「共犯者でいて」と願った悪役令嬢を、俺は一生離さない。
俺がお仕えしている第一王子殿下の婚約者、セレーネ・アウグスト侯爵令嬢が禁止薬物を使用したパーティーを主催しているという通報は匿名のものだった。
だが、彼女の「王族の婚約者」という立場やこれまでの行いを鑑みれば見て見ぬふりをするわけにもいかず、殿下の命令で王城第一騎士団の第四班がパーティーに潜入し、状況次第では王城騎士団の名のもとに現場を制圧するという任務が下された。
担当が第一騎士団の第四班だったのは、幼い頃から交流のある俺が所属しているからで、現場に本当にアウグスト侯爵令嬢がいたなら事実をしっかりと見極めて報告して欲しいと頼まれた。
――結果。
服用すると強い酩酊感に襲われて言動が覚束なくなり、代わりに性的興奮を高めるという禁止薬物。それが飲み物に混入され、まだ年端も行かない平民の少女たちに無理やり飲ませる。そのすべてが余興だという、胸糞の悪い催しだった。
騎士団は班長の指示に従って会場にいた全員を確保、主催者らを割り出した。
ただし、その中にアウグスト侯爵令嬢はいなかったし、彼女が主催者なのではないかという確認にも揃って首を傾げられただけだった。
何にせよ仕えている主君の婚約者がこんな催しの場で確保されなくて良かったのだ。
応援を呼んで捕らえた連中を規定の収容所に送致したら、俺たち班員は、班長達の厚意で今日のところは解散。といっても、俺が殿下のところへ報告に行かなければならないことを知っていての指示だったのだろうが。
間もなく日付が変わろうという深夜。
かくして仲間たちと別れ、一人王城への途に就いたのだが、不意に鼻先を掠めた匂いに胸騒ぎを覚えた。風に乗ってふわりと香って来ただけだったが、先ほどの禁止薬物と同様の意味で危険なものだと感じたからだ。
「一体どこから……」
風の向きを考慮して道を外れ、空き地の向こうに広がっていた雑木林の中を進んだ。
次第にはっきりとしてくる危険な香りに導かれるように木々の合間を抜けていくと、視界が開けると同時に川に進路を阻まれた。
そして、目を瞠る。
月や、星の微かな瞬きを映した川面に浮かぶ人の姿。川の中に人が座り込んでいるのだ。
「おい!」
季節は夏とはいえ、時間帯は深夜。
衝動的に大きな声を上げて駆け寄ってしまったのは、人として当然のことで。
だが。
すぐに後悔した。
「くっ……」
近付いた途端に強烈な香りに襲われる。
更にはこちらに気付いた川の中のその人が恐怖に怯えた目で俺を凝視し――。
「ぁ……アウグスト侯爵令嬢……?」
「……っ、ど……して……っ」
アウグスト侯爵令嬢は怯えた顔になると、必死に川の水で腕や髪の汚れを落とそうとするように手で擦る。
「なんで……なんでよ……っ」
「待っ」
俺は匂いにあてられて体を傾けそうになりながらも川に駆け込んだ。
冷たい。
水が痛い。
こんなものを令嬢が体に擦り付けている。
「アウグスト侯爵令嬢!」
「いやっ!」
「なっ……⁈」
とにかく彼女を川から引き上げねばと手を伸ばすと、それを拒絶。しかも彼女は、まるで川に潜ろうとするかのように川の中を移動する。
「待て! アウグスト侯爵令嬢、何を考えている!」
「あんな女の思い通りにされるくらいなら死んでやるわ!」
追いかけて、やっと捕まえたと思ったのも束の間、手を叩き払われて、彼女は叫んだ。
「なんなの! なんなのよあの子もあんたたちも! 私は普通に暮らしたかっただけ! 断頭台なんて絶対嫌だったから普通に生きようとしただけなのに! シナリオ通りにしろ⁈ 私が死なないと逆ハーが成立しない⁈ そんなの知ったことじゃないわよ、生きたいと思って何が悪いの! 死にたくないって思って何が悪いの! 人の命なんだと思ってんのよ!!」
「アウグ――」
「あんたもなにっ、あの子の言う通りにしたら帝国の皇帝になれるって言われてその気になった? 皇帝になれるなら悪役令嬢の一人や二人死んでも構わないのね! なにが隠しキャラよエドガー・フランクリンっ、あんな女の思い通りに踊らされて情けないったら!」
くらくらする。
いま聞き逃してはならないことを言われたような気がしたが、それ以上に、この匂いを発している彼女への衝動的な感情が恐ろしい速度で肥大していく。
ぼろぼろと涙を溢しながら感情のまま言葉を吐き出す、目の前の、この少女は誰だ。
殿下の婚約者セレーネ・アウグストはいつだって沈着冷静で、貴族を貴族たらしめる意味を体現。身分に重きを置くため冷酷無比と陰口を叩かれることもあるほど自分にも他人にも厳しい女性だった。
しかも此処、アイード王国の第一王子殿下の婚約者。
そんな彼女が、十年に一度開催される大陸会議の象徴「希望の導」候補に選ばれたのは当然だった。「希望の導」とは、大陸会議の始まり、そして終わりを宣言する存在のことで、大陸の未来を表現することが求められる。過去には歌声や、舞を披露したり、生活を一変させるような発明品を発表した者もいたようだが、「希望の導」に選ばれるには抜きん出た何かしらの才能が必須で、しかも大陸全土に十人以上いる候補者の頂点に立たなければいけない。
そのプレッシャーは相当なものだし、ライバルとの仲が険悪になるのもある意味では自然なこと。
だから、セレーネ・アウグストが同じ国内の候補者である伯爵令嬢を敵視するのも、自分の婚約者である第一王子殿下と伯爵令嬢の仲が親密になっていくことを危険視する気持ちも理解出来る。なにせ「希望の導」は大陸全土に誇れる名誉だ。もし伯爵令嬢が選ばれてしまえば、殿下はアウグスト侯爵令嬢との婚約を解消して伯爵令嬢と婚姻する大義名分を得る。
(……だから、アウグスト侯爵令嬢が必要以上に厳しく当たっていると聞いても当然だと)
さらに言えば、現時点での婚約者はアウグスト侯爵令嬢なのに、誰が見てもはっきりと判るほど伯爵令嬢を贔屓している殿下の対応には俺も常に疑問を感じていたから、仕方ないとさえ思っていた。
けれどこうして目の前で叫ぶ少女を見ていると、どうして自分は一方の声だけを聞いて「仕方ない」なんて考えたのか、自分で自分を殴り飛ばしたい気分だった。
ライバルを敵視しているのは向こうだって同じなのに。
「くっ……俺自身に反省が必要だということは理解した。だから……まずは川から出よう、アウグスト侯爵令嬢」
震える手を伸ばす。
川の水の冷たさ、寒さに震えているわけではない。むしろ体の芯が帯びた熱はますます昂っている。そしてそれは、赤い顔で、瞳を潤ませている彼女も同じ。
「……いやよ」
「だが、このままでは体を壊す」
「あんたたちにとっては私が消えた方が良いでしょ、放っておいて」
「自分は殿下に仕える騎士だが、貴女と伯爵令嬢の関係に口出しをする気はない」
「……まだ攻略されてないの?」
「先ほどからたまに妙な言葉を口にされているが……」
くらり。
眩暈がして、動悸がひどい。こんな冷たい川の中にいてなお発汗するほど体を熱くする、欲望。
「令嬢、あまり考えたくないのだが、この匂いは」
「……『女王蜘蛛の蜜』よ」
よりによってか……!
『女王蜘蛛の蜜』は、これも禁止薬物の一種だ。男女どちらが服用しても、匂いを嗅いだ男女を無差別に誘惑して興奮させる催淫作用が確認されており、製造することさえ許可されていないものだ。
「なんだってそんなものを飲んだんだ」
「飲みたくて飲んだわけじゃないわっ、あの女がこれで私は断頭台行きだって無理やり……っ」
またつぶらな瞳に涙を湛え、悔しいのだろう感情を言葉に乗せて吐き出す。
なるほど、つまり『女王蜘蛛の蜜』であの会場にいた不特定多数の相手とそういう行為をしている場面を王城騎士団に目撃、報告させれば、あのパーティーの主催が実際はどうであれ彼女に責任を負わせて断罪できる。
それで断頭台に上げられるかと問われれば悩ましいところだが、少なくとも婚約は殿下から破棄されて「希望の導」候補から降ろされるのは確実だろう。
俺は頭を振った。
深呼吸でも出来れば良いのだが、これ以上、この香りを吸い込むのは避けたい。
息を止めようにも限界がある。
「……アウグスト侯爵令嬢。俺はこのあと、殿下に報告に行く予定だった。そこで伯爵令嬢についても進言する。約束する。だから、まずは川から上がって、体を温めよう。このままでは本当に体を壊す」
頼むから言うことを聞いてくれという思いで告げるも、令嬢はしばらくじっとこちらを見上げていたと思ったら、差し出した手を取って立ち上がってくれた。
――が、それが間違いだった。
「……っ!!」
今までは川の中、長い髪に隠されてよく見えていなかったが、立ち上がった彼女が身に纏っていたのはひどく煽情的で露出の多い肌着だけ。それも濡れそぼっているせいで体のラインがはっきりと見て取れてしまい、体の中心が大きく脈打つ。
さらに川から上がったことで強くなった『女王蜘蛛の蜜』の香りが追い打ちを掛けて来る。
「ぁ……っ、すまない、手を……」
そして『女王蜘蛛の蜜』の恐ろしいところは、範囲内の対象の情欲を感じ取ることで服用者の催淫効果が高まるという点で……。
空に広がっていた夜の闇が、東からゆっくりと色を落としていく頃になってようやく理性を取り戻してみれば、俺たちは揃って一糸まとわぬ裸体を川べりに晒していた。
……否、理性を取り戻したのはたぶんもっと早かったのだが、泣きながらこれまでの鬱憤をぶちまけるアウグスト侯爵令嬢が思いのほか可愛らしく、もう何も考えたくないのだと縋りつかれると、こちらの理性など灰より脆く吹き飛んで消えた。
まったくもって情けない。
だが、主君の婚約者と関係を持ってしまった事実に対しての後悔のようなものは、不思議とこれっぽっちも感じてはいなかった。
脱ぎ捨ててあった騎士団のマントを横たわるアウグスト侯爵令嬢に掛けると、彼女は視線だけをこちらに向けて、少しの沈黙。
顔を伏せたと思ったら、
「あぁあ、やっちゃった」
そう言って勢いよく仰向けになった。
「あー……でも、良い気分。こっちに来て、いまが一番気分良いわ。気持ち良かったからかな」
「っ、……それは、光栄だ……?」
どう答えるのが正解か判らなくて語尾が上がってしまったら、アウグスト侯爵令嬢は楽しそうに笑った。声を上げた笑い方は淑女らしくはなかったけれど、とても自然で愛らしいと思う。
「はー。いっぱい愚痴聞いてもらったのも良かったのかも。なんか、いろいろ吹っ切れた。あんな家のために頑張るのもバカらしいし、純潔じゃなくなったし、婚約破棄してもらって修道院に行こうかな。いっそ除籍されて平民になるのもいいなー!」
「っ、いや、俺が責任を持って貴女と」
「はいはいはーい、ストップ。あのね、貴方には感謝しているの。だから責任なんて感じなくていいし、むしろお礼をしないとなんだよ」
言いながら起き上がったアウグスト侯爵令嬢は、俺の腰にある傷跡を指差す。
「これ、うまれてすぐに誘拐された貴方を取り戻そうとした、貴方のお父さん――帝国の皇帝陛下が、誤ってつけた傷なの。貴方はお母さんそっくりだから、大陸会議に殿下と一緒に参加した時に帝国の人たちに気付かれて、もしかして……って流れになるんだけど、ま、貴方の未来の選択肢の一つくらいに考えて、覚えててくれたら良いかな」
唐突な話に、思考がついてこない。
頭が真っ白になるという現象を生まれて初めて実体験して、あぁこういうことかなどという言葉が思い浮かんだのは、きっと現実逃避なのだろう。
だが彼女の話はそれくらい衝撃的だった。
荒唐無稽と言い換えてもいい。
「貴女は、どこで、そんな話を」
「あー……んー……どっちも嘘っぽいけど、人生二度目っていうのと、こことは違う世界で生きていた頃の記憶があるっていうの、どっちがマシ?」
突拍子もないこと言われて固まってしまったら、彼女は「だよね」とまた楽しそうに笑った。
どちらも嘘……ということなのだろうか。
いや、嘘かどうかが問題なのではない。
彼女を傷物にした張本人が俺なのだ。
「アウグスト侯爵令嬢、真面目に話そう。君一人にすべてを負わせて知らぬふりなど」
「フランクリン伯爵に迷惑掛けたくないでしょ?」
養父の名を出されて、不覚にも喉が引き攣った。
奴隷になるかもしれなかった幼い俺を見つけ、拾ってくれた養父。ここまで育ててくれた養母や、伯爵家の人々。
「事情はどうあれ、第一王子の婚約者とこういうことしちゃったなんて公になったら、どうなると思う? さすがに私だって禁制の薬物を服用したあげく純潔を散らしましたなんて言いたくないわ。昨夜の摘発されたパーティーとの関連まで疑われたら断頭台に近付きそうだもの」
「しかし」
「貴方との一夜の思い出が作れただけで充分。どうしても申し訳ないと思うなら、何も喋らないことで私を守って」
有無を言わさないよう、こちらの言葉を遮って断言されてしまった。
悔しいが、伯爵家の養子である自分には守らなければならないものがあって、アウグスト侯爵令嬢はそれを大切にしろと、言い聞かせるかのようで。
「それはそうと、なにか着るものを調達して来てもらっても良いかしら」
「ぁ。ああ、そうか。気付かなくてすまない。すぐに……っ」
気が利かないにも程があるだろうと自分の情けなさに泣きたくなるが、そうして立ち上がった俺に、彼女は言った。
「エドガー、ありがとう」
そう言って、春の日差しのように笑った。
「すぐに戻る」
まだ早朝というにも早過ぎる時間帯だ。
商店が開いていない。
民家を頼るわけにもいかない。
「あ……」
彼女が昨夜のパーティー会場から逃げ出したのであれば、着ていた服がそこにあるのではないだろうか。そう思って来た道を駆け戻り、パーティー会場から彼女のものかは分からないが女性ものの衣類一式を持ち出して川へ。
――だが、彼女はもうそこにはいなかった。
騎士団のマントだけが彼女と一緒に消えていた。
アウグスト侯爵令嬢の所在が明らかになったのは、それから一週間後だ。
平民が経営する食堂で給仕の仕事をしている彼女を、侯爵家の使用人が発見。すぐに侯爵家が迎えにいったものの、彼女には記憶がなく、言動はアウグスト侯爵令嬢と同一人物とは思えないほど変わってしまっていたそうだ。
彼女の面倒を見ていた食堂の女将の証言から令嬢が傷物になったと判断した侯爵家は、彼女を除籍。
第一王子殿下との婚約は解消。
「希望の導」候補から降ろされて、ただのセレーネになった彼女は、もう食堂にもいない。
俺が訪ねると、女将は「ああ、兄さんがあのマントの持ち主だね?」と言って、綺麗に畳まれた騎士団のマントを手渡して来た。
「伝言を預かってるよ。あんたには本当に感謝してる。願わくば共犯のままでいてくれってさ」
つまり、そういうことだ。
何も喋らないことで私を守って――彼女はそう言った。
「女王蜘蛛の蜜」に浮かされて抱き合いながら、泣いて、愚痴って、弱音を吐き散らした彼女を、守りたいと思った。
だから、なにも言わないままあの夜の「女王蜘蛛の蜜」の入手ルートを探った。
製造することすら禁止されている薬物だ、闇ルートで入手したのは間違いなく、闇の売人たちにとって取引した相手の情報は飯の種。時間は掛かったが伯爵令嬢の罪は暴かれ、断罪とはいかなかったものの、「希望の導」の候補者としては相応しくないと判断されて彼女も降ろされた。
「大陸会議に行かないとエドガーのルートが解放されないのに! ダメよっ、なんとかして!!」
あの日の彼女のように理解に苦しむ言葉を喚いている内に、伯爵令嬢が親密になっていた相手が殿下一人ではなかったことが判明。社交界は一時騒然としたけれど、もし貴女が此処にいたら、きっと楽し気に笑ったのではないだろうか。
貴女に会いたい。
そう思った。
季節が移り替わり、吐息が白く色づくと、貴女は元気にしているか、風邪は引いていないだろうかと気になった。
春になって庭の花々が綻ぶと、貴女はどんな花が好きなのか知りたくなった。
夏には、あの川べりに足を運んだ。
貴女の艶姿を夢に見て泣きたくなった。
「なんだ、恋煩いか?」
寝ても覚めても彼女のことばかりで、とうとう訓練中にも溜息を吐いてしまった俺に、そう指摘したのは養父だ。
「あなたが選んだお嬢さんなら私たちは反対しませんよ?」
養母も言う。
恋。
……恋、なのだろうか。
セレーネ・アウグスト侯爵令嬢という名前と身分くらいしか彼女について知っていることはなかった。自分には関係ない、唯一の誉れを目指して競い合うライバル同士なら仕方がないと情報を精査することもせずに傍観を決め込んだ。
挙句、禁制薬物のせいで夫婦でしかしない行為に耽ってしまった。
柔らかかった。
壊してしまいそうだった。
弱弱しかった。
温かかった。
そして、可愛かった。
守りたいと思った。
胸の内、思い出すのは貴女のことばかりだ。
「……養父上、養母上、お話があります」
――……何も喋らないことで私を守って……
彼女の声がする。
けれど、ごめん。
俺は決めた。
会いに行くよ、貴女に。
絶対に、会いに行く。




