪に滅びを与えたまえ!」
明けぬ夜にも光をもたらすという天剣『白夜』の真の力を引き出す詠唱である。
上空で、天剣は輝く巨大な球体と化した。まるで太陽フレアのようなエフェクトとともに轟音と衝撃波を発するや、発射された薔薇のつぼみがことごとく空中で燃え尽きた。
それだけではなく、その太陽のような輝きは、生気を吸われて倒れている町の人たちには回復の効果をもたらすのだ。
『なんだと……っ』
花の運命者は、活力と破滅の光を振りまく光の球体を振り仰いだ。そう、まるで日が昇るがごとく、すでに光の球体は巨大な薔薇よりも高い場所まで昇っていたのだ。
その瞬間、花の運命者の注意は鏡子から完全に外れていた。死角を利用する十六夜流が、この隙を見逃すはずはない。
「十六夜流、隠形歩法――新月」
鏡子はひらりとビルの屋上から飛び降りた。
普通なら自殺にしかならないが、今の鏡子にはヒーローの脚力がある。
天剣が轟音を発するタイミングで次々と壁を蹴り、鏡子はピンボールのように建物の隙間を跳ね渡った。
(こ、こわいいい! たのしいいいい!)
恐怖に支配された脳に原始的な叫びが浮かぶ。だが体の動きだけは冷静に、あらかじめ考えておいたルートを移動していた。
そして――
『奴がいない!?』
花の運命者が驚愕の叫びをあげた時には、鏡子は炎の煙をあげながら着地していた。
遥か上空で太陽のように輝く天剣と、浮かぶ巨大な薔薇の花、そして地上の鏡子が一直線に並ぶ位置。
己の庭のごとき地元の町だからこそ導き出せた、必殺の位置に!
「堕ちよ天剣!」
鏡子が叫んで手をかざすと、天剣は再び剣の姿となり、一直線に鏡子へと飛来した。
それはつまり、巨大な薔薇に対しても一直線に突っ込むことを意味する。
『ひいっ!?』
天剣は巨大な薔薇に突き刺さるや、ひきずるように一体となって鏡子へと落下する。
天剣の放つ炎熱で花弁が次々と炎上し、まるで巨大な火の玉となって地上に落ちてくるかのようだ。
『い、嫌ああ! 燃えちゃう! あの人がまた燃やされちゃう!』
その悲鳴を聞いても、驚くほど、鏡子の意志は揺るがなかった。
だが……
「おねえちゃーーん!」
不意に、声援を受けて振り返る。
いつのまに寄ってきたのか、それとも同じ流派だけに鏡子の行動を予測していたのか。鏡子から近くの路上で、泉人が手を振っていた。
「がんばってーーー!」
「……もう」
その声が、視線が、祈りが、鏡子の内側に何かの力をもたらすのを感じた。
「そんな目をされたら……ヒーローらしくないことは、できないじゃない」
鏡子が手をかざすと、ついに天剣が薔薇を突き破って勢いよく飛来し、鏡子の手に収まる。
すでに地上近くまで落ちてきていた火だるまの薔薇を見上げて、鏡子は剣を天に突き上げた。
「見るがいい! 花の散り行く美しさを!」
剣の切っ先から眩い輝きを放つ炎が吹き上がり、天を貫くほどの巨大な剣を形成する。
「必殺剣! 太陽ォォォ斬り!」
巨大な光の剣が、火だるまの薔薇へと真っ向から振り下ろされた。
『……あ』
まだ燃えていない花弁の上で泣いていた花の運命者は、茫然と必殺の刃を見上げた。その時である。
不意に、花の運命者が乗っていた一枚の花弁が、はらりとはがれたのだ。あたかも少女だけは逃がそうと、花自身が願ったかのように。
次の瞬間、必殺の一撃が巨大な薔薇を縦一文字に切り裂いた。真っ二つになった薔薇は、燃え上がりながら爆発し、巨大な花火のごとく夕暮れの空に四散した。
少女を乗せた一枚の花弁も、ひらひらと地上に舞い降りて少女を降ろした後に、ゆっくりと消えていった。
あまりにも美しい、死闘の決着だった。
「ああ……あああああ……」
花の運命者は、ぺたんと地面に座り込んだまま泣いていた。
いや、もう花の運命者ではない。あの巨大な薔薇を破壊されれば、彼女の力がなくなることを鏡子は理解していた。
鏡子自身も、もし弟が死ぬことになれば、永遠に力を失うに違いないからだ。
(だから……こんなこと、するべきではないかもしれないけど)
鏡子は、天剣の切っ先を少女に向けた。絶望した瞳が、むしろ待ち望むように刃を見つめるのを待って……いまだに残る光の刀身から、ひょいと何かを取り出した。
「……え」
少女は、茫然となって、それを見た。目の前に差し出された、一本の薔薇の切花を。
それが、まさしく死んだ恋人から送られた薔薇であると、少女には見分けがつくのだ。
「天剣は、悪しきもの以外は焼かない。逆に活力を与える……そういう設定」
鏡子は変身を解き、その薔薇を少女に手渡した。
「あ……あああああ……」
「まあ、もうちょっとは長持ちするでしょう。言っておくけど、また町を襲ったら今度こそ斬るからね」
少女は何も聞こえない様子で、花を抱いて泣き始めた。
(何の解決にもなってない……)
鏡子はそう思った。それでもいいと、思った。
弟がくれた最後の声援。あの時の祈りが、鏡子に、本当のヒーローとしての力を与えてくれた。
相手の大切なものを焼き滅ぼすつもりだった鏡子に、敵の心をも守るすべを与えてくれたのだ。
ならばこの結果も、受け入れるしかないと思うのだった。
(まあ、どうでもいいか……)
弟が、歓声をあげて駆け寄ってくるのを見ながら、もっと大事なことを考えなければいけないと、鏡子は思い出した。
「カレーの材料はどこで買っていこうかしら」
それが鏡子にとっては、この死闘についての最終的な感想となったのだった。
第一話・終