遊牧史 序
これは、人が馬で歴史を動かすより、遥か前の話ー
紀元前4000年頃ーウクライナ南部-デレイフカ
「ゼレン!家に帰ってきなさい!」
「はーい。母さん」
ゼレンは馬が大好きだった。
馬と一緒にいるととても落ち着くし、周りが不思議がるほど馬にも好かれていた。
ゼレンには疑問があった。
馬って乗れるんじゃないか。
「風。また明日」
馬に呼びかけ、厩を去った。
冬は寒い。
夏なら厩で寝れるけど、こんな冬に外にいたら凍ってしまうかもしれないくらいだ。
家にある焚き火に行く。
「ねぇ母さん」
「なぁに、ゼレン」
「僕ね、馬って乗れるんだと思うんだ」
「何を言ってるの。あなたが扱えば風はおとなしいでしょうけど、他の馬の扱いが得意な人でも馬に乗ろうとしても暴れ回って乗り続けるのも難しいんだからね」
あまりたくさんは喋らない母さんがたくさん話して止めようとするのが少し不思議だった。
「そうなのかな」
「もう寝なさい、ゼレン」
「はーい」
焚き火のそばで横になる。
ぱちぱちと音がする。
たまに母さんが継ぎ足す。
僕には、母さん以外に家族がいない。
父さんは僕が幼いときに亡くなったそうだ。
僕が最初の子供だったから兄弟はいなかった。
他の兄弟がたくさんいる家族が羨ましかったが、父さんの馬がいたから耐えられた。
父さんが遺した馬は風と言うらしい。
一緒に遊ぶと風のように速いから、本当だと思った。
風とは他の村の人が珍しがるくらい、仲が良かった。
いつしか眠りに落ちていた。
朝起きるとまず厩に行った。
家族の分の塩をちょっとだけ盗み、風にあげている。
塩を舐めさせ、撫でた。
なあ風。
僕を乗せてくれないか。
風のように速く一緒に走って、遠くの物をいっぱい買って母さんを喜ばせてあげよう。
君が見る景色を見てみたいんだ。
風は首を振った。
なんでなの。
(乗せれることはできるけど、走るのは無理だよ。)
ゼレンには風の気持ちがほぼわかる。
えぇ。
(走れても、どこまで行って止まればいいかがわからない。)
うーん。
僕が何とかすればいいの。
(なら、何か切れなくて曲がる蔓みたいなのを探してきて)
わかった。
じゃあ森に行かなくちゃ。
村の近くの森に行くためには、途中の集会所を通らなくちゃ。
集会所を通った。
何人かの子供が遊んでいる。
「おーい!ゼレン!」
年上で、子供たちのリーダー格のウラジーだ。
「なぁに」
「何しに行くんだー」
「なにか切れない物を探しに行くの」
「やっぱり貧乏人はよくわからないな。もし頼りたかったら俺を呼べよな」
ウラジー君は何かと偉そうであまり好きじゃない。
「はーい」
そのまま森に行った。
「うーん。蔓みたいなもの、かぁ」
針葉樹がたくさんあるけど、あんまり蔓なんか見当たらない。
「あれーあんまり見当たらないな」
意外と難しい。
「あ、あった!」
これでできるはず。
森から帰ると、風が待っていた。
「見て、持ってきたよ」
蔓を見せる。風が頷いたように見えた。
(それを口に咥えさせて、引っ張れば曲がる方向がわかるよ)
そうなんだ。
ゼレンは蔓を風の口に通した。
痛くないように、優しく。
(じゃあ、乗って)
本当に?
心臓が高鳴る。
風ヴィーテルの背に、手をかけ、乗ろうとした。
一度、二度跳ねて——
ずり落ちた。
尻餅をついた。痛い。
「あぅ...」
(大丈夫?)
うん。もう一回。
また跳ねる。また落ちる。
三回目。四回目。
「くそぅ...」
手が擦りむけた。でも、諦めない。
(無理しないで)
大丈夫。
五回目。
今度は背に乗れた。
でも、風が一歩動いた瞬間、バランスを崩して——
また落ちた。
「いたたた...」
膝も擦りむけた。
母さんに怒られるかな。
でも、やめられない。
六回目、七回目。
もう数えるのもやめた。
夕方になっていた。
「ゼレン!もう帰ってきなさい!」
母の声が聞こえる。
「もう一回だけ!」
二十回目——いや、もっとかもしれない。
今度は、乗れた。
風が歩き出す。
ゆらゆらと揺れる。でも、落ちない。
「できた...!」
(よくやったね)
風の声が優しい。
「ありがとう、風」
次の日。
ゼレンは風に乗って、母さんに言った。
「母さん、村まで行ってくる」
「え?一人で?」
「大丈夫。風がいるから」
母さんは心配そうだった。
「何しに行くの」
「父さんが遺してくれた毛皮を売るんだ」
「気をつけてね」
ゼレンは風に跨り、村を出た。
隣の村まで、歩けば半日はかかる。
でも、風と走れば——
「わぁ!」
あっという間だった。
景色がいい。
何より、全部がすぐに過ぎ去っていく。
びゅうびゅうと吹く風が気持ちいい。
「おい!ゼレン!」
村の外で遊んでいたウラジーたちがいた。
「あ、ウラジー君」
「お前、何で乗れるんだ」
「あ、これは」
(行くよ)
風が走り始めてしまった。
驚いた。
風は僕の気持ちもわかるんだ。
ウラジーは追いかけてきたが、一瞬で過ぎ去ってしまった。
隣の村の市場に着いた。
人々が驚いた顔で見ている。
「あの子、馬に乗ってる...!」
「信じられない!」
ゼレンは小さいけど、珍しくて暖かい毛皮を売った。
そのお金で、母が欲しがっていた綺麗な布と、塩と、干し肉を買った。
「これで母さん、喜ぶかな」
(きっと喜ぶよ)
村に帰ると、母が驚いて出迎えた。
「ゼレン!もう帰ってきたの!?」
「うん!見て、これ!」
布と塩と干し肉を見せた。
母は目を丸くした。
「こんなに...どうやって...」
「風と走ったら、すぐ着いたんだ」
母は息子を抱きしめた。
「ゼレン、あなたは本当にすごいことをしたのよ」
「母さんを喜ばせたかったんだ」
母の目に涙が浮かんでいた。
「ありがとう、ゼレン」
その夜、村中が噂していた。
「あの子、本当に馬に乗って隣村まで行ったらしい」
「信じられない」
「見間違いじゃないのか」
集会所の前に、村人たちが集まっていた。
「本当に馬に乗って隣村まで行ったのか?」
大人の男が、疑わしそうにゼレンを見た。
「はい。風に乗って」
「嘘だろう。馬なんて暴れて乗れるわけがない」
「やってみせます」
ゼレンは風のところへ行き、跨った。
風がゆっくり歩き出す。
村人たちが息を呑んだ。
「本当だ...」
「信じられない...」
一人の屈強な男が前に出た。
「俺にもやらせろ」
「いいですよ」
男は風ヴィーテルに近づいた。背に手をかけて——
風ヴィーテルが暴れた。
男は吹き飛ばされ、尻餅をついた。
「くそっ!」
「馬が俺を嫌ってるのか!」
別の男も挑戦した。やはり落とされた。
三人目、四人目。
誰も乗れない。
「子供だから軽いんだ」
「いや、あの馬が特別なんだ」
村人たちは口々に言い訳をした。
ウラジーが前に出た。
「俺にもやらせてくれ、ゼレン」
「いいよ」
ウラジーも落とされた。
「くそぉ...お前だけずるいぞ」
ゼレンは少し悲しくなった。
誰も、認めてくれない。
その夜、焚き火のそばで母さんが言った。
「ゼレン」
「なぁに、母さん」
「お父さんのこと、話してあげる」
ゼレンは身を乗り出した。
父のことは、ほとんど覚えていない。
「お父さんもね、馬に乗りたかったの」
「え?」
「毎日、毎日練習してた。風に」
母さんの目が遠くを見ている。
「でも、乗れなかった」
「...」
「ある日、お父さんは『今日こそ』って言って、風に跨ろうとした」
母さんの声が震えた。
「でも、落ちて...頭を石に打って...」
「母さん...」
ゼレンは母を抱きしめた。
「お父さんは、ゼレンに夢を託したのよ」
「僕、父さんの夢を叶えたんだ」
「ええ」
母さんが微笑んだ。
「お父さん、きっと喜んでる」
ゼレンは決意した。
父さんみたいに、馬で死ぬ人を増やしたくない。
みんなが、安全に馬に乗れるようにしたい。
次の日、ゼレンは村の他の馬のところへ行った。
風だけじゃなく、どの馬にも乗れるようにならなきゃ。
村が持っている茶色い馬、ブーリャに近づいた。
「ブーリャ、乗せて」
ブーリャは警戒している。
背に手をかけた瞬間——
暴れた。
ゼレンは落ちた。
「いたっ...」
でも、諦めない。
二回目、三回目。
何度も落ちた。
でも、少しずつわかってきた。
馬は怖がっているんだ。
優しく撫でて、声をかけて、信頼してもらう。
塩をあげる。
「怖くないよ、ブーリャ」
四回目。
今度は、少し長く乗れた。
五回目。
ブーリャが歩き出した。
「できた!」
ゼレンは他の馬にも挑戦した。
黒い馬、白い馬。
何度も落ちて、何度も挑戦した。
一週間後、ゼレンはどの馬にも乗れるようになっていた。
村人たちが集まってきた。
「あの子、どの馬にも乗れる...」
「どうやってるんだ?」
ゼレンは村人たちに言った。
「教えます。誰でも乗れますよ」
「本当か?」
最初は、子供たちだった。
ウラジーが一番最初に来た。
「頼む、教えてくれ」
ゼレンは優しく教えた。
「まず、馬を怖がらせないこと」
「撫でて、声をかけて」
「跳ねようとしても、手を離さない」
一ヶ月後、ウラジーも乗れるようになった。
次に、他の子供たちも。
そして、大人たちも。
村中が、馬に乗り始めた。
ある日、村の長老がゼレンを呼んだ。
長老は村で一番の年寄りで、もう歩くのも辛そうだった。
「ゼレン、来なさい」
「はい」
長老は焚き火の前に座っていた。
「お前が始めたこと、わしは見ていた」
「...」
「お前は、世界を変えたのだ」
「世界を...?」
「そうだ」
長老の目が、遠くを見ている。
「わしの目には見える」
「何が見えるんですか?」
「遠い未来」
長老が言った。
「お前が教えた者たちは、その子に教える」
「その子は、またその子に教える」
「そうやって、ずっと続いていく」
ゼレンは息を呑んだ。
「そして、いつか——」
長老が空を見上げた。
「草原の民が、馬に乗って大陸を駆ける日が来る」
「大陸を...?」
「そうだ。お前が始めたことは、止まらない」
「遠い、遠い未来まで」
長老が微笑んだ。
「お前の名は忘れられても、お前がしたことは永遠に残る」
ゼレンは胸が熱くなった。
「ありがとうございます」
その夜、村中が噂していた。
「あの子のおかげで、みんな馬に乗れるようになった」
「隣村にも教えに行くらしい」
「世界が、変わっていく」
紀元前4000年頃、ウクライナ南部デレイフカで、人類は初めて馬を家畜化したと考えられている。
馬に「乗る」ことが、いつ、誰によって始まったのかは、誰も知らない。
しかし、その瞬間から、人類の歴史は変わった。
匈奴、契丹、女真、モンゴル——草原の民の物語は、ここから始まる。
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