序章 暗がりの運命者
『運命の時は訪れたり――!』
その声が響いた時、人々はまず空を見上げた。
平凡な夕方の駅前広場。数階建ての建物が取り巻き、軽食屋の前には路上にテーブルが並んで、家族連れや学生らしき集団があちこちに集っている。
そんな、都会ほどではないが、寂れてもいないという感じの広場の中心に、それは浮かんでいた。
『我は暗がりの運命者!』
その言葉通り、薄い闇を内部に閉じ込めたピラミッドのような物体が、地上10メートルほどの高さに浮かんでいるのである。
幾何学的な形状であるのに、不思議と物質のようには見えない奇怪な物体だった。
だが、人々がそれを見上げていられたのは、ほんの数秒だった。
ピラミッドがくるくると回転し、頭上から降り注ぐ晴天の光を周囲に投影し始めた。
そう、まさしく投影。ピラミッドを通過して周囲に降り注ぐのは、光ではなく薄い闇であった。
そして、その闇は、晴天の下でも消えることがない!
「なんだこれ」
一人の学生が、目の前に生じた暗がりに不用意に触れた。
刹那、暗がりが捕食動物のようにうごめき、悲鳴を上げる暇もなくその学生を内部に引きずり込んだ。
「お、おい!?」
周りにいた学生が助けようとしたが、暗がりはその学生をも取り込んだ。
取り込まれた学生たちは必死に暗がりから出ようとするものの、まるで光との境目に不可視の壁でもあるかのように、外に出ることができない。
瞬く間に駅前広場にパニックが訪れた。
消えない暗がりが無数に広場に生み出される。
逃げ惑う家族連れも、弟らしき子供を抱きしめてうずくまった少女も、やけになって腕を振り回す学生たちも、瞬く間に取り込まれた。
「だしてっ、出してくれ!」
「なんだよこれっ、なんなんだよっ」
取り込まれた人々は、最初は必死に出ようともがいた。
数分それが続き、やがて暴れる力もなくなったころ、人々の意識に変化が起こり始めた。
「あれ……これ出れないだけで特に痛くも苦しくもない」
「っていうか、すごい落ち着く……」
もがいていた手足をとめるどころか、次々とその場に寝転がり、なんとくつろぎ始めるではないか。
「ひんやりしてて快適……」
「暗がりいいわー。出たくないわー」
やがてほとんどの人たちが暗がりの中で思い思いに寝転んで、快適さを享受しはじめた。
広場に静寂が満ちる中……
「んー、ぷにぷに。すりすり」
まったく別世界にいるかのごときマイペースさで、至福の笑みを浮かべている者がいた。
「今日も泉人のほっぺはふんわりでちゅねー」
無数の暗がりが生み出された時、弟を抱きしめてうずくまった少女である。
それは弟をかばおうとした行為ではなかった。
その瞬間から、少女は弟のほっぺにずっと頬ずりし続けていたのだ。
「いや、それどころじゃないんだけど」
少年は、ぐにんぐにんとほっぺを変形させられながら、妙に無感情な声を出した。
「浸食型……だね。周りの人たち、あと15分くらいで元に戻れなくなるよ」
「じゃあ、あと5分くらいはこのままで」
「お姉ちゃん」
じとっとした目をむける少年。だがそんな表情でも可愛く見えるような、愛くるしさの結晶のような少年だった。
見た目は10歳くらいか。すらりとした手足、凛とした顔立ちはしっかり「男の子」だが、所々に幼い丸みが残っている。
「はあい」
しゅん、と肩を落として、その『お姉ちゃん』は暗がりの中で立ちあがった。
高校の制服を着ている、こちらは大人びた少女だった。少年との血の繋がりを感じさせる凛とした顔立ち。
黒のロングヘア、女性らしい体つきといかにも『お姉ちゃん』の容姿だが、ぴんと背筋を伸ばすと背が高く、どこか王子様めいた気品すら感じさせた。
「泉人、今一番好きなヒーローは誰?」
「そりゃもう、『天剣のイカロス』に決まってるよ」
冷静な表情のまま、しかしどこか熱っぽい瞳で告げる弟ににこりと微笑み、少女は手を高く掲げた。
先ほどまで、恍惚とした表情で弟に頬ずりしまくっていたことなど微塵も感じさせぬ、苛烈な戦意が少女の全身に満ちる。
「堕ちよ天剣!」
その声に応え、空の彼方がキラーンとわざとらしく光った。
そして、肉眼でも見えるほど巨大な隕石が、空を切り裂いて少女に向かって降ってきたではないか。
隕石は大気圏との摩擦で真っ赤に溶け崩れ、まるでその過程で鍛え上げられたかのごとく、真紅に燃える一本の大剣と化した。
ずどん! と少女の真横の地面へと大剣が突き刺さる。
明けぬ夜にも光をもたらすとされる天剣『白夜』を前に、少女を包んでいた暗がりは一瞬で消し飛んだ。
途端に、周囲に蠢いていた暗がりが触手のようなものを伸ばして少女を包もうと迫る。
少女は両手で天剣を引き抜くと、身の丈を超える大剣を苦も無く振るい、手近な暗がりを一つ切り裂いた。
そのまま剣の遠心力を殺さぬ足さばきと手さばきで軌道を水平に変え、さらに一つを切り伏せる。
背後から複数の暗がりが迫るや、剣を回転させたまま手放し、ふわりと前に跳んで背後からの暗がりの触手をかわした。
着地と同時に、半回転した剣の柄を握り、自分も踊るように回転して遠心力を乗せ、立て続けに暗がりを切り裂いてゆく。
少女の細腕で大剣をこうも自在に操るのかと目をみはる様な、恐るべき技量であった。
切り裂かれた暗がりが炎上し、その火炎に包まれながら、少女は口の端に笑みを刻んだ。
「変身!」
刹那、火炎が少女の身を飾るように巻き付き、一瞬後には紅蓮の鎧へと変わったではないか。
全身を覆う真紅のプロテクターが炎熱を発し、手にした天剣へと収斂するや、本来の刃より遥かに長い炎の剣と化した。
その炎の剣をごく無造作に一振りするだけで、少女に迫る暗がりはことごとく焼き尽くされた。
いくつかの暗がりには人々が囚われていたのが、炎の剣は暗がりだけを焼き払い、人々はその場で無傷で眠り続けていた。
『……むう』
その時になってようやく、上空にあった暗がりのピラミッドから、声が放たれていた。
ふわふわとUFOのように地表近くまで降りてくる。その内部には人の姿があったが、薄闇に包まれて詳細は分からない。
『なぜ邪魔をする。光の中は怖い……しかし暗闇も怖い。暗がりが一番落ち着くのだ』
誰に語るでもないが、妙に熱い口調で語りだす。
『私が与える暗がりこそ、人にとって真の安息』
「別に倫理的に責めようとしているわけじゃないの。運命者は、エゴイストだもの」
全身ヒーロー衣装という格好から、少女は気楽に声を発した。
「ただ、暗いと弟の写真を撮りにくいじゃない? 私が15分に1回は投稿する弟の写真を、全国一千億人が待ってるのに」
『人類はそんなにいない……』
反論しかけて、そこは別にどうでもいいと思ったのだろう。ピラミッドはふよふよと距離をとりつつ、さらなる暗がりを次々に生み出した。
『その装束、知っているぞ。今子供に大人気のヒーロー番組の主人公、天剣のイカロスだろう』
「よく知ってるね」
少女は悠然と肯定した。そう、今の彼女の姿は、テレビ番組のヒーローの姿をまねたものなのだ。
『テレビのヒーローに変身する能力か。しかし能力の源は作品愛ではあるまい。変身ポーズは微妙に違うし、剣筋の再現度が低すぎる』
「まあ、技は自前だから」
『ならば弱点も知るまいな』
ピラミッドの中の者は、やたらと勝ち誇った声を出した。
『イカロスの弱点は飛べないことだ。羽を生み出すことはできるが、自らの放つ炎熱がそれを焼き焦がしてしまう故に』
「なんでそんなに詳しいの」
あきれ顔に(とはいえ顔は見えないのだが)なる少女を置いて、ピラミッドはさらに距離をとる。
『その剣の間合いにさえ入らなければ、飛び道具もない。お前が力尽きるまで待てば私の勝ちだ』
「さあ、どうかしらね」
少女はピラミッドに背を向けると、無造作に剣を地面に刺して、背後を振り返った。
「ねえ泉人、お姉ちゃんのかばん開けてみて。プレゼントがあるよ」
「ほんとに?」
そこには、少女の弟がいた。驚くべきことに、こちらも襲ってくる暗がりを平然とかわし続けているばかりか、姉の荷物まで手に持っている。
弟がかばんを開けると、中にビニール製の人形が入っていた。黒を基調とした刺々しい騎士鎧は、いかにもライバルキャラといった造形である。
「アステリオスだー!」
それは、天剣のイカロスと同じ番組のキャラクターだった。
弟が、年相応に顔を輝かせて人形を高々と掲げるのを見届け、少女は走った。
襲ってくる暗がりの真上へと跳ぶと、上下逆さになって手を地面へ向ける。
「生まれよ、冥剣『無明』!」
刹那、地面から漆黒の剣が飛び出し、暗がりを切り裂いて少女の手に収まった。
切り裂かれた暗がりが、さらに深い闇の中へと消滅する中、
「変身!」
その闇に自ら飛び込んだ少女の姿も、先ほど弟にプレゼントしたビニール人形と同じ黒の騎士鎧へと変わっている。
手にした剣は、天剣よりも細く鋭い片刃の直刀。天剣『白夜』と対をなす、永劫の苦しみをもたらす冥剣『無明』である。
『冥剣のアステリオス!? それ別キャラじゃないか!』
「弟の中で、今一番好きなヒーローがこれに変わったのよ」
少女が刀を掲げると、その柄頭からじゃらじゃらと鎖のようなものが伸びた。
剣と鞭を逆向きにくっつけたようなその武器を振り回すと、暗がりに触れた鎖がにわかに爆裂し、闇を生み出して暗がりを飲み込むではないか。
虚無を生み出す爆裂性の鎖を無限に生成するという、恐るべき特性の武器である。
『弟の一番好きなヒーローに変身できる能力……!? お前は何だ、何の運命者だ!』
叫びながらさらに逃げていくピラミッドを睨み据えて、少女は決然と名乗りを上げた。
「私は十六夜鏡子」
そして、ピラミッドに向けて冥剣を投げた。その柄頭からすさまじい勢いで鎖が生成され、螺旋状の尾を作る。
「またの名を!」
鏡子は、その螺旋へと飛び込んだ。最も後ろの鎖を踏むと、それが爆裂して鏡子の体を弾き飛ばす。
だが、アステリオスの鎧を虚無が傷つけることはない。
螺旋の内側で次々に爆発が生じ、すべての衝撃波が鏡子の体を前に加速させる。
ピンボールのように跳ね回った鏡子の体は、音速を超える弾丸と化して螺旋から飛び出した。
そのまま跳び蹴りの姿勢で、螺旋の先にある冥剣の柄を蹴り、もろともに突進する! これぞアステリオスの必殺技、冥王の槍だ!
ピラミッドがどれほど必死に逃げようと、この速度から逃げられるはずもない。
「弟萌えの運命者!」
冥剣の直撃がピラミッドを粉砕した。さらに生み出した鎖の爆風で鏡子は自分だけ減速し、空の彼方へ消えていく冥剣を見送った。
砕けたピラミッドから転がり落ちた人間を空中でキャッチし、ヒーローの脚力に任せて着地する。
数秒、その場で止まっていると、腕の中の人間がようやく放心状態から抜け出した。
「うああ……」
それはまだ中学生くらいの少女であった。暗がりの運命者を名乗っていた少女は、怯えたように頭を振っている。
(暗そうな髪型だけど……なかなか可愛い、かな?)
鏡子はこっそり品定めしつつ、変身を解いた。生身で抱きしめながら、若干甘めの声を出す。
「よしよし、怖かったね」
「……なんで、殺さなかったの」
鏡子の腕の中で、暗がりの運命者は怯えたままだ。
それはまあ、超音速で突っ込んでくる剣の標的にされたら、誰だって怯える。
それでも、鏡子がわざとピラミッドだけを破壊し、中の人間の命までは奪わなかったことには理解しているようだった。
「暗闇は怖いんでしょう? 死はたぶん、一番深い暗闇だよ」
鏡子がそう言うと、少女はおずおずとうなずいた。
「う……うん」
暗がりのピラミッドの中にいた時の激しい口調とはうってかわっておとなしい。
人々を暗がりに包んだのも、基本的には善意だったのだろうと思わせる、無害そうな少女だった。
(こんな少女でもあれだけの事件を起こせる……それは私も同じか)
少女の頭をなでながら、鏡子はぼんやりとつぶやいた。
「運命……ね。それがもたらすものは何なのか……」
ビニール人形を持って嬉しそうに駆け寄ってくる弟を見つめながら、鏡子は思い返していた。
全ての始まりとなった日……自分に『運命』が訪れた日を。
(序章・完)