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駆け落ちした姉の代わりに

作者: あおき華子
掲載日:2026/06/30

 ジョージアナ・グレイが駆け落ちしたらしい。


 そんな話を聞いたのはいつものクラブだった。


 目の前の男は、私がジョージアナの婚約者だとは、まるで思いもしなかったのだろう。




 ロンドン中心部、ブルームズベリーにあるグレイ家のタウンハウス。


 エイドリアンがドアベルを鳴らすと、いつものように執事兼なんでも屋の男が出迎えた。


 チラチラと好奇の目を向ける、疲れ顔の痩せた男。私が雇い主なら、即刻クビにしているところだ。



 ジョージアナが逃げた。

 私は今、社交界どころかロンドン中で時の人だろう。




 少し待たされたあと、なんでも屋に案内され、客間に向かった。


 エイドリアンは歩きながらジョージアナとの半年の婚約に思いをはせた。


 彼女がどんな男と駆け落ちしたのかさえも、興味はない。


 晒し者にされた怒りは感じるが、それだけだった。


 二年前、父を事故で亡くし伯爵位を継いだ。その数カ月後、今度は母を病気で亡くした。

 伯爵家を支えてくれるパートナーを探していたとき、丁度目の前に現れたのがジョージアナだった。


 言動の派手なジョージアナ。夜会をはしごする毎日。

 静かな生活を好むエイドリアンとはまるで真逆だった。


 一抹の不安は感じたが、顔が綺麗だったので目をつぶった。


 エイドリアンは自嘲した。


 あの時の違和感を無視したのが間違いだったのだろう。



 なんでも屋が客間のドアをノックして開いた。


 肘掛け椅子に座っていたグレイ卿。素早く立ち上がり、目を左右に泳がせた後、またドサリと座った。


「カムフォード卿……ジョージアナの件でしょう?こんなことになってしまい、なんとお詫びをすればよいのやら……」


 部屋の隅にフランセス・グレイ──ジョージアナの妹が影のように座っている。


 エイドリアンは首元のクラヴァットを整え直した。


 媚びない、笑いもしない、相変わらず陰気なジョージアナの妹。


 義理の妹になるはずだった。

 昨夜、ジョージアナの駆け落ちを知るまでは。


 初対面の日以来、初めて真正面から彼女を見つめた。


 女らしくアレンジされた、知的な印象の栗色の髪。潤んだ灰色の瞳。


 赤くふっくらとした唇が目に入り、思わず視線を天井にそらした。


「──卿?カムフォード卿?」


 エイドリアンは首の後ろを擦りながら視線をグレイ卿に戻した。


「婚約は……」


「もちろん解消させてもらう」


 視界の端で、フランセスが視線を膝から上げた。


 グレイ卿がため息をつきながら、肩を落とした。


「そうですか……そうか……。当然そうなるでしょうな」


 豊かな口髭をしきりに撫でている。


「あの、そうなると、あなたにお借りしたお金は……」

 

 結婚資金として貸した金。一千ポンド。

 今このとき言われるまで、金のことなど頭に無かった。


「もちろん、貸したものは返してもらいたい」


 フランセスが立ち上がり、落ち着きなくその場をそわそわと歩き始めた。


 グレイ卿が頭を両手でおさえながら、うめき声をもらした。

 

「じ、実は、なんともお恥ずかしい話なのですが、お借りしたお金は、その、ジョージアナがすべて持ち逃げしてしまったのです……」


 エイドリアンは目を見開いた。


「まるで詐欺師だな……」


「あの、どうか、警察には……」


 どうしたものか……


 無意識にフランセスに目を向けた。こちらを見ながら、胸の前で両手を組んでいる。


 エイドリアンは激しく頭を左右に振った。


 一瞬、自分でも驚くほどのクズな考えが頭の中をよぎった。


 グレイ卿はふいに立ち上がると、フランセスのもとに向かい彼女の背中に手を添えた。


「この娘はフランセス。ジョージアナの妹です。覚えておられますか?」


 今更何を言っているのだろう。こんなに印象的な娘を忘れるはずがないではないか。


「フランセス・グレイ。十八歳。趣味は詩を書くこと。そうだったね?」


「は、はい」

 フランセスの頬が赤く染まった。


 目を奪われて、まばたきを忘れた。


 グレイ卿が咳払いを何度もした。


「……ジ、ジョージアナのかわりに……その、この娘ではどうでしょう?」


 エイドリアンは息を止めた。


 クズは自分だけではなかった。


 フランセスは瞳をさらに潤ませ、手を震わせている。


 まるで生贄のように。


 自分のこめかみの脈がぴくぴくと動くのを感じた。


 エイドリアンはトゲのある笑い声をあげた。


「グレイ卿、私を馬鹿にするのも、大概にしてほしい」




◆◇◆


『もし先に出会えていたら』──F・Gray


もし先に出会えていたら、私はあなたの隣にいたのだろうか。

テムズ川の夕焼け。

あの白鳥の番のように。





「フランセス、見たわよ一昨日の夕刊の文芸コーナー!F・Grayってあなたでしょう?」


 ボール・ルームに入ってすぐ、エマに呼びかけられた。


 フランセスは黙って扇で顔を隠した。

 血が沸騰しているようだ。


 もし掲載されるとわかっていたら、あんなに分かりやすいペンネームはつけなかったのに……


「私、本当に胸がギュッと締め付けられたわ。フランセス、いつの間にそんなに切ない恋をしていたの?」


「ち、違うわ。そ、想像で書いたの」


 小走りで壁際に並ぶ椅子の方に逃げた。


 カムフォード卿に拒絶された日に感情に任せて書いた短い詩。

 期待せずにいつものように新聞社に送ったら、驚くことに掲載されていた。


 辛いことがある分だけ、いいこともあるのかもしれない。


 付き添いの伯母が億劫そうに彼女の隣の席に座った。

「さあ、お金があるのはどの男性かしら」


 フランセスは唇を噛み締め、目を伏せた。


 カムフォード卿への借金を返すため、資産家と結婚することがフランセスの今度の使命になった。


 家柄は何でもいいと言われても、駆け落ちした噂の人物の妹を、誰が選ぶだろうか。


 と、思っていたのに意外なことに次々と声がかかり、ダンスカードは隙なく男性の名前で埋め尽くされた。


 理解できないわ。

 

 


 地主のミスター・ボーモントとワルツを踊っている時、心臓が止まりかけた。


 ボール・ルームに入ってくるカムフォード卿の姿が見えた。


 辺りを見回している。


 フランセスはうめき声をおさえながらミスター・ボーモントに身をよせた。


 できるだけ顔を隠した。


 伯母にお腹が痛くなったと言って、帰ろう。

 

 ダンスが終わった。下を向きながらそそくさと、壁際に座る伯母のもとに向かった。


 硬い身体にぶつかり、跳ね返った。

 顔を上げると目の前にカムフォード卿が立っていた。


 口を一文字に引き結んだ彼のこわばった表情。

 のりの効いた白い襟のすき間から、上下に動く喉仏が見えた。


「フランセス」

 かすれた声。


 フランセスは彼を見上げながら身震いをした。

 名前を呼ばれたのは初めてだった。

 



 捨てられた男と、捨てた女の妹。

 ボール・ルームにいる人々の視線が、フランセスと彼に一斉に注がれた。


 カムフォード卿がフランセスの手首に紐でかけていたダンスカードを突然奪った。


「……こいつはダメだ。金が無い。こいつは女にだらしがない。こいつもこいつもダメだ。名前を聞いたこともない」


 そう言いながらひとしきりペンでチェックすると、ダンスカードをウエストコートのポケットに入れた。


「あのカムフォード卿、何の権利があって……」


 カムフォード卿が睨んだ。


 次のダンスが始まった。

 ポルカ。


 彼がすかさず手を差し出して軽くお辞儀をした。


 彼女は夢遊病者のように、彼の手を取った。


 ろくに働かなくなってしまった頭。フランセスは体にしみついた動きで何とかダンスを乗り切った。


 少し息を切らして、まっすぐに見つめてくるカムフォード卿。

 フランセスの息も乱れていた。

 ダンスを踊ったせいだけではなかった。


 再びワルツが始まった。

 男性が近づいてくる。 

 きっと約束をしていた人。


 構わずに、カムフォード卿は再び彼女に手を差し出した。


「君に話がある。踊りながら話そう」


 フランセスは約束した男性に気づかないふりをして、また彼の手を取った。


 組み合った体。彼の手が触れる部分──背中と指先の肌の感覚がやけに鋭くなっている。


「先ほどのミスター・ボーモントとのワルツ。あれはいただけない」


 周りの男たちを異様に警戒しながら、カムフォード卿が言った。


「あんなにしがみついて踊って。……君はただでさえジョージアナの妹なんだ。周りにどう見られるか、分かるだろう?」


 ジョージアナ。


 彼の心地よい声が姉の名前を紡いだとき、どす黒い感情が胸の奥からこみ上げた。


 思い出しなさい。私は彼に振られたのよ?


「あなたと二度も踊るほうが、ずっと変です。どうしてこのような真似を?姉のことが気になるのですか?残念ですが、何の連絡もないので相変わらず行方はわかりません」


 カムフォード卿が息をのんで頭をのけぞらせた。


「……ジョージアナの行方に興味はない。君にそんなに鋭い爪があるとは知らなかった」


 興味はない?そんなわけないわ。ブロンドのジョージアナは稀に見る美人だもの。


 鼻の奥につんとした痛みを感じた。


「姉は気まぐれなんです。そのうち帰ってくるでしょう」


 手を握る彼の力が痛いほど強くなった。


「話というのは……詩人のF・Grayについてだ」


 カムフォード卿が視線を逸らして唇を濡らし、また目を合わせた。

  

 フランセスはとっさに逃げようとした。彼の力強い手がさらに彼女の体を引き寄せた。


「あの詩の、《《あなた》》というのはだれなのか、教えてくれないか」


 耳を塞ぎたいのに捕らえられて、塞げない。


 フランセスは目を閉じた。

 心の秘密を丸裸にされてしまった。


 口に塩辛い涙の味を感じた。


 カムフォード卿が急に悪態をついて、彼女を外のテラスまで連れて行った。





 少し肌寒い風。落ち葉が真っ暗な空から足元の石畳にパラパラと落ちた。


 フランセスはハンカチでさっと涙を拭った。


 室内から演奏が小さく聞こえる。


「ここで踊ろう」


 カムフォード卿が再び手を差し出した。


 フランセスはその手を取れなかった。


「ジョージアナは……?」


「フランセス・グレイ……」


 カムフォード卿が強引に体を組ませた。 


「君は何も分かっていないんだね。私は君を探してここまで来たんだよ」


 フランセスを見下ろす漆黒の瞳に、むき出しの魂が見えた気がした。


「あの詩のあなたとは、私のことなのか?……それとも、私の心を見透かしてあれを書いたのか?」


 フランセスは彼の言葉を頭のなかで咀嚼した。

 はっと息を呑んだ。


 カムフォード卿が深呼吸をした。繋いだ彼の大きな熱い手が震えている。

 

「……フランセス、ジョージアナの代わりではない。私は君だけが欲しい」




──カムフォード卿がジョージアナ・グレイの妹と、結婚した。


 新たなゴシップが、ロンドンの社交界に飛び交った。


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