チャプター2 ヴェルレーヌ・ファル・ノルティアのなやみ
五月の下旬、夕刻。
進路指導室ではいつものように、ジュノがテーブルを挟んで、クローから純語魔術の講義を受けていた。その後ろでは、スツールに腰かけたレルグが静かに、書棚から借りた本を読んでいる。
講義が一段落したところで、一息ついたジュノが、レルグを振り向いて声をかけた。
「なあ、レルグ」
「なんだ?」
呼ばれて、レルグは読んでいた本から顔を上げた。
「なんで、おまえまでいるの?」
それは、ジュノだけでなく、この部屋の主であるクローも聞きたいことだった。
「いや……なんだかこの部屋、居心地がよくて」
「えーっ!?この、きっっったない部屋がか!?」
レルグの返答を聞いたジュノは、信じられない、と言わんばかりに驚きの声を上げた。
「あのね、ジュノくん……」
ムッとして口を挟もうとしたクローだったが、その前にレルグが答えた。
「この汚さがいいんだよ。なんて言うかな……うん、なごむ。実になごむぞ、ジュノ」
コールヴィッツ大上造家、すなわち男爵に相当する貴族の跡取りであるレルグが生まれ育った屋敷は、学院のある王都から馬車で一日の行程にある。それは豪壮とは言わないまでも、その爵位に見劣りしないくらいの邸宅であったし、使用人の数も多かったから、いつもきれいにされていた。
現在では実家を出て、隣国出身のジュノと同様に、レルグもこの学院の寮で暮らしている。が、もともとそういう環境で生まれ育ったので、寮の自室も同じように整理整頓してきれいに保っていた。
つまりレルグにとって、この進路指導室のように雑然とした――はっきり言えば、汚い――部屋はまったく未知の世界だったのだ。だが、いざ、その中に飛び込んでみると、彼は今までにない不思議な居心地の良さを覚えたのである。
「マジかよ……オレ、今度この部屋、勝手に片付けてやろうと決めてるんだけど」
「え!?ちょっとちょっと、ジュノくん……」
「やめろよ、ジュノ。ここまで汚いのに、なぜか居心地がいいのって、もはやクロー教官の才能だよ。このままにしておこうじゃないか」
「……あのね、レルグくん……」
さっきからクローは、彼を無視して好き勝手なことを言っている二人に抗議をしたかったのだが、全然話を聞いてくれないので、ついにはあきらめてしまった。ジュノに捨てられる前に、少しは整理整頓した方が良さそうだ……と悲壮にも覚悟を決めながら。
「ところでクロー教官、次の『良からぬもの退治』はいつですか?」
そんなことより、という感じで尋ねたレルグに、クローは大きなため息を一つついた。
品のある、真面目ないい子だと思っていたのに、レルグも、所詮はジュノのともがらなのかもしれない。
「……このところ、旧校舎周辺ではモンスターやアンデッドの目撃報告がありません。当面、必要ないでしょう」
それを聞いたジュノは、椅子の背もたれに反り返って頭の後ろで両手を組むと、「なんだ、つまんねえの」と口をとがらせた。学院内にモンスターやアンデッドがいないのは、本来、喜ぶべきことなのだが、彼にとっては「つまらない」ことでしかない。
「じゃあレルグ、代わりになんかおもしろいことない?」
不満そうに尋ねたジュノに、そういう話は教室で休み時間にやってほしい、とクローは思わぬでもなかったが、口に出してはなにも言わなかった。教官の立場としては、今、学生たちの間でなにが起こっているかは気にかかる。
レルグは、右耳の脇のカラフルな紐でまとめられた髪を手で引っ張って――彼が考え事をするときの癖である――いたが、ややあって答えた。
「そういえば……隣のクラスのヴェルレーヌ・ファル・ノルティアって女の子、知ってるか?男子の間じゃ、かわいいって有名なんだけど」
「へえ。知らない」
「……きみって、基本的に他人に興味ないよな」
あっさりと首を横に振ったジュノに、レルグは呆れたようだった。
疑いようもない美少年のジュノは明らかにモテるのだが、彼自身は好いた惚れたの話にまったく無頓着である。クラスの男子たちが、誰それがかわいいだの、誰と誰が付き合っているだのといった、彼らの年齢にふさわしい話題で盛り上がっているのにも、まったく興味を示さない。
レルグは一度、「きみは、女の子に興味はないの?」とはっきり聞いてみたことがあったのだが、その返事はというと、「あるけど、オレにふさわしい女が、今、この学院にいるか?」。レルグは呆れてしまい、それ以来この話題は封印されたままだった。
レルグとしては、正直、ジュノにはさっさと誰かとくっついてほしい。
と、いうのは、クラスのみならず学校中の女子からジュノのことを尋ねられて鬱陶しいからである。ジュノと親友になってしまったらしい彼は、このところずっとジュノと一緒にいるからだ。
さらにイヤだったのは、ジュノが女性に全く興味を示さないため、ジュノが好きなのは女性ではなくレルグなのではないかと誤解されていることだった。そして、ごくごく一部の女子からは、むしろそれを期待されているのを知ったことである。
レルグは、頭を一つ振って、話題を変えた。
「じゃあ、これは知ってるか?入学試験の時の順位、一位はきみだが、二位は?」
「えっ、レルグ、おまえじゃないの?」
真面目な優等生タイプのレルグは確かに学業成績優秀だったから、ジュノはてっきりそう思っていたのだが、レルグは首を横に振った。
「悔しいが、私は三位だ。もっとも、二位とは一点しか違わないそうだが……」
と、さりげなく自分にフォローを入れつつ、レルグは、そのヴェルレーヌという女の子が二位であると告げた。
「へえ、そうなんだ。それで、そいつの何がおもしろいんだ?」
それだけではいまいち興味を示さない様子のジュノだったが、それに対するレルグの返答は、ジュノの予想を超えて、なかなかにふるっていた。
「問題児らしい。きみより」
「……そいつはひどいな……。我ながら……」
低くつぶやいたジュノは、なんだかどっと疲れを感じたらしい。座っていた椅子に体を深く沈めた。
「……で、どうひどいの?」
「なんでも、ムラっ気がすごいらしい。その気になれば、きみにも劣らないような魔術が使えるのに、気が乗らないときは全然ダメで、授業をサボることも多いって、フィアリス教官が嘆いてた」
「フィアリス先生が?」
「ああ。フィアリス教官自身とか、エルシズ教官とか一部の教官の授業にはきちんと出ているようだが、他の教官方はさっぱりだそうだ。教官方から頼まれて、ちゃんと授業に出るように、フィアリス教官がノルティア本人に注意したそうなんだが、いっこうに改善しないらしい。」
同僚であるフィアリスの名前が出たからか、それまで黙って聞いていたクローが口を挟んだ。
「それなら、フィアリス教官を助けると思って、あなたたちがその子――ノルティアさんですか、彼女がやる気を出すよう仕向けてみてはどうですか。その子にも、なにか悩みや理由があるのかもしれません。当分、『良からぬもの退治』はなさそうですし、かわいい女の子の悩みでも聞いてあげた方が、あなたたちにとっても有意義でしょう。……こんな汚い部屋に入り浸っているより」
最後にクローがわざわざ付け加えたのは、ジュノとレルグに自室をさんざんこき下ろされたアテツケだったに違いない。
◇◇◇
翌日。
昼休みになると、ジュノとレルグは早速、隣のクラス――二組に、ヴェルレーヌというその女の子を見に行ってみた。
入学してからここまで、クラス合同の授業というものがなかったので、隣のクラスとはいっても交流がほとんどない。クラブ活動でもやっていなければ、廊下ですれ違ったりする程度で、お互いに知り合うきっかけはほとんどなかった。
それでも常識人のレルグは、名前まではわからなくとも、どのクラスにどんな顔のヤツがいるということくらいは把握している。一方、他人に興味のないジュノはまったくわかっていない。
「ヴェルレーヌ・ファル・ノルティアって、いる?」
レルグは内心で焦った。今日のところは、ジュノに彼女の顔をちらっと見せればいいやくらいに思っていたのだが、教室の戸口に立つと、ジュノが大きな声で呼びかけたからである。
教室にいた全員が、ジュノを振り返った。呼びかけたのがジュノとレルグであることを知った一部の女子が、「きゃあ」という嬌声を上げた。
「わたしだけど」
そう返事をしたのは、燃えるような赤い髪を片側だけ編み込んだ少女だった。
ジュノとレルグを見つめるその顔にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいるが、緑がかった色の大きな眼をした、美少女と断言して差し支えない顔立ちである。とてもレルグが言うような問題児には見えない。
「おお、確かにかわいい」
と、女の子に興味のないはずのジュノが、本人を目の前にして思わず言ってしまったくらいであった。
「あら、ありがと」
言われた当人は、いかにも言われ慣れている感じでニコリと微笑んだだけだったが、ジュノでなければその時点でノックアウトされていたに違いない。彼女の方も、ジュノほどの美少年に面と向かって「かわいい」と言われて、動じないのはさすがであるが。
「悪いんだけど、ちょっと顔、貸してくれないか?」
気を取り直して、ジュノは親指で背後の廊下を指し示した。
「……一組自慢の美男子コンビのお誘いなら、悪い気はしないわね」
教室の全員が、彼ら三人のやり取りに注目している。さすがに多少困惑しつつではあったが、彼女はそうつぶやくと、制服のスカートの裾を直しながら立ち上がった。
「で、どこでデートするの?」
そう尋ねられたものの、実はいきあたりばったりでノープランだったジュノは、少し視線を宙に泳がせていたが、ややあってこう答えた。
「昼休みだからな。メシにしよう」
そして三人は連れだって教室を出ると、学生食堂に向かった。
一組自慢の美男子コンビと二組の誇る美少女の間でいったい何事なのか。
残された教室では女子も男子も、それぞれ好き勝手に予想を語り出したのだった。
◇◇◇
「で、なんの用?」
オムライスの載ったトレイを運んできたヴェルレーヌは、ジュノとレルグ、テーブルを挟んで二人の対面に座ると、スプーンを手に取り尋ねた。
ローウェル魔法学院の学生食堂は、日替わりで用意されるいくつかのメニューの中から、好きなものを選ぶ方式である。魔術の施されたレジスターに、学生証であるメダリオンをかざすと自動的に記録され、月ごとに喫食分を清算する仕組みになっていて便利だ。売店もあるので、そこでパンや惣菜を買う者も多いし、もちろん、自分で弁当を作ってくるのもよい。
ジュノは、以前は売店で買ってきて一人で食事をすることが多かったのだが、レルグとつるむようになってからは、彼やクラスメートたちと学食に来る日が多くなっていた。
自分もナイフとフォークを手に取ると、ハンバーグにナイフを入れつつ、ジュノがこう切り出した。
「おまえ、問題児なんだって?」
ゲフンゲフン。
あまりにもド直球なジュノの聞き方に、横でチキンソテーを口に運んでいたレルグの方がむせてしまった。
「……なんなのよ、あんた。いきなりご挨拶ね」
口ではそう言ったヴェルレーヌだが、別に怒っている様子はない。むしろ、ジュノが次は何を言いだすのか、楽しみにしているとすら思われるような表情である。
「すまない、ノルティアさん。おいジュノ、きみはちょっと黙っててくれ」
ゴホゴホと咳をしながらだったが、レルグがあわてて間に割って入り、謝った。
「ヴェルでいいわよ」
そう言われてうなずいたレルグは、水を一杯飲んで喉を落ち着かせてから事情を説明した。
「いや、うちのクラスのフィアリス教官が、ヴェルさん、きみが真面目に授業を受けてないことを、せっかく才能があるのにもったいないって、いたく心配されているんだ。フィアリス教官も忙しい方だし、その心配の種を取り除くために、我々にもなにかできればと思ってね。もし、なにか悩みでもあるなら、我々が聞くよ」
別にフィアリスに直接頼まれたわけでもなんでもないのだが、それはおくびにも出さず、いかにもなんとかしてやってくれと頼まれているかのような顔でレルグが説明した。言われた通り黙って聞いていたジュノは、「へえ、コイツ、意外にハッタリを効かせられるタイプなのかな」と、関係ないところでちょっと感心していた。
問われたヴェルはさすがに眉根を寄せて考え込んだが、すぐにいたずらそうな笑みをその顔に戻した。
「……わかったわ。あんたたち、ヒマなのね?」
あっさりと看破された。と、いうのは、彼女自身が、まさにそうだったからである。
「いいわよ、あんたたちのヒマつぶしに付き合ってあげる。それじゃ、わたしがなんでやる気が出ないのか、まずそれを当ててごらんなさい」
そう言って、ヴェルは二人に向かい、まるで小悪魔のようにウィンクした。
レルグは、「コイツと違って、オレはヒマじゃないんだけどな……」と、心の中でため息をついた。隣のヒマ人が、「変なヤツ見つけた!」とばかりに、俄然おもしろそうな表情を顔に浮かべたからである。
天才肌のジュノと違って、秀才タイプの彼は毎日の予習復習を怠らない努力家だったし、そろそろなにかクラブ活動にも取り組みたいと考えていたから、そうそうジュノにばかり付き合ってもいられないのである。
◇◇◇
数日後、放課後の図書室。
このところジュノとレルグは、時間があればヴェルと一緒に過ごしていた。
今日も一日の授業が終わると図書室に集まり、テーブルに向かい合わせに座って、明日提出が必要な課題に取り組んでいる。
ローウェル魔法学院は大陸一の学び舎だから、学生も秀才ぞろいなので、放課後ともなると図書室にはたくさんの学生が集まり、それぞれの勉強に精を出している。そのため部屋は広く、テーブルも大きくて数も多いが、ジュノ、レルグ、ヴェルと美男美女が並んだその一角は、明らかに異彩を放っていた。周りに座る、彼らの背後を通る学生たちが、チラチラと視線を送ってくる。
「わたしと一緒にいれば、なにかわかるかもよ」
そう本人に言われたので、ジュノとレルグは、彼女のやる気が出ない原因がなんなのか、それを探るべくヴェルの日常を観察してみることにしたのである。
だが、この何日かの観察の結果ははかばかしくなかった。
彼ら二人が見ている限り、ヴェルは出された課題にもマジメに取り組んでいるし、あまつさえ予習復習も欠かさず、優等生の態度そのものだったからである。とてもサボりがちな問題児とは思われない。
ところが、ヴェルのクラスメートに聞いてみると、今日はこの教官の授業をサボっただとか、この教官の授業中に堂々と寝ていただとか、芳しくない報告が出るわ出るわ。
そんな調子なので、ジュノもレルグも、二人が見ているときと、見ていないとき、どっちが本当のヴェルレーヌ・ファル・ノルティアなのか、測りかねているのだった。
「なあ、ヴェル」
今日の課題である問題集の採点をしながら、ジュノが声をかけた。
同じ純語魔術師の彼とヴェルは、フィアリス教官から出された同じ課題をやっていた。回答用紙を交換して、ジュノはヴェルの、ヴェルはジュノの回答にマルバツをつけている。
「なーに?」
回答用紙から目を離さず、赤ペンを走らせながら応えるヴェル。
「もう教えろよ。おまえのやる気のない原因って、いったい、なんなの?」
全然わからないので、あきらめて素直に聞いてみたのだが、もちろん、素直には教えてもらえなかった。
「なによ、もうあきらめたの?根性ないわね。それよりあんた、二問も間違えてるわよ」
わざわざ大きなバツをつけた回答用紙をジュノの方に押しやって、ヴェルは鼻で笑った。そして、わざと嫌味たらしく聞き返す。
「わたしは?」
「う……全問正解」
ちくしょう、と言わんばかりに下を向いたままジュノは答え、ヴェルは勝ち誇ったように笑ったのだが、彼らがこの何日かヴェルを観察した結果、はっきりしたことはある。
それは、ヴェルもまた純語魔術に天才的な才能を持っているということだった。やる気を出してマジメに取り組んでいる限り、彼女は、ジュノに優るとも劣らない魔術の才能と頭のキレを見せるのである。学年二位は、伊達ではなかった。
ジュノも、カンと要領の良さにかけては相当なものだが、彼女はそのジュノをも凌ぐと言っていいほどだ。その証拠に、彼女はあれだけ講義をサボっているのに、勉強の進捗は全然遅れていないのである。恐るべきセンスの持ち主と言うしかない。
そんな彼女の才能を目の前で見せつけられて、ジュノもこのごろではすっかり感心してしまっている。入学したばかりのころは、「どいつもこいつもバカばかり」と教官・学生問わず見下していた彼だったが、クローに出会い、レルグに、ヴェルに出会って、少しずつ考えをあらためるようになっていた。
ヴェル本人にも、「あんた、いつまでもそんな態度だと、見下していた人たちにもいつしか追い抜かれるわよ」と心得違いを厳しく指摘されたのだが、ジュノはかえって感謝していた。今までの態度が態度だったので、彼に対してはっきりモノを言ってくれる同級生はいなかったし、ヴェルが自分を心配して言ってくれていることくらいはさすがにわかったのである。それにつれて、彼女ともだんだん打ち解けてきている。
もっとも、それを横で聞いていたレルグは、「サボりがちな、きみが言うかな……」と自分勝手なヴェルに内心で呆れたものだが。
「まあ、焦らなくても、もうすぐわかるわよ。来週から六月だし」
そう言って、ヴェルはいつものいたずらそうな顔で微笑んだ。
◇◇◇
言われたときはなんのことやらさっぱりだったが、六月に入ると、ジュノにはすぐに答えがわかった。
ローウェル魔法学院の一年生は、魔法の系統による専攻に関わらず、純語魔術師も精霊使いも、神恵魔法を使う神官も、教養科目だけを学ぶ一般の学生も、まとめてクラス分けされる。それは学生たちに、異なる専攻の様々な人々に関わることで、広い視野を持ってほしい、豊かな人間関係を築いてほしいという目的でそうされているからで、入学してすぐの四、五月はクラス単位で行われる教養科目の講義が多い。
だが、六月に入ると、徐々にクラスを統合して行われる専攻科目が増えてくる。つまり、魔術師のジュノとヴェルは、クラスの垣根を超えて同じ講義を受けるようになったのだ。
フィアリスが教える探知系魔術、エルシズの行動系魔術を始めとして、戦闘系、生活系など様々な講義が本格的に始まった。いくつか共に講義を受けてみて、ジュノには、彼女がやる気を見せる講義、サボりがちな講義の違いがはっきりわかったのである。
ヴェルがサボっているのは、いずれも教官が中高年、つまり、おじさんおばさん、おじいさんおばあさんが担当する講義だったのだ。
教官が若く、美男子であったり美女であったりする時はやる気を見せるのだが、それは、エルシズやフィアリスのようにごく限られた教官の時だけである。
自身も五月の途中まではやる気を失っていて、問題児扱いされていたジュノだったが、その事実を知ったときには愕然とした。
こいつはひどい。オレだって、教官の顔がいいか悪いかで、やる気を出すか出さないか決めたりはしなかった――
が、彼がわりあいに早くその事実に気づいたのは、彼自身にそういう傾向があったからである。
つまり、ジュノとヴェルは、お互いによく似ているのだ。二人に言えば、オレはコイツほどひどくないと否定するかもしれないが。
答えがわかれば、その解決方法を思いつくのは、ジュノにとって簡単なことだった。
彼は、ヴェルを仲間に引きずり込むことにしたのである。
◇◇◇
「あー、ここは天国ね!勉強がはかどるわ」
ジュノの隣に座ったヴェルが、魔導書の筆写に景気よくペンを走らせながら、楽しそうに独り言ちた。
翌日の夕刻、進路指導室。
テーブルを挟んで、ヴェルの向かいにはクローが座り、レルグもクローの隣で自分の課題に取り組んでいる。
「なんなんですか、あなたたちは……」
うんざりしたような声で、それまで机に突っ伏して悶絶していたクローが問いかける。
「ここは、あなたたちのたまり場じゃないんですけど!」
三人をキッと睨みつけたクローだったが、ヘナヘナとまた崩れ落ちてしまった。
「やーん、怒った顔もカッコいい!」と、キャッキャと嬉しそうなヴェルの嬌声に怒りを削がれてしまったのである。
「いやあ、だって……」
先生、悪い!とばかりに、ジュノは片眼をつぶりつつ、両手を合わせてクローを拝んだ。
「コイツが、ハンサムな教官の講義じゃないとマジメに受ける気がしないって言うから、一番やる気が出そうなところに連れてきた方がいいと思って」
隣で、そのヴェル本人がうんうんと大きくうなずいている。
「クローセンセ、ジュノくん、レルグくんと美男子に囲まれて、わたし、やる気出た出た。ジュノくん、次のテストは、クローセンセの一番弟子たるこのわたしが学年トップをもらうからね」
そう言ってヴェルは、「クローセンセに頭なでてもらうんだ!」と晴れやかに笑った。
ちなみにヴェルが、「わたしと一緒にいれば、なにかわかるかも」とジュノとレルグに言ったのは、彼らに自分を観察させるためではなかった。自分の方が、一組自慢の美男子コンビを眼の保養にするためだったのである。
「おいヴェル、ちゃっかりが過ぎるぜ。クロー先生の一番弟子は、このオレ、ジュノ・エスカーズだからな。おまえはオレの、妹弟子だな」
ジュノが変なところに噛みついたが、ヴェルはふふんと鼻で笑った。
「なに言ってんの。どっちかっていうと、わたしはあんたの姉キャラじゃない」
「うーん、それは確かに……」
レルグが横でうなずいている。正確に言うと、ヴェルが姉というよりはジュノに「生意気な弟」感が強いのだが。ちなみにレルグ本人はというと、圧倒的兄力の持ち主である。
レルグが混ぜ返したので、ジュノとヴェルの言い争いはますます激しくなった。
「おいレルグ、どっちの味方だよ。ヴェル、オレはおまえより先に、クロー先生にもう十回も個別指導を受けてるんだからな!」
「あんたなんかより、わたしみたいな美少女が一番弟子って言った方が、センセにとってもハクがつくってもんよ」
「うるさーい!」
頭の上を飛び越えるやりとりに我慢できず、珍しくクローが怒鳴ったが、レルグも含めて三人はまったく聞いていない。
長い間、進路指導室に籠って静かな時を過ごしてきたクローは今、静寂を破るそもそもの原因となったエルシズを本気で恨んだのだった。
が、「まあまあクロー教官、これもフィアリス教官を助けると思って」とレルグに言われては、あきらめざるを得なかった。そもそも、「フィアリス教官を助けてあげてはどうですか」などと二人をけしかけたのは彼自身だったのだから、仕方がない。
「まったく……」
大きなため息をつくと、クローは「遠見の水晶球」を取り出して、ヴェルと自分との間にゴトリと置いた。なんだなんだと、さすがにジュノもヴェルもおとなしくなる。
「いいですか、ヴェルレーヌさん」
「ヴェルって呼んでください、センセ。できれば恋人みたいに甘く」
「……いいですか、ヴェルさん。これを見てください」
そう言うと、クローは水晶球に教官室の様子を映し出した。お茶のカップを片手に、小テストの採点をしているらしいフィアリスの姿が見える。その手を止めて、うーんと伸びをした彼女とチラッと目が合ったような気がして、覗いていたクローはドキリとした。頭を一つ振って切り替えると、ヴェルに語りかける。
「乗りかかった舟ですから、これからはぼくがあなたの面倒を見ます。あなたがマジメに授業を受けているかどうか、ぼくはいつでも、この水晶球であなたの姿を見ることができます。サボっていれば、すぐにわかりますからね!」
クローはヴェルを少し脅かそうとしたのだが、残念ながら、「クローセンセにいつも見られてるなんて、ゾクゾクするわね」と、ちょっと変態っぽく笑われただけであった。
「もし、ヴェルがサボっているのを見つけたら、どうするんですか?」
代わって尋ねたのはレルグである。クローは小首を捻って、すぐに答えた。
「そうですね……この部屋を出禁にします」
単純な一言だったが、それは、けっこう効果があった。
「あっ、それはヤだ。これからマジメにやりますから、見捨てないで、クローセンセ」
顔の前で両手を組んで、あざとく眼をうるませるヴェルを見て、クローはまた、大きなため息をついた。
「約束ですよ!」
◇◇◇
数日後の夜。
コツコツコツ……。進路指導室に続く石張りの床を、規則正しく歩く音がする。この時間、学生たちはとっくに下校し、昼間はその声でにぎやかな魔法学院も今は静まり返って、足音は校舎の中で恐いくらいにこだましている。
その足音の主、片眼鏡をかけた栗色の長い髪の女性は、進路指導室の戸口に立つと、中に向かって声をかけた。
「クローくん」
しばらく待つが返事がない。しびれを切らした彼女は、ドンドンと乱暴にドアを叩いた。
「ちょっと!居留守が通じるわけないでしょ!あなたは、この部屋から出られないんだから!」
この学院では「いつも笑顔の優しい美人教官」で通っている彼女だったので、学生たちが今の姿を見ればびっくりするかもしれないが、十年来のつきあいであるクローの前では、今さら取り繕う必要もない。
ようやくあきらめたらしく、中から、恐る恐るという感じで声がした。
「……お久しぶりです、フィアリス先輩」
「お久しぶりじゃないわよ。まったく……」
呆れたフィアリスだったが、頭を一つ振って切り替えると、用件を話し出した。
「まあいいわ。私が今日、ここに来た理由はわかるわね。ジュノ・エスカーズ、レルグ・コールヴィッツ、ヴェルレーヌ・ファル・ノルティア、三人のことよ」
「はい」
「まず、ヴェルの件は、ジュノくんとレルグくんの二人から聞いたわ。あなたが面倒を見てくれているそうで、ありがとね。おかげで彼女、授業も真面目に受けるようになってくれたし、私も他の教官方も、本当に助かってる」
「それはよかった」
フィアリスが来た用件が、彼女が怒っているからではないことを知り、感謝の言葉も聞くことができて、クローは心の底から安堵した。
「ジュノくんはもちろん、レルグくんも、あなたのところに出入りするようになってから、本当に生き生きとしているわ。これも、あなたがお悩み相談に乗ってくれたからなんだって、エルシズくんに聞いたわよ。これから、あなたのことはお悩み相談担当教官って呼ぶように、職員会議で提案しようかしら」
「やめてください」
現にそうなりつつあったので、クローは心底イヤそうな声で返事をした。
早くもお褒めの言葉は終わって、十年前から続く、先輩が後輩をからかうタイムに入ったらしい。彼の声を聞いたフィアリスは、あははと楽しそうに笑った。
「まあ、それがイヤなら、早くその部屋から出てきて、また私やエルシズくんと一緒に教壇に立つことね」
笑いを収めたフィアリスは、急に真面目な表情と声になった。クローに対して、ずっと、本当に言いたかった、ごくごく短い一言。それを告げる。
「待ってる」
沈黙がその場を支配する。だが、いくら待ってもクローは返事をしなかったので、彼女は自ら言葉をつないだ。
「知ってると思うけど、私、まだまだモテるからね。この間だって、さる大貴族の令息にプロポーズされたんだから」
「私ももう二十八歳よ。待ちたくても、いつまでも待てないわよ」
「それに、あなたが出てこないと、エルシズくんだって結婚できないでしょ。あなたのせいで、私も、私たちの親友も、すっかり婚期を逃しちゃったじゃない」
「だから、早く出て来てよ……」
最初はすごいでしょ、といった調子で話し始めた気丈なフィアリスだったが、途中には怒り出し、そして最後は少し涙声になっていた。
話の中でエルシズのことが出てきたのは、実は、エルシズの恋人はフィアリスの親友でもあるからだ。クローもよく知っている女性で、四人で冒険の旅に出たこともある。
その彼女はエルシズに逆プロポーズをしたこともあったのだが、エルシズは断っていた。彼は、クローが進路指導室から出られなくなったことを気に病んでいて、少なくともそれが解決するまではダメだと返事していたのである。
フィアリスの話を黙って聞いていたクローは、冷たくこう告げた。本当は胸が締め付けられるような思いをしていた彼だったが、あえてそれを振り払う。
「ごめんなさい、フィアリス先輩。でも、ぼくはあの城に行く前、あなたにはっきりと伝えたはずです。お別れしますって。だから、ぼくのことはもう忘れて、幸せになってください。今はただ、心からそれを願っています」
その言葉を聞いたフィアリスは、崩れ落ちたように進路指導室のドアにすがりついた。
「ウソよ……」
「ウソじゃありません。ぼくはもう、あなたのことは忘れました」
「ウソよ。だったら、なんで今も、『遠見の水晶球』で私のことをちょくちょく見ているの!」
「う……」
それまで涙声だったはずのフィアリスが、とたんに怒りだした。クローは、ドキリとして言葉に詰まる。
「バレてないわけないでしょ。私の専門は、探知系魔術よ」
「うう……ごめんなさい」
言い逃れはできないとあきらめて、クローが素直に謝ると、彼女はため息を一つついた。
「まったく……でも、あなたが、今でもまだ私のことを見てくれているのを知って、嬉しかったわ。まあ、お風呂に入っている時だけはやめてほしいけど」
先輩のからかいタイムはまだ終わっていなかったらしい。ニヤリと笑って、彼女が突然投げ込んできた一言に、クローはゲフンゲフンとむせてしまった。
「覗いてない!」
強く抗議したが、フィアリスはふふんと鼻で笑うと、また後輩をからかった。
「どうだか。ま、今さらだから、見られても別に困らないけどね」
「だから!……いや、先輩、もうこの話は終わりにしましょう。とにかく、ぼくはもう、あなたとはお別れしました。それだけです」
フィアリスのペースに巻き込まれるのを恐れたように、彼女とのやりとりを無理に打ち切ると、クローはドアのそばを離れた。彼は、彼がまだ十六歳の時に彼女に出会って以来、つい二年ほど前までずっと続けてきたこのやりとりの心地よさを知っていたが、それを思い出すことは、今の彼にとって、どうしようもなく苦しいことだった。
「待ってる!いつまでも待ってるから……」
離れていく気配に向かって、フィアリスは言葉を投げつけた。
返事は、いつまでたっても返ってこない。それでも彼女は、開かれることのないドアの向こうで立ち尽くしていたのだった。
【人物紹介】
ジュノ・エスカーズ : ローウェル魔法学院1年1組。「開学以来の天才」と呼ばれる魔術師の卵。
レルグ・コールヴィッツ : ジュノのクラスメート。貴族の子弟で、精贈魔法を専攻している。
ヴェルレーヌ・ファル・ノルティア : 1年2組。「センスの天才」として知られる魔術師の美少女。
クローディス・サイクロー(クロー) : 進路指導担当教官。とある理由で、進路指導室から出ることができない。
エルシズ : 無表情、不愛想な行動系魔術担当教官。
フィアリス・アーストライト : 美人で優しい探知系魔術担当教官。クローとエルシズの学生時代の先輩。
【用語解説】
ローウェル魔法学院 : 大陸西部の古都ローウェルにある、大陸一の歴史と伝統を誇る学び舎。
純語魔術 : 「純粋なる言葉」で人々の内なる魔力を発揮する、古代から続く魔術。魔術師が操る。
精贈魔法 : 万物やあらゆる感情に宿る精霊の力を借りて行使する魔法。精霊使い(エレメンタラー)が操る。
人見の鏡 : 古代魔術王国時代の遺物。人間の未来を映し出す力を持っているが、未来は変わることもある。
遠見の水晶球 : 千里の距離を越えてその先を映し出す、古代魔術王国時代の遺物。声は聞こえない。




