第62話 エイドリアン その1
朝もやが立ち込める大通りを、黒いコートに身を包んだ一人の女性が足早に歩いて行く。まだ目覚めて間もないこの王都に、行き交う人々の姿はまだない。
東のマーケットには、昨日の晩に捨てられた屋台のゴミをあさる野良犬と、そのおこぼれをかすめ取ろうとする数匹の猫の姿。
そこを抜けてようやくたどり着いた目的の場所。黒いコートの女は安価な宿が立ち並ぶ裏通りの一角でその足を止めた。
おそらく既に日は昇っているのだろう。しかし王都をぐるりと取り囲むバカ高い城壁のおかげで、東門に近いこの一帯だけが、まだ夜のように薄暗い。
そんな中、安宿の小さな裏庭から聞こえて来る鋭く風を切る音。そして、それに合わせるようにして細かく刻まれるリズミカルな息遣い。
小さな井戸が一つだけ置かれた庭の片隅で、浅黒い肌の剣士が一人、一心不乱に刀を振るっていた。
「ドーマさん。お久しぶりですね。こんな朝早くから稽古ですか?」
黒いコートの女は、すっぽりと顔を覆ったフードを被ったまま、目の前でひたすら刀を振るう女に声をかけた。そして、黙ったまま女の反応を待っている。
すると、そんな女の姿に反応する様に、風を切る刀の音がピタリと止んだ。
「これは、もしや師匠ではありませんか?」
その言葉を合図に女は顔を隠していたフードを下げた。ようやく差し込み始めた朝日に照らされて、肩の長さに程よく切りそろえられた髪が美しく金色に輝く。そしてその下に隠されていた、冷たくも美しい容姿があらわになった。
「師匠とは呼ばないでと言ったはずです。私が貴方に身体強化の法を与えたのは、ただの気まぐれだと言う事を忘れないでください」
他人行儀な話し方。彼女はいつもドーマに対してつれない態度をとる。
「申し訳ありません。でも……それではどの様にお呼びすれば……。お名前のままエイドリアン様とお呼びすればよろしいのですか?」
「悪いけど、その呼び名はどうしても無骨な男の声で再生されるの。絶対に止めて」
「無骨? なら……どう呼べば?」
「適当に略して短くすれば良いのです。例えばエイリンのように」
「エイリンですか……。分かりました。ではこれからはそう呼ばせていただきます」
「どうぞご勝手に――」
自ら呼び名を指定した割には、どうにもつれない反応。時折こめかみを押さえ、煩わしそうに話すその女の息からは昨日の酒がまだ抜けきってはいない。昨日、あんな事さえなければ……。エイドリアンはわざわざ二日酔いの頭を抱えて、こんなに朝早くからドーマに会いに来る必要もなかった。
本来。エイドリアンにとって、このダークエルフの女が大会で優勝しようが、不様に負けようが知ったことではなかった。ただ、自分が授けた『身体強化』の法が何処まで実践で通用するのか、それさえ知ることが出来れば良かったのだ。
そして、その目的は既に第一試合において達成されている。しかし……
「それで……エイリン様は、この様な朝早くからまさかご自分のお名前を訂正しに?」
「違います。そんなくだらない用事でわざわざ貴方に会う意味は無いでしょう?実は、ドーマ。今日は折り入って頼みたい事が有って貴方を訪ねました」
「この私に、エイリン様が頼みですか?」
「一つお聞きしますが、貴方は2日後の決勝で、あのエデンと言う少年を打ち負かす事ができますか?」
「はい。やれる自信はあります」
「自信だけでは困るのです。貴方には決勝戦で、圧倒的な実力差を見せつけて勝利していただきたいのです」
「圧倒的実力差ですか?しかし、あの少年。少し底が知れません。圧倒的というのは流石に……。なんとかやっては見ますが……」
「先日の第一試合。拝見させていただきましたよ。貴方はいささか自分の身体能力に頼りすぎる所がありますね。スピードをもう少し魔力に委ねてみては如何でしょう。その為にも、私が新たに改良した法を、今から貴方に授けたいと思うのですが、よろしいですか?」
丁寧な物言いとは裏腹にエイリンの表情は、あくまでも煩わしそうに見える。だが、彼女がそう言った瞬間。ドーマがエイリンの足元にひざまずき深々とその頭を垂れた。
「ありがとうございます、エイリン様。一度ならず二度までも、我らエルドラの民に慈悲をかけていただけるとは。そして必ずや……あの……」
「大きな話はもういいの。貴方は取り敢えず2日後の決勝戦で大勝すれば良いのです。その先のことは貴方が勝手にやりなさい」
その日の朝。王都の城門が開くと同時に、二人の女がその東の城門を静かに潜った。新たな魔法を授けるには、この城壁の中では少々目立ち過ぎるのだ。




