川沿いの村の治療師見習いは、大雨の夜に騎士隊長と子どもたちを救う
「薬草摘みの小娘は、表へ出ていなさい。診療は医者の仕事だ」
雨の朝、診療所の待合にいた村人たちの前で、バルド医師は私の腕から薬草籠を取り上げた。籠は床に落ちて、摘んだばかりの白花草が泥水に散った。
「熱のある子は、奥で診ます。私は助手です。せめて熱を測らせて――」
「見習いの分際で口を出すな。お前がすることといえば、草を摘んで、湯を沸かすことだけだ」
笑いをこらえる音が、どこかでした。私は散らばった白花草を一枚ずつ拾って、黙って診療所を出た。十九歳、治療師見習い、ユナ・ハーベル。資格の印も、立派な診療衣も持っていない。持っているのは、祖母に教わった薬草の知識と、熱のある人の額に触れてきた手だけだ。
(そりゃ、見た目は小娘ですけどね。熱の出方くらい、見分けられますけどね)
言い返せないのが悔しくて、雨の中を川沿いの小道へ向かった。熱止めに使う苦菜は、雨が強くなる前に摘まなければ流されてしまう。村の子たちが熱を出す季節は、もう始まっている。
瀬音村は、大きな川の曲がり角にへばりつくようにしてある農村だ。田と畑と、三十戸ほどの家。診療所は一軒だけで、バルド医師は王都の医学校を出た、村で唯一の「正式な」医師だった。三年前、祖母が亡くなってから、私はそこの助手として置いてもらっている。給金は安い。でも、ここを辞めたら、村の病人を診る手が減るから辞めなかった。
川はもう、いつもより一段高く流れていた。対岸の国境警備の詰所から、騎士たちが土嚢を運ぶ姿が見える。雨は昼までに強くなる。そんな予感が、首の後ろを冷たくした。
苦菜を摘んで戻る途中、川下の三軒目、漁師のトマの家から泣き声が聞こえた。
「ユナ姉ちゃん、助けて。弟が、熱くて、うなされてる」
長女のミミが、ずぶ濡れで飛び出してきた。家の中では六歳の弟ルカが畳の上で震えていて、その隣では隣家の双子までが寝込んでいた。三人とも、額は焼けるように熱いのに、手足は氷のように冷たい。唇は乾いて、さっき飲んだ水を戻した跡があった。
(これは、ただの夏風邪じゃない)
夏風邪の熱は、夕方に上がって朝に下がる。この子たちの熱は朝から下がっていない。それに、この震え方。祖母が言っていた。「川の水が濁る頃に出る熱は、腹から来る。まず水を疑え、次に熱を逃がせ」と。
「ミミ、この子たち、今朝どこで水を飲んだ」
「裏の共同井戸……。川の水が入ったみたいで、少し濁ってたけど、沸かす時間がなくて」
「もう飲ませちゃだめ。飲ませるなら、私が持ってきた沸かし水だけ。分かったね」
私は籠から苦菜と白花草を取り出した。苦菜は熱と腹の毒を流す草。苦くて、子どもには嫌われる。バルド医師は「田舎の迷信」だと笑っていた草だ。
「ルカ、聞こえる? 苦いお薬飲める子は、強い子だよ」
「……つよく、なる」
「うん。なれる」
煎じ薬を作り、冷ました湯で体を拭き、濡らした布を脇と首に当てる。双子の母親が戻ってくるまでの間、私は三人の熱を代わる代わる測り続けた。といっても体温計はない。額と、手足の冷たさと、呼吸の速さで見る。それしかできない。でも、それをやる人が今ここには私しかいなかった。
昼過ぎ、熱は少しだけ下がった。ルカが目を開けて、「苦い」と文句を言った。文句が言えるのは、良い兆しだ。
(良かった。本当に、良かった)
けれど胸騒ぎは消えなかった。共同井戸の水を飲んだのは、この家の子たちだけのはずがない。川はまだ上がる。雨はまだ降る。
私は診療所へ走った。濡れた前髪が目に入るのも構わず、扉を開ける。
「バルド先生、川下で熱病が出ています。共同井戸の水が原因かもしれません。村中に、井戸の水をそのまま飲まないよう触れを――」
「触れだと?」
医師は午後の診療の準備をしながら、ちらりともこちらを見なかった。
「夏風邪だ。毎年のことだ。たかが井戸水で騒ぐな」
「手足が冷たく震える熱です。夏風邪とは違います。それに、さっきの子たちは――」
「診てもいない医者の前で、診断の真似をするな」
彼は私の言葉を手で払った。
「お前は今日、診療から外したはずだ。薬草摘みなら、摘みに行け。それがお前の仕事だろう」
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
診療所の外では、雨脚が一段と強くなっていた。川の方から、警鐘が鳴り始める。増水を知らせる、詰所の鐘だ。
(誰も動かないなら、私が動くしかないじゃない)
私は井戸へ走った。共同井戸の蓋に、自分の蓑を被せて、縄で縛る。その上から大きな石を置いた。通りかかった村人が、不思議そうに私を見る。
「ユナ、なにしてる」
「この井戸の水、今は飲まないでください。熱病の元かもしれないんです。飲むなら各家で沸かして、それも、できれば上流の湧き水を」
何人かは頷いた。何人かは「医師でもないのに」と眉をひそめた。それでも、私は家々を回った。熱のある子がいれば額に触れ、苦菜の煎じ方を教え、冷やす場所を教えた。六軒目を回った頃、全身ずぶ濡れで、指先の感覚がなくなってきた。
その時、馬の蹄の音と一緒に、濡れた外套の騎士たちが小道を下りてきた。先頭は、国境警備隊の隊長、リアム・オース。詰所で何度か、怪我人の手当てで顔を合わせたことがある。彼は馬から降りて、私の縛った井戸の蓋を見た。
「これは、どういうことだ」
「隊長。この井戸の水を飲んだ子たちが、熱を出しているんです。川の濁り水が混ざったんだと思います。村中に知らせたいのに、診療所は動いてくれなくて」
「……熱は、何人」
「私が確認したのは七人。全部子どもです。まだ増えると思います」
リアム隊長は私の顔をじっと見た。濡れて、泥が跳ねて、たぶんひどい顔だったと思う。
「お前の判断を、信じていいのか」
「保証はできません。でも、このまま水を飲み続ければ、熱は広がります。止めるなら今です」
彼は少しだけ目を細めて、それから後ろの騎士たちに声を張った。
「聞いたな。二人は村の全戸に触れを回れ。この井戸は封鎖、湧き水の汲み場に人を置け。二人は彼女の指示で動け。――ユナ、必要なものを言え」
「人をください。熱のある子を、高台の集会所に運びたいんです。川下の家は、今夜、水が入るかもしれません」
(……信じて、くれた)
医師に笑われた判断を、この人は信じてくれた。それだけで、冷えた体の中に、小さな火が灯った気がした。
夕方までに、集会所には熱のある子が九人、運ばれてきた。大人も四人、腹を押さえてうずくまっている。私は煎じ場と寝台の間を行ったり来たりした。苦菜は苦い。泣く子には、蜂蜜を少しだけ混ぜた湯で割る。吐いてしまう子には、量を減らして回数を分ける。熱の高い子は冷やし、震える子は毛布で包む。当たり前の手当てを、順番を間違えずに繰り返すだけだ。
騎士たちは、言われた通りに動いてくれた。湧き水を運び、濡れた藁を取り替え、川下の家から老人を背負ってくる。リアム隊長は自分も袖をまくって、水桶を運んでいた。
「ユナ、次は」
「あちらの双子、布の交換を。隊長は手を貸してください。……あと、笑わないでくださいね」
「何を」
「苦菜、村一番の苦さです。飲んだ子の顔を見て笑うと、次から誰も飲みません」
「心得た」
真面目に頷くものだから、こっちが笑いそうになった。こんな夜に、変な話だ。
(でも、笑えるくらいの余裕は、残しておかないとね。私が慌てたら、皆が慌てる)
夜が更けた頃、事態が動いた。診療所でバルド医師の診療を受けていた、鍛冶屋の息子の熱が跳ね上がったという知らせが届いたのだ。医師は「夏風邪」と診断し、強い眠り薬を飲ませて、家で寝かせておけと言ったらしい。けれど少年は眠ったまま震えが止まらず、唇の色が悪くなっているという。
「ユナ、行ってやれ」
リアム隊長の声だった。
「でも、ここも――」
「ここは俺たちが見る。お前のやり方を、さっきから見て覚えた。布を当てて、水を飲ませて、順番を守る。違うか」
「……違わないです」
「なら行け。あの子には、お前が必要だ」
鍛冶屋の家は、集会所から目と鼻の先だった。少年は十五歳、体は大きいのに、熱に浮かされて小さく見えた。眠り薬で深く眠らされているのに、体は熱を逃がそうとして震えている。これでは熱が体の中にこもってしまう。
「お湯をください。冷たい水と、清潔な布も。眠り薬はもう飲ませないで」
母親の顔色が変わった。「でも、先生が……」
「先生の薬が悪いんじゃないです。今のこの子には、合っていないんです」
言いながら、手を動かす。体を拭き、脇を冷やし、目覚めかけた隙に、薄めた煎じ薬を少しずつ。何度も、何度も。夜半を過ぎた頃、少年の額に、ようやく汗がにじんだ。熱が逃げ始めた証拠だ。
「……あつい」
「うん、あついね。でも、もう大丈夫。汗が出たから」
母親が泣き出したのは、その時だった。
同じ頃、診療所では小さな騒ぎになっていた。村の長老が、熱を出した孫を連れて診療所を訪ねたところ、扉には鍵がかかっていたというのだ。バルド医師は、川の増水を恐れて、自分の薬箱と高価な薬品だけを高台の自宅へ運び上げ、診療所を閉めてしまっていた。病人を置いて、薬だけを守った。その話は、雨の音より速く村に広がった。
翌朝、雨が上がり、川の水が引き始めた頃には、集会所の熱は峠を越えていた。
九人の子どものうち八人は熱が下がり、残る一人、ルカも朝の光の中で目を開けた。
「ユナ姉ちゃん……苦いの、もう飲まなくていい?」
「熱が下がりきるまで、あと二回」
「ええー」
「文句が出るなら元気な証拠。はい、一回目」
集会所の外では、村の人たちが静かに集まってきていた。昨夜水を運んだ人、布を裂いて持ってきた人、家の干し肉を粥にしてくれた人。鍛冶屋の母親が、一番前に立っていた。
「ユナさん。うちの子は、あのまま寝かされていたらと思うと……。ありがとう、本当に」
「さん」付けで呼ばれたのは、初めてだった。私は助手で、見習いで、「薬草摘みの小娘」だったはずなのに。
その日の午後、長老と村の世話役たちが集会所に来て、私の前に立った。
「ユナ。昨夜、お前が診たのは二十三人だそうだな」
「皆で診たんです。私は手当てをしただけで」
「その手当てで、子どもは九人とも助かった。大人もだれ一人、欠けなかった」
長老は、古い木の札を取り出した。祖母の代から診療所の軒に掛かっていた、「治療師」の札だった。祖母が亡くなった時、資格を持つ医師が来るというので外された札だ。
「バルド先生には、村を出ていただくことにした。本人が申し出たそうだ。『判断を誤り、病人から逃げた医者に、診療は任せられない』と、自分の口で言ったよ」
診療所の前で出発の支度をするバルド医師と、行き違いになった。彼は私を見て、一瞬言いよどみ、それから小さく頭を下げた。
「……苦菜の効き目は、医学校でも習う。私はそれを、田舎の迷信と切り捨てた。判断を誤ったのは、私だ」
「先生」
「王都へ戻って、出直す。……村の者たちを、頼んだ」
それ以上の言葉はなかった。けれど、馬車に乗り込む背中は、来た日の自信に満ちた医師より、ずっと小さく見えた。誰かが殴ったわけでも、裁いたわけでもない。彼が失ったのは、彼自身の判断で手放した、村の信頼だった。
夕方、診療所の軒に「治療師」の札が掛け直された。私の名前が、その下に彫られた新しい小札と並んで。
「ユナ・ハーベル治療師、か」
声がして振り向くと、リアム隊長が立っていた。手には、私の薬草籠。あの日、診療所の床に落とされて、取っ手の結びがほつれていた籠だ。見ると、結びがきれいに直されていた。革紐で、丁寧に、何重にも。
「直しておいた。騎士の仕事じゃないが、結ぶのは得意でな」
「……ありがとうございます」
「昨夜、お前は言った。保証はできない、と。それでも全員助けた」
「皆が動いてくれたからです。隊長が信じて、人を出してくれなかったら、私一人では――」
彼は首を振って、私の言葉を遮った。
「信じたのは、お前の目を見たからだ。熱のある子の額に触れる手が、震えていなかった」
少し黙ってから、彼は言葉を継いだ。いつもの命じる調子ではなくて、どこか探るような声で。
「国境の詰所には、医者がいない。怪我人も、熱を出す者もいる。……ユナ、頼めるか。月に何度か、詰所の者たちも診てやってくれないか。正式に、詰所付きの治療師として」
「私で、いいんですか」
「お前がいい。――それと」
彼は私の手を取り、籠の取っ手を握らせた。その手が、ほんの一瞬だけ、私の指に重なったまま止まった。
「今度は仕事抜きで、茶でも飲みに来い。苦くないやつを、俺が淹れる」
(……ずるい。この人、こういう言い方、ずるい)
顔が熱くなるのが分かった。今度は熱病じゃない。絶対に違う。
「じゃあ、約束です。隊長が熱を出したら、真っ先に苦菜を飲ませますから」
「……考え直そう」
「だめです。治療師の言うことは、聞くんです」
彼が笑った。私も笑った。川の向こうには夕日が落ちて、水面が金色に光っていた。
数日後、井戸は清められ、村はいつもの暮らしを取り戻した。診療所の前には、毎朝、誰かが摘んだ薬草や、焼きたてのパンや、小さな花束が置かれるようになった。数えてみたら、最初の三日で、十七軒の家から届いていた。私はそのたびに思う。私はただ、祖母に教わった通りに手を動かしただけだ。でも、その手を求めてくれる人が、こんなにいた。
薬草摘みの小娘と呼ばれた日々は、終わった。
今日も川の音を聞きながら、私は籠を提げて小道を行く。苦菜の生える場所へ。誰かの熱を下げるために。そして時々、詰所の方角を眺めては、国境警備の騎士隊長が淹れるという、苦くない茶のことを考えるのだ。




