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スワンソング•サックス  作者: マサ


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スワンソング•サックス

3部作構成の第1部(只今執筆中)

「白鳥は、死ぬ間際に最も美しい声で鳴く」

その伝説を、かつての私は、終わりゆく者への残酷な慰めだと思っていた。

四十年間、私はホテルの白い規律の中で、自分という音を消して生きてきた。それがプロフェッショナルであり、完璧な人生の旋律だと信じて疑わなかった。

だが、定年を目前にした裏切りが、私のすべてを奪い去った。

友に背かれ、組織に棄てられ、地下の静寂に押し込められた時、私は初めて自分の「声」を失っていたことに気づいたのだ。

暗闇の中で手にした、古びたサックス。

それは、私に残された唯一の言葉だった。

この物語は、どん底に落ちた一人の男が、自らを貶めた者への憎しみさえも「旋律」へと変え、最高のエンディングを自ら書き上げるまでの記録である。

お前のせいだよ…赤井の呟きをかき消すように

サックスは最高の音色で鳴いた。


懲罰を言い渡した役員たちが、思わず息を呑む。従業員達の足が止まる。その音色は窮地に立たされた男の断末魔ではなく、自由を掴み取った男の圧倒的な矜持であった。


ー時計の針を1年前に戻す。


赤井成人あかいまさとはホテルのレストランを歩くとき、無意識に照明の球切れやスタッフの制服の汚れをチェックしてしまう。

それがホテルの部長という役職を長年務めてきた赤井の「職業病」であり誇りでもあった。

「部長お疲れ様です。」

若手スタッフの爽やかな挨拶に軽く頷きながら、赤井はレストランにさりげなく響く足音を聞きながら歩いていた。その足音をこの場所で響かせられるのもあと一年を切っていた。

定年。

この二文字が現実味を帯びて来た頃、Facebookにリクエストが届いた。高校3年の時のクラスの同級生からだった。赤井は高校卒業後、実家を出てずっとホテルを転々と渡り歩いていた為、今更と思い、そのリクエストをスルーした。

一週間が経過した頃、フロントから赤井に内線が入った。「部長、お疲れ様です。松岡様というお客様が訪ねて来られています。」私はまた新規のセールスと思いながらも承諾しロビーに進んだ。

「赤井か?久しぶりだな…いや貫禄が出たか」

Facebookにリクエストをしていた松岡だった。

「わざわざ来てくれたのか…」私は驚きと感動が交差する気持ちを込めて、喫茶のソファ席に松岡を案内した。卒業後のお互いの進捗を共有し合った後に松岡から還暦の同窓会に誘われた。「10月に還暦の同窓会を開催し、担任だった森先生も来てくれるんだ、お前も忙しいだろうけど参加してくれないか?」ホテルの職責を全うする中で、私生活のほとんどを切り捨ててきた私にとって、それは四十年ぶりに開くタイムカプセルのような響きを持っていた。「わかった、行くよ。」

松岡と握手をしてロビーで見送った。LINEにはすぐに松岡から同窓会グループの招待が送られて来た。


「赤井!来てくれたのか、久しぶりだな」受付で幹事の松岡と田中が迎えてくれた。「お前に会わせたいやつがいるんだ。」と端の方の席を指差した。

そこには高校時代同じ吹奏楽部に居た西山だった。

卒業後、大手商社に進んだと聞いていたが、再会した彼は相変わらずの人懐っこい態度で私のグラスにビールを注いだ。「実はお前に相談があるんだ。ホテルマンとして、お前の力を貸してほしいプロジェクトがあるんだ。」久しぶりに手にするサックスのケースを愛おしそうに撫でながら彼は語った。定年後の第二の人生、音楽とホスピタリティを融合させた新しい事業。仕事に追われ、楽器をクローゼットの奥に仕舞い込んでた赤井の胸に、その言葉は甘く、熱く響いた。ホテル部長としての経験、そして培った人脈。西山のためならと、私は現職の立場を危うくしかねない「便宜」を西山に差し出してしまった。それが私の四十年を灰にする事になるとも知らずに。

赤井の提案は最初は完璧に見えた。

宿泊団体のツアー客が来館した際、サプライズとして西山がサックスを吹いた。台湾の民謡や日本的なJAZZが融合した旋律。インバウンドからは拍手が沸き起こりSNSを通じて「音楽のあるホテル」としての評判は瞬く間に広がった。西山の演奏を信じ私は本格的な「音楽レストランイベント」の計画を部長としての権限で次々と決裁していった。だが準備が進むにつれ、西山の振る舞いに違和感が生じ始める。「赤井、来月は帰省するから演奏スケジュールはまだ確定しないでくれ。」「演奏時間になってもこっちの準備ができるまで待ってくれ」二人きりになった時、西山が投げかけたのはホテルマンとしての赤井の矜持を逆撫でする言葉だった。「お客様が時間前からロビーで座って待っている、時間通りに準備するのがプロならわかるだろう?」赤井が冷静に諭した瞬間、西山の表情が一変した。お互いの言い分を述べる声はやがて大きくなった。翌日、人事部に届いたのは「赤井部長から暴言と地位を傘に着た威圧を受けた」という西山からの告発状だった。イベントの私物化、そして立場の弱い「外部パートナー」へのパワーバランスメント。赤井が西山のために通した数々の特例が今度は自分を絞め殺すための証拠として次々と突きつけられていった。


「部長、GM(総支配人)がお呼びです」

秘書のこわばった声を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。GM室の重厚な扉の向こうに待っていたのは、長年苦楽を供にしてきた上司の苦渋に満ちた表情と開かれたままのパソコンだった。

「…赤井くん、西山さんの主治医から連絡があった。君との口論以来、彼は適応障害に陥り自宅療養中だそうだ。医師からは当ホテル側への事実確認と原因となった君への厳正な対処を求める要請が来ている。」赤井は頭が真っ白になった。あの日の口論、

ホテルの規律を守るための主張。それが医師の診断書という武器によって加害へと塗り変わっていく。

「私は君を信じたい。だが外部の人間、それも医師からの正式な申し立てだ。ホテルとしてコンプライアンスを無視するわけにはいかない。」そこからの動きは残酷なほど早かった。翌週には「ハラスメント事案に関する懲罰委員会」の開催が決定し、赤井は職務停止を言い渡された。委員たちの冷ややかな視線の先で弁明を虚しく行った。

言い渡されたのは事実上の「引導」だった。

部長職の解任、降格と減給。新しい配属先はお客様の目に触れることのない地下の事務所だった。

「お疲れ様でした。元部長」周りの視線がそう言っているように思えた。自宅に帰っても灯りをつける気力すらない。服を脱ぐことさえ億劫で私は暗闇の中でただ、ソファーに深く沈み込んでいた。四十年守り続けてきた清潔なシーツのようなプライドは、今や泥にまみれ修復不可能なほどに引き裂かれている。

一週間の職務停止期間中私は一歩も外に出なかった。食事の味もせず、窓の外を通る車の音さえも自分を嘲笑う声に聞こえた。だがその日の夜、着替えの為クローゼットの奥へ手を伸ばした時、指先が硬い感触に触れた。重厚な黒いハードケース。

「まだ、あったのか…」ケースを開けると、薄暗い部屋の光を反射して、サックスが鈍く黄金色に輝いた。私は吸い寄せられるように、その金属の管を手に取った。指は震えていた。ホテルマンとしての自分は死んだ。だがこの真鍮の塊だけは、私の指の形を知っている。私はマウスピースを咥え、深く息を吸い込んだ。肺の奥が痛むほどの呼吸。それは怒りでも悲しみでもない。ただ自分がまだ「生きている」ことを確認するための渇いた一息だった。


クローゼットの奥でサックスを手に取った数日後、私は同窓会で連絡先を交換していた、かつての恋人・陽子から誘いを受けた。

「私もね、定年を前に何か始めたくなって。実はサックスを買ったの。でも、全然音が出なくて……部長、教えてくれない?」

訪れたサックスの音楽教室。お互いの練習を終えた後でカラオケボックスに移動した。

陽子がケースから取り出したのは、まだ傷一つない銀色のアルトサックスだった。かつて、放課後の校舎で私の背中を見つめていた彼女が、今度は隣に立ち、慣れない手つきでリードを湿らせている。

「西山のこと、聞いたわ。……あいつ、昔からプライドだけは高かったものね」

彼女は深くは追求しなかった。ただ、私の隣で不器用なロングトーンを響かせる。

ピー、と裏返った音が部屋に虚しく響く。

「……力みすぎだ。もっと、腹の底からゆっくり吐き出すんだ」

教えるうちに、私は自分自身の指先にも力が戻ってくるのを感じた。

西山の裏切り。組織の冷徹な宣告。地下の事務所の埃っぽさ。

それらが、陽子の奏でるたどたどしい音色に混ざり、少しずつ形を変えていく。

週に一度のこの時間は、いつしか私にとって、組織という檻から逃れられる唯一の聖域になった。

「いつか、二人で一曲吹けるようになったら、その時は……」

陽子が言いかけた言葉を、私はあえて遮った。

まだ、私にはやり残したことがある。

西山に奪われた四十年を、ただの悲劇で終わらせるわけにはいかない。

「陽子、次の練習からは、この曲をやってみないか」

私が譜面台に置いたのは、あのインバウンドの夜に西山が演奏し、そして私の破滅の引き金となった

あの曲だった。地下の事務所で埃にまみれる日々。しかし、私の指先は、週に一度の陽子との練習で

その感覚を鋭く研ぎ澄ませていた。


そして、クリスマスイブ。

ホテルのロビーには、豪華だがどこか空虚な装飾が並んでいた。赤井は自分から離れてしまった

「音楽イベント」を手伝うようGMから指示されていた。

だが、当日の開演直前、トラブルが起きる。大雪による交通機関の麻痺で、プロのカルテットが到着できないという報せが入ったのだ。

騒然とするロビー。青ざめるGM。

スタッフたちが右往左往する中、私は地下から一ケースを抱えて現れた。

隣には、連絡を受けてホテルに訪れた陽子が少し緊張した面持ちで銀色のサックスを手に立っている。

赤井はGMに向かって静かに一礼した。

「ホテルの危機です。責任を取って、私が穴を埋めます」

ざわめく客たちの前で、二人は並んで楽器を構えた。

私が選んだのは陽子と何度も繰り返した、穏やかでいて芯の強いクリスマス・スタンダード

のメドレーだった。

私の黄金のサックスが低音で支え、陽子の銀のサックスが、まだ幼くも澄んだ音色で主旋律をなぞる。

二つの音がロビーの高い天井に響き渡り、安っぽい喧騒を塗り替えていく。

それは「元部長」としての誇示ではなく、この場所を愛する一人の人間としての、

祈りのような演奏だった。それは、突き刺すような鋭い音ではなかった。

海の底に沈殿する深い青と、夜明け前の空が持つ透明な青を混ぜ合わせたような、圧倒的なブルートーン。私は目を閉じ、そのブルートーンの残響の中に、自分自身の四十年のすべてを投げ込んだ。

憎しみも、執着も、もうそこにはない。

ただ、人生という孤独なソロを吹き切った者だけが到達できる、静かな充足感だけが、青い余韻となって漂っていた。最後の一音が消えた瞬間、ロビーは一瞬、深い静寂に包まれた。

次の瞬間。

一人の宿泊客が叩き始めたてのひらが、地鳴りのような拍手喝采へと変わった。

「素晴らしい……」

誰かが呟いた声が、涙を堪える私の耳に届いた。

拍手の中、私は遠くで客を装っていた西山を見つけた。

彼は震えながら、自分には決して生み出せない「本物の喝采」を見つめて立ち尽くしていた。

ホテルのロビーを包んだ万雷の拍手。陽子と微笑み合い、西山の呆然とした顔を見届ける――。

その最高のラストシーンを書き終え、私は「公開」のボタンを静かにクリックした。


画面の明かりが、地下の事務所の隅で光っている。

現実の私は、まだここにいる。

西山の罠は解かれず、配置転換の辞令が覆ることもなかった。陽子とは同窓会で再会したが、一緒にサックスを吹くようなドラマチックな展開は、私の臆病さが邪魔をして、現実には起こらなかった。

だが、私の指先には、サックスのリードの震えにも似た、キーボードの残響が心地よく残っていた。

書くことで、私はあの日失った誇りを取り戻していた。


一ヶ月後。

事務所の古いパソコンの通知音が、湿った空気の中に響いた。

一通のメールが届いている。

『小説家になろう』運営事務局より:第〇回 新人賞 受賞のお知らせ

「……嘘だろ」

声が震えた。

私の書いた、一人のホテルマンの「逆転劇」が、何万人もの読者の心を動かし、

最高の結果を導き出したのだ。


定年の日。

私は私物を詰め込んだ小さな段ボールを抱え、正面玄関ではなく、裏口の従業員通用口から外へ出た。

地下の事務所から解放された私の肺に、冷たくも清々しい夕暮れの空気が流れ込む。

ふと足を止め、私は自分が人生の半分以上を捧げたその建物を振り返った。

夕陽を浴びたホテルの白い外壁が、オレンジ色に燃えている。

その瞬間、私の視界の中で、巨大な建築物がふわりと輪郭を失った。

左右に広がる宿泊棟は、今まさに羽ばたこうとする巨大な翼。

最上階のラウンジへと続く曲線は、優雅に もたげられた長い首。

そして、ロビーから漏れる温かな光は、その鳥の生命の輝きそのものに見えた。

「……白鳥だ」

それは、私と共に戦い、私と共に鳴き、そして今日この時、私の執筆という「絶唱」を

聴き届けてくれた巨大な白鳥だった。

西山に裏切られ、声を失い、暗闇に沈んでいた私を、この白い翼はずっと抱きかかえてくれていたのだ。小説という名の「スワンソング」を書き終えた今、ホテルもまた、その役目を終えて大空へ還ろうとしているように見えた。

私は背中に抱えたサックスケースの重みを確認した。

重い。だが、心地よい重さだ。

この中には、私の誇りと、陽子と重ねた音色と、そして新しい人生への旋律が詰まっている。

私はもう一度だけ、その美しい白鳥を仰ぎ見て、深く一礼した。

そして、一度も振り返ることなく、駅へと続く坂道を歩き出した。

エレベーターの鏡に映る私は、もう、ただの「敗れ去った部長」ではなかった。

自らの手で最高のエンディングを書き換えた、一人の表現者の顔をしていた。

もし、お前があの日、私を裏切らなかったら。

もし、お前が私をこのホテルから追い出そうとしなかったら。


「……ああ、お前のせいだよ、西山。感謝してる」

「さあ、行くか」

私は駅のホームを軽やかな足取りで歩き出した。

私の人生という物語は、今、最高の一行を書き終えたのだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


本作『スワンソング・サックス』の結末で、主人公は自分を裏切った西山に対し、「お前のせいだよ」と感謝の言葉を呟きます。これは、私自身が執筆を通じて辿り着いた、一つの「答え」でもありました。

現実の世界では、裏切りは痛く、孤独は冷たいものです。私もまた、地下の事務所で独り、奪われた四十年を思って夜を明かす日々がありました。しかし、その苦しみがあったからこそ、私はサックスを再び手に取り、こうして物語を綴るという新しい命を授かりました。


「お前のせいで、私は幸せになれた」


そう思えた瞬間、私の心の中で、西山という存在は復讐の対象から、私の人生を彩る端役へと変わりました。定年の日、ホテルを去る私の目に映った「白い白鳥」の姿。それは、私を縛り付けていた場所ではなく、私をここまで運んでくれた巨大な翼でした。

この物語を最後まで読んでくださった皆様の人生にも、いつか絶望を最高の音色に変える「スワンソング」が響くことを、心より願っております。


白い翼に、そしてこの物語に出会ってくれたあなたに、最大の感謝を。


令和八年 五月

著者:[マサ]

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