「伯爵家には血筋正しい跡継ぎが必須」と言ったのは、あなたでしょう?
「神に祈っただけで孕むなんて聖女ですか? というのよ!」
神殿の祈祷室に、声が響く。
当人は憤然としているが、聞いたほうはつい笑ってしまう。そんな柔らかみのある明るいメゾソプラノで神官に愚痴っているのは、落ち着いた栗色の髪と瞳に、ほっそりとした体型の若い女性。
バウス伯爵家に嫁いで3年になる子爵令嬢、サーラ・ヘンドリクスだ。
愚痴られた神官は、真面目に訂正した。
「いや聖女マイラが勇者を妊娠したのは、正確には彼女の祈りのおかげでは、ないんだ」
ここは、400年前に魔王を封じた英雄の母、処女受胎伝説の聖女マイラを祀る神殿。子授けのご利益があると信仰を集めている。
だが研究の結果、その順序は逆だった。
つまりこうである。
まず神託を受けた当時の神官が、清らかな乙女に祈祷をもってして聖霊を宿らせた。そして人の腹から産み育てられた聖霊を、英雄としたのだ。
そう、処女受胎は、神のお告げを受けた神官の神聖魔力の成果なのである。聖女マイラに特殊な力があったわけでは残念ながら、まったくない ――
神官の口から滔々と繰り出される身も蓋もない学説に、サーラの大きなためいきがかぶった。
「その解説、お義母様にしてあげて……」
「無理だよ。関係者以外には決して明かすことのできない、禁断の研究結果で 「私も関係者以外ですが!?」
「サーラならまあ、いいかと」
神官が首をかしげると銀の髪がさらりと流れた。
サーラが幼馴染、エルバートとこの神殿で再会したのは偶然だ。
エルバートはサーラの父の同僚の長男だったが、10歳で稀有な神聖魔法の力を発現させたため、国によって強制的に神官にさせられ、ここ聖女マイラ神殿に配属された。
それから10年間、エルバートはずっとこの神殿で神官を務めている。月の女神を思わせる長くまっすぐな髪に金の瞳の神秘的な容姿は信者のウケも抜群で、神殿への献金はいまや10年前の2.5倍にまでなっているそうだ。
サーラの義母も、熱心な信者のひとり ―― エルバートがサーラの幼馴染であることも、力はあっても聖女マイラへの敬意などまったくないことも、知らないらしい。
「毎日、エルバート神官とともに聖女マイラ様に祈りを捧げるのですよ! そうすれば、あなたみたいな人でもきっと、元気な赤ちゃんを授かれますからね!」
押しつけがましい義母の口調を再現してみせ、サーラは叫んだ。
「結婚後1回もしてないのに、授かるわけがないでしょうが! バカなの!? いいえバカね!」
サーラと夫のヴィレム・バウス伯爵は政略結婚だ。
サーラの実家は子爵ながらも代々、王の財務監を務めており、伝統的な貴族の血筋と、それなりの政治的な影響力とを持つ。一方、若きバウス伯爵には広大な領地にもとづく安定した収入があった。
両家が互いに足りない部分を補いあう、そのための結婚だったのだ。
だが夫となったバウス伯爵は新婚初夜、サーラの全身をじろじろと眺めたあげく、宣言した。
『お前みたいな棒切れ、抱く気にはとてもならないな。抱いてほしければ、胸と尻にしっかり肉をつけるんだ。初夜はそれまでお預けだな!』
政略結婚は、おいそれと壊すわけにはいかない。サーラの実家は子爵家とはいえ、中央に近い政治家。地方領主の伯爵家との関係は対等だが、サーラの実家にとってバウス伯爵家は、王都での政変など、いざというときの保険なのである。
だからサーラは黙って耐えた。
だが内心では、ブチギレていた。
―― は!? なんでアナタみたいな気遣いゼロの男との◯◯◯にそんなに価値があると思っていやがるんですか? いやお断り!
こんな男に抱かれるとか、結婚しててもないわー!
かくして、結婚から2年経っても3年経ってもサーラは変わらずスレンダーな体型を維持し続け、そんなサーラをバウス伯爵は避け続けたのである。
もっともバウス伯爵に愛人はいない。
この国では不義は離婚要件。いくらサーラが好みでなくても、バウス伯爵家としても政略結婚はおいそれと壊せない。バウス伯爵家は中央への伝手としてサーラの実家をあてにしているのだ。
そしてそれ以前にバウス伯爵は、血筋を大切にする母親こと前領主夫人が怖くて、愛人など作れない。
時折、お忍びで娼館に出かけるのが精一杯である。
しかしその辺の事情は心底、どうでもいい。
サーラ自身としては一生このままでも、まったくかまわなかった。
使用人たちはよく仕えてくれており、生活に不自由はないし。
夫に愛されなければメイドたちからいじめられるのでは、という懸念は、流行のロマンス小説にはありがちだが現実にはさほどでもない。
主人階級に危害を加えるような出来の悪い使用人は、雇っているだけで貴族の恥だからだ。使用人だって、解雇のリスクを冒してまで無意味な嫌がらせはしたくない者がほとんどである。
もっとも、夫や義母とあからさまに対立すれば、その限りではないかもしれないが…… サーラは表向きは従順に振る舞うことで、使用人の離反を避けているのだ。
そのぶんストレスはたまる。
それでも、夫の性処理を生活にプラスする意味などまったく、わからない。
今だって領主夫人の仕事で忙しいのに、なぜ愛しても愛されてもいない男に身を削ってサービスしなければならぬ。
そもそもが、クソな夫との間にできた子に多大な時間と資源と精神力を割いてなんとかまともに育てようとするよりは、養子をとるほうがよほど合理的だ。
他家が育てた次男三男あたりから優秀な者を引き抜きアレな血筋を刷新するのである。
すなわち、サーラが夫の子を孕まねばならぬ理由は何一つない ――
だがここに、立ちはだかる者がいた。サーラの義母こと、前領主夫人である。
もっとも義母だけが悪いわけではない。
義母は、家門継続の義務を果たすために息子夫婦が子作りにせっせと励んでいると、当然のごとくに思い込んでいるだけなのだ。
責任は、その思い込みをきっちり訂正しないバウス伯爵とサーラにもあった。
バウス伯爵はサーラには強く出るが、母親には弱い。機嫌を損ねたくなくて、義母の前でだけサーラと仲の良いふりをするのだ。
そして言う。
「浮気なんて、もちろんしないさ。伯爵家には血筋正しい跡継ぎが必須だからな! 頑張ってくれよ、サーラ」
「そうよお。跡継ぎを作るのは嫁の義務ですからね! 期待しているわ、サーラさん」
顔を合わせるといつも、そんな会話を薄笑いを浮かべながら繰り広げる義母と夫。
跡継ぎの必要性を振りかざし圧をかけるのは、貴族家においては堂々とできる唯一の嫁いじめなのだ。
サーラとしては苛立つことこの上ない。
だが同調しておかなければ、この家の女主人としての地位が危うくなる。それはそれで、非常に面倒くさい。
サーラにうなずく以外の道はなく、その結果としてサーラは、地方貴族の非合理な聖女マイラ信仰までをも、義母からごりごりに押しつけられることとなってしまっているのだ。
『孫ちゃんが生まれるかどうかは、サーラさんの信仰にかかっているんですからね! あなたがきちんとお参りしているか、エルバート神官に確かめますよ!』 と。
自業自得な面もあるだけに、泣こうにも泣けない。サーラにできるのは、こうして神殿でひそかに 『バカなの!?』 などと叫んで鬱憤を晴らすことだけである。
「でも、ここで実はまだ1回もしていないとか、バレてごらんなさいよ……」
サーラは、幼馴染の神官に愚痴を漏らし続けた。
「今度はお義母様は 『エルバート神官とともに、夫に愛されるワガママボディーになるようお祈りしなさい!』 とか言って、娼婦の着るような下着を取り寄せてプレゼントしてくれるようになるわよ。間違いなく」
上品なのに圧の強い口ぶりから、狂信者のごとき目つきまで。義母の再現ぶりが半端ない。
だが、サーラ本人としては冗談のつもりはなく、あくまで愚痴である。だからエルバートには、つまらないことばかり聞かせてしまって申し訳ない、と引け目を感じてさえいる。
そのため、己の発言にエルバートがウケまくって爆笑寸前になり、なんとか咳払いで誤魔化していることには気づいていなかった。
「ごほっ、ごほっ…… 失礼。そんなことになったら、たしかに気色悪いな」
「でしょ? ―― さて、そろそろ時間ね」
ふう、とためいきをつきながらも、サーラは軽やかに立ち上がる。
「いつもごめんなさいね。けど、おかげでスッキリしたわ。ありがとう、エルバート神官」
「小官でよければ、いつでもどうぞ。前領主夫人には、奥様はしっかりお祈りされていました、とでも言っとくから」
サーラは少し顔をしかめた。
―― 結婚以来、孫を切望する義母の言いつけに表向きは従い、こうしてしばしば神殿に赴いているのに。
まだ、私がきちんと祈ってないと思われてるのかしら ―― 祈ってないけど実際。
それでも、いちいち行動を監視されるのは気持ちの良いものではない。
「お義母様ったら。執念深、ではなくて、信心深くていらっしゃるわ」
「それどころか」
「なに?」
エルバートは唇の両端を吊り上げた。神秘的な美貌がいっそう際立つ謎めいた表情で、彼は 「あとでのお楽しみ、かな」 とのたまったのだった。
その 『あとでのお楽しみ』 の内容が明らかになったのは、数日後のこと。
「サーラさん、ほら! お土産よ!」
義母が差し出したものを目にしたサーラは思わず 「げ」 とつぶやいていた。
その声は幸か不幸か、義母には届かなかったらしい。
重ねた両手の上に布きれを載せ、にこにこしながらサーラの目の高さにつきつけてくる。
洗濯などしたことはないのだろう。黄ばみ、薄汚れ、ところどころ黒ずんだその布にびっしりと書き込まれているのは、まったく読めない神聖文字と聖女マイラの紋章 ――
「聖なるオーラを感じるでしょう? 聖女マイラ神殿のエルバート神官が10年間、祈りの行で召された御聖衣から作った聖符なのよ! とーっても、貴重なものなの!」
そんなオーラを感知する能力は私にはございませんが、お義母様。
というか、こんな布きれにいくら払ったんですか、お義母様……
飾れとか言われたらウザいな、と密かに身構えたサーラに義母がしたオーダーは、予想よりもうちょいアレだった。
「この聖符をヴィレムの枕の下に敷いてちょうだい! 2ヶ月の間毎日祈りを捧げて、そのあと、聖符を浸した水をあの子に飲ませるの! そうしたら、赤ちゃんを授かるんですって!」
「ひっ……」
誰がなにを飲むんですって!?
キモっ! キモすぎますわ、お義母様 ――
息をのんで固まってしまったサーラの横を義母はさっとすり抜け、夫婦の寝室に向かう。
「忘れたらいけないから、わたくしが敷いといてあげるわねー聖符!」 という、セリフとともに。
サーラが我に返り、そのあとを追いかけたときにはすでに。
義母はバウス伯爵の枕の下に、不気味な聖符を設置してしまっていた。たとえ幼馴染の美人神官の衣装から作られていても、不気味なものは不気味。
聖女マイラ神殿の商売、ちょっとアレすぎる。
「うふふふ…… 聖女マイラ様…… 孫、孫、孫、孫、元気でかわいい孫を、よろしくお願いいたします…… うふふふ……」
夢見る祈りが、まるで鈍器のようにサーラの心を打つ。
義母は枕をひとしきりなで、頬ずりまでして念を送ると、用は済んだとばかりに去っていった。
「じゃあねー! 楽しみにしてるわねー! 孫ちゃん!」 という、無邪気な呪いを残して。
あなたの孫である前に私の子なんですけど、お義母様。
そんな内心ツッコミすら入れられないほど、サーラは疲れてしまっていた。
子どもに恵まれず、婚家先からもっと酷いことを言われている令嬢の噂も聞いたことがある。
不合理な信仰の押しつけ程度、優しいほうかもしれない。
しかし、同じだ。己の意志や気持ちなど最初から無視されている、という点においては。
領主夫人としての仕事をまったく太れないほど、熱心にこなしたところで。バウス伯爵家にとってサーラは結局のところ、出来の悪い産む道具でしかないのだ。
虚しい ――
サーラはベッドの端に座りこみ、夫の枕を眺めた。
さて、この下に敷かれてしまったブツをどうしよう、とぼんやり考える。
幼馴染が10年間使用した衣装の一部で、プラス義母の念がこもった薄気味の悪い…… しかし、これでも一応は、神殿の聖符だ。
引き抜いて捨てるのもなんとなく気が咎めてしまう。
―― ま、いっか。
サーラは3秒で結論を下した。
聖符が敷かれているのは夫の枕だ。知ったことではない。
2ヶ月間祈りを捧げたのち聖符を浸した水を飲むとかいうトンデモ儀式も、夫だけがすればいいことではないか。
その夜、遅くに帰ってきたバウス伯爵にサーラは 『お義母様のお心遣い』 を説明した。
「取り除いてはいけませんわ。お義母さまがわざわざ、祈りを込めて置いてくださった有難い聖符なのですもの」
「うん…… おまえに、もう少し起伏があったら、こんなことには、ならなかったんだがな。おまえときたら、いつまで経っても、まったくそそるようにならないのは、なぜなんだ?」
「申し訳のうございます、伯爵様」
ためいき混じりに責任転嫁してくる夫に、サーラは微笑んでさえみせた。
バウス伯爵が何を言おうとも結局のところ彼は、2ヶ月間この枕で眠り、その後は薄汚れた聖符を浸した水を飲まねばならないのだ。
そう考えると、お義母さまに逆らえなくてお気の毒ね、と意地悪な笑みさえ漏れてしまう。
―― なるほど、エルバートが 『お楽しみ』 と言うはずね……
実際、それから毎日。義母はサーラの元に、チェックを入れにやってきた。
「ちゃんと寝る前に御聖符に祈りを捧げているでしょうね?」
「もちろんですわ、お義母様」
祈りを捧げているのは夫だけですが。
「わたくしも毎日、神殿でエルバート神官に祈っていただいてるわよ! きっと授かりますからね、頑張りましょうね、孫ちゃん!」
「有難う存じますわ、お義母様」
することしてないのにどうやって授かるのかは存じませんけど。
もしかして…… ポイントは 『バウス伯爵の』 枕の下に聖符を置く、というところだったのかしら。
ふと、サーラはエルバートの意味深な微笑みを思い出した。
エルバートの神聖魔力の強さは、400年に1度との呼び声も高い。もしかしたら、本気で祈ればクソな夫をその気にさせてしまうことくらい、できるかもしれない。
まさかね。
背筋にぞっと寒気をおぼえながらも、サーラは懸念を打ち消す。
サーラから 『いやそもそも、あんな夫の子など別に産みたくないし』 という愚痴を聞き続けている彼が、そんなことを勝手にするわけがない……
だがしかし。ないとも言い切れない。
なにしろ、あのエルバート神官が本気出して祈っているらしいのだから。
しかもエルバートに聞いても、聖符の効果については 『儀式後、半年もあればイヤでもわかるかな。まあ、サーラにはなにもないよ』 としか、言ってくれないのだ。それこそ守秘義務でもあるのだろうか。
ともかくも。
もし聖符の効果で、夫がその気になったとしたら…… 想像するだけで、サーラは恐怖で吐きそうになった。
正当な権利だと信じて思いやりゼロで迫ってくる、自分より大きな男から、逃れることなどできるだろうか?
なんとしても、事前に回避しなければ ――
サーラは考え、そして、決意した。
バウス伯爵が儀式を終えるまでは、ここに留まっておかなければ義母がうるさい。せっかくの聖符のご利益を台無しにする気かと文句を言われそうだ。
だが ―― 儀式さえ終わればすぐ、聖符の効果が明らかになる前に逃げよう。
王都の実家に半年ほど里帰りし、そこで聖符の効果が切れるのを待つのだ。
ついでにバウス伯爵家でのことを洗いざらい打ち明けて、離婚の許可も得ておこう。自分の息子をきちんと躾けず妙な信仰を押しつけてくる義母も、自分が原因のくせにぎゅうぎゅうに皺寄せしてこようとする夫も、もうごめんだ。
2ヶ月後。
「本当に、これを飲むのか……」
「しかたないのではなくて? お義母様に嘘を重ねられないでしょう?」
「まあ、それはそうだが」
バウス伯爵は、聖符を浸した水を、顔をしかめつつも一気に飲み干した。
「うぐっ…… な、なんだか、妙なエグみが…… 気分が悪い……! こんなもの飲んでも、まず、お前を抱くことからしてがまったくない、というのにな。それとも、これの効果で、おまえも少しは膨らむのか?」
「まあ。せっかく、お義母様がもらってきてくださった、神殿の聖符を 『こんなもの』 ですか」
「うっ…… いまの、母上には言うなよ!?」
「かしこまりましたわ、伯爵様」
マザコンもここまで来ると滑稽ね ――
サーラは微笑むと、一歩下がって淑女の礼を披露した。
儀式を見届けたらしばらく実家へ帰る旨は、すでに夫と義母、そしてサーラの両親に打診済みである。
夫からはすぐに許可が出た。もともとが顔を合わせれば話程度はするが、お互いに居ても居なくても支障はない。そんな関係でしかないのだから。
義母も、聖符の儀式が済みさえすればあとは安心、とでも思っていたのだろう。あっさりと承諾したその表情は 『当分は息子と親子水入らずなのね♡ 嬉しいわ♡』 と物語っていた。
もちろんサーラの両親も、娘の久々の里帰りを歓迎してくれている。
「では私は、これからすぐに出発いたしますわ。しばらくお会いできませんが、ごきげんよう、伯爵様」
「うん。戻ってくるころには、これの効果が出ているだろうな。おまえもやっと棒切れ卒業か」
「さあ、どうでしょうか、伯爵様」
棒切れ棒切れ、しつこいわ。
あと、祈ったのも水を飲んだのもあなたで、私ではないんですけどね ――
サーラは晴れやかな気持ちでバウス伯爵領を後にし、実家のある王都へと向かったのだった。
半年は飛ぶように過ぎた。
サーラは予定どおり両親と弟に婚家先での不遇を訴え、離婚の許可をもぎ取った。
とはいえ、この国で離婚するには実家だけでなく、婚家先の同意とその地元にある神殿の許可が必要である。
つまり、このたびサーラが実家からバウス伯爵家に戻るのは、半年間の期限を守るためというより、離婚の手続きに踏み出すためなのだ。
―― あの聖符の効果でバウス伯爵の欲望が増して、愛人でも引き入れていないかしら。
そしたら離婚しやすいのに。
そんなことを考えつつ馬車に揺られて帰ってきたサーラを待ち受けていたのは、予想外の事態だった。
「サーラ、助けてくれ……!」 「サーラさん、どうしましょう!」
バウス伯爵家のエントランス・ホールに足を踏み入れるなり、夫と義母が両側からすがりついてきたのである。
「子どもが!」 「孫が!」 「できたんだ!」 「できちゃったのよ……!」
「まあ、それはおめでとうございます」
口々に訴えかける夫と義母を、サーラは心の底から祝福した。
やはりあの聖符は、その気を募らせる類のモノであったらしい。
それを 『お楽しみ』 とは何事か、とエルバート神官に対して含むところがないではないが、いまのサーラには喜びのほうが大きかった。
なにしろ聖符のおかげで夫は、愛人ばかりか子どもまで、しっかりと作ってくれたようなのだから。
既成事実がある以上はバウス伯爵家も離婚に同意せざるを得ないし、神殿も離婚の許可を即、出してくれることだろう。
こんなに簡単にことが済むとは、聖符も悪くなかったわね ――
「どこのどなたを妊娠させたのか存じませんが、大切にしてあげてくださいませね」
それでは早速、明日にでも離婚の手続きに神殿へ ―― と言いかけたサーラに向かい、夫と義母は懸命に首を横に振ってみせる。
往生際の悪い……
サーラが少し、眉をひそめたとき。
バウス伯爵は己の腹を指差した。
「こ、こ、こっ、ここに……! できたんだよ……!」
「はあ!?」
「だから、ここに、子どもが……!」
「まさか」
いくらエルバートが多大な神聖魔力を持っているとはいえ、そんなことまで、できるものかしら? ――
サーラは夫の腹を結婚して以来初めて、じっくりと眺めた。
以前よりかなり、ふくよかになっている…… まさか、本当に?
ぴょこん
不意に、夫の腹の形が一部飛びでたようになり、またもとにもどった。
ぴょこん
「「ひぃぃぃぃっ」」
夫と義母は、腹が動くたび、顔を恐怖に染めて引きつりまくっている。
ぴょこん
「「ひっ、ひぃぃぃっ……」」
「あかちゃん……? なかから、蹴っているのね……?」
理解したとたん、サーラは、どうしようもない愛しさに全身を貫かれた。
まさに雷に打たれたかのごとき衝撃。
―― なんなの、この、かわいらしい生き物は!?
小さな生命の気配が、心をこんなにも浮き立たせるものだったとは。義母が孫に固執するのも仕方のないこと、と、いま初めて納得できる。
なるほど、これなら確かに 『お楽しみ』 に違いない ――
ぴょこん
「まあ、正統な血筋のお子様ですのね。まことにおめでとうございます、伯爵様」
「めでたいものか……!」
「あら? なぜですの? 父親が産んだのであれば、正統な跡取り間違いなしではございませんか」
「あ、明らかにおかしいだろ……!」
「あら? なぜですの? 財産を狙う愛人などのせいでお家騒動が起こる可能性もなく、大変にけっこうではございませんこと?」
「サーラさん!」
今度は義母が、悲鳴のような声を上げる。
「どこの医者も、明らかに妊娠だって驚くだけなのよ! エルバート神官まで、もう手遅れだとしか言ってくれなくて! サーラさん、あなたからも神殿に頼んで、なんとかしてちょうだい!」
「私にはどうしようもありませんわ、お義母様」
「あなたの腹にこれを移してもらえばいいでしょう!? なにかの手違いだわ、これは!」
「なにをおっしゃいますの、お義母様。待望のお孫さんでしょう? それに、ここまで育ってしまっては……」
サーラの胸は、結婚して以来初めて、嬉しさでいっぱいになっていた。
初夜から拒否され、そんな夫などこっちから願い下げと敢えて、愛されるのとは反対の努力をしてきた。
サーラが選んだことだ。
それでもその間、サーラはちっとも幸せではなかった。夫にも義母にもよく微笑んでみせていたが、それは余分な波風を立てないためのスタイルに過ぎなかった。感情は、次第に消えていってしまい、残されたのは、やり場のない怒りだけだった。
だが、いまは、夫の腹に目をやるたび、抑えようとしても自然と笑みがこぼれてしまう。胸の奥から温かいものが湧き出て全身に広がっていく、そんな心持ちがする。
生命って、本当に、本当に、とても、とても尊い。
サーラは弾んだ声で言い放った。
「もうお覚悟を決めてくださいませ、伯爵様、お義母様…… さすがは、霊験あらたかな聖符ですわね」
義母は悲痛な叫びをあげて両手で顔を覆ってしまった。
バウス伯爵は、形容しがたい呻き声を最後に、失神してしまった。
二人を使用人に任せ、サーラは久方ぶりに聖女マイラ神殿へと赴いた。
離婚の申請ではなく、父子ともに健やかな出産を祈願するために。
「勇者が魔王を封じて400年。そろそろ封印がほころび始めるから、新たに聖霊を宿らせ、勇者として産み育てよ。そういう神託があったんだ」
神託のおかげで、神聖魔力を捧げての祈祷による処女受胎が可能になった ――
神殿の祈祷室で、エルバートはサーラに淡々と説明した。
「で、実は祈祷で聖霊を降ろす場合、男性ならばだいたいは処女であるだけに受胎確率が上がり、かつその子は男性の腹でも育つとの学説があった。原料が原料だけに」
「それで、バウス伯爵を? たしかに領主の子でしたら、生まれたあとの生存確率も高くなるでしょうけど…… あとでお義母様とバウス伯爵が、騙されたと騒ぎだしたらどうするの?」
「心配いらないよ」
エルバートが一瞬、表情を変える。ちょっと得意そうな上目遣いは、幼い日、サーラに珍しい花や昆虫を見せてくれたときのままだった。
エルバートは、そういったものがある秘密の場所を知っていて、向こう気の強いサーラが誰かと喧嘩して落ち込むたび、よく案内してくれていたのだ。
たしかあのころのエルバートは、学者になりたいと言っていたっけ。
「前領主夫人には 『大切なかたの』 枕の下に聖符を敷いてください、と説明したんだ。『大切なかた』 とはもちろん、現領主夫人のことを指したつもりだった……」
サーラは吹き出した。
エルバートは表情を戻し、しれっと 「まさか勘違いされるとおもわず、曖昧な表現をしてしまったことを心から反省しているよ」 と続ける。
どう考えても確信犯なのだが。
「で、どうしてサーラは、離婚せずにあの母子を助けることにしたんだい? 『大切なかた』 と言われて、サーラのことだとは欠片も思わないような、あいつらを?」
「ちがうわ。私が助けるのは、生まれてくる子よ」
サーラはこの神殿で初めて、両手を祈りの形に組んで目を閉じた。
「あんな人たちの元に生まれても、まともに、できれば幸せに、育ててあげなきゃ…… 将来、勇者になるなら、なおさらよ」
まずは、どうか無事に生まれますように。
祈るサーラの横顔を、エルバートはそっと見つめる。
―― この神殿で再会したとき。
昔、エルバートが珍しい花や昆虫を見せるたびに生き生きと動いていた目も表情も、死んだように静かなものに変わっていた。
気が強くてすぐに喧嘩してしまうくせに、ひとりになると落ち込んで涙ぐんでいる。そんな幼いころとは、サーラはまるで別人だった。
笑っていても、それは表面だけだとすぐにわかった。
けれど微笑みの仮面は、打ち解けるに従って、エルバートの前でだけは剥がれるようになっていった。エルバートには、それが意外なほど心地よかった。
―― 10歳のとき神聖魔力が発現した。望んでいなかったその力はエルバートから自由を奪い、かつエルバートを嫉妬の対象にもした。
以後、神殿という閉じられた世界のなかで、エルバートは力に見合う知識を身に着け、尊敬を勝ち得、表面は如才なく振る舞う術を覚えていった。そうしながらもエルバートの心はずっと、死んだも同然だった。
だがサーラといる間はエルバートもまた、かつての自分を取り戻せたのだ。心が息を吹き返しているあいだ見える景色はいつも、初めてのものであるかのように鮮やかだった。
会っているときだけではない。
サーラのことを考えると、同じように、世界は美しく色づく。
サーラのために、できる限りのことを。いつしかエルバートはそう考えるようになっていた。
サーラが子を産みたくないのならば、それを求める連中に産ませてやればいい。
神託が下りたときにしか人の身体に宿せない聖霊を、前領主夫人を誘導してバウス伯爵の腹に宿らせる。
正統ではあっても夫が妻以外となした子であるから、離婚要件としてもじゅうぶんに機能する。
―― 作戦は上手くいった。が、サーラはまさかの選択をした。
そのまま離婚するだろうと思っていたのに、まさか、生まれる子を育てると言い出すなんて。
その選択がサーラを再び、苦しめることにはならないか…… いや。
エルバートは頭をそっと振り、懸念を打ち消した。
そんなことにならないよう、これからもできる限りのことをしてサポートしよう。それでも万が一そうなったら、また、あらゆる手を尽くして助けるだけだ。
「きっと無事に生まれるし、幸せに育つ。なにしろ小官の神聖魔力のすべてを捧げて祈るうえに、サーラがいるんだから」
「ならエルバートは、彼が育つ頃には神聖魔力が尽きてしまうの?」
「そうだね。今回の処女受胎で、力のほとんどを使った感がある…… 勇者が使命を受け、魔王を封印して戻ってくるころには、すっからかんになって、お役御免かな」
「あら、では、エルバートの最後の仕事は、私の離婚申請の認可で決まりね」
サーラは幼いころとよく似た、鈴をふるような声で笑った。
月が満ち、バウス伯爵は元気な子どもを産んだ。神聖魔法を用いた高度な帝王切開術により父子とも無事であったことは、まことに喜ばしい。
だが待望の孫であったはずなのに、サーラの義母はショックのあまり体調を崩して寝たきりになってしまった。
以後、サーラが子どもとともに義母を見舞うたび、悲鳴をあげて頭から布団をかぶり、震えるだけで時間が過ぎてしまう。子どもは義母を 『ぶるぶるのおばあちゃま』 と呼ぶようになった。
バウス伯爵もまた、自分が産んだ子であるのに会うのを拒否し続け、最終的に精神に疾患を負い病院に閉じ込められることとなった。おそらく死ぬまで出て来れまい。
だが子どもは、サーラからも神殿の神官からもあふれるほどに愛情を注がれ、幸せに育った。
やがて勇者としての神託がくだり、旅立ちの日。
「結婚式には呼んでくださいね。どこに居ても、かけつけますから」
急におとなびた子どもの口調に、見送るサーラとエルバートは少女のように赤くなりながら、声を揃えたのだった。
「「あなたが無事に帰ってくるまで、そんなもの、お預けに決まっているでしょう!?」」
―― それから10年が経った。
魔王を封じた英雄は帰郷し、バウス伯爵家を継いだ。
バウス伯爵はすでに亡くなっていたが 『英雄を産んだ初の男性』 として聖人の列に叙せられることとなった。
英雄が治めるバウス伯爵領はその後ますます発展し、豊かになったが、以降の歴史にサーラとエルバート神官の名は見られない。
ただ、聖女マイラ神殿に残された記録が、ひっそりと伝えるのみである。
バウス伯爵家より離縁された子爵令嬢サーラ・ヘンドリクスと、エルバートという名の学者の結婚を ――
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